季節にかかわらず長袖のジャージを着るのはもはや癖だ。日に焼けたらいけないから。体に傷を付けたらいけないから。
 もうそんな必要もないのに、どうしようもなく染みついてしまった習性というものがある。これは以前、子役七松旭(ななまつあさひ)として活躍していた僕の習性のひとつ。過去の栄光だけどね。
「おい七松(ななまつ)! 今日も見学か!?」
 こいつは担任の行平(ゆきひら)。語尾にエクスクラメーションマーク《!》を付けないと死ぬ習性でもあるんだろうか。僕はこいつが嫌いだ。頭の中で「筋肉馬鹿」と呼んでいる。筋肉がついた馬鹿。
「どうした!? 体調不良か?」
「生理痛です」
 面倒くさくて、とにかく関わりたくない。僕は体育会系のことが好きじゃない。根性論と精神論でなんとかなるのは緊張だけだ。演技の前の、無機質なカメラと冷たい監督の瞳の前の、僕の体を動かすのに必要なもの。人間に根性と精神が必要なことは重々分かっているけど、すべてに根性と精神を適用しようとするのは間違っているし、端的にアホだ。
「生理痛は女子にしかこないぞ七松!」
 うぜえー。ジョークだよジョーク。
「知ってます。体調不良です。倒れそうなんで、見てます」
「そうか! 体調の良いときに参加してくれよな」

 演技をする必要がなくなってしまってから、僕はすっからかんの空っぽになってしまった。子役として求められていないと分かった瞬間に、僕――僕らは、子役・七松旭という商品を売ることを諦めた。残されたのは、こうして長年染みついた習性を引きずったままの僕と、退屈で何の刺激もない毎日と、楽しくも好きでもない高校生活と鬱憤だけだ。

「クソみたい。吐き気がする」
 つぶやくと、誰にも聞きとがめられなかったそれが夏の風に流れて飛んで行く。こんな日は、「あれ」をするしかない。
 決行は今夜。もう決めた。



 姉のウォークインクロゼットから服を持ち出すのは簡単だ。持ち物を管理できていないし、管理しようともしない女だから、多少服が消えたところで気づきやしない。
 僕はそうして、盗んできた姉の服を工夫して着込んでいく。喉仏を隠せて、肩幅の目立たない、ふんわりしたスリーブのブラウスを選び、下はフレアスカートとニーハイソックスを合わせた。ニーハイは流石に自前だ。
 それから化粧だけど――化粧は独学で覚えた。色むらをなくして、光と影のメリハリをつけて――SNSには沢山の情報が並んでいる。全く化粧に無知だった僕がここまで一人でできるようになるほどの。
 三十分もすれば、別人のようになった僕が鏡の前にいる。



 僕は「あさひな」という名前でSNSアカウントを持っている。「あさひな」は二十歳の女性で、顔の下半分を隠した自撮りをよく晒す。大学に通っていて、好きな食べ物は赤身のお寿司。好きな色は淡い紫色。
 全部嘘だけど。
 でもこの、「あさひな」という役を演じているときだけ、僕は僕のなかの空白を満たすことができるような気がする。
 いつも通り全身を姿見に映して、家具や私物が映り込まないように計算した画角で、一枚、二枚、三枚と自撮りを重ねていく。撮影した画像は加工をかけて、一番よかったものを「あさひな」のアカウントにアップロードする。結構ファンもいたりして、みんな「かわいい」って褒めてくれる。そりゃそうだ。一時期子役としてやっていた僕の目元は、化粧さえ施せば子鹿のような女の子に見える。

「今日の服可愛いね。よく似合ってる」

 よくコメントをくれる「からし寿司」さんからレスがついた。僕は即座に「いいね!」を押して、答える。
「ありがとからし寿司さん。今日はアイメイクに合わせてみました♡♡」
 ハートマークを語尾に散らしたりするのも、いつもなら「きも」って思うんだけど、今だけは特別。僕は「あさひな」。二十歳の女子大生。一人暮らしで、手料理がちょっと苦手で、オシャレが大好きな女の子だ。


 ダイレクトメールに届いた、からし寿司さんの「あさひな」宛てのメッセージには、知らない男の熱が籠もっている。
「あさひなちゃんまじでタイプ。いつか会いたいな」

 いくら「あさひな」激推しのからし寿司さんといえど、「会いたい」って言われるとちょっとぎょっとする。
嬉しいけど、実際会うのはどうなんだろう。僕は自分が女装男子だとバレることより、「あさひな」を生で演じる事のほうに興味があった。演じる事に僕は飢えていた。乾いた砂漠で一滴の水を求めるみたいに。
 観客がほしい。
 視線がほしい。
 体に視線を浴びたい。

「こんど会えない? 都内住みでしょ?」
 からし寿司さんはたたみかけてくる。僕の心は揺れる。

「そうなんですけど、ふたりで会うのは……」
 実際ふたりで会うのは不安が伴った。相手がどんな奴か分からない以上、危険もあると思う。からし寿司さんもそれは分かってるんだろう。女の子が、知らない男とふたりで会うことのリスクとか、分からないわけないよね。

「やっぱり不安かな? だいじょぶだよ、俺ただのファンだし。もし不安なら、男友達とか連れてきていいよ」
 僕は悩みに悩んで、そこまで言ってくれるからし寿司さんの言葉に甘えることにした。

「わかりました。……一人で行くので、実物見て、幻滅したりしないでくださいね」

「やった! じゃあ日にちは――」

 僕は「あさひな」に浸ったまま、とんとんと進んでいくオフ会の予定に胸を膨らませる。

 何を着ていこう。どんなメイクにしよう。
 からし寿司さんは、どんなひとだろう――。





 待ち合わせの場所に着いたのは十分前だった。僕は姉から盗んだ、いや拝借してきたあらゆる小物をひっさげて、待ち合わせスポットの周囲を注意深く見渡した。マスクを付けているし、喉元も隠しているし、何よりロングのウィッグを被っているし――誰も僕を男子高校生だと見抜く人はいなかった。

 案外、行けちゃうんじゃない?

 なんて僕が浮き足立っているときに、僕の背後から声がかかった。

「ひょっとして『あさひな』ちゃん?」
「あ、『からし寿司』さ――」

 僕の言葉は途中で途切れてしまう。目の前に居る男はどう見ても僕が嫌いな「筋肉馬鹿」の行平だった。
「どうしたのあさひなちゃん?」
 行平はいかにも「理知的な男」といった風貌だった。学校でタンクトップの上にジャージを着ているような暑苦しい男には到底見えないのが驚きだった。その「理知的な」部分が、僕のよく知ってる「筋肉馬鹿」と齟齬を起こして僕の頭をバグらせた。双子の兄弟かなんかだろうか? いやでも、行平は自分のことを一人っ子と称していたからそれはない。嘘をつくような器用さはアイツにはない。

「い、いえ、ごほ」
「風邪?」
「そうです、ちょっと風邪を引いてしまって」

 男にしては高めの声だけど、流石に無理があったかもしれない。僕は気を取り直して、「あさひな」を続行する。

「からし寿司さん、お会いできて嬉しいです」
「俺も会えてうれしい」

 俺も会えてうれしい?

 ぞっとする。からし寿司さんがそう言うならともかく、七松旭の担任の行平拓郎が言うと、ただただ気持ち悪い。多分、からし寿司さんが行平じゃなかったら見えなかった、下心というか、スケベ心というか、そういう視線が、僕のセンサーに鋭敏に引っかかってくる。
 こいつ。結局そのつもりであさひなに近づいたのか。

「いつも見てるけど、やっぱ実物の方が可愛いじゃん」
「ごほ、ありがとうございます……」

 行平拓郎が何歳だったかは忘れたけれど、三十は超えて居なかったか。二十代後半だったか。そんな行平拓郎が、二十歳のあさひなと「ワンチャン」あると思ってこの場にいることに、僕はこらえがたい嫌悪感を抱いていた。僕十七なんですけど。

「予約した店、行こうか」
 さりげなく肩を抱かれそうになって、ぞっとして、振り払った。
「大丈夫ですから」
「ああ、ごめんね、近すぎたら言って」

 とか言って、ワンチャンあるならベッドインなんだろ? 
 気づかねえのかよ。僕男だぞ。お前の教え子だぞ。担任のくせに、化粧に騙されんのかよ。


 連れて行かれたのは雰囲気のいいバルだ。個室に通されて、メニューを渡される。知らないカクテルの名前ばかり並んでいて、困惑したけれど、ここで困惑を見せたらあさひなの演技がバレてしまう。
 子役根性で、行平へのキモさみたいなものを封印した僕は、首をことりとかしげた。
「うーん、どうしようかな……」
「何飲む?」
 ここで酒を呑んだ方がバレないだろうか。僕は注意深くメニューを見たけれど、どれがいいかまでは分からなかった。
「……呑みやすいおすすめってありますか?」
「カルアミルクとか、甘くておいしいよ」
 これくらいなら、許容範囲だろう。僕は不本意ながらも呑みやすいという「カルアミルク」を頼む。



 
「あさひなちゃん、意外と背が高くてびっくりしたよ」

 行平がウィスキーの水割りとかいうやつを口に含みながら煙草を取り出した。
「あ、煙草吸っても大丈夫?」
「へいきです……」
 カルアミルクは確かに甘くておいしかったけれど、視界がふにゃんとほどけてしまって元に戻らない。
「あさひなちゃん、お酒弱いんだ、かわいいね」
「かわいいって、あんま、いわないでください……」

 お酒なんか飲むべきじゃなかったかな。二十歳設定とはいえ、お酒が苦手で通すべきだったか。

「でも、かわいいって言われるの好きでしょ?」
 行平が僕の顔をのぞき込んでくる。

「すき、だけど……」

「女装するくらいだもんね、分かるよ」

 僕ははっとした。やっぱり声からバレたんだろうか?

「ちがいます、これ、地声で、その……」

「――嘘はいけないな、七松」


 僕は今度こそ凍り付いた。目の前にはクレバーな行平、ふらふらの僕、そして二人きりの酒場。机の下で足が触れあう。


「SNSで見たときから気づいてたよ。眉の横のほくろが同じ」
「ちが、そんなん、たまたまでしょ」
「その、汚いもの見るような目がさ――」

 行平はふうと煙草の煙を吐いた。僕は噎せて咳き込み、体をまるめた。

「俺の担任してる七松旭と同じなんだよな」
「しらない、そんなの、しらない」
「ちょっとかすれてる声も七松旭と同じ」

 僕はちがうちがうとかぶりを振り続けるけれど、行平はとどめとばかりにこう口にした。紫煙とともに。

「七松さあ。俺のことめちゃくちゃ馬鹿にしてるだろ? あれ、なんで?」
「えっ、あ、その」

 一瞬「あさひな」から七松旭に戻ってしまった僕を引きずり出すみたいに、行平は口の端を曲げてみせる。

「俺、人当たりのいい先生を目指してるんだけどな。お前だけだよ、親の(かたき)みたいに見下してくるの。ねえ、なんで?怒んないから教えてよ」

「あ……」

 その瞬間、あさひなが消失し、七松旭が着火した。

「う、――るせえよ、筋肉馬鹿。いつもいつも根性論精神論押しつけやがって!」
 行平が眉を上げる。煙草を灰皿に押しつけてもみ消す。

「そ、んなん、時代遅れだ。従いたくないし、暑苦しいし、無理。見てるだけで無理。存在が無理。ていうか、今日だってあさひなとワンチャンセッ、セックスするつもりできたんだろ、お前、マジ、キモいよ」

「……そうか、そういう見方もあるかーなるほどな参考になったわ」

 勢いよく罵声を吐き出したというのに、行平は取り立てて怒ったふうにも見えなかった。

「俺の理想とする体育教師像ってのはアレなんだよ。俺はそれを仮面みたいに被ってるわけ。ペルソナって知ってる?」
 
 僕は素直に首を横に振った。

「見せたい自分を表に出すんだよ。俺にとって見せたい俺は、お前の言う筋肉馬鹿な体育教師。今の俺じゃない」
「なんで……」
「弱いから」
 行平ははっきりした眉をハの字にして笑った。

「打たれ弱いし、ワンチャンあると思った相手に罵倒されるし、もう泣いちゃいそう、おじさん」
 それを聞いて、僕はカッとなって立ち上がった。
「僕、十七なんだけど⁉ それ分かっててきてんのに、わんちゃん、あるわけねえじゃん! ばかじゃねえの」
「え? なんか問題ある?」

 それは、初めての酒でぐらぐらする頭を持て余している僕を、ぽかんとさせるのには充分だった。

「は? 教師と生徒だが?」
「うん、なんか問題ある?」
「終わってんじゃん、倫理観。警察(ケーサツ)呼ぼうか?」
「その場合七松は補導されるわけだけど――だから、ペルソナ被ってるんだよね、わかる? 七松」

 行平は口元に手をやって、にやりと笑う唇を隠した。

「だから隠してる。見せたい自分だけ見せてる。だって、七松だっていやだろ? こんな男」
「嫌だ、キモい、しね」
「しねはひでえな。自分だって人におおっぴらに言えないから女子大生なんて嘘ついてんだろ。酒まで飲んで誤魔化そうとして」
「お前ほどキモくねえよ!」
「飲酒が学校にバレたらおおごとだぜ? バレても良いのか? 夜のお楽しみ」

 筋肉馬鹿の面影がない、賢そうな男が一人居て、酔ってどうしようもない僕を理詰めする。僕は反抗することしかできない。

「うるせえ。お前が呑ませたんだって言う」
「七松。賢くなれよ。……黙っててやるって言ってるんだぞ、俺」
「うるせえ、筋肉馬鹿。お前なんか嫌いだ」 
 そのとき、うだうだと暴言を並べていた僕を射貫くように、行平が目を光らせた。

「七松」

 僕は(すく)む。
「今晩のことは黙っててやる。だから、お前も全部黙ってろ。一言でも漏らしたら、お前のアカウントとフルネームをセットにして女装の自撮りを学校の掲示板に貼る」
「脅迫じゃねえか」
「そうでもないと言いふらすだろ、お前。行平がゲイだの、なんだのかんだの」
「……言わないよ」

 そんなこと、言わない。流石に僕にも分別がある。
 でも、行平のあれが全部見せたい自分を見せた結果のペルソナだってことは……漏らしてしまうかもしれない。

「何も言うなよ。居たい自分で居させてくれよ」

 行平は笑いながら眉を下げた。僕はしゃっくりをひとつし、黙っててもらえるならまあ、いいか、と思った。


 




「よおし、今日も授業を始めるぞ! 体育委員、よろしく!」
 今日もうるせー。
 僕はとうとう長ジャージを脱いでシャツとハーフパンツになった。見学席からではない景色はどこか新鮮で、から回ってる筋肉馬鹿も、それに従うクラスメイトたちも、全然違う景色を僕に見せてくれた。

「七松! 今日は参加してくれるんだな! 先生は嬉しい!」
「うっせー!」

 行平の瞳は何も考えていないように見える。それが正しいことなのかは分からない。でも、僕がたまに、時折どうしようもなく「演じたい」と思わされることと、行平の「ペルソナ」は似た場所にあるのかもしれない。

 それが幸福なことかどうかは分からない。わからないけれど。

 僕はみんなに一拍遅れて、準備運動をこなしていく。口の中だけで「ペルソナ」とつぶやいて。