クスモトさんは呪われています



 わたしは探偵ごっこがしたいわけではありませんでした。
 わたしの中には、この事件にまつわる謎を解き明かしたいとか野次馬的感情とか、そういったものは一切ありませんでした。今思うと、わたしはあの封筒を開けた瞬間から明確な目的、あるいは目標が生まれていたのです。
 それを一言で言うならば、救われること、だったのかもしれません。
 わたしはあの日記を書いた人物と同じでした。
 救われたかった。狂ってみたかった。もしかしたら日記に書かれていたことはすべて作り話だったのかもしれませんが、それでも信じてみたかった。わたしはただ、狂った彼女のことが羨ましかったのです。
 ある日から、わたしが朝一番に行う行動は机にびっしりと書かれた罵詈雑言を拭き取る作業になりました。
 〈◼️ね〉、〈◼️◼️ろ〉、〈◼️◼️◼️んな〉——それらはまったくもってスタンダードな中傷ではありましたが、わたしの心を壊すには非常にコスパのいい単語たちでした。
 きっかけはなんだったのでしょうか。たぶん、なんでもないことだったのだと思います。わたしの声が人よりも少し低いこと。数学の問題を当てられ、黒板に向かおうとしたら派手に転んでパンツが丸見えになったこと。そんな、少しの、ほん少しの歪さが、誰かのスイッチを押したのだと思います。一辺倒の娯楽しか存在しないこの田舎町で、わたしは旧校舎の怪談と同じく、エンターテイメントのひとつになっていたのでしょう。
 わたしはあの封筒を開き、わたし以外にも同じ境遇の人がいたことにまず興味を抱きました。
 やがて、その人物がとった行動により起きた精神の変化に、深く惹かれるようになりました。
 日記の書き手は救いを求めていました。それはわたしも同じでした。だからこそ、わたしはこの一連の現象の詳細を知りたかったし、それが叶わなかった今——それでも彼女と同じ道を辿ろうと決意できたのです。


 その夜、わたしは指定の時間に理科準備室へ着くよう家を出ました。
 深夜一時四十五分の少し前に、学校に到着しました。門は閉まっていました。けれど、柵の横棒に足をかけてなんとか乗り越えました。警備員がいないこと、これといった防犯システムがないことは日記を読んだおかげで把握していました。旧校舎の前までなんなくたどり着き、わたしはほっとして校舎を見上げました。屋上に誰かがいるとか、ピアノの音が聴こえてくるとか、そういうことはまったくありませんでした。
 旧校舎の昇降口は当然閉められていていましたが、日記を参考に、昼間のうちに一階の使われていない教室の窓の鍵を開けておきました。やはり施錠されておらず、チェックが厳しいのは新校舎だけのようでした。日記には〈旧校舎だからというのもあるだろうけれど、うちの教師は不真面目な人間が多いから〉といったようなことが書かれていましたが、わたしもそう思います。この学校にはろくな教師がいません。だからいじめが野放しにされ、結果、あの封筒の事件が起きたのでしょう。この高校に入学してよかったことといえば、旧校舎の怪談と出会えたことしかありませんでした。
 窓から入り、土足のまま室内へ足を下ろしました。埃臭く、空気が淀んでいました。その教室は部室として使われていないから、ろくに換気も行われていなかったのでしょう。階を上がるごとにそんな空気感は強まっていきました。スマホで足元を照らしたかったけれど、もしも誰かに見られたら計画が水の泡なので真っ暗なまま階段を上りました。四階へ上がると一層埃っぽくて、息を吸うのも苦しく感じました。それでも廊下を進み、床に落ちている(ちり)をできるだけ舞い上がらせないように気をつけながら歩きました。教室の向こうには誰もいない教室があって、その向こうには新校舎が見えました。月明かりに照らされた壁面がぼんやりと浮かび上がる様は、旧校舎と比べるとやはり立派で、威風堂々といった様子でした。それでもわたしにとって、あの空間は地獄でした。もう二度と戻りたくない。ずっとこっちにいたい。そんなふうに思えました。
 程なくして理科準備室に到着します。
 旧校舎の四階なんて用事がないから、はじめて来る場所でした。とはいえ理科準備室は一般的には理科室の隣にあるので、特に探すこともなく見つけることができました。小窓から覗くと狭い室内が見て取れました。ドアノブを握り、そっと引きます。蝶番がぎしりと軋んだ音を立ててわたしを出迎えます。部屋に足を踏み入れると、何かしらの機器が整列している視界の先、窓側に、ひとりの女子生徒がいました。
 彼女は準備室の窓を開け放して、半身を外に乗り出し、その姿勢で静止したままグラウンドを見下ろしていました。
 わたしはぼんやりとその様子を見ていました。
 そして、スニーカーのままである自分の足元をふと見下ろして、今いる場所に違和感を覚えました。理科準備室に入ったとき、わたしは現世からあの世へと次元を飛び越えたような、なにかの境目に紛れ込んでしまったような、そんな不思議な感覚があったのです。でもそれがわたしには、とても心地よく感じました。もとの世界は汚くて、薄暗くて、陰湿なことばかりです。でもここは空気がきれいでした。ここはわたしにとって天国であり、実際に、あの世なのではないかと思えました。
 どこか高揚する気持ちを抑えて、わたしは彼女に近づきました。窓の外から風が吹いてきて、わたしと同じ、彼女の長い髪がさらさらと揺れています。わたしは心の準備をしました。あの言葉を言わなければなりません。わたしが救われるには、あの言葉を彼女に伝えなければなりません。でも躊躇しました。彼女の指先が震えていたから。彼女は本当は、落ちたくないのです。死にたくなんてないのです。それなのに、このわたしが、あんな言葉を口にできるのでしょうか。あんな辛辣な、ただ傷つけるためだけの言葉を吐くことなんてできるのでしょうか。
 それでも言わなくてはなりませんでした。わたしはもう引き返すことなどできませんでした。彼女の後頭部の先に、光り輝く新校舎が見えました。あそこにはもう戻りたくない。つらい。見たくもない。日記の中の彼女のように、狂ってしまえばもうなにも怖いものなんてないのです。
 わたしは踏み出すしかありませんでした。

「……押しましょうか?」

 声が震えないように、喉の奥に力を込めて囁きました。
 両腕が自然と、彼女の背に向かっていました。指の根元が裂けるくらい強く開き、今すぐ言葉通りに実行できる体勢になっていました。この言葉を発したからと言って、わたしは本当に彼女の背を押す気なんてありません。なのに、この場の空気が、わたし自身が発した声が、身体を動かしていました。その瞬間のわたしはどう見ても、目の前の彼女の死を願う、悪魔のような人物だったでしょう。まるでいじめの主犯格になったかのような錯覚すら覚え、わたしは身震いしました。
 不意に、彼女が振り向きました。
 彼女は口を大きく開けて、こちらをじっと見据え、わたしの隅々を観察していました。
 そして、わたしの突き出した両の手のひらを見て。
 ゆっくりと口角を上げて。
 彼女はわたしの問いかけに、静かに応えました。





「落ちるのはお前だろ?」