(以下はあの女の日記です。こわっ!)
◆9月28日(Sat)
うちの高校にまつわる怪談。
旧校舎の四階、理科準備室へ深夜一時四十五分に行くと、ある女性と鉢合わせる。彼女はうちの高校の制服を着ていて、こちらに背を向け、開け放した窓から顔を突き出して外を覗いている。窓枠に置かれた指は微かに震えていて、彼女の中に潜む巨大な恐怖と、微かな期待を表している。その現場に居合わせた人が、女子生徒と見られる人物に向かって
「押しましょうか?」
と声をかけると気が狂う……。
くだらない噂だと思っていた。でも一方で、私はその噂を信じてみたいと思っている。
うちの高校には、旧校舎と新校舎がある。
新校舎は、生徒数が最も多かった数十年前に完成したものだそうだ。しかしその後は過疎化の波が押し寄せ、生徒数は減少、旧校舎はあっという間に用済みとなったらしい。今ではアクセスのいい一階のみ部室として利用されているけれど、上階は専ら空き部屋となっており、備品置き場やイベント用スペースとして活用されている。
誰も立ち入らない教室。埃に覆われた薄暗い空間。
そんな建物にいつしか、生徒がおもしろがって付加価値をつけはじめるのは必然だったと思う。
サッカー部が夜遅くまで練習をしていたら、旧校舎の音楽室からピアノの音が聴こえてきたらしい。忘れ物を取りに休日の学校に忍び込もうとしたら、旧校舎の屋上に子どもの姿が見えたらしい。そんな噂が沸き起こるのは日常茶飯事で、どれが事実でどれが作り話なのかもわからなかった。ただひとつ確実なのは、一辺倒の娯楽しか存在しないこの田舎町で、旧校舎の噂が〝ごく身近にある恐怖〟としてエンターテイメントのひとつになっていたということだけだった。
私はそれらの噂話に興味はなかったけれど、理科準備室の話だけは別だった。けれどそれは、私がみんなのように旧校舎にエンターテイメント性を求めていたからじゃない。
この怪談は最後、女子生徒に話しかけた人間が『気が狂う』と言われているからだ。
それは、この学校に数多く存在する怪談の中で唯一、こちらに影響を及ぼすものだった。そのほかの怪談はすべて、「なになにが見えた」「なになにが聴こえた」といった形で締めくくられており、こちらが怖がるというありきたりな結末でしかない。そんな中、ただひとつ『気が狂う』ことになるこの怪談を私は気に入っていた。真実であればいいと思った。私はその結末に憧れに近いものを感じていたのだと思う。なぜなら人は、そう簡単には狂えないのだから。
たとえば好きな人が浮気をしたとして、この世のすべてを呪いたい気持ちになったとしても、その腹いせにふたりのデート現場に乗り込んで包丁でめった刺しにすることなんてできない。人はどんなときだって理性が働く。そのリミッターを簡単に外せる人はいるにはいるが、私はその部類の人間ではなかった。だから、お弁当をゴミ箱に捨てられ、制服のスカートを切り刻まれたあの瞬間、相手のハサミを奪い取って突き刺すような狂い方ができなかった。私にはできなかった。したかった、けど、できなかった。
だから私は変わりたかった。
旧校舎、理科準備室にいるという『彼女』に話しかけ、自分自身を変えたいと願っていた。
その結果がどんな形でもいい。気が狂い、取り返しのつかないことになったとしてもいい。私はただ、今の毎日が続くことが恐ろしかった。変わり映えのない日常。悪夢のようなこの日常が変わるのであれば、それはもう、どんな結末でもよかった。私は、自分ひとりでは狂うことができないから。
だから私は、最後の気力を振り絞り、明日の夜旧校舎に向かう予定だ。
神様。
神様なんてどうせこの世にはいないのだろうけど、神様。
どうか明日、私の計画を成功させてください。
◆9月29日(Sun)
頭が痛い。身体中が痛い。
昨日はどうやって帰ってきた?
よく思い出せない。吐き気がひどくて思考がまとまらない。それでも私は書き残さなければいけない。私は変わったのか、それとも変われなかったのか。あとで客観的に見られるよう、残しておきたい。私の中にまだ客観性というものが残されているのかはわからないけれど、それでもやり遂げなければ。だから、つらくても、書くことは止めない。書くことは、止めない。
昨夜はちゃんと、指定の時間に着くよう家を出た。
深夜一時四十五分の少し前に、学校へ着いた。門は閉まっていた。乗り越えた。うちの高校はお金がないから、警備員がいないことはなんとなく察していた。これといった防犯システムがないことも事前に調べていた。おかげで旧校舎の前までなんなくたどり着くことができた。校舎を見上げても、屋上に誰かがいるとか、ピアノの音が聴こえてくるとか、そういうことはなかった。
クスモトさんは呪われています。
旧校舎の昇降口は当然閉められていて、でもそれもあらかじめ調べていたことだった。昼間のうちに一階の使われていない教室の窓の鍵を開けておいた。案の定、開きっぱなしになっていた。施錠の確認は教師が行っているようだけれど、やはり重点的なのは新校舎のほうで、旧校舎はまともに確認されていないようだった。旧校舎だから、というのもあるだろうけれど、うちの教師は不真面目な人間が多いからそもそも作業が適当なのだと思う。好都合だった。
窓から入り、土足のまま室内へ足を下ろした。埃臭かった。空気が淀んでいた。空気が淀んでいるときに感じる、古びた布がいくつも積まれているような、小麦粉とオタマジャクシをかき混ぜているような、気味の悪い匂いが充満していた。その教室は部室として使われていなかったからそういう感じになっていて、階を上がるごとにそんな匂いは強まっていった。スマホで足元を照らしたかったけれど、もしも誰かに見つかったら計画が水の泡だから真っ暗なまま階段を上った。クスモトさんは呪われています。四階へ上がると一層、にごっていた。呼吸が苦しいかんじがした。それでも廊下を進み、床に落ちている微生物をできるだけ浮かび上がらせないようしずかに歩いた。教室の向こうには粉っぽい教室があって、その向こうには新校舎みたいなのがみえた。月明かりのせいかかべがぼんやりと浮かび上がっていて、コチラがわと比べると生きてる建物というかんじがしたけれど、私にとっては向こうのほうが地獄なんだよなぁとぶつぶつ思った。
ほどなくして理科準備室にとうちゃく。
旧校舎の四階なんて用じがないから、あたりまえにはじめて来る場所だった。普通に考えると理科準備室は理科室の隣にあるから、この旧校舎も例外なくその通りでした。狭くて、生きづらそうな場所だなと思いました。ドアノブを握り、そっと引いた。ちょうつがいがきしんだ音を立てながら、ユックリ開いていく。そこに、たしかに、女子生徒はいました。
彼女は準備室の窓をあけ放して、からだのはんぶんを外に乗り出して、そのポーズで止まったままグラウンドを見下ろしていました。
私はぼんやりとそのようすを見ていました。
そして、スニーカーのままの自分の足元をふと見おろして、わたしは今いる場所に違和感をかんじた。理科じゅんび室に入ったとき、わたしは掲示板に貼られたポスターとポスターのすきまみたいな、そういう、なにかの境目に紛れ込んでしまったような気がしていた。でもそれがとてもここちよかった。もとの世界はきたなくて、暗くて、陰湿陰湿。でもここはとっても空気がきれい。
たかぶる気持ちをおさえて、私は彼女にちかづきました。まどの外から風が吹いてきて、私とおなじ、彼女のながい髪がさらさらとゆれていました。不意に、ちゅうちょしている彼女の力になってあげたい、と、つよく、思いました。私は彼女のほとんど背後に立つと、ジッと下を見ている彼女のつむじに向かって声をかけてみた、
ねぇ、
押しましょうか?
すると、彼女はふり向きました。
顔は、覚えていませんが、口をおおきく開けて、私の目をぢっと見ていました。
そして、私の問いかけにやさしく答えてくれました。
「 」
なんと言ったんでしょう。忘れました。
気づくと、私は家に戻っていました。
それから、なんだか変なんです。頭が痛い。からだ中が痛い。これが狂うということなのでしょうか? 私はいよいよ狂えたのでしょうか? でも、狂うってどういうこと? たとえば目玉やきにちゃんとしょうゆをかけられたり、ゆうせん席におばあちゃんを案内できたらまだ狂えてないって判断? あたまが痛い。からだ中が痛い。あの理科じゅんび室から落ちてしまえばよかった。私は落ちたのでしょうか? それとも落ちたのは、彼女だったのでしょうか?
頭の中から声がきこえてくる。
気もする。しないかもしれない。気もする。
クスモトさんは呪われています。
そうかな?
呪われてるのは、あなたなんじゃないですか?



