ある日、私の頭に浮かんだのは至極簡単で、どうして今まで思い付かなかったのかと不思議になる様なアイデアだった。
彼に話しかけよう。
そう思い立った瞬間胸が苦しくなった。
もし、冷たい反応をされたら?気持ち悪いと罵倒されたら?
他人の方がまだ幸せな関係なのではないかと考えるにつれて私の胸はキリキリと痛む。
それでも、やっぱり彼とどうにか関わりたい。
強い気持ちが私の背中を押した。
大きく息を吸って、吐いた。鞄に付いている大きな人形をぎゅっと握りしめ、私は立ち上がる。
今日は彼は吊り革に左手をぶら下がらせ、単語帳を見ていた。こちらに視線を送る素振りはなく、真剣な眼差しだった。
どうか、優しく声をかけてくれますように!
一歩一歩彼に近付いている間に、先程まで座っていた私の座席にサラリーマンの男性が座り込む。
私にもう後戻りはできないと伝えられているかの様だった。
そっと彼に手を伸ばし、声を喉から絞り出した。
「あの……。」
その時だった。
金属と金属が擦れ合うような嫌な音が響いたと同時に車内が大きく揺れる。
乗客全員がどよめき、同じ様に前へと傾いた。
話しかけるために前のめりになっていた私の体は当然の様に勢いよく前に傾き、大きく重心の移動した体は支える場所をなくしてそのまま前へと倒れ込んだ。
(やばい!)
視界がぐるりと回転した時だった。
私の体は床に倒れる事なく、何か硬いものに包み込まれる様にぶつかった。
車内に広がる喧騒と共に心臓の鼓動がうるさく聞こえる。
花の様な優しい香りが鼻腔をくすぐった。
もしや、と思った。
信じられないと思いつつも、私は顔を上げる。そして、目の前の光景に絶句した。
「あ、あの。」
「すみません。」
目の前には、「彼」がいた。
それに加え、抱き止めてくれたのが彼だと理解した瞬間、頭に血が昇っていくのを感じた。
彼は急停車した一号車の方を眺めながら私の体を起こす。初めて聞いた彼の声は思っていたよりもハスキーでそれでもって心地良い声だった。
私は見惚れている間も無く慌てて彼から離れ、勢いよく頭を下げた。
「こちらこそすみません!」
大きな声が口から発され、彼はこちらに目をやらず黙って礼をした。
混乱する頭をよそに車内アナウンスが無常に流れた。
「只今、次の〇〇駅で緊急停止ボタンが押されたため、車両をしばらく停止致します。復旧までしばらくお待ちください。」
あちこちからため息混じりの声が飛び交った。
結局それ以降、ふたたび彼と話す事はないまま同じ様に時が流れた。