地球は一度、――死んだ。
生命の進化を遂げた人類は……権力闘争の末、核によって自爆。46億年目の悲劇。愚かな地球人は、青い星の輝きを奪い滅亡した。
そして、僕らは……地球人第二世代。
4月。ハイスクールのピアノルーム。「タン♪」気分のままに指は鍵盤の上を軽快に弾む。いま奏でたい音を心地良いリズムで、ただ自由に。
僕が隣のリサを見て微笑むとリサの目尻が下がって口角が上がった。リサの長い髪がふわふわと揺れ出したらタイミングを計って……僕の両手の間にリサの指が入り込んでくる。
そして、一気に!
「♫♬♫♬♫♬♫〜」音をたくさん生み出す。音符が空中浮遊してるみたい。リサの奏でる音は僕のを優しく包んで長く空間を漂わせてくれる。
手と手を繋ぎ合って駆け回るのって楽しい!
まるでそんな子供の外遊び。僕達のピアノは僕らの記憶そのもの、みたいだ。リサが僕を見ながらニコッと笑うから僕も連られて返した。
子供の頃からずっとリサと共に成長した。覚えていないけど赤ちゃんのリトミックからピアノもスクールも。こうして放課後ふたりで連弾するのが日課だ。
「タラララン♪」鍵盤を跳ね上がって演奏を終える。ふたりの両手は同じポーズで最後の響音が静まるのを待っていた。僕たちは顔を合わせて、ぎゅっとお互いの手も合わせた。
「リサ、手がいつもより冷たいね」
「そお? うーん、ホルモンのバランスが悪い期間だから?」
リサが手首のウォッチを僕に見せた。黄色のライトが光っている。注意喚起の表示だ。僕のは緑色、至って健康。
「ほんとだ。無理したら駄目だよ。女の子は体を大事にしないと」
リサの手を僕は両手で包み揉み込んで温めた。大事に大事に扱って早く冷たさを失くしてあげたいばかりに、真剣に。
「アイル……ありがとう」
「うん。もう少し」
リサは目元を緩ませて頬を持ち上げる。喜び溢れた笑顔で僕を見つめた。
「アイルは本当に優しいね。ずっと……いつも優しい。アイル……好きよ」
リサはそっと僕の手を引き寄せて頬をすり合わせた。瞳を閉じて同じように、大事に僕の手を頬で温めてくれる。
「リサ……僕も、好きだよ」
ふふっと嬉しそうにリサは笑う。僕も同じで自然と笑顔になった。
喜びの表現はきちんと伝えあう――僕らのコミュニケーションだ。幸せの法則。
いかに癒しを施し、与えて貰った事に感謝を届けるか。こうして僕らは幸福に溢れ第二世代として繁栄を成功させた。
恐怖を起こさず、憎しみを覚えず。第一世代の地球人が失敗した過ちを繰り返さない教訓だ。
全ての人が平等に幸せで誰もが尊重し合える世界。幸福論の教えに基づき築かれたこの国は楽園だと皆は唱えていた。
ピアノを終えてリサと校舎を出ると、ちょうど隣のカレッジの方からバイオリンケースを抱えた人物が近づいてきた。
リサは「レオ!」待ちきれずに名前を呼んだ。彼はこちらに向かって手を振って答える。リサは凄く嬉しそうに僕にバイバイをして彼の元へ駆け出していた。僕はニコリとだけ返事をする。また明日の挨拶もリサには必要ない。
僕はリサを見送って中庭のテーブルベンチに座り二人の後ろ姿を眺めてみたんだ。これも放課後の日課。リサを迎えにレオが来たら僕とサヨナラをする。リサと1つ年上のレオはカップルだ。結婚が約束された、公認の。
僕らは遺伝子で国にパートナーを決定される。髪と瞳の色が同じだと最高に相性が良いのだとか。
リサとレオはブロンドヘアのブルーアイ。手を繋いで見つめ合う二人は……遠目に見てもとてもお似合いだ。陽の光が揺らめく髪にあたって金色に輝き弾けてる。
「綺麗だなぁ……」
僕の珍しい藍色の瞳は二人の寄り添う姿をキラキラと映し出していた。この青みがかった黒髪が、その輝きを放つ事は出来ないとわかっているから。なぜ僕達は肌の色は皆同じなのに、髪と瞳の色はそれぞれなのだろう?
どうせなら僕も金髪が良かった。近頃よく、そんな事を思ったりする。二人にすっかり見惚れていたら校舎の方から声がした。
「アイル!」
「エリィ、早かったね」
僕はその子を見つめて返事をした。彼女は僕のパートナー。同じハイスクールの1つ年下の女の子。ブリュネットの髪をなびかせて僕の所へ駆けて来る。小柄でいつも周りを気遣っている優しい子だ。
「待たせてしまいましたか?」
「ううん」
僕達はよくここで勉強をしている、というより彼女の質問に僕が答えている。エリィは努力家でドクターになりたいそうだ。僕はまだ父さんと同じ地質学の博士を目指すか、科学の研究者になるか決めかねている。
6月には卒業するから、もう将来の専科を定めなくてはいけないけれど……僕はちょっとのんびりし過ぎかな?
反省し始めた所で、エリィは明日からテスト終了まで僕とデートできないと話した。僕はすんなりと彼女の話を聞き入れたが、まだエリィのブラウンの瞳はじっと僕を見つめて何か言いたそうだ。少し首を傾けて見つめ返すとエリィはより目を大きくして僕に問いかけた。
「……私達はいつ、結婚しますか?」
あぁ、やっぱり僕はのんびり考え過ぎだ。
女の子はハイスクールを卒業すると、結婚して出産する人のほうが多い。体が適齢期だからだ。カレッジの専科や職業の資格、結婚式や出産指導などいろいろ調整が必要だ。
パートナーの僕が早く将来の道筋を決めないといけないのに考慮が全然足りなかった。僕はポンポンッとエリィの頭を軽く撫でた。彼女はビクッと首をすくめる仕草をする。しっかりしていて、のんびり屋の僕にそれとなく主導権を促してくれる。いい子だ。
「ごめん、ごめん。エリィの都合を優先するから心配しなくていいよ」
僕の答えにエリィは安心したようだった。
結婚をしなければ、妊娠をする行為も禁止されている。ドクターのもとで指導を受け計画的かつ安全に出産する為だ。出産は身体の負荷が大きいから。命を宿す女性を大切にしなければ人類の繁栄はなし得ない。
ゴーン、ゴーン、ゴーン。
幸福の鐘が鳴った。太陽が落ちる1時間前に毎日その音を響かせる。
「さぁ帰ろう。月が欠けてゆくから明日からは気をつけて」
夜は月明りがないと外に出るのは危険だ。といっても緊急でもない限り、朝が来るまで外には出ないのが国民の習慣。
僕はエリィに向かって手を差し出した。彼女は遠慮がちに自分の手をそっと乗せる。ぎこちない仕草も、可愛らしいと思う。けど……僕にはリサと手を握ったり笑ったり癒やし合う方が心地良いな、とぼんやり感じてしまう。
エリィともそんな風になれるかな?
些細な意味のない思考を頭の片隅で巡らせつつ、エリィを家の前まで送り届け僕は自分の家を目指した。いつも通って帰る中央広場から鐘の音が響き渡るんだ。
ちょうど島の中心に始まりの塔が建ち、てっぺんに幸福の鐘がついている。鐘は島を覆うシールドと同じ〈 CAU104鉱原体 〉この世界で一番硬度な物質でできている。
千年以上も前に僕らのご先祖達が奇跡の星を復活させようとシールドで守られたこの島で地球に着いたという。島はもとの色とは程遠い薄暗い紺青の地球海上に浮いている。そして鐘の音は地球に降りた日からずっと鳴り続けているそうだ。
僕は塔を見上げてみた。透明に近いその鐘は夕光を真っ直ぐに通過させている。不思議な鐘だ。島中の何処にでも、誤差なくその音を知らせる。
この鐘の音が響けば僕らの国は今日も安全だし、この物質を発明したご先祖達を誇りに思う。
強いては、僕達の幸福に繋がるとゆう理論だ。確かに今日も平和だった。僕は薄っすら微笑んで家へ急いだ。
次の日。終業の挨拶が済むと後ろの席からリサが通りすがりに僕の肩をポンと叩いて「じゃあね、アイル」笑顔を見せて手を振る。僕はリサが急いでいるのを知っていたので「うん。頑張って」席を立つ前に返事をすると、リサは顔をほころばせて足早に教室を出て行った。リサは今日からカレッジでピアノ指導を受ける。レオが専任講師に依頼してくれたそうだ。
レオはカレッジを卒業したら、楽団の第1バイオリニストになるだろう。国のトップ音楽家で結成される交響楽団。レオはコンクールでいつも優勝している。
リサはレオのパートナーとして自身も楽団のピアニストを目指している。まずはコンクールで入賞、次はカレッジのピアノ専科に入学できなければ夢が叶わない。
さて、リサは1週間レッスンだし、エリィはテストが終わるまでデート出来ないし。僕は家に早く帰って進路について考えよう。帰り支度をして教室を出ようと差し掛かった時「アイル! 待って!」ソラに呼び止められた。彼の席は教室の真ん中一番前。僕がソラの席を通った時は数学の問題を解いていたはず。無口な彼が僕に話しかけるなんて珍しい。
「どうしたの?」
「アイル……チェリーの木に気をつけて」
ソラは僕をじっと見つめて呟いた。じいっと、ソラの黒い瞳が僕を捕らえている。
ドクン。ひとつ大きな鼓動が僕の肩を揺らした。彼の言葉の真実を、一瞬探ってしまったからだ。
ここは島にある学校のうち、国から選抜された子供が通うアルファスクールだ。ソラは同級生でいつも成績トップ。とても優秀すぎてまだパートナーも決まっていないという。珍しいどころではない。希少なジンジャーヘア、赤毛の黒目には未知なる遺伝子型が備わるとも言い伝えられるほど。現にこれまでソラの助言で幸運に恵まれたり危機が訪れたりしたと、良くも悪くも聞いたことがある。
「……うん。わかったよ」
僕が平然を取り戻し答えると、ソラはまた下を向いて手を素早く動かし始めた。
ふぅ。一呼吸して気持ちを落ち着かせる。僕はほんのちょっとだけ不安を残して教室を出たんだ。
ひとりの放課後にのんびり帰り道を歩く。中央広場まで来ると、ふんわりピンク色の花びらが飛んできた。音符が流れるような舞い方みたい。ふわふわ、ゆらゆら。風に乗って次々に舞う花びらは今にも音が聞こえてきそう。
「あれ?」プライマリーの男の子が木を見上げている。僕が段々と近づいても動かないまま。
男の子が見つめるのは……始まりの塔の横に生えている――チェリーの木だ。
僕は思わず立ちすくんでしまった。すぐにソラの言葉が頭をよぎったからだ。チェリーの木に何かある、と思った。でも……男の子が困っていそうで「どうしたの?」僕は躊躇わず近寄って話しかけた。
男の子は僕に気付くと木の上を指差した。高い枝にスカーフが引っかかっている。
「風で飛ばされちゃったの」
プライマリーのスカーフだ。とても懐かしい思い出が蘇った。僕もスカーフが上手に結べなくて、よくリサに直してもらっていた。
ここは、島で一番高い25階建ての総合病棟と研究所や資料館が塔の回りに建ち並んでいて、時折風が強く吹き抜ける。チェリーの花も結婚式のフラワーシャワーみたいに遠くまで飛ばされていくんだ。
「大丈夫。僕が取ってあげるよ」
男の子の頭を撫でてやると、にっこりと顔が明るくなった。木登りはしたことないけど、鞄を地面に置いて胸丈の枝に手をついてよじ登った。
「ごめんねっ」とチェリーの木を労りながら、ふるふると背伸びをして……スカーフをしっかり握りしめた。ホッとした気持ちになると目の前のとても美しい情景に気付く。
「うわぁ」思わず声が漏れて、うっとりとそこに佇んでしまった。チェリーの優しげなピンクの花に僕はすっぽり包まれている。満開のチェリーの中にいるなんて、これ程の感動を味わったことがない!
初めての体験に胸の高鳴りが妙に変調して騒がしい。「!?」幹の破れ目の中にキラッと光が見えた気がした。
「お兄さん?」
「あっ! うん。取れたよ」
僕は枝の上でしゃがみこんで男の子にスカーフを手渡した。「ありがとう!」と元気良く御礼を言ってくれたので、僕はお返しに笑ってバイバイしたんだ。男の子を見送って満足したらさっきの光が気になってしまって……もう一度、背伸びをして眺めて見た。何かが挟まってる?
うんと手を伸ばして、指でコソコソ探ってみる。コ、ロン。おっ、やったぁ!
指で捕まえた物をそっと、外に取り出してみると……丸い綺麗な球体の青く輝く――「わっ」しまった!
と思った時には、もう既に重力に引っ張られていた。ドシン。僕は木から落下して地面に寝そべってしまったんだ。
「痛っ……」
起き上がると左肘がピリッとした。右手はしっかり球を掴んだままだったから、受け身がうまく取れなかったんだ。でも、この綺麗な物体だけは手放したくなかった。本当に綺麗だ。肘の痛みよりも気になってしまう。
「おい、君! 大丈夫かい!?」
「はっ!」
こちらに駆け寄って来る男性を確認すると僕は球をポケットに急いでしまい込んだ。
身体のガッチリした逞しい人だ。父さんと同じ位の歳だろうか。目の前に跪き、両手を伸ばしてきたのでビクッとしてしまった。僕が言葉を発するより前に脈をとって首を撫で、目線をじっくり覗き込まれた。
「あ、あのう、木から落下して肘を……」
「わかっている。……他に異常は無さそうだ」
僕を探る、ブロンドの髪の隙間から青い国章紋つきのイヤーカフが見えた。
「軍人さん、ですか?」
「安心して。君のウォッチがレスキューに発信してる。もうすぐ到着するはずだ」
僕の手首のウォッチは赤く点滅をして、CALL→Rと表示されていた。男性は自分のシャツを脱ぐと手際よく僕の腕を保護して、肩と肘が固定されるよう応急処置をしてくれた。
「ありがとうございます! 親切に服まで……」
Tシャツになったその人の腕が露わになると、より鍛えられた筋肉が見てとれたが……幾つも古い傷のような、不規則な羅列線が皮膚に刻まれていた。大きな怪我でもしたのだろうか?
「君、名前は? 何年生?」
「はいっ。12年生のアイルです。……?」
一瞬、男性が驚いた表情をしたような気がしたが、その時レスキュー車が近くに停まってドクターが駆け下りてきた。運転手の軍隊員は駆け足で男性に近寄ると、びしっと規律正しい姿勢をとった。
「ショーン大佐! 事故ですかっ!?」
「いや、彼の怪我を診ていただけだよ」
軍の大佐だったんだ……凄い人に助けてもらったなぁ。堂々とした振る舞いも手際の良さも、エキスパートな装いだと納得してしまった。
国軍は大統領の傘下、国民の安全と島の保全に従事し、この国で最も重要な役職を担っている。キャリアの入隊試験は最難関とも言われ、任務の為に家族とも何年も会えないのだとか。
軍大佐ともなれば大統領の直近で遣える程だろう。偉大な人を目の前にして僕の心がワクワクするのも無理はない。
大佐が「後は頼んだよ」と離れて行く姿に僕は慌てて「ありがとうございました!」と高揚した声を届ける。なんてことは無い、と手を一振りした仕草も感動するくらい格好良かった。
怪我も大したことはなくて、ドクターは1週間安静にしていれば治ると言っていた。帰宅して僕の姿を見た父さんと母さんには、驚いた顔で困らせてしまったけれど。
経緯を説明すると二人は堅い表情を和らげてくれた。小さくした母さんの肩を父さんは引き寄せて慰める。お互いの耳を何度も擦り合わせて……。そのスキンシップに特別な意味があるのを僕はわかっていたから。両親にかけた負担を反省して、もう一つ。心をとがめたのは……青い球を見つけたのを内緒にした事だ。
僕は眠れなくて、自室のベランダで夜空を見上げる。ポケットから青い球を取り出して、じっくりと見つめた。美しくて何度も眺めては次から次に想像を掻き立てられる。
大きさはちょうど人の眼球と同じ位。キズひとつない。叩いてみた音からして固い石だと思うけれど。青く煌めいて見える、でも所々透明なマーブル状で……地球?
そうだ、昔はこんな明るい青色だった。父さんの本に書いてあった気がする。青い石、ラピスのような地球――。僕の手のひらに小さな地球を乗せているようで……どうしよう、急にわくわくしてきてしまった。僕ら第ニ世代はこの球みたいな、美しい地球を蘇らせたいんだ。球を指で摘んで、夜空の下弦の月に照らしてみた。
満月ともなれば視界の4分の1を覆う。今夜はまだ欠け始めの大きな明るい月。より一層、球が煌めいて綺麗だ。
「ん? 何か……入ってる?」
透明な部分にちょうど月光が入り込むと中に銀色の物体があるような……目を凝らして覗いてみたけども、はっきりとわからない。ふと考えもなしに耳にあててみた。「!」微かな音がしたような?
僕は胸いっぱい息を吸い込んだ。ドキドキして堪らなかった。未知なる発見をしたような気分で嬉しくて。「ふふっ」思わず笑いが溢れてしまう。
陽気な僕の顔に小さな雨粒がポツリ。月に薄い雨雲がかかってきた。午前0時、雨の時間だ。
僕は部屋に戻ってベットに潜り込んだ。片腕が不自由なのは窮屈だけれど興奮が冷めそうにない。球を握り締めたまま今夜は眠ろうと、わくわくを抱え幸福な気持ちのまま朝を待ちわびたんだ。
僕のひとりきりの放課後はとても充実していた。左腕は動かせなかったけど、あの小さな地球の研究に没頭していた。やはり青色はラピス石で、透明色は島のシールドと同じ鉱原体ではないかと考察した。スクールから実験道具を借り、コンピューターで波長から音を推察させる。1週間作業を続けて……僕の怪我の完治と共に音の正体も判明した。
それは、今まで耳にしたことのない……メロディ――。囁くような優しい歌声のメロディで、オーケストラの音でもなく変調が繰り返される旋律。
「音源は……ピアノ80%とビオラ70%に酷似か。うーん、言語の情報が全く無い」
楽器は現物にはないようだけれど言語が不明とは不思議な事だ。コンピューターでも解析できない物があるなんて。球体の中に埋め込まれていたのは、半永久的に作動するスピーカーみたいな物かな?
本当に不思議だ。いつ、誰が……これを作ったのだろう。伝えたいことがあるなら、こんなに固い石で閉じ込めなくてもいいのに。
逆に捉えるならば、封じられた事をこっそり伝えようとした――?
考えれば考えるほど僕の好奇心は膨れ上がり、このメロディは僕の中に浸透していった。そして繰り返し流した音色の一部が、ふと気になった。
「……アイ、って何だろう?」
清々しい朝の教室。左手首のウォッチをタップしてニュースをチェックする。ピッ。ディスプレイ上に立体映像が浮き上がる。軍のニュースに大佐が映っていた気がした。大統領の演説する傍らにやはりショーン大佐の姿があった。軍服を着た大佐はより凛々しくて格好良いとまた尊敬の念が増す。
大統領は既に白髪交じりの年配で目尻にシワの出来る笑顔がいつも国民に安堵を与えてくれる。その上、元軍人の逞しさも備わっていて唯一無二の存在だ。なんとなく……二人は似ているな、と僕は思った。
大きな背伸びをひとつ、教室の窓際で外に向けてする。おまけに深呼吸も。左腕ももう自由だし開放された気分だ。
「Umm... Ai shi te ru 〜 」
空の青色を見るとあのメロディを口ずさんでいた。僕の空間にふわっとリサが入り込んでくる。
「何の曲? アイルの歌?」
「ははっ。僕の歌か」
そうだ。僕の名前と発音が同じようで、このメロディが気に入ったんだ。「即興したの?」リサが楽しそうに聞いてくる。「まあね」僕はちょっぴり誤魔化した。あの小さな地球のことは誰にも教えていない。僕だけの秘密だ。
「腕はもう治ったのよね? また今日からピアノ弾ける?」
リサが僕の左腕をそっと優しく撫でて言った。僕が怪我をした次の日。リサは肩からハーネスをかけた僕を見てとても心配してくれた。
いつもニコニコしているリサが顔を強張らせてしまって。とても僕は焦った。
「うん。もう平気だよ。指慣らしから始めてみるよ」
僕の返事を聞くとリサがニコッとして、僕に手のひらを向けた。僕は久しぶりにそれに答える。ぎゅっとリサの手に指を絡ませた。そのままリサは擦りさすり僕の手を労ってくれる。大事そうに、それはとてもとても優しく。嬉しいはずなのに……少し首元が熱い。ひとりの放課後を過ごしたせいか、リサとの距離感を忘れかけていたのかな?
二人の放課後を再開させると、リサはとびきり上手くなっていて凄くびっくりしたんだ。僕の休んでいたピアノの音色は置いてけぼりになっていた。リサは明日コンクールを迎える。
「リサ、緊張してる?」
隣に座るリサの顔を覗き込んだ。
「少し……ね。今までで一番頑張って練習したけど、入賞できなかったら……最後のコンクールになるんだって……」
リサがどんな気持ちなのか、僕にもじんわり伝わってきた。これまでの努力も、頑張ったから疲れてる事も、未来をたくさん考えてた事も。僕はわかってるから。
「大丈夫。僕はリサのピアノが一番好きだよ!」
咄嗟にリサの手を握り締めて、僕は訴えかけるように声にしていた。僕も今までで一番、声を大きくして励ましていたんだ。少し驚いたようにリサは僕の顔を見上げる。
「っ!」思わず息をのんだ。僕の好きなリサの可愛い笑顔が……今までで一番近くにあったから――。
「ありがとう、アイル。私もアイルのピアノが一番好き!」
わ、あ……リサの言葉が僕の心をぐるぐる回ってきゅうっと引き締める。その後にゆるゆると幸せな気持ちがどんどん溢れてく。
何だろう……今、この時が、このまま続いたらいい。そう、思って。僕はふわふわした気分で言ったんだ。
「リサ、少し休んで。僕がリラックスできる曲を弾くから」
そして「ポロン♪ティン♬」ゆっくりなテンポで優しい音をはじく。リサの為に安らげるリズムを。僕が選んだのは、あの秘密の曲だ。アレンジしてピアノ曲にしてみた。8小節を弾いて……「!」リサがコツンと僕の肩に頭を預ける。僕は撫でてあげる変わりに、自分の頭を傾けてリサのにコツンと合わせたんだ。
「ふふっ」「ははっ」
僕達の密かな笑い声も音色に溶け込む。良かった。僕はリサの心を癒やしてあげれた。満足してハミングも飛び出す。
「Umm〜アイ shi te ル〜ko no−se ka i de hi to ri ki− リサ〜 」
「ふふっ。アイルの歌じゃなくて、アイルと私の歌なの?」
「ははっ。ほんとだ」
どこの言語かもわからない。ただ心がきゅっとなったり温かくなったりする、体中が満たされるメロディ。幸せいっぱいで……なんだか熱くなってきた。リサが触れている肩が特に熱い。鼓動までも熱せられそうだ。
なのに、僕の体は軽やかで心は跳ね上がってるかのよう。まるで音になったみたいに。僕はリサと1つの音符になって奏でた音色と空間を浮いてる気分だ。いつも憧れてたリサとレオの、金色の髪の輝きを僕もまとえたかのように……キラキラと僕は漂っていた。
第3回ピアノコンクール。スポットライトを浴びるリサは、観客席に向けて飛びきりの笑顔を見せた。僕は真っ直ぐにありったけの拍手を送る。
素敵なドレスに綺麗にとかした髪。何よりも完璧な演奏が誇らしい姿を現せたのだ。リサの発表は全て鑑賞しているが、今回は実力以上に発揮したと思う。
けれど――リサの名がコールされる事は無かった。ステージ上でリサはひと呼吸だけ笑顔を崩した。僕がその顔を見逃すはずもなくて。閉会後、真っ先に会いに行った。
「頑張ったね。素敵だったよ」
「ありがとう。残念だけど、満足してる」
笑顔を絶やさないリサだけど、何だか僕にはとても可哀想に思えて。いつもより優しくリサの両手を包んで大事に労ってあげた。
「アイル……どうして、そんな顔?」
僕は笑いかける事も出来なくて、気難しく考え込んでいた。
「仕方ないわ。選ばれた人が素晴らしいもの」
いつもなら、僕もそんな風に思えた。リサは入賞できる、ではなく……させて欲しいと懇願していたんだ。僕の方が残念な気持ちを引きずっていた。
「あっ、レオだわ」
リサの視線の先に談笑するレオの姿があった。パッと僕はリサの両手を離す。
「……じゃあ、またスクールで」
「アイル、今日はありがとう」
僕は無理矢理に頬を持ち上げた。リサは微笑みレオの元へ駆け出して行く。いつもの事だ。なのに、なぜか……息が苦しい気がした。
僕はリサをずっと目で追っていた。いや……目が離せなかった。
レオはリサを両腕ですっぽり包んで何かを語りかけている。凄く嬉しそうなリサの表情……僕の好きな、三日月みたいな目をして笑うリサの顔。
僕は遠巻きに二人を眺めて、細い目でじっと見つめていたんだ。周りにはたくさんの人がいるのに、二人のいる場所だけが輝いて見える。
レオだからどんなリサも一瞬で笑顔にする事が出来る。リサの未来も不安にはさせない。
僕には……無理なんだ。
僕もJrまではコンクールで何回か入賞した。でもそれ自体に興味はなくて、ただリサとピアノをするのが好きだった。僕も努力して成果を上げて、レオのように実績や才能があったなら。
一声で……一触れするだけで……リサを励ます事が出来たのだろうか。
正当な光景を目の当たりにして、なぜか僕の心は落胆していた。昨日まではあんなに幸福感でいっぱいで……リサと二人でいる時は、僕もキラキラしていたのに。やっぱり僕には輝きが放てない……僕の立ちすくむ場所はただ薄暗かった。
コンクールが終わって僕らは卒業試験が近づいてきた。エリィの試験が終了したので2週間振りのデートをするのだが……でもまた暫く会えないだろう。帰り道、僕はエリィに報告した。
「卒業試験をパスしたら、カレッジの試験は地学科を受けようと思うんだ」
「お父さんと同じ仕事をしたいんですね」
あの球を見つけてから僕は石に興味が沸いて。もっと地球について知りたくなったんだ。エリィの未来の為にも決められて良かったと思う。
「これで僕たちも、結婚に近づいたかな?」
僕は安心した所だけれど、エリィは繋いだ手をモゾモゾさせ始めた。
「どうしたの?」
「今日は、少し暑いですね……」
頬を赤らめて手でパタパタと顔をあおいでいる。僕はすぐに手を離して、一歩、エリィと距離を空けた。
「……植物の育ちが悪いから、陽射しを強くするってニュースで見たよ」
僕は恥ずかしがりのエリィに気遣いが必要だった。なかなか進展しないコミュニケーションに、少し気を揉んだ。エリィは僕のパートナーなのにスキンシップはリサの方が多い。それに……僕が癒やされている。リサとレオが親密になっているのに、僕達はまだろくに手も繋げない。これで大丈夫だろうか?
エリィと距離を感じる度、リサだったら……と知らず識らずに僕は比べてしまっていた。近頃僕は些細な事を気にする様になっていたんだ。
卒業試験が終わり、僕もリサも無事に終業証明の成績表を手にした。ソラはスクールの最高優秀生として表彰された。僕達は次にカレッジの専攻の為、どの試験を受けるかと話題は一色になって。それぞれが未来に新しく道を切り開こうと……別々の時間を過ごしていくのは普通の課程だとわかっていたのに。
僕は地学科に、リサは教育科で。
……違う、このすっきりしない気持ちは――。
「やぁ、アイル」
「レオ!?」
僕が中庭のベンチに座って、ぼんやりと考え事をしていると、突然レオがそばにいて。身体が跳ね上がるほど驚いてしまった。近づいて来たのにも気付かなかった。
「リサは忘れ物を取りに行ってるから、もうすぐ来ると思うよ」
「そう」
背筋がピンとして姿勢良く、落ち着いた声でレオは答えた。彼は座らないで校舎を眺めるので僕はそっと立ち上がる。
いつも僕はリサとレオの並んだ姿を眺めていたが、こうして僕が隣に立つのは、何だか気が引けた。綺麗な髪……リサと同じだ。
「リサと試験勉強してくれてたよね。帰りも送ってくれて、ありがとうアイル」
「……どういたしまして」
何でリサの事なのにレオが御礼をするのかと思った。まるで、自分の事のように。
「そうだ、アイルの歌があるんだって? 今度僕も聴いてみたいな」
ドグンッ!?
僕は心臓を大きく鳴らした。それは、秘密の曲のこと、だよね?
「っただ、即興で浮かんでくるだけだよ」
「そう? リサがいつも、アイルとの連弾は楽しいって言ってるよ」
レオはリサを思い出したのか声が弾んでいる。僕が暑くもないのに汗ばんで自分自身に焦っているのに、レオは爽やかな程に余裕だった。
「うーん、リサ来ないね。僕また戻らないといけないんだ」
「……来たら伝えておくよ」
「ありがとう。じゃあ」
僕に手を振る姿も颯爽としていた。僕がレオのように振る舞うなんてできないのにさ……自分の浅はかさを思い知った。
僕がリサだけに、リサの為に、証してしまった秘密のメロディは……僕だけが、二人だけの、と満足して舞い上がっていたんだ。
リサがレオに何でも話している、二人はパートナーなんだから当たり前だ。リサと過ごした幸せな時間が急に薄ぼけてしまったような気がした。
「レオのコンクール、一緒に見に行こう!」
リサから誘われていつもだったら直ぐに答えていた所だけれど……返事が重かった。レオのバイオリンは僕も好きだ。その響音に幾度となく感動している。何年もリサと一緒に鑑賞してきたんだ。断る理由が見当たらない。僕はリサと観客席に座った。
レオは、なんて凄いんだろう……。ステージに立つ気品溢れる姿勢。まるで旋律を支配しているかのような視線に、繊細な音を操る指使い。漆黒のタキシードにライトで照らされ煌めく金色の髪。
レオが放つ音色はキラキラした輝きに乗って、客席の僕らの耳に届き、弾ける。滑らかな奏でなのに、高音が体を突き抜けるよう。
全てが美しい……全部が、麗しい。
間違いない。レオはいずれ楽団のトップバイオリニストになってマスターになる。誰もが認める最高の音楽家だった。
この日、一番大きい拍手にホールが湧いたとき……隣のリサはとろけそうな表情でステージを見つめていた。そこに、僕の知ってるリサとは違う、大人の女性なリサがいた。
こんなにたくさんの人々を魅了するレオは、ずっと、リサのものだ……
もう少女ではない、うっとりする程に綺麗なリサは……レオのもの。
また、僕は、呼吸が乱れそうだった。ゆらりゆらり、頭の中が揺れ動かされる。僕は早く帰った方が良さそうだ。
「じゃあ、私はレオに御祝いを言ってくる」
「うん。僕は先に帰っているよ」
閉会後ホールを出た所でリサが僕に背を向ける。僕はもうその後を追わないよう、同じく背を向けた。この前もリサのコンクール後に、ここで暗い気持ちを引きずったから。
今回もレオの優勝だった。リサは……どんな顔で祝福するだろうか?
何歩か進んで……やっぱり――振り返ってしまった。僕の遠い視線に、ハグして喜び合うふたりの姿が映る。ステージでは圧巻の演奏を披露して、堂々とした佇まいだったレオもリサを前にすれば、あどけない少年のように喜ぶのだ。
そばでいつも明るく振る舞うリサの存在が、そうさせてくれる事を、僕はわかっていた。だから、僕も――チクン。
胸が痛みを発した。その光景は、初めて見るものだった……リサとレオがお互いの耳を擦り合わせる。それはそれは、とても幸せそうに。
二人が融和のスキンシップをするのを、僕の瞳はとらえていた。
僕らの耳には生まれた時にチップが埋め込まれる。あらゆる個人情報を一生管理する為。
パートナー同士で耳を擦り合わせる行為は、最も至福の癒し効果があるという。パートナー以外と融和を行うと耳を痛めるのだとか。
リサとレオはうっとりと、お互いの中身までも……ひとつに、溶け合っているようだった。また何処からともなく、二人に降りそそぐいつものキラキラが――!?
なぜ? なぜ僕が、僕を、見ている!?
僕のビジョンは、その綺麗な一画のレオを――自分に置き代えていた。
僕がリサと、融和する――。幸せ溢れる、自分が写し出されていた。
なぜそんな夢のような幻想を見て――はっ!?
そうか、僕はレオになりたいんだ。リサと離れるのが残念なんじゃない!
レオになってリサとずっと共にいたい……いや、リサのパートナーに……僕がなりたい――それが僕の願望なんだ!
これは、こんなの……まずい事じゃないのか?
僕の焦りから瞳をどんどん大きく見開く。今、確信した事を早く取り消さないと!
決められたパートナー意外を求めるなんて、いけない事だろう!?
僕は、どうかしている……おかしい国民だと認定されてしまう。この気持ちを掻き消すように、僕はまた、逃げ出さなければならなかった。
――僕がおかしいのだろうか?
それとも、僕が知らなかっただけだろうか?
誰もが国に決められたパートナーと生涯を全うする。遺伝子レベルの適合結果なんだ。間違うはずはない。
もしかして、自分のパートナーと、無理に結婚した人も……いるのかな?
他の誰かに想いを寄せながら誤魔化して……そんなの、幸せだと笑える訳がない。この国は幸福に溢れた楽園なのに……。
数日、自問自答を繰り返していた。僕の迷いは誰にも言わずに心の中に秘めて。いつも通り振る舞おうと細心の気配りをしていた。けれど、本当の自分が何処にあるのか……わからない。
それは、エリィと居ても続いていた。パートナーらしく差し出した僕の手が一番ぎこちなかった。どんなふうにエリィの手を繋いでいたっけ?
「アイルの試験はいつですか?」
「ん!? あー、これから申し込むから……」
正直、蔑ろにしていたから今更焦っている。
「アイルはもう自由登校ですから、私に無理に合わせなくても大丈夫ですよ。自分の事を優先してくださいね」
「……うん」
エリィのそうゆう所、ちゃんと、僕は好きだ。
これからはエリィだけを……僕のパートナーとして大切にしていける。そう、思えた。けれど……
すれ違ったお腹の大きな妊婦さんを見たら――急に足がすくんでしまったんだ。
もし僕がこのままだったら……誤魔化したままエリィと結婚して僕たちの子供を……そんなの、できないよ――誰も、幸せになれない。
僕は手の力をゆるゆると無くしてしまって。今度は僕が、手を繋げなくなってしまった。
僕は試験の手続きをしてピアノルームへ。リサは先に行って待っていると言っていた。長年当たり前にしてきた二人の連弾も後少しだと思うと……特別に気持ちが高ぶる。
僕は最後まで、いつもの自分でいられるだろうか……余計に胸がそわそわしてしまう。
息を大きく吐いて胸を張りドアを開けると……リサはピアノに伏せて寝ているようだった。僕が近づいても起きようとしない。だいぶ待たせてしまったのだろう。
「……リ、」声をかけようとして言葉を飲み込んだ。余りにも可愛らしい寝顔に起こすのをためらった。スクールを卒業したら毎日会う事もできないし、こんな風に近くで触れることもできないんだろう。眺めるだけでは足らずに、そっと金色の艶々な髪をすく。顔を覆う毛束を肩に流してあげた。スヤスヤと寝息に合わせて肩が動き、楽しい夢でも見ているのか、にこやかに頬を上げる。
何だかとても久しぶりに、穏やかな気持ちで幸せだと思った。けれど――チクン。また、胸が痛んだ。
僕は思い出していた。あの日の光景を。
リサの寝顔は、レオと融和している時と……僕がレオになりたいと思った時と……同じだったから――。
そのとろけるような至福の表情をリサにさせるのは……一人だけだ。夢の中で触れているのは、レオ……だね?
今、こうして、リサに本当に触れているのは……僕なのに!
すぅーっと、急にだ。頭の中は空っぽになって、リサの顔に引き寄せられた。
「……ん」リサのこぼれた声に、はっと我に返る。「っ!!」すぐさま近づけた体を戻して、勢いで後退りをする。よろめいて、フラフラと……その間に僕は何をしようとしていたのか自覚して……タッタタッガタガタッ、ドシン。床に尻もちをついて、呆然と脱力した。
僕は、何を……なんてことを――!?
口元を手で伏せて少しの声も出ないよう塞いだ。唇も指先も困惑の余り小刻みに震えていた。
後少しで……リサの頬に触れるところだった。口づけを、してしまう寸前だった。それは、結婚したパートナーとだけに許された行為なのに。違反を犯してしまう、ところだった。
ただ、ただ、自分の行動に驚いて。息が……呼吸が……「ハァ、ハァ、ハアッ」
「……アイル?」
「――はっ!?」
リサが目を覚まし虚ろな目で僕を探す。僕は、僕の、自分勝手な行為に……リサも巻き込んでしまうところだった!
レオじゃない僕に、口づけをされていたら……リサがそれを知ったら……どれほど落胆することか!
慌てて立ち上がり、ドアにぶつかりながら外へ飛び出した。ひたすらに階段を走り抜ける。
何を考えているんだ!?
知られてはいけない! 絶対にっ――。
僕は閉じこもった。誰にも、会いたくなかった。試験勉強に集中する、理由をこじつけて。なるべく一人で居たかった。僕は、ピエロになってしまうのではないかと――ひとしきり不安だったからだ。
ピエロとは……第2世代唯一の違反者。虚言を唱え、始まりの塔を破壊しようとして国民を恐怖に陥れた。
彼の顛末はこうだ。若き優秀な工学者は突如として精神病を患い、公衆の面前で「我々は支配されている! 幸福などまやかしだ!」と叫び塔を凶器で傷つけた。即刻、軍によって収監され国民の平和と安全は保たれた。本名は伏せられ、通称ピエロと歴史に刻まれた。彼の心の病への哀れみとして、開発された医療カプセルでピエロは生涯を遂げる。肉体が死するまで苦痛を取り除き、眠った状態を維持してくれる。
今では皆がそうして静かに一生を閉じる。恐怖もなく、安らかに。だから、死さえ怖くはない。一生、幸福なままいられると、誰もが安心している。
僕のウォッチは黄色の点滅がおさまらない。赤色になると、いつレスキューに通報されるか……そうしたら僕は病気と判断されてカプセルに入れられるのではないかと……考えが巡るのが止まらなかった。だから勉強に夢中になって、知識で頭を詰め込んで他の事は考えないようにした。疲れたら少し休んで、青い球を握りしめ……そうしてウォッチが緑色になるのを、待ち続けた――。
[ 会って話がしたいな ]
あの日、僕がピアノルームを逃げ出してから僕達は1週間も会っていない。
リサに……会いたい。思い出や記憶のリサじゃなく、この瞳で笑顔を見つめたい。でも、会いたくない……。
僕が「いいよ」の返信をした時、リサはもう僕の家の前にいると答えた。迷いの心はリサの姿を見た途端に、溶きほぐされたのだけれど――
「私ね、ハイスクールを卒業したら、結婚式をするの」
「――!?」
刹那の重低音が突き抜ける。卒業生が夏休みに結婚するのは主流だ。8月は結婚式が毎日のようにどこかで行われている。最も賑やかで幸福に満ちた季節だ。式を挙げて公式な夫婦になれば……子供を授かるのが一般的だ。
リサの全てに触れる権利は……レオだけのもの。頬に口づけ、では済まない。吐息が交ざりあう口づけに……お互いの体液を注いで1つに繋がる、繁殖の行為だ。
頭の奥の方で、鈍い音がひとつした。つかつかとリサに歩み寄って両手を強く掴んだ。
「アイル!?」
「リサはそれでいいの!? ちゃんと考えた? 本当にレオが好きなの!?」
「何を言ってるの? そんなの当たり前じゃない? 国が決めた事なのよ?」
リサ……それは確率や可能性の、合理的な決定事項かもしれないんだ。どうしても拭い切れない。当たり前だと思っていた事が、本当は操作されたものじゃないかと。
だって、どうしても、僕は――君をあきらめ切れない。
おかしいとわかっていても、元に戻れないんだ!
「リサ……僕じゃ、僕じゃ駄目なの?」
そんな事、言葉にできるわけないと思っていたのに……唇を噛み締めていても、胸のうちは、本当の気持ちは、閉じ込めようがなかった。
「僕は何でもリサの事を知ってるし、ずっと一緒に……たくさん過ごして来た、だろう?」
僕は震える声で吐き出した。幾年も繋ぎ合わせてきた手が、リサを掴まえて離したくないと、頭の中でわめいている。
誰にも触れさせたくない! 僕を選んで!
止めどない本心が響いている。リサの透き通った青い瞳が、見る見る大きく開く。
「アイル……泣いて、るの? ……どこか痛いの?」
え――?
自分の頬を伝う、瞳からこぼれた雫を指の腹ですくい撫でて……湿ったその感触に、驚愕が体中を走った。
……涙? ……泣く?
そんな事はあるわけないと。
「どうしたの!? 泣くなんて、言葉を話せないベビーだけよ!?」
そうだ。成長したら泣くことなんて滅多にない。余程痛い思いをした時にしか、涙は出ないのが体質なんだ。
「アイル、病気なの!?」
今度はリサが僕の腕を掴んで顔を覗き込む。眉をひそめて僕をじっと見つめている。
どこも痛くない。痛くないんだ。ただ、僕は……こうして、リサと近くで……触れ合っていたい、だけなのに。そんなに困った顔で、僕を見ないで――。
じれったくて、もどかしくて……我慢すればするほど、目から溢れてしまう。僕がどんなにリサを必要としても……レオがいるから。決められた事だから。どうにもならないと、わかってるから。僕はおかしくない……病気じゃない……。
「ねぇ、アイル!?」
力無い僕をリサは揺さぶる。一層、険しくなるリサの表情に「っ違う! 違うんだ……」僕は精一杯、首を振って否定する。
ゴーン、ゴーン、ゴーン。
幸福の鐘が鳴り響いた。僕らはその音に否が応でも反応する。リサの手をそっとほどいて、顔を背けた。
「リサ、送ってあげれなくてごめんっ。気をつけて帰って……」
僕は恥ずかし過ぎて、とてもリサに顔を見せられなかった。「アイル!」背中にリサの声を受けながら家に飛び込んだ。ぼやける視界の中を、よれよれ手繰りで自室に駆け上がる。バタン。部屋のドアを勢いよく閉めて、ズルズルとしゃがみ込んだ。
僕はどうしてしまったんだ!?
涙が、止まらない。痛くないんだ。痛くない……でも、僕は愚かで仕方ない。
好き勝手に、違反をしてまで、涙まで流して――リサを困らせた。
どうしてこうも、思い通りにならないんだ!
僕はレオよりも、完璧にしなきゃいけないのに!
リサに相応しく在るべきなのに!
全然、ちっとも、格好良くなんて、できないじゃないか。
悔しくて胸が締め付けられる。髪をグシャグシャ掻き乱し、グチャグチャの顔を覆う。はっ――!!
ウォッチが……赤色に点っている!
「はっ、はっ、はっ、はっ!?」
一気に頭が冷め、僕は慌てて腕からもぎとるようにして「うわぁっ…」投げつけた。ウォッチは机の角にぶつかって、ガチャンと音を立て色を消した。キリキリと肌を剃られるような空気が僕をまとう。
僕は怖かった。初めて、恐怖を感じた。恐ろしい、自分自身に――。
今宵の満月は……特別、眩しかった。泣き腫らした瞳が焦点を失って、力なく夜空を見つめているだけだった。島で一番高い病棟の屋上。雨でしっとり濡れた床面に座り続けて。服もずっしりと重かった。
カチャ。屋上のドアが開く音に僕はゆっくり振り返る。
「……ここで、朝を迎えるつもりかな?」
とても久しぶりに人の声を聞いた、そんな感覚がした。優しく語りかけるその人は……軍服を着たショーン大佐だった。
予想通り……僕はゆらり立ち上がって、気怠い体をよろよろと正す。ここに来た時から覚悟を決めてた。大佐は任務中だ。僕がピエロと同類なら、同じ末路だ。カプセルで眠らされ、もう出てこれない……その前に、まだ僕でいられる間に!
確かめたい!
この乱暴な気迫なまま大きく息を吸って、我慢を吐き出す!
「――っ!?」大佐が手のひらをこちらに向けて目で訴えている。待て、と。
僕が一旦休止したのを確認して、ポケットから小さなアンテナのような物体を地面に置いた。クルクルそれが回り始めると「うっ」キーンと一瞬耳鳴りがした。受信を妨害するような機器だろうと僕は悟った。
この場は、完全にふたりきり。誰も、見えない支配者も、入って来れない。そういう事、だろう……
「君はもう4時間もここにいる。ウォッチは……壊したのか?」
何もかも、全て知られている。あの後、家に来たレスキューにぶつけて壊れたと、平然を装って修理依頼をした。試験勉強でフラフラしていたと、隊員にも家族にも事実を隠した。
それから膨れ上がる恐怖に、行き場を求めてここまで来た。月明かりだけを頼りに、光を浴びたくて。病棟の外階段を使って……
誰にも知らせなかったのに。
誰とも会わなかったのに。
また沸々と僕の中で、何かが込み上げてくる。
拳を強く握り締め、それは放出された。
「僕達は一体、何者ですか!? 月から規則的な点が放たれています。何が真実で、どれが作り物ですか!?」
今までこんなに声を張り上げたことがない。これが怒り、というものだろうか?
自分の中にこんな暴動的な気持ちがある事が、ひどく怖かった。大佐はそんな僕の乱れた叫びを受け止めるように、じっと表情を変えず見つめていた。
「そう思う……きっかけは何だった?」
鋭い眼光に僕は気勢を失い始めた。数々の経験を熟してきたであろう、博識な国軍の英雄に尻込みする。
間違えた。この空間は、完全に大佐の支配するテリトリーだ。この人には全てを話さなくてはいけない……いや、隠し通せないと思った。
ポケットからおずおずと青い球を取り出し、手を開いて見せた。すると、見る見る大佐の瞳が大きくなり、澄ました顔が強張っていく。隙きのない堅固なオーラが剥がれていくようだった。
「それはっ!? それを、どこで……?」
「……チェリーの木の中に。僕が怪我をして大佐に会った時、見つけたんです」
大佐は瞳を閉じて、何かを思い出しているかのように、瞼をピクピクさせていた。いっ時そうしてから、ゆっくり僕を見つめ声にする。
「それは……アイの球、だろう?」
「っどうして、知って!?」
怖いくらい何でもお見通しだと、消沈しかけた、が意外な答えが返ってくる。
「それは……妻が、持っていた物だ」
「え? ……なぜ、チェリーの木に?」
僕はこの球を木の幹から、中から取り出したんだ。大佐のパートナーがどうやって隠したのか?
経緯がすぐには理解できない。首を傾げる僕の前で大佐は大きな深呼吸をする。徐々に顔を歪ませ酷く痛そうに言った。
「20年前、妻はそれを手で抱えたまま、ここから、飛び立った――。お腹の子も一緒に……」
――!!
……僕は息を忘れるほど狼狽えてしまった。余りの悲惨さに。
大佐の声が、残酷な怪奇音のように、僕をガチガチに縛りつける。それでいて、柔らかい眼差しで僕を見るのだ。
「妻の名は……アイリ。楽団のピアニストだった。黒髪にグランドピアノが、よく似合っていた」
大佐は昔を懐かしむように、遠い目をして話す。大佐は僕を、アイリさんと重ね合わせて見ている。
「その球は妻の家に受け継がれる、結婚の贈物だそうだ。良い響きがすると、大事にいつも眺めていた。アイの歌が、聴こえるのだろう?」
問いかけに僕はゆっくり頷いた。大佐は確認するように小刻みに何度も頷き返す。
「私には理解できなかった。いにしえの言葉も、妻がピエロのようになってしまった理由も。なぜアイは消されたのか? 本当の幸せにはアイが必要だと。何度も訴えて……妊娠中の不調だとばかり……」
大佐の顔がグシャッと崩れる。苦い記憶が突き抜けたのだろう。
理解されない心は行き場を失くし、自分だけがこの生活に、ここの人々に、受け入れてもらえないと……生きる場所を失くした。そして彼女は、命を捨てたのだ。
なぜか、僕にはわかってしまった。ここで、ずっと、その選択肢も考えにあったからだ。
「私は助けてあげれなかった。この手が……妻と子を支え切れずに……」
大佐は弱々しく自分の手を握り締める。頑丈そうな腕を小さく震わせて。
「っ!?」あぁ、なんて事だ……
苦々しく眉をしかめ血相を変えた、必死の表情な人が……突然視界に現れる。固くした指を身体よりうんと伸ばし、前屈みで悶えながら、僕の横を駆け抜けて行った……
まだ僕とそう変わらない、青年の残像が見えた。20年前、ここで起きた悲劇のビジョンが、僕には見えた気がした。
消えようと、妻子が旅立つ瞬間に、理解も出来ぬまま本脳で……全力に屋上の端まで駆け抜けたのだろう。
ぞくぞくっと背筋が震えた。僕はこんなに惨い体験がこの世界にある事すら……今の今まで知らなかった。
「妻は私の手をすり抜ける直前に、微笑みながら……アイシテル、と――」
微かに震える声は、僕の耳に痛々しさを共鳴させる。大佐も涙は出ずとも、泣いているのだ。僕と同じように、泣いた経験があるのだ。幸せとは正反対の感情がある事も、恐怖が身近にある事も、知っているのだ。
「腕の傷は……自分でつけた、んですね……」
「……ああ。切り落としてしまいたかった。守ってあげれなかっ……っ、わからないんだ。君はっ、理解できたのか?」
大佐も、我慢をずっと吐き出したかったのだと、感じた。過酷な任務に就きながら、アイリさんとお子さんを想い続けて。幸福を操作された国で、本当の幸せを手探りに求めていたんだ。こんな未熟な僕に、己の地位も忘れて懇願してまで、苦痛を耐えてきたのだ。それに比べ……僕はひとりきり、と一晩傷心していただけ。僕はまだ、自ら生きる力を……失ってはいけない。
今、張り裂けそうな積年の痛みに、救いの光を灯したい。伝えたい……届けたい!
「僕達は幸福だと信じて疑わない。恐怖を知らないし、平等に何もかも与えられるから。必然的に争い事は起きない。そうしないと、また滅びてしまう。アイリさんが求めたものは……」
僕は手の中でぎゅっと球を握りしめた。 アイのメロディが教えてくれたのは、アイが本当の幸せというものなら……僕の幸せは、リサだった。
「僕は……決められたパートナー以外の子に、好意を寄せてしまったんです」
瞼の裏側に、リサの笑顔が映し出された。
「好きな人と肩を寄せ合って、同じ時間を心から楽しんで、気持ちが通じ合う。それだけで幸せで満たされるのに。もっと、って……強く求めてしまう。同調がなければ……なぜ、と責めたくなる。そんな感情は不安定で、自分でもコントロールできません」
大佐は瞳を閉じて、また瞼をピクっとさせた。
「過剰な反応は、何を誘発するか計り知れない。無いほうが、都合が良い」
抑制できないものが暴走したら、破壊を招く……同じ過ちを繰り返してしまう。そうして、無かった事にされたのだ。
「でもっ、適正か不合理の問題じゃなく! 感じたままの真っ直ぐな気持ちを、尊重し合えたら! きっと、もっと、深く強く融合できる。新しい可能性も生み出せる。それを願っても、おかしくはないでしょう?」
僕の問いかけに、大佐は黙ったまま。肯定も否定もしない。
「間違いだとしても、正しくなくても、抑えきれない想いなら……痛みを伴っても、掴んで離したくないと、心から願うなら……それをアイと呼ぶのなら……消えてなどいない」
「……なぜ?」
「だって、それは……まるで、アイリさんと大佐の……貴方たちの想い、そのものだから」
「!!」
「僕には届きました。その気持ちは、時を越えても、心が繋がり合えるって」
簡単に消えたりしないのだ。アイの球がこの屋上から宙を漂ってチェリーの木に留まり、僕に届いた。大切な事は、廻って結ばれていくのだ。
「……そうか、……そう。僕もアイを、妻に捧げていたか」
大佐は何度も頷いて、唇をぎゅっとつむんでいた。自分のアイを確かめるように……
ここに、アイリさんが生きていてくれたら、どんなに良かっただろう。ふたりの子供が笑っていてくれたら、どんなに幸せだったことだろう。
アイを伝え合えていたら、本当の幸せを知れたのに……。
僕は静かに大佐に歩み寄る。潤ませた瞳で僕を見つめる大佐の手を取り、そっと……手の中に球を置いた。「!?」キラリと一瞬光輝いた、気がした。
アイの球も、その手に戻りたかった、のかもしれない。きっと、大佐に、会いたかったのだ。
「もう、ずっと離さずにいられますね」
やっと大佐は、奥さんを握り締める事ができる。強く、力強く……
「……ありがとう、ありがとう」
きっと、届いたと思う。アイリさんのずうっと前の、遥か昔の先祖が、消し去られようと伝えたかった事。彼方からたどり着いた軌跡に、僕は胸を温められて、再び微笑むことが出来たんだ。
「僕はこれから、何処へ行けばいい、ですか?」
軍に収監されるのか、病院で隔離されるのか、覚悟はしている。でも大佐は「君の家へ送るよ」けろりとして言う。
「でも……僕は元に戻れる気がしません。カプセルに入るのが妥当では?」
自分の未来をどうするべきか、この後始末の答えは、まだ見つからない。
「……君は、そのままでいいんだ。もし、君が……ここに留まって明日を生きてくれたら、私は嬉しい。私を救ってくれた君を、私が守れたと、より救われる」
大佐の優しい微笑みが戻った。僕はまだ未来を、捨てたりなどしなくていい、と?
「妻子を失って自身を傷つけ……同じく飛び立とうとした時……私を救ってくれたのは、今の大統領だ。どうか、ひとりで、終わりを決めつけないで欲しい。例え、明日が見えなくなっても、歩むべき道はひとつではないんだ――さあ、行こう。」
昇り始めた朝日を背に、胸を張った大佐が僕を導いてくれる。夜明けの空は、透きとおった青色だ。重苦しかった胸の仕えが、するすると流されていく。
眩しい……何で僕はまた、泣きたくなっているのだろう。人は喜び溢れるときも、涙が出るのだと、たった今、知った。
まばゆい程の光に向かって、そろりと……僕は新しい一歩を踏み出した――。
静まり返った試験会場。受験者は僕も含めて10人程度。こんなピリピリとした空間は今まで味わったことがない。
軍のキャリア選考試験。カレッジの専科は受験しなかった。僕がこのまま……生きていくなら、大佐と同じ道をゆくべきだろう。あの時、屋上で思った。僕は不思議と平常心を保てている。
ラピスには昔、願いを叶える奇跡の石、という言い伝えがあったそうだ。僕はもう球を持っていないけれど、アイの奇跡を教えてもらったから……本当の幸せについても、わかった気がする。
無理に自分の気持ちを押し付ける事は、自分勝手にすぎない。大切な人が笑っていてくれる事こそ、一番の幸せなのだ。
「……あっ」
張り詰めた空気の中に僕は小さな声をこぼした。その赤髪はよく目立つ。ソラがこの会場に入って来た。ソラも僕に気付き、目線を合わせたままに。そして着席する直前……ニコッと僕を見て微笑んだ。
そうか……ソラも同じ、か。またひとつ、心の繋がりが増えた気がした。
6月。ハイスクールの卒業式は和やかに終演した。クラスの皆と別れの挨拶をして和気あいあいとした場をこっそり抜け出す。最後の一曲を弾きにピアノルームへ来た。
久しぶりに耳にしたピアノの音は僕の心を癒やしてくれたようだ。ひとつひとつ、ここで奏でた音色を僕は覚えている。幸せな時間をたくさん過ごした、一番の思い出の場所だ。
純粋に楽しかった事も、心の底から嬉しかった事も、悩み迷って移ろいだ事も、全部。僕には必要だった。ひとりで干渉に浸っていると、突然声がする。
「やっぱり! ここにいた!」
「リサ!?」
「アイル、パーティーには行かないの?」
「残念だけど、明日には入隊なんだ。準備をしないとね」
「そう……キャビネット直属の任務に就くなんて栄誉な事よ。凄いわ」
僕はキャリアの試験に合格し、国家組織の配下にあたる軍の最高機関に配属された。国家と国民の安全の為に任務にあたる。誰からも称賛される役職だった。
無論、家族もパートナーも僕の進路に反対する人はいなかった。合格通知を受け取った後、僕はエリィのパートナーとしての最後の役割を果たさなければいけなかった。キャリア職は結婚できない決まりだ。
「エリィには新たなパートナーの通知が届くよ。ごめんね。僕が考えを変えたりして、心配かけたね」
「軍のキャリアになるなんて素晴らしい事です。尊敬します」
相変わらずエリィは真面目で遠慮がちだった。何度も通った帰り道は、手を繋がないで歩くとやたらとゆらゆらして落ち着かないものだ。あっという間にエリィの家の前まで来てしまった。パートナーとしての最後の時。向かい合って無口な僕たちは、なかなか視線を上げられずに暫し立ち尽くした。か細い声でエリィが言う。
「……アイル、私は、相応しく無かった、ですか?」
「そんなことないよ! 僕が、足りない事が多すぎたんだ!」
僕は焦った。困った事に予想が的中してしまったから。こんな事態になったのをエリィなら……自分に否を感じるのではないかって。
「そんなことありません! アイルは優秀な人です!」
驚くほど大きな声でエリィは言い返す。僕達は同じ様に瞳を見開いていた。見つめ合ってクスッとお互いに笑い合う。最後に息があった気がして可笑しかった。
「きっと、僕よりも素敵な人に巡り会えるよ」
「どうか、お元気で。幸せに」
エリィはニッコリとして見せる。僕は最後に優しいエリィの頭をポンポンとした。
「いい子だね」
僕も笑顔を残し彼女の幸せを願った。そうして僕はエリィと別れたのだ。
――次は……リサとも別れをしなければ、ならない。瞬きさえもしたくない程に、僕はじっとリサを見つめてから意を決して言った。
「リサ、最後にハグをしよう?」
僕はリサに向かって両手を広げた。きょとんとした後、徐々に目元を緩ませて……僕の好きな三日月の笑顔になる。
「そうね! 激励のハグをしよう!」
キラキラと眩い光をなびかせ、まるで金色の楽譜みたいに――。僕は一番美しい音色を、この目で見たんだ。ゆっくりと流れて、それは僕の胸に届く。僕にたくさんの幸福を与えてくれたのは、リサだったね……幸せだ。
僕の腕はそっとリサを包んで、全身で記憶したんだ。この温もりを……ずっと忘れないように。
長くこうしていたい気持ちを押込めて、ぎゅっとしてから顔を見合わせる。リサの髪を撫でながら僕は伝えた。
「きっと結婚式も最高に素敵だろうね」
「離れても祝福してくれるの?」
「もちろん! いつだって、ずっと、リサの幸せを願ってるよ」
「アイル、ありがとう。好きよ。元気でいてね」
「うん。僕も、好きだよ……」
僕の瞳に映るリサを脳裏に焼き付ける。僕の両手はリサの耳を塞いだ。
そして、真っ直ぐリサに――「 アイシテル 」
きっと、僕の気持ちにピッタリな言葉だと思った。その音を発したら、体の力がすっと抜けて思い切り笑顔になれたんだ。
「なんて?」
「祈りをしたんだよ」
いつまでも、君の笑顔が消えませんように。
さよなら、特別に大切な君。
ありがとう、幸せな日々――。
「諸君、入隊おめでとう。君達の有志を私は誇りに思う」
大統領を目の前に新入隊員は一同整列し、静寂したまま我国のリーダーを見つめる。僕の横にはソラがいる。彼は首席でのエリート入隊だ。入隊するにあたって自分の個人情報は全て削除する規定があった。僕はコンピューターにあったアイの歌も消去した。
でも、僕は一度聴いたメロディは忘れない。瞳を閉じて記憶をたどれば、幸せだった光景と共に音色も美しく甦る。きっと大佐も、既にそのメロディを再現させている事だろう。
大統領はにこやかでいて、勇ましい声で祝辞を述べている。傍らにはショーン大佐だ。僕が大佐に救われたように、大佐が大統領に救われたように、僕も未来の救いになりたい。
僕らの共通点は――藍色の瞳だ。同じ未来を見つめている。
都合よく整えられた生活の中で、漠然と生きていられる方が、幸せだったかもしれない。
でも、大切な人を遠くから守り続ける想いも。心が刻まれるような熱い気持ちも。いつか幸福と呼べるその日まで……
恐怖にも孤独にも負けないチカラを、僕らがきっと生み出せる……希望を持ち続けたい。
美しい青の奇跡を信じて―――未来へ。
生命の進化を遂げた人類は……権力闘争の末、核によって自爆。46億年目の悲劇。愚かな地球人は、青い星の輝きを奪い滅亡した。
そして、僕らは……地球人第二世代。
4月。ハイスクールのピアノルーム。「タン♪」気分のままに指は鍵盤の上を軽快に弾む。いま奏でたい音を心地良いリズムで、ただ自由に。
僕が隣のリサを見て微笑むとリサの目尻が下がって口角が上がった。リサの長い髪がふわふわと揺れ出したらタイミングを計って……僕の両手の間にリサの指が入り込んでくる。
そして、一気に!
「♫♬♫♬♫♬♫〜」音をたくさん生み出す。音符が空中浮遊してるみたい。リサの奏でる音は僕のを優しく包んで長く空間を漂わせてくれる。
手と手を繋ぎ合って駆け回るのって楽しい!
まるでそんな子供の外遊び。僕達のピアノは僕らの記憶そのもの、みたいだ。リサが僕を見ながらニコッと笑うから僕も連られて返した。
子供の頃からずっとリサと共に成長した。覚えていないけど赤ちゃんのリトミックからピアノもスクールも。こうして放課後ふたりで連弾するのが日課だ。
「タラララン♪」鍵盤を跳ね上がって演奏を終える。ふたりの両手は同じポーズで最後の響音が静まるのを待っていた。僕たちは顔を合わせて、ぎゅっとお互いの手も合わせた。
「リサ、手がいつもより冷たいね」
「そお? うーん、ホルモンのバランスが悪い期間だから?」
リサが手首のウォッチを僕に見せた。黄色のライトが光っている。注意喚起の表示だ。僕のは緑色、至って健康。
「ほんとだ。無理したら駄目だよ。女の子は体を大事にしないと」
リサの手を僕は両手で包み揉み込んで温めた。大事に大事に扱って早く冷たさを失くしてあげたいばかりに、真剣に。
「アイル……ありがとう」
「うん。もう少し」
リサは目元を緩ませて頬を持ち上げる。喜び溢れた笑顔で僕を見つめた。
「アイルは本当に優しいね。ずっと……いつも優しい。アイル……好きよ」
リサはそっと僕の手を引き寄せて頬をすり合わせた。瞳を閉じて同じように、大事に僕の手を頬で温めてくれる。
「リサ……僕も、好きだよ」
ふふっと嬉しそうにリサは笑う。僕も同じで自然と笑顔になった。
喜びの表現はきちんと伝えあう――僕らのコミュニケーションだ。幸せの法則。
いかに癒しを施し、与えて貰った事に感謝を届けるか。こうして僕らは幸福に溢れ第二世代として繁栄を成功させた。
恐怖を起こさず、憎しみを覚えず。第一世代の地球人が失敗した過ちを繰り返さない教訓だ。
全ての人が平等に幸せで誰もが尊重し合える世界。幸福論の教えに基づき築かれたこの国は楽園だと皆は唱えていた。
ピアノを終えてリサと校舎を出ると、ちょうど隣のカレッジの方からバイオリンケースを抱えた人物が近づいてきた。
リサは「レオ!」待ちきれずに名前を呼んだ。彼はこちらに向かって手を振って答える。リサは凄く嬉しそうに僕にバイバイをして彼の元へ駆け出していた。僕はニコリとだけ返事をする。また明日の挨拶もリサには必要ない。
僕はリサを見送って中庭のテーブルベンチに座り二人の後ろ姿を眺めてみたんだ。これも放課後の日課。リサを迎えにレオが来たら僕とサヨナラをする。リサと1つ年上のレオはカップルだ。結婚が約束された、公認の。
僕らは遺伝子で国にパートナーを決定される。髪と瞳の色が同じだと最高に相性が良いのだとか。
リサとレオはブロンドヘアのブルーアイ。手を繋いで見つめ合う二人は……遠目に見てもとてもお似合いだ。陽の光が揺らめく髪にあたって金色に輝き弾けてる。
「綺麗だなぁ……」
僕の珍しい藍色の瞳は二人の寄り添う姿をキラキラと映し出していた。この青みがかった黒髪が、その輝きを放つ事は出来ないとわかっているから。なぜ僕達は肌の色は皆同じなのに、髪と瞳の色はそれぞれなのだろう?
どうせなら僕も金髪が良かった。近頃よく、そんな事を思ったりする。二人にすっかり見惚れていたら校舎の方から声がした。
「アイル!」
「エリィ、早かったね」
僕はその子を見つめて返事をした。彼女は僕のパートナー。同じハイスクールの1つ年下の女の子。ブリュネットの髪をなびかせて僕の所へ駆けて来る。小柄でいつも周りを気遣っている優しい子だ。
「待たせてしまいましたか?」
「ううん」
僕達はよくここで勉強をしている、というより彼女の質問に僕が答えている。エリィは努力家でドクターになりたいそうだ。僕はまだ父さんと同じ地質学の博士を目指すか、科学の研究者になるか決めかねている。
6月には卒業するから、もう将来の専科を定めなくてはいけないけれど……僕はちょっとのんびりし過ぎかな?
反省し始めた所で、エリィは明日からテスト終了まで僕とデートできないと話した。僕はすんなりと彼女の話を聞き入れたが、まだエリィのブラウンの瞳はじっと僕を見つめて何か言いたそうだ。少し首を傾けて見つめ返すとエリィはより目を大きくして僕に問いかけた。
「……私達はいつ、結婚しますか?」
あぁ、やっぱり僕はのんびり考え過ぎだ。
女の子はハイスクールを卒業すると、結婚して出産する人のほうが多い。体が適齢期だからだ。カレッジの専科や職業の資格、結婚式や出産指導などいろいろ調整が必要だ。
パートナーの僕が早く将来の道筋を決めないといけないのに考慮が全然足りなかった。僕はポンポンッとエリィの頭を軽く撫でた。彼女はビクッと首をすくめる仕草をする。しっかりしていて、のんびり屋の僕にそれとなく主導権を促してくれる。いい子だ。
「ごめん、ごめん。エリィの都合を優先するから心配しなくていいよ」
僕の答えにエリィは安心したようだった。
結婚をしなければ、妊娠をする行為も禁止されている。ドクターのもとで指導を受け計画的かつ安全に出産する為だ。出産は身体の負荷が大きいから。命を宿す女性を大切にしなければ人類の繁栄はなし得ない。
ゴーン、ゴーン、ゴーン。
幸福の鐘が鳴った。太陽が落ちる1時間前に毎日その音を響かせる。
「さぁ帰ろう。月が欠けてゆくから明日からは気をつけて」
夜は月明りがないと外に出るのは危険だ。といっても緊急でもない限り、朝が来るまで外には出ないのが国民の習慣。
僕はエリィに向かって手を差し出した。彼女は遠慮がちに自分の手をそっと乗せる。ぎこちない仕草も、可愛らしいと思う。けど……僕にはリサと手を握ったり笑ったり癒やし合う方が心地良いな、とぼんやり感じてしまう。
エリィともそんな風になれるかな?
些細な意味のない思考を頭の片隅で巡らせつつ、エリィを家の前まで送り届け僕は自分の家を目指した。いつも通って帰る中央広場から鐘の音が響き渡るんだ。
ちょうど島の中心に始まりの塔が建ち、てっぺんに幸福の鐘がついている。鐘は島を覆うシールドと同じ〈 CAU104鉱原体 〉この世界で一番硬度な物質でできている。
千年以上も前に僕らのご先祖達が奇跡の星を復活させようとシールドで守られたこの島で地球に着いたという。島はもとの色とは程遠い薄暗い紺青の地球海上に浮いている。そして鐘の音は地球に降りた日からずっと鳴り続けているそうだ。
僕は塔を見上げてみた。透明に近いその鐘は夕光を真っ直ぐに通過させている。不思議な鐘だ。島中の何処にでも、誤差なくその音を知らせる。
この鐘の音が響けば僕らの国は今日も安全だし、この物質を発明したご先祖達を誇りに思う。
強いては、僕達の幸福に繋がるとゆう理論だ。確かに今日も平和だった。僕は薄っすら微笑んで家へ急いだ。
次の日。終業の挨拶が済むと後ろの席からリサが通りすがりに僕の肩をポンと叩いて「じゃあね、アイル」笑顔を見せて手を振る。僕はリサが急いでいるのを知っていたので「うん。頑張って」席を立つ前に返事をすると、リサは顔をほころばせて足早に教室を出て行った。リサは今日からカレッジでピアノ指導を受ける。レオが専任講師に依頼してくれたそうだ。
レオはカレッジを卒業したら、楽団の第1バイオリニストになるだろう。国のトップ音楽家で結成される交響楽団。レオはコンクールでいつも優勝している。
リサはレオのパートナーとして自身も楽団のピアニストを目指している。まずはコンクールで入賞、次はカレッジのピアノ専科に入学できなければ夢が叶わない。
さて、リサは1週間レッスンだし、エリィはテストが終わるまでデート出来ないし。僕は家に早く帰って進路について考えよう。帰り支度をして教室を出ようと差し掛かった時「アイル! 待って!」ソラに呼び止められた。彼の席は教室の真ん中一番前。僕がソラの席を通った時は数学の問題を解いていたはず。無口な彼が僕に話しかけるなんて珍しい。
「どうしたの?」
「アイル……チェリーの木に気をつけて」
ソラは僕をじっと見つめて呟いた。じいっと、ソラの黒い瞳が僕を捕らえている。
ドクン。ひとつ大きな鼓動が僕の肩を揺らした。彼の言葉の真実を、一瞬探ってしまったからだ。
ここは島にある学校のうち、国から選抜された子供が通うアルファスクールだ。ソラは同級生でいつも成績トップ。とても優秀すぎてまだパートナーも決まっていないという。珍しいどころではない。希少なジンジャーヘア、赤毛の黒目には未知なる遺伝子型が備わるとも言い伝えられるほど。現にこれまでソラの助言で幸運に恵まれたり危機が訪れたりしたと、良くも悪くも聞いたことがある。
「……うん。わかったよ」
僕が平然を取り戻し答えると、ソラはまた下を向いて手を素早く動かし始めた。
ふぅ。一呼吸して気持ちを落ち着かせる。僕はほんのちょっとだけ不安を残して教室を出たんだ。
ひとりの放課後にのんびり帰り道を歩く。中央広場まで来ると、ふんわりピンク色の花びらが飛んできた。音符が流れるような舞い方みたい。ふわふわ、ゆらゆら。風に乗って次々に舞う花びらは今にも音が聞こえてきそう。
「あれ?」プライマリーの男の子が木を見上げている。僕が段々と近づいても動かないまま。
男の子が見つめるのは……始まりの塔の横に生えている――チェリーの木だ。
僕は思わず立ちすくんでしまった。すぐにソラの言葉が頭をよぎったからだ。チェリーの木に何かある、と思った。でも……男の子が困っていそうで「どうしたの?」僕は躊躇わず近寄って話しかけた。
男の子は僕に気付くと木の上を指差した。高い枝にスカーフが引っかかっている。
「風で飛ばされちゃったの」
プライマリーのスカーフだ。とても懐かしい思い出が蘇った。僕もスカーフが上手に結べなくて、よくリサに直してもらっていた。
ここは、島で一番高い25階建ての総合病棟と研究所や資料館が塔の回りに建ち並んでいて、時折風が強く吹き抜ける。チェリーの花も結婚式のフラワーシャワーみたいに遠くまで飛ばされていくんだ。
「大丈夫。僕が取ってあげるよ」
男の子の頭を撫でてやると、にっこりと顔が明るくなった。木登りはしたことないけど、鞄を地面に置いて胸丈の枝に手をついてよじ登った。
「ごめんねっ」とチェリーの木を労りながら、ふるふると背伸びをして……スカーフをしっかり握りしめた。ホッとした気持ちになると目の前のとても美しい情景に気付く。
「うわぁ」思わず声が漏れて、うっとりとそこに佇んでしまった。チェリーの優しげなピンクの花に僕はすっぽり包まれている。満開のチェリーの中にいるなんて、これ程の感動を味わったことがない!
初めての体験に胸の高鳴りが妙に変調して騒がしい。「!?」幹の破れ目の中にキラッと光が見えた気がした。
「お兄さん?」
「あっ! うん。取れたよ」
僕は枝の上でしゃがみこんで男の子にスカーフを手渡した。「ありがとう!」と元気良く御礼を言ってくれたので、僕はお返しに笑ってバイバイしたんだ。男の子を見送って満足したらさっきの光が気になってしまって……もう一度、背伸びをして眺めて見た。何かが挟まってる?
うんと手を伸ばして、指でコソコソ探ってみる。コ、ロン。おっ、やったぁ!
指で捕まえた物をそっと、外に取り出してみると……丸い綺麗な球体の青く輝く――「わっ」しまった!
と思った時には、もう既に重力に引っ張られていた。ドシン。僕は木から落下して地面に寝そべってしまったんだ。
「痛っ……」
起き上がると左肘がピリッとした。右手はしっかり球を掴んだままだったから、受け身がうまく取れなかったんだ。でも、この綺麗な物体だけは手放したくなかった。本当に綺麗だ。肘の痛みよりも気になってしまう。
「おい、君! 大丈夫かい!?」
「はっ!」
こちらに駆け寄って来る男性を確認すると僕は球をポケットに急いでしまい込んだ。
身体のガッチリした逞しい人だ。父さんと同じ位の歳だろうか。目の前に跪き、両手を伸ばしてきたのでビクッとしてしまった。僕が言葉を発するより前に脈をとって首を撫で、目線をじっくり覗き込まれた。
「あ、あのう、木から落下して肘を……」
「わかっている。……他に異常は無さそうだ」
僕を探る、ブロンドの髪の隙間から青い国章紋つきのイヤーカフが見えた。
「軍人さん、ですか?」
「安心して。君のウォッチがレスキューに発信してる。もうすぐ到着するはずだ」
僕の手首のウォッチは赤く点滅をして、CALL→Rと表示されていた。男性は自分のシャツを脱ぐと手際よく僕の腕を保護して、肩と肘が固定されるよう応急処置をしてくれた。
「ありがとうございます! 親切に服まで……」
Tシャツになったその人の腕が露わになると、より鍛えられた筋肉が見てとれたが……幾つも古い傷のような、不規則な羅列線が皮膚に刻まれていた。大きな怪我でもしたのだろうか?
「君、名前は? 何年生?」
「はいっ。12年生のアイルです。……?」
一瞬、男性が驚いた表情をしたような気がしたが、その時レスキュー車が近くに停まってドクターが駆け下りてきた。運転手の軍隊員は駆け足で男性に近寄ると、びしっと規律正しい姿勢をとった。
「ショーン大佐! 事故ですかっ!?」
「いや、彼の怪我を診ていただけだよ」
軍の大佐だったんだ……凄い人に助けてもらったなぁ。堂々とした振る舞いも手際の良さも、エキスパートな装いだと納得してしまった。
国軍は大統領の傘下、国民の安全と島の保全に従事し、この国で最も重要な役職を担っている。キャリアの入隊試験は最難関とも言われ、任務の為に家族とも何年も会えないのだとか。
軍大佐ともなれば大統領の直近で遣える程だろう。偉大な人を目の前にして僕の心がワクワクするのも無理はない。
大佐が「後は頼んだよ」と離れて行く姿に僕は慌てて「ありがとうございました!」と高揚した声を届ける。なんてことは無い、と手を一振りした仕草も感動するくらい格好良かった。
怪我も大したことはなくて、ドクターは1週間安静にしていれば治ると言っていた。帰宅して僕の姿を見た父さんと母さんには、驚いた顔で困らせてしまったけれど。
経緯を説明すると二人は堅い表情を和らげてくれた。小さくした母さんの肩を父さんは引き寄せて慰める。お互いの耳を何度も擦り合わせて……。そのスキンシップに特別な意味があるのを僕はわかっていたから。両親にかけた負担を反省して、もう一つ。心をとがめたのは……青い球を見つけたのを内緒にした事だ。
僕は眠れなくて、自室のベランダで夜空を見上げる。ポケットから青い球を取り出して、じっくりと見つめた。美しくて何度も眺めては次から次に想像を掻き立てられる。
大きさはちょうど人の眼球と同じ位。キズひとつない。叩いてみた音からして固い石だと思うけれど。青く煌めいて見える、でも所々透明なマーブル状で……地球?
そうだ、昔はこんな明るい青色だった。父さんの本に書いてあった気がする。青い石、ラピスのような地球――。僕の手のひらに小さな地球を乗せているようで……どうしよう、急にわくわくしてきてしまった。僕ら第ニ世代はこの球みたいな、美しい地球を蘇らせたいんだ。球を指で摘んで、夜空の下弦の月に照らしてみた。
満月ともなれば視界の4分の1を覆う。今夜はまだ欠け始めの大きな明るい月。より一層、球が煌めいて綺麗だ。
「ん? 何か……入ってる?」
透明な部分にちょうど月光が入り込むと中に銀色の物体があるような……目を凝らして覗いてみたけども、はっきりとわからない。ふと考えもなしに耳にあててみた。「!」微かな音がしたような?
僕は胸いっぱい息を吸い込んだ。ドキドキして堪らなかった。未知なる発見をしたような気分で嬉しくて。「ふふっ」思わず笑いが溢れてしまう。
陽気な僕の顔に小さな雨粒がポツリ。月に薄い雨雲がかかってきた。午前0時、雨の時間だ。
僕は部屋に戻ってベットに潜り込んだ。片腕が不自由なのは窮屈だけれど興奮が冷めそうにない。球を握り締めたまま今夜は眠ろうと、わくわくを抱え幸福な気持ちのまま朝を待ちわびたんだ。
僕のひとりきりの放課後はとても充実していた。左腕は動かせなかったけど、あの小さな地球の研究に没頭していた。やはり青色はラピス石で、透明色は島のシールドと同じ鉱原体ではないかと考察した。スクールから実験道具を借り、コンピューターで波長から音を推察させる。1週間作業を続けて……僕の怪我の完治と共に音の正体も判明した。
それは、今まで耳にしたことのない……メロディ――。囁くような優しい歌声のメロディで、オーケストラの音でもなく変調が繰り返される旋律。
「音源は……ピアノ80%とビオラ70%に酷似か。うーん、言語の情報が全く無い」
楽器は現物にはないようだけれど言語が不明とは不思議な事だ。コンピューターでも解析できない物があるなんて。球体の中に埋め込まれていたのは、半永久的に作動するスピーカーみたいな物かな?
本当に不思議だ。いつ、誰が……これを作ったのだろう。伝えたいことがあるなら、こんなに固い石で閉じ込めなくてもいいのに。
逆に捉えるならば、封じられた事をこっそり伝えようとした――?
考えれば考えるほど僕の好奇心は膨れ上がり、このメロディは僕の中に浸透していった。そして繰り返し流した音色の一部が、ふと気になった。
「……アイ、って何だろう?」
清々しい朝の教室。左手首のウォッチをタップしてニュースをチェックする。ピッ。ディスプレイ上に立体映像が浮き上がる。軍のニュースに大佐が映っていた気がした。大統領の演説する傍らにやはりショーン大佐の姿があった。軍服を着た大佐はより凛々しくて格好良いとまた尊敬の念が増す。
大統領は既に白髪交じりの年配で目尻にシワの出来る笑顔がいつも国民に安堵を与えてくれる。その上、元軍人の逞しさも備わっていて唯一無二の存在だ。なんとなく……二人は似ているな、と僕は思った。
大きな背伸びをひとつ、教室の窓際で外に向けてする。おまけに深呼吸も。左腕ももう自由だし開放された気分だ。
「Umm... Ai shi te ru 〜 」
空の青色を見るとあのメロディを口ずさんでいた。僕の空間にふわっとリサが入り込んでくる。
「何の曲? アイルの歌?」
「ははっ。僕の歌か」
そうだ。僕の名前と発音が同じようで、このメロディが気に入ったんだ。「即興したの?」リサが楽しそうに聞いてくる。「まあね」僕はちょっぴり誤魔化した。あの小さな地球のことは誰にも教えていない。僕だけの秘密だ。
「腕はもう治ったのよね? また今日からピアノ弾ける?」
リサが僕の左腕をそっと優しく撫でて言った。僕が怪我をした次の日。リサは肩からハーネスをかけた僕を見てとても心配してくれた。
いつもニコニコしているリサが顔を強張らせてしまって。とても僕は焦った。
「うん。もう平気だよ。指慣らしから始めてみるよ」
僕の返事を聞くとリサがニコッとして、僕に手のひらを向けた。僕は久しぶりにそれに答える。ぎゅっとリサの手に指を絡ませた。そのままリサは擦りさすり僕の手を労ってくれる。大事そうに、それはとてもとても優しく。嬉しいはずなのに……少し首元が熱い。ひとりの放課後を過ごしたせいか、リサとの距離感を忘れかけていたのかな?
二人の放課後を再開させると、リサはとびきり上手くなっていて凄くびっくりしたんだ。僕の休んでいたピアノの音色は置いてけぼりになっていた。リサは明日コンクールを迎える。
「リサ、緊張してる?」
隣に座るリサの顔を覗き込んだ。
「少し……ね。今までで一番頑張って練習したけど、入賞できなかったら……最後のコンクールになるんだって……」
リサがどんな気持ちなのか、僕にもじんわり伝わってきた。これまでの努力も、頑張ったから疲れてる事も、未来をたくさん考えてた事も。僕はわかってるから。
「大丈夫。僕はリサのピアノが一番好きだよ!」
咄嗟にリサの手を握り締めて、僕は訴えかけるように声にしていた。僕も今までで一番、声を大きくして励ましていたんだ。少し驚いたようにリサは僕の顔を見上げる。
「っ!」思わず息をのんだ。僕の好きなリサの可愛い笑顔が……今までで一番近くにあったから――。
「ありがとう、アイル。私もアイルのピアノが一番好き!」
わ、あ……リサの言葉が僕の心をぐるぐる回ってきゅうっと引き締める。その後にゆるゆると幸せな気持ちがどんどん溢れてく。
何だろう……今、この時が、このまま続いたらいい。そう、思って。僕はふわふわした気分で言ったんだ。
「リサ、少し休んで。僕がリラックスできる曲を弾くから」
そして「ポロン♪ティン♬」ゆっくりなテンポで優しい音をはじく。リサの為に安らげるリズムを。僕が選んだのは、あの秘密の曲だ。アレンジしてピアノ曲にしてみた。8小節を弾いて……「!」リサがコツンと僕の肩に頭を預ける。僕は撫でてあげる変わりに、自分の頭を傾けてリサのにコツンと合わせたんだ。
「ふふっ」「ははっ」
僕達の密かな笑い声も音色に溶け込む。良かった。僕はリサの心を癒やしてあげれた。満足してハミングも飛び出す。
「Umm〜アイ shi te ル〜ko no−se ka i de hi to ri ki− リサ〜 」
「ふふっ。アイルの歌じゃなくて、アイルと私の歌なの?」
「ははっ。ほんとだ」
どこの言語かもわからない。ただ心がきゅっとなったり温かくなったりする、体中が満たされるメロディ。幸せいっぱいで……なんだか熱くなってきた。リサが触れている肩が特に熱い。鼓動までも熱せられそうだ。
なのに、僕の体は軽やかで心は跳ね上がってるかのよう。まるで音になったみたいに。僕はリサと1つの音符になって奏でた音色と空間を浮いてる気分だ。いつも憧れてたリサとレオの、金色の髪の輝きを僕もまとえたかのように……キラキラと僕は漂っていた。
第3回ピアノコンクール。スポットライトを浴びるリサは、観客席に向けて飛びきりの笑顔を見せた。僕は真っ直ぐにありったけの拍手を送る。
素敵なドレスに綺麗にとかした髪。何よりも完璧な演奏が誇らしい姿を現せたのだ。リサの発表は全て鑑賞しているが、今回は実力以上に発揮したと思う。
けれど――リサの名がコールされる事は無かった。ステージ上でリサはひと呼吸だけ笑顔を崩した。僕がその顔を見逃すはずもなくて。閉会後、真っ先に会いに行った。
「頑張ったね。素敵だったよ」
「ありがとう。残念だけど、満足してる」
笑顔を絶やさないリサだけど、何だか僕にはとても可哀想に思えて。いつもより優しくリサの両手を包んで大事に労ってあげた。
「アイル……どうして、そんな顔?」
僕は笑いかける事も出来なくて、気難しく考え込んでいた。
「仕方ないわ。選ばれた人が素晴らしいもの」
いつもなら、僕もそんな風に思えた。リサは入賞できる、ではなく……させて欲しいと懇願していたんだ。僕の方が残念な気持ちを引きずっていた。
「あっ、レオだわ」
リサの視線の先に談笑するレオの姿があった。パッと僕はリサの両手を離す。
「……じゃあ、またスクールで」
「アイル、今日はありがとう」
僕は無理矢理に頬を持ち上げた。リサは微笑みレオの元へ駆け出して行く。いつもの事だ。なのに、なぜか……息が苦しい気がした。
僕はリサをずっと目で追っていた。いや……目が離せなかった。
レオはリサを両腕ですっぽり包んで何かを語りかけている。凄く嬉しそうなリサの表情……僕の好きな、三日月みたいな目をして笑うリサの顔。
僕は遠巻きに二人を眺めて、細い目でじっと見つめていたんだ。周りにはたくさんの人がいるのに、二人のいる場所だけが輝いて見える。
レオだからどんなリサも一瞬で笑顔にする事が出来る。リサの未来も不安にはさせない。
僕には……無理なんだ。
僕もJrまではコンクールで何回か入賞した。でもそれ自体に興味はなくて、ただリサとピアノをするのが好きだった。僕も努力して成果を上げて、レオのように実績や才能があったなら。
一声で……一触れするだけで……リサを励ます事が出来たのだろうか。
正当な光景を目の当たりにして、なぜか僕の心は落胆していた。昨日まではあんなに幸福感でいっぱいで……リサと二人でいる時は、僕もキラキラしていたのに。やっぱり僕には輝きが放てない……僕の立ちすくむ場所はただ薄暗かった。
コンクールが終わって僕らは卒業試験が近づいてきた。エリィの試験が終了したので2週間振りのデートをするのだが……でもまた暫く会えないだろう。帰り道、僕はエリィに報告した。
「卒業試験をパスしたら、カレッジの試験は地学科を受けようと思うんだ」
「お父さんと同じ仕事をしたいんですね」
あの球を見つけてから僕は石に興味が沸いて。もっと地球について知りたくなったんだ。エリィの未来の為にも決められて良かったと思う。
「これで僕たちも、結婚に近づいたかな?」
僕は安心した所だけれど、エリィは繋いだ手をモゾモゾさせ始めた。
「どうしたの?」
「今日は、少し暑いですね……」
頬を赤らめて手でパタパタと顔をあおいでいる。僕はすぐに手を離して、一歩、エリィと距離を空けた。
「……植物の育ちが悪いから、陽射しを強くするってニュースで見たよ」
僕は恥ずかしがりのエリィに気遣いが必要だった。なかなか進展しないコミュニケーションに、少し気を揉んだ。エリィは僕のパートナーなのにスキンシップはリサの方が多い。それに……僕が癒やされている。リサとレオが親密になっているのに、僕達はまだろくに手も繋げない。これで大丈夫だろうか?
エリィと距離を感じる度、リサだったら……と知らず識らずに僕は比べてしまっていた。近頃僕は些細な事を気にする様になっていたんだ。
卒業試験が終わり、僕もリサも無事に終業証明の成績表を手にした。ソラはスクールの最高優秀生として表彰された。僕達は次にカレッジの専攻の為、どの試験を受けるかと話題は一色になって。それぞれが未来に新しく道を切り開こうと……別々の時間を過ごしていくのは普通の課程だとわかっていたのに。
僕は地学科に、リサは教育科で。
……違う、このすっきりしない気持ちは――。
「やぁ、アイル」
「レオ!?」
僕が中庭のベンチに座って、ぼんやりと考え事をしていると、突然レオがそばにいて。身体が跳ね上がるほど驚いてしまった。近づいて来たのにも気付かなかった。
「リサは忘れ物を取りに行ってるから、もうすぐ来ると思うよ」
「そう」
背筋がピンとして姿勢良く、落ち着いた声でレオは答えた。彼は座らないで校舎を眺めるので僕はそっと立ち上がる。
いつも僕はリサとレオの並んだ姿を眺めていたが、こうして僕が隣に立つのは、何だか気が引けた。綺麗な髪……リサと同じだ。
「リサと試験勉強してくれてたよね。帰りも送ってくれて、ありがとうアイル」
「……どういたしまして」
何でリサの事なのにレオが御礼をするのかと思った。まるで、自分の事のように。
「そうだ、アイルの歌があるんだって? 今度僕も聴いてみたいな」
ドグンッ!?
僕は心臓を大きく鳴らした。それは、秘密の曲のこと、だよね?
「っただ、即興で浮かんでくるだけだよ」
「そう? リサがいつも、アイルとの連弾は楽しいって言ってるよ」
レオはリサを思い出したのか声が弾んでいる。僕が暑くもないのに汗ばんで自分自身に焦っているのに、レオは爽やかな程に余裕だった。
「うーん、リサ来ないね。僕また戻らないといけないんだ」
「……来たら伝えておくよ」
「ありがとう。じゃあ」
僕に手を振る姿も颯爽としていた。僕がレオのように振る舞うなんてできないのにさ……自分の浅はかさを思い知った。
僕がリサだけに、リサの為に、証してしまった秘密のメロディは……僕だけが、二人だけの、と満足して舞い上がっていたんだ。
リサがレオに何でも話している、二人はパートナーなんだから当たり前だ。リサと過ごした幸せな時間が急に薄ぼけてしまったような気がした。
「レオのコンクール、一緒に見に行こう!」
リサから誘われていつもだったら直ぐに答えていた所だけれど……返事が重かった。レオのバイオリンは僕も好きだ。その響音に幾度となく感動している。何年もリサと一緒に鑑賞してきたんだ。断る理由が見当たらない。僕はリサと観客席に座った。
レオは、なんて凄いんだろう……。ステージに立つ気品溢れる姿勢。まるで旋律を支配しているかのような視線に、繊細な音を操る指使い。漆黒のタキシードにライトで照らされ煌めく金色の髪。
レオが放つ音色はキラキラした輝きに乗って、客席の僕らの耳に届き、弾ける。滑らかな奏でなのに、高音が体を突き抜けるよう。
全てが美しい……全部が、麗しい。
間違いない。レオはいずれ楽団のトップバイオリニストになってマスターになる。誰もが認める最高の音楽家だった。
この日、一番大きい拍手にホールが湧いたとき……隣のリサはとろけそうな表情でステージを見つめていた。そこに、僕の知ってるリサとは違う、大人の女性なリサがいた。
こんなにたくさんの人々を魅了するレオは、ずっと、リサのものだ……
もう少女ではない、うっとりする程に綺麗なリサは……レオのもの。
また、僕は、呼吸が乱れそうだった。ゆらりゆらり、頭の中が揺れ動かされる。僕は早く帰った方が良さそうだ。
「じゃあ、私はレオに御祝いを言ってくる」
「うん。僕は先に帰っているよ」
閉会後ホールを出た所でリサが僕に背を向ける。僕はもうその後を追わないよう、同じく背を向けた。この前もリサのコンクール後に、ここで暗い気持ちを引きずったから。
今回もレオの優勝だった。リサは……どんな顔で祝福するだろうか?
何歩か進んで……やっぱり――振り返ってしまった。僕の遠い視線に、ハグして喜び合うふたりの姿が映る。ステージでは圧巻の演奏を披露して、堂々とした佇まいだったレオもリサを前にすれば、あどけない少年のように喜ぶのだ。
そばでいつも明るく振る舞うリサの存在が、そうさせてくれる事を、僕はわかっていた。だから、僕も――チクン。
胸が痛みを発した。その光景は、初めて見るものだった……リサとレオがお互いの耳を擦り合わせる。それはそれは、とても幸せそうに。
二人が融和のスキンシップをするのを、僕の瞳はとらえていた。
僕らの耳には生まれた時にチップが埋め込まれる。あらゆる個人情報を一生管理する為。
パートナー同士で耳を擦り合わせる行為は、最も至福の癒し効果があるという。パートナー以外と融和を行うと耳を痛めるのだとか。
リサとレオはうっとりと、お互いの中身までも……ひとつに、溶け合っているようだった。また何処からともなく、二人に降りそそぐいつものキラキラが――!?
なぜ? なぜ僕が、僕を、見ている!?
僕のビジョンは、その綺麗な一画のレオを――自分に置き代えていた。
僕がリサと、融和する――。幸せ溢れる、自分が写し出されていた。
なぜそんな夢のような幻想を見て――はっ!?
そうか、僕はレオになりたいんだ。リサと離れるのが残念なんじゃない!
レオになってリサとずっと共にいたい……いや、リサのパートナーに……僕がなりたい――それが僕の願望なんだ!
これは、こんなの……まずい事じゃないのか?
僕の焦りから瞳をどんどん大きく見開く。今、確信した事を早く取り消さないと!
決められたパートナー意外を求めるなんて、いけない事だろう!?
僕は、どうかしている……おかしい国民だと認定されてしまう。この気持ちを掻き消すように、僕はまた、逃げ出さなければならなかった。
――僕がおかしいのだろうか?
それとも、僕が知らなかっただけだろうか?
誰もが国に決められたパートナーと生涯を全うする。遺伝子レベルの適合結果なんだ。間違うはずはない。
もしかして、自分のパートナーと、無理に結婚した人も……いるのかな?
他の誰かに想いを寄せながら誤魔化して……そんなの、幸せだと笑える訳がない。この国は幸福に溢れた楽園なのに……。
数日、自問自答を繰り返していた。僕の迷いは誰にも言わずに心の中に秘めて。いつも通り振る舞おうと細心の気配りをしていた。けれど、本当の自分が何処にあるのか……わからない。
それは、エリィと居ても続いていた。パートナーらしく差し出した僕の手が一番ぎこちなかった。どんなふうにエリィの手を繋いでいたっけ?
「アイルの試験はいつですか?」
「ん!? あー、これから申し込むから……」
正直、蔑ろにしていたから今更焦っている。
「アイルはもう自由登校ですから、私に無理に合わせなくても大丈夫ですよ。自分の事を優先してくださいね」
「……うん」
エリィのそうゆう所、ちゃんと、僕は好きだ。
これからはエリィだけを……僕のパートナーとして大切にしていける。そう、思えた。けれど……
すれ違ったお腹の大きな妊婦さんを見たら――急に足がすくんでしまったんだ。
もし僕がこのままだったら……誤魔化したままエリィと結婚して僕たちの子供を……そんなの、できないよ――誰も、幸せになれない。
僕は手の力をゆるゆると無くしてしまって。今度は僕が、手を繋げなくなってしまった。
僕は試験の手続きをしてピアノルームへ。リサは先に行って待っていると言っていた。長年当たり前にしてきた二人の連弾も後少しだと思うと……特別に気持ちが高ぶる。
僕は最後まで、いつもの自分でいられるだろうか……余計に胸がそわそわしてしまう。
息を大きく吐いて胸を張りドアを開けると……リサはピアノに伏せて寝ているようだった。僕が近づいても起きようとしない。だいぶ待たせてしまったのだろう。
「……リ、」声をかけようとして言葉を飲み込んだ。余りにも可愛らしい寝顔に起こすのをためらった。スクールを卒業したら毎日会う事もできないし、こんな風に近くで触れることもできないんだろう。眺めるだけでは足らずに、そっと金色の艶々な髪をすく。顔を覆う毛束を肩に流してあげた。スヤスヤと寝息に合わせて肩が動き、楽しい夢でも見ているのか、にこやかに頬を上げる。
何だかとても久しぶりに、穏やかな気持ちで幸せだと思った。けれど――チクン。また、胸が痛んだ。
僕は思い出していた。あの日の光景を。
リサの寝顔は、レオと融和している時と……僕がレオになりたいと思った時と……同じだったから――。
そのとろけるような至福の表情をリサにさせるのは……一人だけだ。夢の中で触れているのは、レオ……だね?
今、こうして、リサに本当に触れているのは……僕なのに!
すぅーっと、急にだ。頭の中は空っぽになって、リサの顔に引き寄せられた。
「……ん」リサのこぼれた声に、はっと我に返る。「っ!!」すぐさま近づけた体を戻して、勢いで後退りをする。よろめいて、フラフラと……その間に僕は何をしようとしていたのか自覚して……タッタタッガタガタッ、ドシン。床に尻もちをついて、呆然と脱力した。
僕は、何を……なんてことを――!?
口元を手で伏せて少しの声も出ないよう塞いだ。唇も指先も困惑の余り小刻みに震えていた。
後少しで……リサの頬に触れるところだった。口づけを、してしまう寸前だった。それは、結婚したパートナーとだけに許された行為なのに。違反を犯してしまう、ところだった。
ただ、ただ、自分の行動に驚いて。息が……呼吸が……「ハァ、ハァ、ハアッ」
「……アイル?」
「――はっ!?」
リサが目を覚まし虚ろな目で僕を探す。僕は、僕の、自分勝手な行為に……リサも巻き込んでしまうところだった!
レオじゃない僕に、口づけをされていたら……リサがそれを知ったら……どれほど落胆することか!
慌てて立ち上がり、ドアにぶつかりながら外へ飛び出した。ひたすらに階段を走り抜ける。
何を考えているんだ!?
知られてはいけない! 絶対にっ――。
僕は閉じこもった。誰にも、会いたくなかった。試験勉強に集中する、理由をこじつけて。なるべく一人で居たかった。僕は、ピエロになってしまうのではないかと――ひとしきり不安だったからだ。
ピエロとは……第2世代唯一の違反者。虚言を唱え、始まりの塔を破壊しようとして国民を恐怖に陥れた。
彼の顛末はこうだ。若き優秀な工学者は突如として精神病を患い、公衆の面前で「我々は支配されている! 幸福などまやかしだ!」と叫び塔を凶器で傷つけた。即刻、軍によって収監され国民の平和と安全は保たれた。本名は伏せられ、通称ピエロと歴史に刻まれた。彼の心の病への哀れみとして、開発された医療カプセルでピエロは生涯を遂げる。肉体が死するまで苦痛を取り除き、眠った状態を維持してくれる。
今では皆がそうして静かに一生を閉じる。恐怖もなく、安らかに。だから、死さえ怖くはない。一生、幸福なままいられると、誰もが安心している。
僕のウォッチは黄色の点滅がおさまらない。赤色になると、いつレスキューに通報されるか……そうしたら僕は病気と判断されてカプセルに入れられるのではないかと……考えが巡るのが止まらなかった。だから勉強に夢中になって、知識で頭を詰め込んで他の事は考えないようにした。疲れたら少し休んで、青い球を握りしめ……そうしてウォッチが緑色になるのを、待ち続けた――。
[ 会って話がしたいな ]
あの日、僕がピアノルームを逃げ出してから僕達は1週間も会っていない。
リサに……会いたい。思い出や記憶のリサじゃなく、この瞳で笑顔を見つめたい。でも、会いたくない……。
僕が「いいよ」の返信をした時、リサはもう僕の家の前にいると答えた。迷いの心はリサの姿を見た途端に、溶きほぐされたのだけれど――
「私ね、ハイスクールを卒業したら、結婚式をするの」
「――!?」
刹那の重低音が突き抜ける。卒業生が夏休みに結婚するのは主流だ。8月は結婚式が毎日のようにどこかで行われている。最も賑やかで幸福に満ちた季節だ。式を挙げて公式な夫婦になれば……子供を授かるのが一般的だ。
リサの全てに触れる権利は……レオだけのもの。頬に口づけ、では済まない。吐息が交ざりあう口づけに……お互いの体液を注いで1つに繋がる、繁殖の行為だ。
頭の奥の方で、鈍い音がひとつした。つかつかとリサに歩み寄って両手を強く掴んだ。
「アイル!?」
「リサはそれでいいの!? ちゃんと考えた? 本当にレオが好きなの!?」
「何を言ってるの? そんなの当たり前じゃない? 国が決めた事なのよ?」
リサ……それは確率や可能性の、合理的な決定事項かもしれないんだ。どうしても拭い切れない。当たり前だと思っていた事が、本当は操作されたものじゃないかと。
だって、どうしても、僕は――君をあきらめ切れない。
おかしいとわかっていても、元に戻れないんだ!
「リサ……僕じゃ、僕じゃ駄目なの?」
そんな事、言葉にできるわけないと思っていたのに……唇を噛み締めていても、胸のうちは、本当の気持ちは、閉じ込めようがなかった。
「僕は何でもリサの事を知ってるし、ずっと一緒に……たくさん過ごして来た、だろう?」
僕は震える声で吐き出した。幾年も繋ぎ合わせてきた手が、リサを掴まえて離したくないと、頭の中でわめいている。
誰にも触れさせたくない! 僕を選んで!
止めどない本心が響いている。リサの透き通った青い瞳が、見る見る大きく開く。
「アイル……泣いて、るの? ……どこか痛いの?」
え――?
自分の頬を伝う、瞳からこぼれた雫を指の腹ですくい撫でて……湿ったその感触に、驚愕が体中を走った。
……涙? ……泣く?
そんな事はあるわけないと。
「どうしたの!? 泣くなんて、言葉を話せないベビーだけよ!?」
そうだ。成長したら泣くことなんて滅多にない。余程痛い思いをした時にしか、涙は出ないのが体質なんだ。
「アイル、病気なの!?」
今度はリサが僕の腕を掴んで顔を覗き込む。眉をひそめて僕をじっと見つめている。
どこも痛くない。痛くないんだ。ただ、僕は……こうして、リサと近くで……触れ合っていたい、だけなのに。そんなに困った顔で、僕を見ないで――。
じれったくて、もどかしくて……我慢すればするほど、目から溢れてしまう。僕がどんなにリサを必要としても……レオがいるから。決められた事だから。どうにもならないと、わかってるから。僕はおかしくない……病気じゃない……。
「ねぇ、アイル!?」
力無い僕をリサは揺さぶる。一層、険しくなるリサの表情に「っ違う! 違うんだ……」僕は精一杯、首を振って否定する。
ゴーン、ゴーン、ゴーン。
幸福の鐘が鳴り響いた。僕らはその音に否が応でも反応する。リサの手をそっとほどいて、顔を背けた。
「リサ、送ってあげれなくてごめんっ。気をつけて帰って……」
僕は恥ずかし過ぎて、とてもリサに顔を見せられなかった。「アイル!」背中にリサの声を受けながら家に飛び込んだ。ぼやける視界の中を、よれよれ手繰りで自室に駆け上がる。バタン。部屋のドアを勢いよく閉めて、ズルズルとしゃがみ込んだ。
僕はどうしてしまったんだ!?
涙が、止まらない。痛くないんだ。痛くない……でも、僕は愚かで仕方ない。
好き勝手に、違反をしてまで、涙まで流して――リサを困らせた。
どうしてこうも、思い通りにならないんだ!
僕はレオよりも、完璧にしなきゃいけないのに!
リサに相応しく在るべきなのに!
全然、ちっとも、格好良くなんて、できないじゃないか。
悔しくて胸が締め付けられる。髪をグシャグシャ掻き乱し、グチャグチャの顔を覆う。はっ――!!
ウォッチが……赤色に点っている!
「はっ、はっ、はっ、はっ!?」
一気に頭が冷め、僕は慌てて腕からもぎとるようにして「うわぁっ…」投げつけた。ウォッチは机の角にぶつかって、ガチャンと音を立て色を消した。キリキリと肌を剃られるような空気が僕をまとう。
僕は怖かった。初めて、恐怖を感じた。恐ろしい、自分自身に――。
今宵の満月は……特別、眩しかった。泣き腫らした瞳が焦点を失って、力なく夜空を見つめているだけだった。島で一番高い病棟の屋上。雨でしっとり濡れた床面に座り続けて。服もずっしりと重かった。
カチャ。屋上のドアが開く音に僕はゆっくり振り返る。
「……ここで、朝を迎えるつもりかな?」
とても久しぶりに人の声を聞いた、そんな感覚がした。優しく語りかけるその人は……軍服を着たショーン大佐だった。
予想通り……僕はゆらり立ち上がって、気怠い体をよろよろと正す。ここに来た時から覚悟を決めてた。大佐は任務中だ。僕がピエロと同類なら、同じ末路だ。カプセルで眠らされ、もう出てこれない……その前に、まだ僕でいられる間に!
確かめたい!
この乱暴な気迫なまま大きく息を吸って、我慢を吐き出す!
「――っ!?」大佐が手のひらをこちらに向けて目で訴えている。待て、と。
僕が一旦休止したのを確認して、ポケットから小さなアンテナのような物体を地面に置いた。クルクルそれが回り始めると「うっ」キーンと一瞬耳鳴りがした。受信を妨害するような機器だろうと僕は悟った。
この場は、完全にふたりきり。誰も、見えない支配者も、入って来れない。そういう事、だろう……
「君はもう4時間もここにいる。ウォッチは……壊したのか?」
何もかも、全て知られている。あの後、家に来たレスキューにぶつけて壊れたと、平然を装って修理依頼をした。試験勉強でフラフラしていたと、隊員にも家族にも事実を隠した。
それから膨れ上がる恐怖に、行き場を求めてここまで来た。月明かりだけを頼りに、光を浴びたくて。病棟の外階段を使って……
誰にも知らせなかったのに。
誰とも会わなかったのに。
また沸々と僕の中で、何かが込み上げてくる。
拳を強く握り締め、それは放出された。
「僕達は一体、何者ですか!? 月から規則的な点が放たれています。何が真実で、どれが作り物ですか!?」
今までこんなに声を張り上げたことがない。これが怒り、というものだろうか?
自分の中にこんな暴動的な気持ちがある事が、ひどく怖かった。大佐はそんな僕の乱れた叫びを受け止めるように、じっと表情を変えず見つめていた。
「そう思う……きっかけは何だった?」
鋭い眼光に僕は気勢を失い始めた。数々の経験を熟してきたであろう、博識な国軍の英雄に尻込みする。
間違えた。この空間は、完全に大佐の支配するテリトリーだ。この人には全てを話さなくてはいけない……いや、隠し通せないと思った。
ポケットからおずおずと青い球を取り出し、手を開いて見せた。すると、見る見る大佐の瞳が大きくなり、澄ました顔が強張っていく。隙きのない堅固なオーラが剥がれていくようだった。
「それはっ!? それを、どこで……?」
「……チェリーの木の中に。僕が怪我をして大佐に会った時、見つけたんです」
大佐は瞳を閉じて、何かを思い出しているかのように、瞼をピクピクさせていた。いっ時そうしてから、ゆっくり僕を見つめ声にする。
「それは……アイの球、だろう?」
「っどうして、知って!?」
怖いくらい何でもお見通しだと、消沈しかけた、が意外な答えが返ってくる。
「それは……妻が、持っていた物だ」
「え? ……なぜ、チェリーの木に?」
僕はこの球を木の幹から、中から取り出したんだ。大佐のパートナーがどうやって隠したのか?
経緯がすぐには理解できない。首を傾げる僕の前で大佐は大きな深呼吸をする。徐々に顔を歪ませ酷く痛そうに言った。
「20年前、妻はそれを手で抱えたまま、ここから、飛び立った――。お腹の子も一緒に……」
――!!
……僕は息を忘れるほど狼狽えてしまった。余りの悲惨さに。
大佐の声が、残酷な怪奇音のように、僕をガチガチに縛りつける。それでいて、柔らかい眼差しで僕を見るのだ。
「妻の名は……アイリ。楽団のピアニストだった。黒髪にグランドピアノが、よく似合っていた」
大佐は昔を懐かしむように、遠い目をして話す。大佐は僕を、アイリさんと重ね合わせて見ている。
「その球は妻の家に受け継がれる、結婚の贈物だそうだ。良い響きがすると、大事にいつも眺めていた。アイの歌が、聴こえるのだろう?」
問いかけに僕はゆっくり頷いた。大佐は確認するように小刻みに何度も頷き返す。
「私には理解できなかった。いにしえの言葉も、妻がピエロのようになってしまった理由も。なぜアイは消されたのか? 本当の幸せにはアイが必要だと。何度も訴えて……妊娠中の不調だとばかり……」
大佐の顔がグシャッと崩れる。苦い記憶が突き抜けたのだろう。
理解されない心は行き場を失くし、自分だけがこの生活に、ここの人々に、受け入れてもらえないと……生きる場所を失くした。そして彼女は、命を捨てたのだ。
なぜか、僕にはわかってしまった。ここで、ずっと、その選択肢も考えにあったからだ。
「私は助けてあげれなかった。この手が……妻と子を支え切れずに……」
大佐は弱々しく自分の手を握り締める。頑丈そうな腕を小さく震わせて。
「っ!?」あぁ、なんて事だ……
苦々しく眉をしかめ血相を変えた、必死の表情な人が……突然視界に現れる。固くした指を身体よりうんと伸ばし、前屈みで悶えながら、僕の横を駆け抜けて行った……
まだ僕とそう変わらない、青年の残像が見えた。20年前、ここで起きた悲劇のビジョンが、僕には見えた気がした。
消えようと、妻子が旅立つ瞬間に、理解も出来ぬまま本脳で……全力に屋上の端まで駆け抜けたのだろう。
ぞくぞくっと背筋が震えた。僕はこんなに惨い体験がこの世界にある事すら……今の今まで知らなかった。
「妻は私の手をすり抜ける直前に、微笑みながら……アイシテル、と――」
微かに震える声は、僕の耳に痛々しさを共鳴させる。大佐も涙は出ずとも、泣いているのだ。僕と同じように、泣いた経験があるのだ。幸せとは正反対の感情がある事も、恐怖が身近にある事も、知っているのだ。
「腕の傷は……自分でつけた、んですね……」
「……ああ。切り落としてしまいたかった。守ってあげれなかっ……っ、わからないんだ。君はっ、理解できたのか?」
大佐も、我慢をずっと吐き出したかったのだと、感じた。過酷な任務に就きながら、アイリさんとお子さんを想い続けて。幸福を操作された国で、本当の幸せを手探りに求めていたんだ。こんな未熟な僕に、己の地位も忘れて懇願してまで、苦痛を耐えてきたのだ。それに比べ……僕はひとりきり、と一晩傷心していただけ。僕はまだ、自ら生きる力を……失ってはいけない。
今、張り裂けそうな積年の痛みに、救いの光を灯したい。伝えたい……届けたい!
「僕達は幸福だと信じて疑わない。恐怖を知らないし、平等に何もかも与えられるから。必然的に争い事は起きない。そうしないと、また滅びてしまう。アイリさんが求めたものは……」
僕は手の中でぎゅっと球を握りしめた。 アイのメロディが教えてくれたのは、アイが本当の幸せというものなら……僕の幸せは、リサだった。
「僕は……決められたパートナー以外の子に、好意を寄せてしまったんです」
瞼の裏側に、リサの笑顔が映し出された。
「好きな人と肩を寄せ合って、同じ時間を心から楽しんで、気持ちが通じ合う。それだけで幸せで満たされるのに。もっと、って……強く求めてしまう。同調がなければ……なぜ、と責めたくなる。そんな感情は不安定で、自分でもコントロールできません」
大佐は瞳を閉じて、また瞼をピクっとさせた。
「過剰な反応は、何を誘発するか計り知れない。無いほうが、都合が良い」
抑制できないものが暴走したら、破壊を招く……同じ過ちを繰り返してしまう。そうして、無かった事にされたのだ。
「でもっ、適正か不合理の問題じゃなく! 感じたままの真っ直ぐな気持ちを、尊重し合えたら! きっと、もっと、深く強く融合できる。新しい可能性も生み出せる。それを願っても、おかしくはないでしょう?」
僕の問いかけに、大佐は黙ったまま。肯定も否定もしない。
「間違いだとしても、正しくなくても、抑えきれない想いなら……痛みを伴っても、掴んで離したくないと、心から願うなら……それをアイと呼ぶのなら……消えてなどいない」
「……なぜ?」
「だって、それは……まるで、アイリさんと大佐の……貴方たちの想い、そのものだから」
「!!」
「僕には届きました。その気持ちは、時を越えても、心が繋がり合えるって」
簡単に消えたりしないのだ。アイの球がこの屋上から宙を漂ってチェリーの木に留まり、僕に届いた。大切な事は、廻って結ばれていくのだ。
「……そうか、……そう。僕もアイを、妻に捧げていたか」
大佐は何度も頷いて、唇をぎゅっとつむんでいた。自分のアイを確かめるように……
ここに、アイリさんが生きていてくれたら、どんなに良かっただろう。ふたりの子供が笑っていてくれたら、どんなに幸せだったことだろう。
アイを伝え合えていたら、本当の幸せを知れたのに……。
僕は静かに大佐に歩み寄る。潤ませた瞳で僕を見つめる大佐の手を取り、そっと……手の中に球を置いた。「!?」キラリと一瞬光輝いた、気がした。
アイの球も、その手に戻りたかった、のかもしれない。きっと、大佐に、会いたかったのだ。
「もう、ずっと離さずにいられますね」
やっと大佐は、奥さんを握り締める事ができる。強く、力強く……
「……ありがとう、ありがとう」
きっと、届いたと思う。アイリさんのずうっと前の、遥か昔の先祖が、消し去られようと伝えたかった事。彼方からたどり着いた軌跡に、僕は胸を温められて、再び微笑むことが出来たんだ。
「僕はこれから、何処へ行けばいい、ですか?」
軍に収監されるのか、病院で隔離されるのか、覚悟はしている。でも大佐は「君の家へ送るよ」けろりとして言う。
「でも……僕は元に戻れる気がしません。カプセルに入るのが妥当では?」
自分の未来をどうするべきか、この後始末の答えは、まだ見つからない。
「……君は、そのままでいいんだ。もし、君が……ここに留まって明日を生きてくれたら、私は嬉しい。私を救ってくれた君を、私が守れたと、より救われる」
大佐の優しい微笑みが戻った。僕はまだ未来を、捨てたりなどしなくていい、と?
「妻子を失って自身を傷つけ……同じく飛び立とうとした時……私を救ってくれたのは、今の大統領だ。どうか、ひとりで、終わりを決めつけないで欲しい。例え、明日が見えなくなっても、歩むべき道はひとつではないんだ――さあ、行こう。」
昇り始めた朝日を背に、胸を張った大佐が僕を導いてくれる。夜明けの空は、透きとおった青色だ。重苦しかった胸の仕えが、するすると流されていく。
眩しい……何で僕はまた、泣きたくなっているのだろう。人は喜び溢れるときも、涙が出るのだと、たった今、知った。
まばゆい程の光に向かって、そろりと……僕は新しい一歩を踏み出した――。
静まり返った試験会場。受験者は僕も含めて10人程度。こんなピリピリとした空間は今まで味わったことがない。
軍のキャリア選考試験。カレッジの専科は受験しなかった。僕がこのまま……生きていくなら、大佐と同じ道をゆくべきだろう。あの時、屋上で思った。僕は不思議と平常心を保てている。
ラピスには昔、願いを叶える奇跡の石、という言い伝えがあったそうだ。僕はもう球を持っていないけれど、アイの奇跡を教えてもらったから……本当の幸せについても、わかった気がする。
無理に自分の気持ちを押し付ける事は、自分勝手にすぎない。大切な人が笑っていてくれる事こそ、一番の幸せなのだ。
「……あっ」
張り詰めた空気の中に僕は小さな声をこぼした。その赤髪はよく目立つ。ソラがこの会場に入って来た。ソラも僕に気付き、目線を合わせたままに。そして着席する直前……ニコッと僕を見て微笑んだ。
そうか……ソラも同じ、か。またひとつ、心の繋がりが増えた気がした。
6月。ハイスクールの卒業式は和やかに終演した。クラスの皆と別れの挨拶をして和気あいあいとした場をこっそり抜け出す。最後の一曲を弾きにピアノルームへ来た。
久しぶりに耳にしたピアノの音は僕の心を癒やしてくれたようだ。ひとつひとつ、ここで奏でた音色を僕は覚えている。幸せな時間をたくさん過ごした、一番の思い出の場所だ。
純粋に楽しかった事も、心の底から嬉しかった事も、悩み迷って移ろいだ事も、全部。僕には必要だった。ひとりで干渉に浸っていると、突然声がする。
「やっぱり! ここにいた!」
「リサ!?」
「アイル、パーティーには行かないの?」
「残念だけど、明日には入隊なんだ。準備をしないとね」
「そう……キャビネット直属の任務に就くなんて栄誉な事よ。凄いわ」
僕はキャリアの試験に合格し、国家組織の配下にあたる軍の最高機関に配属された。国家と国民の安全の為に任務にあたる。誰からも称賛される役職だった。
無論、家族もパートナーも僕の進路に反対する人はいなかった。合格通知を受け取った後、僕はエリィのパートナーとしての最後の役割を果たさなければいけなかった。キャリア職は結婚できない決まりだ。
「エリィには新たなパートナーの通知が届くよ。ごめんね。僕が考えを変えたりして、心配かけたね」
「軍のキャリアになるなんて素晴らしい事です。尊敬します」
相変わらずエリィは真面目で遠慮がちだった。何度も通った帰り道は、手を繋がないで歩くとやたらとゆらゆらして落ち着かないものだ。あっという間にエリィの家の前まで来てしまった。パートナーとしての最後の時。向かい合って無口な僕たちは、なかなか視線を上げられずに暫し立ち尽くした。か細い声でエリィが言う。
「……アイル、私は、相応しく無かった、ですか?」
「そんなことないよ! 僕が、足りない事が多すぎたんだ!」
僕は焦った。困った事に予想が的中してしまったから。こんな事態になったのをエリィなら……自分に否を感じるのではないかって。
「そんなことありません! アイルは優秀な人です!」
驚くほど大きな声でエリィは言い返す。僕達は同じ様に瞳を見開いていた。見つめ合ってクスッとお互いに笑い合う。最後に息があった気がして可笑しかった。
「きっと、僕よりも素敵な人に巡り会えるよ」
「どうか、お元気で。幸せに」
エリィはニッコリとして見せる。僕は最後に優しいエリィの頭をポンポンとした。
「いい子だね」
僕も笑顔を残し彼女の幸せを願った。そうして僕はエリィと別れたのだ。
――次は……リサとも別れをしなければ、ならない。瞬きさえもしたくない程に、僕はじっとリサを見つめてから意を決して言った。
「リサ、最後にハグをしよう?」
僕はリサに向かって両手を広げた。きょとんとした後、徐々に目元を緩ませて……僕の好きな三日月の笑顔になる。
「そうね! 激励のハグをしよう!」
キラキラと眩い光をなびかせ、まるで金色の楽譜みたいに――。僕は一番美しい音色を、この目で見たんだ。ゆっくりと流れて、それは僕の胸に届く。僕にたくさんの幸福を与えてくれたのは、リサだったね……幸せだ。
僕の腕はそっとリサを包んで、全身で記憶したんだ。この温もりを……ずっと忘れないように。
長くこうしていたい気持ちを押込めて、ぎゅっとしてから顔を見合わせる。リサの髪を撫でながら僕は伝えた。
「きっと結婚式も最高に素敵だろうね」
「離れても祝福してくれるの?」
「もちろん! いつだって、ずっと、リサの幸せを願ってるよ」
「アイル、ありがとう。好きよ。元気でいてね」
「うん。僕も、好きだよ……」
僕の瞳に映るリサを脳裏に焼き付ける。僕の両手はリサの耳を塞いだ。
そして、真っ直ぐリサに――「 アイシテル 」
きっと、僕の気持ちにピッタリな言葉だと思った。その音を発したら、体の力がすっと抜けて思い切り笑顔になれたんだ。
「なんて?」
「祈りをしたんだよ」
いつまでも、君の笑顔が消えませんように。
さよなら、特別に大切な君。
ありがとう、幸せな日々――。
「諸君、入隊おめでとう。君達の有志を私は誇りに思う」
大統領を目の前に新入隊員は一同整列し、静寂したまま我国のリーダーを見つめる。僕の横にはソラがいる。彼は首席でのエリート入隊だ。入隊するにあたって自分の個人情報は全て削除する規定があった。僕はコンピューターにあったアイの歌も消去した。
でも、僕は一度聴いたメロディは忘れない。瞳を閉じて記憶をたどれば、幸せだった光景と共に音色も美しく甦る。きっと大佐も、既にそのメロディを再現させている事だろう。
大統領はにこやかでいて、勇ましい声で祝辞を述べている。傍らにはショーン大佐だ。僕が大佐に救われたように、大佐が大統領に救われたように、僕も未来の救いになりたい。
僕らの共通点は――藍色の瞳だ。同じ未来を見つめている。
都合よく整えられた生活の中で、漠然と生きていられる方が、幸せだったかもしれない。
でも、大切な人を遠くから守り続ける想いも。心が刻まれるような熱い気持ちも。いつか幸福と呼べるその日まで……
恐怖にも孤独にも負けないチカラを、僕らがきっと生み出せる……希望を持ち続けたい。
美しい青の奇跡を信じて―――未来へ。