「この化石みたいに一生に残る恋を僕としませんか?」
「本当に、私でいいの?」
「うん。 風花がいい!」
古き化石が並ぶ博物館の中、私たちは特別な関係になった。博物館なんて正直ロマンチックじゃないと思う。だけど目の前いる好きな人の熱い言葉が周りを綺麗な夜景のように染めてくれる。
まさかずっと好きだった人とお付き合いができるなんて。
博物館の仕掛けで動く恐竜たちが何か観覧者に話しかけているのを聞きながら、私たちは手を握る。初めて繋いだ大好きな人の手は温かかった。
「ねぇ、最近元気ないね。どうしたの?」
中学生になって仲良くなった杏にそう尋ねられる。机に突っ伏していた私は顔を上げると、そがさぁ〜と続けた。
悩みの種はもちろん彼、凪絃のことだ。まだ蝉が大きな鳴き声で歌っている夏の日。そんな暑さを遠ざけてくれる博物館で私は凪絃から告白を受けた。あれから一年。今は中学二年の夏。
付き合いたての頃よりも明らかに凪絃は態度が冷たくなったと思う。それだけじゃない。放課後一緒に帰ることが少なくなったり、SNS上のやり取りが減ったり。そう感じるたびに私は弱気になる。もう私のことを好きじゃないのかなって。
杏に話し終えると、確かにねと恐ろしい言葉を投げかけてきた。私は慰めの言葉を期待していたのに……。
そんな私の心中を察したのか「でもまぁ、まだ別れてとか言われてないんでしょ」と杏は切り出した。
「それはまぁ、そうだけど……」
「なら大丈夫だよ」
大丈夫だよという一言が台風で荒れた海のような私の心を凪いでくれる。それだけで私の考え過ぎなんじゃないかと思えた。
すると授業の始まりを告げるチャイムが耳を掠める。全然違う席の杏は急いでそこへ向かう。
杏が席へ座るのと同時に担任が教室の戸を開く。何とか間に合った杏は視線をこちらに向けてグッジョブサインをしてくれる。間に合ったよということなのか、凪絃のことは大丈夫だよということなのか、私は両方の意味として捉えることにした。
担任が教卓に両手をつくと、第一声で「今から席替えします!」と発言した。
私のクラスはくじとかではなく先生が予め指定するので、成績や生徒同士の相性が考えられた席になる。
席替え。私は一番前の真ん中の列に座る男の子に目を向ける。後ろの方の廊下側の席の私からはかなり遠いけれど、誰よりもくっきりと見えた。
それはきっと好きな人で恋人の後ろ姿だからだと思う。そんな視線に気づかず、凪絃は真っ直ぐ担任が貼ろうとしている座席表を見つめていた。
もし凪絃と隣になれたら。隣じゃなくても同じ班になれたら。そしたら今の冷たい態度も和らぐのだろうか。あの頃のような関係に戻れるのだろうか。
凪絃から担任の貼る座席表に視線を移すと、丸められていたのか、角がくるっとなっていた。中心まで丸まっているから、内容が全く見えない。それに困った担任は、黒板の端に貼り付いていた磁石を座席表の角にくっつけた。
やがて座席表の詳細が明らかになる。私の名前が廊下側の一番前の空白に記されていた。前に移動するだけだと喜んでいたのも束の間、ふと隣の空欄の名前に私は目を向ける。そこには大好きな文字の羅列があった。
『凪絃』
その文字を見た途端、心拍数が急上昇するのを感じる。密かに願っていたことが叶った。そのことが嬉しくて、この時ばかりは神様がいるんだと信じた。
「では、これから来週の校外活動について新しい班でそれぞれ役割分担をしてください」
担任の掛け声と同時にクラス全員が一斉にグループを作る。隣の人と向かい合わせになるように机を並べるから、必然的に凪絃の顔が目の前にきてしまう。
去年は違うクラスだったから今年一緒のクラスになれただけでも嬉しいのに、さらに凪絃の隣の席になれるなんて。真正面だからどこへ向いても自然と凪絃が視界に入る。顔が熱い。こんなんで当面持つのだろうか。
「何ぼーっとしてるの?」
「あぁ、ごめん」
思考の中に浸りすぎてしまったのか、凪絃にそう言われてしまう。完全に呆れた表情で「風花は恐竜の時代に生まれていたらすぐ食べられちゃいそう」と怖いことを言ってきた。
「今は恐竜なんていないからいいんですー」
言われっぱなしは嫌だったから私も言葉を返す。
「相変わらず仲がいいんだね〜」
教科書を開きながら同じ班の博史君は私たちを優しい目で見ている。博史君は凪絃の昔からの知り合いらしい。まぁ、幼馴染ってことになるのかな。
「もう、学校でいちゃつかないでよ〜」
この班のもう一人のメンバーである杏もまた私たちの様子を面白そうに見物していた。ちなみに杏も二人とは長い付き合いらしい。
だから私だけ、三人にとって馴染みがないのだけど、皆気さくに話しかけてきてくれる。杏は友だちになってくれて、凪絃は恋人になってくれて、博史君も凪絃の彼女だからだと思うけど、仲良くしてくれた。
私たちはそれから来週の校外学習のために班の役割分担をする。今回の校外学習では市内の博物館に行くらしい。
話し合いの結果、班長は凪絃、副班長は博史君、記録係は杏、そして保健係が私だ。班長はその名の通り班のまとめ役で一番面倒くさそうだったからじゃんけんで決めたけれど、そこで凪絃が負けてしまったという流れ。そこから必然的に昔からの仲の良い博史が副班長となったのだ。実は博史君、恐竜に詳しいらしい。むしろ個人的には博史君が班長になった方がよかったんじゃないかと思った。
残りの二つはどちらも楽な役割で、私は本当にどっちでもよかったんだけど、杏が記録係をやりたいと言い出して、そのまま保健係になったという経緯だ。
久しぶりに凪絃と学校以外の場所で会えるのが楽しみ。たとえそれが学校の授業の一環だとしても。
「お〜、めっちゃ大きな恐竜だな〜」
凪絃が興奮しながら館内の至る所に展示されている恐竜の骨の模型を眺めている。
「そんなにはしゃいでいたらいつか物壊しそう」
「確かに」
ぼそっと呟くと凪絃が少し膨れっ面で私に近づいてくる。杏だって同意したのにどうして私だけに怒りの矛先を向けてくるのだろうか。
「お前には一番言われたくないよ。お前こそぼーっとしてたらいつの間にか食われてそうだけどなぁ」
「だからそれは大丈夫だから。むしろ凪絃が展示物破壊する方がよっぽど現実的だと思うけど」
すると凪絃は本当に機嫌が悪くなったのかそっぽを向いて違う場所へと歩みを進める。
平日だからか、何クラスも私たちの学校の生徒たちが来ているにも関わらず、館内は閑散としていた。
展示されている骨だけのティラノサウルスが、その巨大に負けないくらいの大きな口を開けている。目の前に来るとその迫力が直に伝わった。もしこの展示物に命が宿っていたら、ティラノサウルスにとって目と鼻の先にいる私は確実に彼の体の一部にになってしまうのだろう。考えただけでゾッとする。
するとどこからか声が聞こえた。
「今からお前たちを我らの時代へ連れて行こう」
低くて少ししゃがれた男性の声がこの場に響く。辺りを見回すけれどここには私たちの班のメンバーしかいない。
最初、私は担任の声だと思ってたから、今の状況にあたふたすることしかできなかった。そんなパニックが起こるとともに、視界が揺らぐ。貧血を起こしたのだろうか。
意識がどこか遠くへと連れていかれるような感覚。何も分からないまま私の意識はぷつりと途絶えた。
肩が揺れる。風が私を起こしているのだろうか。でもここは博物館のはず。だから風が通ることはありえない。
「風花……風花……風花!」
私の名前を何度も呼ぶ声。それも一人じゃない。複数人の声が私を目覚めさせようとしている。
重い瞼に力を込めると少しずつ光が目の中に差してきた。光が強すぎてそこにどんな風景が広がっているのかわからない。
やがて目も光に慣れたのか、ぼやけていた風景が輪郭を成していく。
そこは外だった。建物特有の壁も床も天井もない自然そのものが私の視界に広がっていた。どうして? 私たち博物館にいたんじゃ……。
「風花!」
その声に、凪絃と杏と博史君が今の今まで私のそばにいたことに気づく。さっきの私を呼ぶ声は皆の声だったんだ。
班のメンバーがいることへの安心と同時に、大きな不安の波が私の心の大半を飲み込んでいた。
「ここは……どこなの?」
私が見渡す限り、ここに見覚えはない。もし倒れていたとしたら、家か病院のはずだから。それにさっきから変な鳴き声が……。
すると突然何が頭上を素早く空を横切る。最近見た気がする生き物のように見えるけど。
「ドスン……ドスン……」
低くて重い音が地面から振動とともに響く。まるで地震が起こしているかのような振動だ。やがてその音の主が目の前に姿を現す。
どこかで、ではなくさっき見た姿が今まさに生き物として私の視界を占めていることに、思わず唾を飲む。
そこには博物館で展示されていた骨姿のティラノサウルスがいたから。しかもそこにいるだけじゃない。ティラノサウルスはここまで動いてきたのだ。それは展示物ではなく、生き物であることの何よりの証拠だった。
って、何冷静に考えてるんだ、私。ティラノサウルスが本当に生きているのだとしたら……。
「ちょっと、何ぼーっとしてるの、風花! 早く逃げないと!」
そうだよね、早く逃げないと。だけど足が動かない。まるで金縛りにあった時のようだ。
「逃げるな」
その時誰かの声が聞こえた。三人の方を見るが皆怯える表情を見せるだけだ。誰もそんなことを言っている様子はない。じゃあ誰が? 誰が今喋ったの?
そういえば逃げるなって声が聞こえた時、目の前のティラノサウルスが口をパクパクさせていたような……。
「お前たちにはこれからデスゲームをやってもらう」
「デスゲーム?」
私も含めて全員が口を揃えてそう言った。デスゲームという内容もそうだが、もっと問題なのがさっきから声を発している主だ。
「もしかして、お前が喋ってるのか?」
そう聞いたのは凪絃だった。凪絃は人差し指を博物館に展示されていたはずのティラノサウルスの方に向ける。
「いかにも」
当然かのようにティラノサウルスは首を縦に振る。
「聞きたいことは山ほどあるが、何とか絞って二つだ。一つ、ここはどこだ? 二つ、どうしてただの展示物だったお前が言葉を話せるのか?」
私たちが最も気になっていたことを凪絃が代弁してくれた。目の前の得体のしれない恐竜に向かって。
「あぁ、答えてやろう。まずここは七千万年前の日本だ」
「七千万年前!?」
凪絃の驚く声が耳を通り過ぎる。私はただ口をポカンと開けることしかできなかった。きっと私以外の皆も同じ表情でその場に固まっているのだろう。
「そうだ。そして私が喋れる理由だが、実は私にもわからない。まぁ、きっと人間たちに私たちのことをもっと知ってもらいたいという強い気持ちがこの不思議な状況を作ってくれたんだろう」
「その非科学的な説明やめてもらえます?」
まさに科学的な博史君がそう抗議する。確かに気持ちとかがこんな現象を引き起こすとは考えられない。でもだからといって……。
「じゃあ、君は科学的にこの状況を説明してくれるのかね」
「それは……」
博史君が口を噤む。そんなの証明できるはずない。タイムスリップなんて少なくとも今の科学力では実現不可能だし、ましてや人間じゃない恐竜が言葉を話せることなんてどう証明すればいいの? 最初から答えがない質問をする目の前のティラノサウルスを私は意地悪なやつだと思った。
当然そんな難題すぎる質問に答えられるはずもなく博史君は口を閉じたまま下を向く。
「じゃあ、話を続けよう。お前らは私の願望そのものなんだ。恐竜を知ってもらいたいという私の願望。そこでお前らにこんなデスゲームを提案しよう。お前ら四人のうち一人だけこの世界の犠牲者となってもらう。残りの三人の命は保証しよう。どうだ?」
「ちょっと待ってください。ここって、七千万年前ですよね。それって恐竜がたくさんいるってことだからいつその恐竜たちに襲われてもおかしくないってことですよね」
すっと顔を上げて敬語口調で博史が尋ねる。そういえば七千万年前って恐竜の時代だったっけと私は今さらながら思い出す。じゃあ、もうこの辺りには恐竜が普通にいるってこと? 恐怖のあまり足が震える。
「そこは大丈夫、と言ってもお前たちは信用してくれないだろうから今から証明してやろう」
ティラノサウルスの最後の言葉と同時に遠くから大きな足音が聞こえてきた。一音ずつ聞こえるたびに音は大きくなる。やがてその音の主の全容が私たちの視界を捉えた。
何とそれはティラノサウルスだったのだ。今度こそ逃げたかった。でも逃げられない。恐怖によって作られる金縛りが私たちをこの場から遠ざけてくれない。
だけどなぜか襲ってこなかった。ティラノサウルスは肉食だから人間を食べるはずなのに。
「どうだ、これで信用してくれるか? 私は天からどうやら三つの才を与えてもらったらしい。時代を移動すること、話すこと、そして他の恐竜を従えること。だからお前たちは私がいる限り食べられてこの世を去ることはない。もし去るとしたら、それはこれからお前たちが決める一人の犠牲者だろう。ルールはわかったかな? 時間は明日の夜明けだ。そこで誰が犠牲者になってもらうか指を指すんだ。わかったかな」
私は他の恐竜たちを従わせに行くから、と言うだけ言っておいてあの喋るティラノサウルスは大きな足音とともに姿を消した。
デスゲーム……デスゲーム……。一人さえ犠牲になれば他の人は助かる。つまりこの班でいうと三人は生き残るということだ。だけどその一人は……。
「どうやらあいつの言うことを聞くしかなさそうだな。実際、ここは現実世界じゃないんだし」
凪絃が意外にも冷静に淡々とそう呟く。凪絃は怖くないのかな……。
「ぐぅ〜」
私のお腹の虫が鳴ったのかと思ったけど、どうやら一人じゃないみたいだ。まるで合唱曲を歌ってるかのようにその音は響いた。
「お腹空いたな〜」
杏がお腹の虫よりも小さな声でそう囁く。今日は校外学習だけどお昼ごはんは学校で食べるから生憎鞄にお弁当といった食料はない。
「じゃあ、これから皆で食料調達に行かない?」
賢さを象徴する眼鏡のズレを直しながら博史君が提案する。でもここは七千万年前の世界。コンビニやスーパーはもちろん、人間すらここには存在しない。そんな中で食料なんて手に入るのだろうか。
「まぁ、博史がそう言うなら行こうぜ」
凪絃は博史君の提案に乗り、先頭を切って歩き始めた。
「じゃあ、私たちも行こうか」
杏はそう言うと私の手を引いて凪絃たちが進んで行った方向へ足を進める。明日の夜明けにもしかしたら犠牲者になるかもしれない。だけど過去の世界という未知の冒険への好奇心が私の中で複雑に絡みついていた。だから今は無理にでもその好奇心で胸をいっぱいにして皆の後を追うことにする。
鬱蒼と茂る草木が時々私の体の一部を撫でてきた。そのたびに私は短い悲鳴を上げる。
「うるさいぞ、風花。ちゃんと前見て歩け」
後ろを振り返って凪絃がそう呼びかける。ただこの道に慣れていないだけなのにどうしてそこまで言われなくちゃいけないのだろうか。ムッとなって私も言い返す。
「ちゃんと歩いてるよ。凪絃厳しすぎ!」
「別に厳しくしてるつもりなんてないよ」
あしらうように言葉を吐く凪絃に声が出なくなる。恋人になったばかりの頃だったら絶対にそんな風には言わなかったはずなのに。再び前を向いた凪絃の背中を見てそう思わずにはいられなかった。
「あっ、あれキノコじゃねぇ?」
そんな私の気持ちとは裏腹に凪絃が明るい声でそう言う。凪絃はまるでそのキノコに誘われたかのように近づいていく。そして凪絃が手を伸ばした時……。
「凪絃! それは毒キノコだ!」
「えっ……」
博史君の声に凪絃の手が止まる。そこにあるキノコが毒キノコ? 市販でも売られていそうな何の変哲もないキノコっぽいのに。
「地味で毒々しさの欠片もないけど、間違いなくそれは毒キノコだよ。図鑑でそのキノコを見たことがあるんだ」
「そうだったんだ……」
凪絃はそう言ってから再びそのキノコに視線を下ろすが、いまいち納得のいっていない様子だ。だけど博史君を信頼している凪絃だからそれ以上何も追及することなくしゃがんでいた足を伸ばして立ち上がる。
それから私たちは博史君の知識を借りて食料を調達した。ずっと歩きっぱなしだからか、額からは自然と汗が流れてくる。建物の中に入って自分の好きなものを選び、店員さんとお金のやり取りをすれば食料を手に入れられる現代とは訳が違った。食料を集めることがこんなにも大変だったとは。ここに来てそれを強く実感した。
皆の手には少量の草とキノコしか乗ってなかったけど、私にはそれがまるで世界三大珍味のように見える。それほどにきっとお腹が空いていたんだと思う。食料を集め終えた頃には夜の帳が降りていた。
採れた草はそのままサラダにし、残りの草やキノコでスープを作っていく。枝木の棒で具材を混ぜ、スープを煮る火や入れる器は博史君の知識によってなんとかなった。博史君恐るべし!
できた料理はどれも美味しかった。調味料も何もないから味は全然期待してなかったのに。素材本来の味がスープを包み込んでいるようだった。皆も笑顔でそれを頬張っている。
「ねぇ、私考えたんだけどさ」
杏が大きめのキノコにかじりつきながらポツリと言葉を漏らす。杏があまり見せない真面目な表情になって話し始めたから、私は集中して耳を澄ます。
「明日の夜明けのことなんだけどさ。犠牲者になってもらいたい人に指を差すんでしょ。その時に自分に向かって指を差したらどうなるのかな? そしたら皆同じ数だけ指を差されることになるから誰か一人が犠牲になることはなくなるでしょ。その場合もしかしたら全員犠牲になるかもしれないけど、運がよければ全員助かるかもしれないし。とにかく私は誰か一人が犠牲になるのは嫌なんだよね」
「確かにそれはいい考えだな」
凪絃は首を何度も縦に振ることで同意の意を示した。
「僕も。少なくとも一人だけ犠牲になることはなくなるからいいと思う」
私ももちろん頷く。一人だけ犠牲になるなんて絶対に嫌。私は杏のことも博史君のことも、そして凪絃のことも皆好きだから、指なんて差したくない。それは指を向けた人を殺すようなものだから。
私たちは近くの洞穴で一晩を過ごすことにした。野宿で眠れるはずがないと思っていたのに。枕は拳で強く叩けば手の方が怪我をしてしまうほどに固い岩なのに。明日失われる命かもしれないのに。
だけど眠りの神様は普段の何倍ものスピードで訪れた。きっと今日色々なことがあったからだろう。そもそも校外学習というのがいつもの学校生活とは違うのだ。その上、恐竜のいる時代にタイムスリップしたのだからむしろ疲れが溜まらないほうがおかしいと思う。どんなに睡眠環境が整っていなくとも意識がぼやけていくわけだ。
「あのさ……」
遠くで誰かの声がする。それが現実の声なのか、夢の中の声なのか私にはわからない。ただ、今は襲いかかる眠気に意識を委ねることしかできなかった。
『ドスン、ドスン』
昨日も聞いた大きな音に私は目を開ける。たっぷり寝たからか、瞼は重くない。すぐに私は現実に引き戻される。
そうだ、あの音がしたということは……。その瞬間見覚えのある姿が目に映った。
「お前たち。一日ぶりだな。元気にしてたかっ……て見ればわかるか。じゃあ、約束したことを今ここでやってもらおうか」
私たちは同時に頷く。皆答えは一つとでも言うように。
生か死か。ついにその答えを知る時がくる。
私はゆっくり自分の方に指を差す。それと同時に他のメンバーも人差し指を動かす。だけどその方向は明らかに自分ではない方向を差そうとしていた。
やがて人差し指が止まる。全員が同じ方向へ人差し指を向けた。私の額からは冷たい汗が流れる。その人差し指は皆私を向いていた。
「皆……どういう……」
「どういうことってこういうことだよ?」
杏が平然と切り出す。
「こういうことって……まるで私が犠牲になれって言ってるみたいだよ?」
「だからそういうことなんだって」
「……どうして?」
勘違いだと思いたかった。私の聞き違いだと思いたかった。目の前にいるメンバー三人が間違って私を指差しているものだと思いたかった。
だけど皆から吐き出される言葉が、私のそんなささやかな希望を打ち砕いていく。
「どうしてって。そりゃあ確かに風花は私の友だちだよ。でもね……」
話していた杏がちらりと凪絃を見やる。凪絃は相変わらず冷たい態度を取っていた。この状況を何とも思っていないみたいに。
どうして? 私、凪絃の恋人だよね?
すると凪絃が顔を上げる。そしてまっすぐに私の方へ視線を向けた。
「ごめん、俺から話すわ。俺もうお前のことを何とも思ってないんだ。お前と別れたい」
「どうして……」
何か気に障るようなことを日頃からしていたのだろうか。凪絃を知らない内に傷つけていたのだろうか。
「まぁ、最初はもちろん好きだったよ。可愛いし、真面目だし。でも恋人として一緒に過ごしている内に、風花の嫌なところが浮き彫りになっていったんだよね。特にボーっとしてるところとか。あれされるとせっかくこっちが話してるのに聞く耳持たないのかよって思っちゃってさ」
「ごめん……」
返す言葉が見つからない。自分勝手な判断で凪絃が別れを告げたわけじゃないから。凪絃が自分から離れたのは自分のせいだから。
「ちなみに今凪絃の隣で通学路を歩くのは他でもない私だから」
まるでトドメの一撃かのようにその発言が胸に刺さる。杏が凪絃と。その瞬間私の世界が崩れていく。凪絃とはずっと恋人でいられると思っていたのに。杏とはずっと親友でいられると思っていたのに。
一度に大切なものを失って空いた心の穴はどうやっても埋まりそうになかった。そして私が大切だと思っていた二つの存在は私を消そうとしている。大切だと思っていたのは私だけだったんだ。そう思うと今度は別の熱い感情が私を燃やす。
「でもだからって、私を犠牲者にするのは違うんじゃない?」
「だって私、生きたいもん。確実に。自分に指を差す作戦は生きられる確率100%じゃないからね。それに風花は保健係でしょ? 皆の健康を守る役割。誰かが犠牲者になったらその役割果たせなくなるよね? だから最後までちゃんと責任取ってよね、保健係さん?」
凪絃も博史君もその言葉に頷く。私は皆に裏切られてたんだ。昨日までの時間は全部嘘だった。そして楽だと思っていた保健係になったことをひどく後悔する。
「じゃあ、お前が犠牲者だ」
低いティラノサウルスの声は一層私の体中を震わす。そしてティラノサウルスの特殊能力が発動したのか、遠くから足音が聞こえてきた。その音は鳴るたびに大きさを上げる。やがて目の前にその主は現れる。
どこかで見たことがあったと思ったら、昨日のティラノサウルスが特殊能力を証明するために呼び寄せた同じ種類のティラノサウルスだった。
やがてそのティラノサウルスの顔が大きくなっていく。ううん、大きくなっているというのは語弊がある。正しくいうと近づいているのだ。
やがて尖った歯が目と鼻の先にまで迫っていた。それは一瞬だった。恐怖する間もないほどに。歯が視界からなくなったかと思えば既に体は激しい痛みに襲われ、その痛みさえも一瞬で感じなくなる。それ以降、視界は暗雲に包まれたかのように真っ黒に塗り潰され、私は自分という存在を見失った。
咀嚼音が空気を伝って耳の中を通り過ぎる。それは人が動物のお肉を咀嚼する音よりも遙かに大きくて不快だった。赤い液体が時々飛び散って雨のように俺たちに降り注ぐ。
目の前でかつて恋人だった風花が食べられている。
俺は一年前、風花に告白をした。あの時は本当に風花のことが好きだったのだ。だけど俺は完全に風花のことを理解していなかった。風花が放心したような態度が嫌だったのだ。そんなにボーっとするほど自分に興味がないのではないかと。どうしてもそう思ってしまったのだ。
そうやって悩んでいた時に相談に乗ってくれたのが杏だった。彼女は親身になって俺を支えてくれる。そんな優しさが俺の心を温めてくれた。この人といたい。思ってからそう時間はかからなかった。それから風花と別れようと、改めてそう決意したのだ。
やがて咀嚼音が消える。土砂降りの雨が突然止むように。
「これでデスゲームを終わりにする」
骸骨のティラノサウルスがそう切り出す。そうか、もう終わったんだ。やっと元の世界に戻れるんだ。今はただ無事に帰れるのが嬉しくて笑みを零さずにはいられない。たとえそれが風花の犠牲の上で成り立っていたとしても。
「じゃあな」
突然目の前の骸骨のティラノサウルスはそう言う。
「じゃあなじゃなくて、ちゃんと俺たちを元の世界に戻してからにしろよ」
思わずそう抗議する。だってこのままじゃ……。
「お前たちは生き残ったんだ。この時代で。だからこれからはこの時代で生きていくんだよ。まぁ、私は博物館の展示物だから元の世界に帰るけど」
俺たちは絶望した。生き残れたから、元の世界に戻れると思っていたのに。この時代で生きていくなんて聞いていない。それってあの世に行くことよりも苦痛じゃないか。この瞬間、自分が犠牲者になればよかったという身勝手な思いが込み上げてきた。犠牲者になりたくないと願ったのは俺たちなのに。
そしてその言葉を最後に骸骨のティラノサウルスは煙のように姿を消した。その代わりに風花を食べたティラノサウルスが今度は口を開く。
「私が今度は獰猛な恐竜たちを従わせるから。お前たちは生きろよ。デスゲームの勝者たちよ」
「見て見て! 大きなティラノサウルスだよ、風花ちゃん!」
「うん! そうだね〜」
隣にいる親友の言う通り、目の前には大きなティラノサウルスが骨の姿で佇んでいた。今にも私たちを食べそうな迫力だ。まぁ、骨だからすぐに逃げれそうだけど。
「こちらのティラノサウルス、実は大変貴重な化石で普通の恐竜の倍以上の脳を持っていたと言われています。もしかしたら言葉を交わせたかもしれないという研究結果もあるくらいなんですよ」
ここの博物館のスタッフであるお姉さんが丁寧に説明してくれる。
私は中学での校外学習の一環で博物館に来ていた。たくさんの歴史的展示物がこの施設を彩っている。私はまるで恐竜のいた時代にタイムスリップしてきたかのような錯覚に陥った。
「皆さん、こちらにお越しください!」
お姉さんが校外学習で来ている中学生たちをそこへ誘導する。一見何の変哲もない大きな箱を開けてスタッフのお姉さんが言葉を投げかけた。
「こちらは人間の化石です。しかも恐竜と同じ地層で見つかったものなんですよ。これは恐竜の時代に人間が生きていた何よりの証拠なんです。貴重な化石なので皆さん、よく目に焼き付けてくださいね!」
私は本当にこれが人間の化石なのかと疑心を抱きながらもその貴重な化石を目に焼き付けた。その時どうしてか、懐かしい思いに囚われたのは私の気のせいだろうか。
「本当に、私でいいの?」
「うん。 風花がいい!」
古き化石が並ぶ博物館の中、私たちは特別な関係になった。博物館なんて正直ロマンチックじゃないと思う。だけど目の前いる好きな人の熱い言葉が周りを綺麗な夜景のように染めてくれる。
まさかずっと好きだった人とお付き合いができるなんて。
博物館の仕掛けで動く恐竜たちが何か観覧者に話しかけているのを聞きながら、私たちは手を握る。初めて繋いだ大好きな人の手は温かかった。
「ねぇ、最近元気ないね。どうしたの?」
中学生になって仲良くなった杏にそう尋ねられる。机に突っ伏していた私は顔を上げると、そがさぁ〜と続けた。
悩みの種はもちろん彼、凪絃のことだ。まだ蝉が大きな鳴き声で歌っている夏の日。そんな暑さを遠ざけてくれる博物館で私は凪絃から告白を受けた。あれから一年。今は中学二年の夏。
付き合いたての頃よりも明らかに凪絃は態度が冷たくなったと思う。それだけじゃない。放課後一緒に帰ることが少なくなったり、SNS上のやり取りが減ったり。そう感じるたびに私は弱気になる。もう私のことを好きじゃないのかなって。
杏に話し終えると、確かにねと恐ろしい言葉を投げかけてきた。私は慰めの言葉を期待していたのに……。
そんな私の心中を察したのか「でもまぁ、まだ別れてとか言われてないんでしょ」と杏は切り出した。
「それはまぁ、そうだけど……」
「なら大丈夫だよ」
大丈夫だよという一言が台風で荒れた海のような私の心を凪いでくれる。それだけで私の考え過ぎなんじゃないかと思えた。
すると授業の始まりを告げるチャイムが耳を掠める。全然違う席の杏は急いでそこへ向かう。
杏が席へ座るのと同時に担任が教室の戸を開く。何とか間に合った杏は視線をこちらに向けてグッジョブサインをしてくれる。間に合ったよということなのか、凪絃のことは大丈夫だよということなのか、私は両方の意味として捉えることにした。
担任が教卓に両手をつくと、第一声で「今から席替えします!」と発言した。
私のクラスはくじとかではなく先生が予め指定するので、成績や生徒同士の相性が考えられた席になる。
席替え。私は一番前の真ん中の列に座る男の子に目を向ける。後ろの方の廊下側の席の私からはかなり遠いけれど、誰よりもくっきりと見えた。
それはきっと好きな人で恋人の後ろ姿だからだと思う。そんな視線に気づかず、凪絃は真っ直ぐ担任が貼ろうとしている座席表を見つめていた。
もし凪絃と隣になれたら。隣じゃなくても同じ班になれたら。そしたら今の冷たい態度も和らぐのだろうか。あの頃のような関係に戻れるのだろうか。
凪絃から担任の貼る座席表に視線を移すと、丸められていたのか、角がくるっとなっていた。中心まで丸まっているから、内容が全く見えない。それに困った担任は、黒板の端に貼り付いていた磁石を座席表の角にくっつけた。
やがて座席表の詳細が明らかになる。私の名前が廊下側の一番前の空白に記されていた。前に移動するだけだと喜んでいたのも束の間、ふと隣の空欄の名前に私は目を向ける。そこには大好きな文字の羅列があった。
『凪絃』
その文字を見た途端、心拍数が急上昇するのを感じる。密かに願っていたことが叶った。そのことが嬉しくて、この時ばかりは神様がいるんだと信じた。
「では、これから来週の校外活動について新しい班でそれぞれ役割分担をしてください」
担任の掛け声と同時にクラス全員が一斉にグループを作る。隣の人と向かい合わせになるように机を並べるから、必然的に凪絃の顔が目の前にきてしまう。
去年は違うクラスだったから今年一緒のクラスになれただけでも嬉しいのに、さらに凪絃の隣の席になれるなんて。真正面だからどこへ向いても自然と凪絃が視界に入る。顔が熱い。こんなんで当面持つのだろうか。
「何ぼーっとしてるの?」
「あぁ、ごめん」
思考の中に浸りすぎてしまったのか、凪絃にそう言われてしまう。完全に呆れた表情で「風花は恐竜の時代に生まれていたらすぐ食べられちゃいそう」と怖いことを言ってきた。
「今は恐竜なんていないからいいんですー」
言われっぱなしは嫌だったから私も言葉を返す。
「相変わらず仲がいいんだね〜」
教科書を開きながら同じ班の博史君は私たちを優しい目で見ている。博史君は凪絃の昔からの知り合いらしい。まぁ、幼馴染ってことになるのかな。
「もう、学校でいちゃつかないでよ〜」
この班のもう一人のメンバーである杏もまた私たちの様子を面白そうに見物していた。ちなみに杏も二人とは長い付き合いらしい。
だから私だけ、三人にとって馴染みがないのだけど、皆気さくに話しかけてきてくれる。杏は友だちになってくれて、凪絃は恋人になってくれて、博史君も凪絃の彼女だからだと思うけど、仲良くしてくれた。
私たちはそれから来週の校外学習のために班の役割分担をする。今回の校外学習では市内の博物館に行くらしい。
話し合いの結果、班長は凪絃、副班長は博史君、記録係は杏、そして保健係が私だ。班長はその名の通り班のまとめ役で一番面倒くさそうだったからじゃんけんで決めたけれど、そこで凪絃が負けてしまったという流れ。そこから必然的に昔からの仲の良い博史が副班長となったのだ。実は博史君、恐竜に詳しいらしい。むしろ個人的には博史君が班長になった方がよかったんじゃないかと思った。
残りの二つはどちらも楽な役割で、私は本当にどっちでもよかったんだけど、杏が記録係をやりたいと言い出して、そのまま保健係になったという経緯だ。
久しぶりに凪絃と学校以外の場所で会えるのが楽しみ。たとえそれが学校の授業の一環だとしても。
「お〜、めっちゃ大きな恐竜だな〜」
凪絃が興奮しながら館内の至る所に展示されている恐竜の骨の模型を眺めている。
「そんなにはしゃいでいたらいつか物壊しそう」
「確かに」
ぼそっと呟くと凪絃が少し膨れっ面で私に近づいてくる。杏だって同意したのにどうして私だけに怒りの矛先を向けてくるのだろうか。
「お前には一番言われたくないよ。お前こそぼーっとしてたらいつの間にか食われてそうだけどなぁ」
「だからそれは大丈夫だから。むしろ凪絃が展示物破壊する方がよっぽど現実的だと思うけど」
すると凪絃は本当に機嫌が悪くなったのかそっぽを向いて違う場所へと歩みを進める。
平日だからか、何クラスも私たちの学校の生徒たちが来ているにも関わらず、館内は閑散としていた。
展示されている骨だけのティラノサウルスが、その巨大に負けないくらいの大きな口を開けている。目の前に来るとその迫力が直に伝わった。もしこの展示物に命が宿っていたら、ティラノサウルスにとって目と鼻の先にいる私は確実に彼の体の一部にになってしまうのだろう。考えただけでゾッとする。
するとどこからか声が聞こえた。
「今からお前たちを我らの時代へ連れて行こう」
低くて少ししゃがれた男性の声がこの場に響く。辺りを見回すけれどここには私たちの班のメンバーしかいない。
最初、私は担任の声だと思ってたから、今の状況にあたふたすることしかできなかった。そんなパニックが起こるとともに、視界が揺らぐ。貧血を起こしたのだろうか。
意識がどこか遠くへと連れていかれるような感覚。何も分からないまま私の意識はぷつりと途絶えた。
肩が揺れる。風が私を起こしているのだろうか。でもここは博物館のはず。だから風が通ることはありえない。
「風花……風花……風花!」
私の名前を何度も呼ぶ声。それも一人じゃない。複数人の声が私を目覚めさせようとしている。
重い瞼に力を込めると少しずつ光が目の中に差してきた。光が強すぎてそこにどんな風景が広がっているのかわからない。
やがて目も光に慣れたのか、ぼやけていた風景が輪郭を成していく。
そこは外だった。建物特有の壁も床も天井もない自然そのものが私の視界に広がっていた。どうして? 私たち博物館にいたんじゃ……。
「風花!」
その声に、凪絃と杏と博史君が今の今まで私のそばにいたことに気づく。さっきの私を呼ぶ声は皆の声だったんだ。
班のメンバーがいることへの安心と同時に、大きな不安の波が私の心の大半を飲み込んでいた。
「ここは……どこなの?」
私が見渡す限り、ここに見覚えはない。もし倒れていたとしたら、家か病院のはずだから。それにさっきから変な鳴き声が……。
すると突然何が頭上を素早く空を横切る。最近見た気がする生き物のように見えるけど。
「ドスン……ドスン……」
低くて重い音が地面から振動とともに響く。まるで地震が起こしているかのような振動だ。やがてその音の主が目の前に姿を現す。
どこかで、ではなくさっき見た姿が今まさに生き物として私の視界を占めていることに、思わず唾を飲む。
そこには博物館で展示されていた骨姿のティラノサウルスがいたから。しかもそこにいるだけじゃない。ティラノサウルスはここまで動いてきたのだ。それは展示物ではなく、生き物であることの何よりの証拠だった。
って、何冷静に考えてるんだ、私。ティラノサウルスが本当に生きているのだとしたら……。
「ちょっと、何ぼーっとしてるの、風花! 早く逃げないと!」
そうだよね、早く逃げないと。だけど足が動かない。まるで金縛りにあった時のようだ。
「逃げるな」
その時誰かの声が聞こえた。三人の方を見るが皆怯える表情を見せるだけだ。誰もそんなことを言っている様子はない。じゃあ誰が? 誰が今喋ったの?
そういえば逃げるなって声が聞こえた時、目の前のティラノサウルスが口をパクパクさせていたような……。
「お前たちにはこれからデスゲームをやってもらう」
「デスゲーム?」
私も含めて全員が口を揃えてそう言った。デスゲームという内容もそうだが、もっと問題なのがさっきから声を発している主だ。
「もしかして、お前が喋ってるのか?」
そう聞いたのは凪絃だった。凪絃は人差し指を博物館に展示されていたはずのティラノサウルスの方に向ける。
「いかにも」
当然かのようにティラノサウルスは首を縦に振る。
「聞きたいことは山ほどあるが、何とか絞って二つだ。一つ、ここはどこだ? 二つ、どうしてただの展示物だったお前が言葉を話せるのか?」
私たちが最も気になっていたことを凪絃が代弁してくれた。目の前の得体のしれない恐竜に向かって。
「あぁ、答えてやろう。まずここは七千万年前の日本だ」
「七千万年前!?」
凪絃の驚く声が耳を通り過ぎる。私はただ口をポカンと開けることしかできなかった。きっと私以外の皆も同じ表情でその場に固まっているのだろう。
「そうだ。そして私が喋れる理由だが、実は私にもわからない。まぁ、きっと人間たちに私たちのことをもっと知ってもらいたいという強い気持ちがこの不思議な状況を作ってくれたんだろう」
「その非科学的な説明やめてもらえます?」
まさに科学的な博史君がそう抗議する。確かに気持ちとかがこんな現象を引き起こすとは考えられない。でもだからといって……。
「じゃあ、君は科学的にこの状況を説明してくれるのかね」
「それは……」
博史君が口を噤む。そんなの証明できるはずない。タイムスリップなんて少なくとも今の科学力では実現不可能だし、ましてや人間じゃない恐竜が言葉を話せることなんてどう証明すればいいの? 最初から答えがない質問をする目の前のティラノサウルスを私は意地悪なやつだと思った。
当然そんな難題すぎる質問に答えられるはずもなく博史君は口を閉じたまま下を向く。
「じゃあ、話を続けよう。お前らは私の願望そのものなんだ。恐竜を知ってもらいたいという私の願望。そこでお前らにこんなデスゲームを提案しよう。お前ら四人のうち一人だけこの世界の犠牲者となってもらう。残りの三人の命は保証しよう。どうだ?」
「ちょっと待ってください。ここって、七千万年前ですよね。それって恐竜がたくさんいるってことだからいつその恐竜たちに襲われてもおかしくないってことですよね」
すっと顔を上げて敬語口調で博史が尋ねる。そういえば七千万年前って恐竜の時代だったっけと私は今さらながら思い出す。じゃあ、もうこの辺りには恐竜が普通にいるってこと? 恐怖のあまり足が震える。
「そこは大丈夫、と言ってもお前たちは信用してくれないだろうから今から証明してやろう」
ティラノサウルスの最後の言葉と同時に遠くから大きな足音が聞こえてきた。一音ずつ聞こえるたびに音は大きくなる。やがてその音の主の全容が私たちの視界を捉えた。
何とそれはティラノサウルスだったのだ。今度こそ逃げたかった。でも逃げられない。恐怖によって作られる金縛りが私たちをこの場から遠ざけてくれない。
だけどなぜか襲ってこなかった。ティラノサウルスは肉食だから人間を食べるはずなのに。
「どうだ、これで信用してくれるか? 私は天からどうやら三つの才を与えてもらったらしい。時代を移動すること、話すこと、そして他の恐竜を従えること。だからお前たちは私がいる限り食べられてこの世を去ることはない。もし去るとしたら、それはこれからお前たちが決める一人の犠牲者だろう。ルールはわかったかな? 時間は明日の夜明けだ。そこで誰が犠牲者になってもらうか指を指すんだ。わかったかな」
私は他の恐竜たちを従わせに行くから、と言うだけ言っておいてあの喋るティラノサウルスは大きな足音とともに姿を消した。
デスゲーム……デスゲーム……。一人さえ犠牲になれば他の人は助かる。つまりこの班でいうと三人は生き残るということだ。だけどその一人は……。
「どうやらあいつの言うことを聞くしかなさそうだな。実際、ここは現実世界じゃないんだし」
凪絃が意外にも冷静に淡々とそう呟く。凪絃は怖くないのかな……。
「ぐぅ〜」
私のお腹の虫が鳴ったのかと思ったけど、どうやら一人じゃないみたいだ。まるで合唱曲を歌ってるかのようにその音は響いた。
「お腹空いたな〜」
杏がお腹の虫よりも小さな声でそう囁く。今日は校外学習だけどお昼ごはんは学校で食べるから生憎鞄にお弁当といった食料はない。
「じゃあ、これから皆で食料調達に行かない?」
賢さを象徴する眼鏡のズレを直しながら博史君が提案する。でもここは七千万年前の世界。コンビニやスーパーはもちろん、人間すらここには存在しない。そんな中で食料なんて手に入るのだろうか。
「まぁ、博史がそう言うなら行こうぜ」
凪絃は博史君の提案に乗り、先頭を切って歩き始めた。
「じゃあ、私たちも行こうか」
杏はそう言うと私の手を引いて凪絃たちが進んで行った方向へ足を進める。明日の夜明けにもしかしたら犠牲者になるかもしれない。だけど過去の世界という未知の冒険への好奇心が私の中で複雑に絡みついていた。だから今は無理にでもその好奇心で胸をいっぱいにして皆の後を追うことにする。
鬱蒼と茂る草木が時々私の体の一部を撫でてきた。そのたびに私は短い悲鳴を上げる。
「うるさいぞ、風花。ちゃんと前見て歩け」
後ろを振り返って凪絃がそう呼びかける。ただこの道に慣れていないだけなのにどうしてそこまで言われなくちゃいけないのだろうか。ムッとなって私も言い返す。
「ちゃんと歩いてるよ。凪絃厳しすぎ!」
「別に厳しくしてるつもりなんてないよ」
あしらうように言葉を吐く凪絃に声が出なくなる。恋人になったばかりの頃だったら絶対にそんな風には言わなかったはずなのに。再び前を向いた凪絃の背中を見てそう思わずにはいられなかった。
「あっ、あれキノコじゃねぇ?」
そんな私の気持ちとは裏腹に凪絃が明るい声でそう言う。凪絃はまるでそのキノコに誘われたかのように近づいていく。そして凪絃が手を伸ばした時……。
「凪絃! それは毒キノコだ!」
「えっ……」
博史君の声に凪絃の手が止まる。そこにあるキノコが毒キノコ? 市販でも売られていそうな何の変哲もないキノコっぽいのに。
「地味で毒々しさの欠片もないけど、間違いなくそれは毒キノコだよ。図鑑でそのキノコを見たことがあるんだ」
「そうだったんだ……」
凪絃はそう言ってから再びそのキノコに視線を下ろすが、いまいち納得のいっていない様子だ。だけど博史君を信頼している凪絃だからそれ以上何も追及することなくしゃがんでいた足を伸ばして立ち上がる。
それから私たちは博史君の知識を借りて食料を調達した。ずっと歩きっぱなしだからか、額からは自然と汗が流れてくる。建物の中に入って自分の好きなものを選び、店員さんとお金のやり取りをすれば食料を手に入れられる現代とは訳が違った。食料を集めることがこんなにも大変だったとは。ここに来てそれを強く実感した。
皆の手には少量の草とキノコしか乗ってなかったけど、私にはそれがまるで世界三大珍味のように見える。それほどにきっとお腹が空いていたんだと思う。食料を集め終えた頃には夜の帳が降りていた。
採れた草はそのままサラダにし、残りの草やキノコでスープを作っていく。枝木の棒で具材を混ぜ、スープを煮る火や入れる器は博史君の知識によってなんとかなった。博史君恐るべし!
できた料理はどれも美味しかった。調味料も何もないから味は全然期待してなかったのに。素材本来の味がスープを包み込んでいるようだった。皆も笑顔でそれを頬張っている。
「ねぇ、私考えたんだけどさ」
杏が大きめのキノコにかじりつきながらポツリと言葉を漏らす。杏があまり見せない真面目な表情になって話し始めたから、私は集中して耳を澄ます。
「明日の夜明けのことなんだけどさ。犠牲者になってもらいたい人に指を差すんでしょ。その時に自分に向かって指を差したらどうなるのかな? そしたら皆同じ数だけ指を差されることになるから誰か一人が犠牲になることはなくなるでしょ。その場合もしかしたら全員犠牲になるかもしれないけど、運がよければ全員助かるかもしれないし。とにかく私は誰か一人が犠牲になるのは嫌なんだよね」
「確かにそれはいい考えだな」
凪絃は首を何度も縦に振ることで同意の意を示した。
「僕も。少なくとも一人だけ犠牲になることはなくなるからいいと思う」
私ももちろん頷く。一人だけ犠牲になるなんて絶対に嫌。私は杏のことも博史君のことも、そして凪絃のことも皆好きだから、指なんて差したくない。それは指を向けた人を殺すようなものだから。
私たちは近くの洞穴で一晩を過ごすことにした。野宿で眠れるはずがないと思っていたのに。枕は拳で強く叩けば手の方が怪我をしてしまうほどに固い岩なのに。明日失われる命かもしれないのに。
だけど眠りの神様は普段の何倍ものスピードで訪れた。きっと今日色々なことがあったからだろう。そもそも校外学習というのがいつもの学校生活とは違うのだ。その上、恐竜のいる時代にタイムスリップしたのだからむしろ疲れが溜まらないほうがおかしいと思う。どんなに睡眠環境が整っていなくとも意識がぼやけていくわけだ。
「あのさ……」
遠くで誰かの声がする。それが現実の声なのか、夢の中の声なのか私にはわからない。ただ、今は襲いかかる眠気に意識を委ねることしかできなかった。
『ドスン、ドスン』
昨日も聞いた大きな音に私は目を開ける。たっぷり寝たからか、瞼は重くない。すぐに私は現実に引き戻される。
そうだ、あの音がしたということは……。その瞬間見覚えのある姿が目に映った。
「お前たち。一日ぶりだな。元気にしてたかっ……て見ればわかるか。じゃあ、約束したことを今ここでやってもらおうか」
私たちは同時に頷く。皆答えは一つとでも言うように。
生か死か。ついにその答えを知る時がくる。
私はゆっくり自分の方に指を差す。それと同時に他のメンバーも人差し指を動かす。だけどその方向は明らかに自分ではない方向を差そうとしていた。
やがて人差し指が止まる。全員が同じ方向へ人差し指を向けた。私の額からは冷たい汗が流れる。その人差し指は皆私を向いていた。
「皆……どういう……」
「どういうことってこういうことだよ?」
杏が平然と切り出す。
「こういうことって……まるで私が犠牲になれって言ってるみたいだよ?」
「だからそういうことなんだって」
「……どうして?」
勘違いだと思いたかった。私の聞き違いだと思いたかった。目の前にいるメンバー三人が間違って私を指差しているものだと思いたかった。
だけど皆から吐き出される言葉が、私のそんなささやかな希望を打ち砕いていく。
「どうしてって。そりゃあ確かに風花は私の友だちだよ。でもね……」
話していた杏がちらりと凪絃を見やる。凪絃は相変わらず冷たい態度を取っていた。この状況を何とも思っていないみたいに。
どうして? 私、凪絃の恋人だよね?
すると凪絃が顔を上げる。そしてまっすぐに私の方へ視線を向けた。
「ごめん、俺から話すわ。俺もうお前のことを何とも思ってないんだ。お前と別れたい」
「どうして……」
何か気に障るようなことを日頃からしていたのだろうか。凪絃を知らない内に傷つけていたのだろうか。
「まぁ、最初はもちろん好きだったよ。可愛いし、真面目だし。でも恋人として一緒に過ごしている内に、風花の嫌なところが浮き彫りになっていったんだよね。特にボーっとしてるところとか。あれされるとせっかくこっちが話してるのに聞く耳持たないのかよって思っちゃってさ」
「ごめん……」
返す言葉が見つからない。自分勝手な判断で凪絃が別れを告げたわけじゃないから。凪絃が自分から離れたのは自分のせいだから。
「ちなみに今凪絃の隣で通学路を歩くのは他でもない私だから」
まるでトドメの一撃かのようにその発言が胸に刺さる。杏が凪絃と。その瞬間私の世界が崩れていく。凪絃とはずっと恋人でいられると思っていたのに。杏とはずっと親友でいられると思っていたのに。
一度に大切なものを失って空いた心の穴はどうやっても埋まりそうになかった。そして私が大切だと思っていた二つの存在は私を消そうとしている。大切だと思っていたのは私だけだったんだ。そう思うと今度は別の熱い感情が私を燃やす。
「でもだからって、私を犠牲者にするのは違うんじゃない?」
「だって私、生きたいもん。確実に。自分に指を差す作戦は生きられる確率100%じゃないからね。それに風花は保健係でしょ? 皆の健康を守る役割。誰かが犠牲者になったらその役割果たせなくなるよね? だから最後までちゃんと責任取ってよね、保健係さん?」
凪絃も博史君もその言葉に頷く。私は皆に裏切られてたんだ。昨日までの時間は全部嘘だった。そして楽だと思っていた保健係になったことをひどく後悔する。
「じゃあ、お前が犠牲者だ」
低いティラノサウルスの声は一層私の体中を震わす。そしてティラノサウルスの特殊能力が発動したのか、遠くから足音が聞こえてきた。その音は鳴るたびに大きさを上げる。やがて目の前にその主は現れる。
どこかで見たことがあったと思ったら、昨日のティラノサウルスが特殊能力を証明するために呼び寄せた同じ種類のティラノサウルスだった。
やがてそのティラノサウルスの顔が大きくなっていく。ううん、大きくなっているというのは語弊がある。正しくいうと近づいているのだ。
やがて尖った歯が目と鼻の先にまで迫っていた。それは一瞬だった。恐怖する間もないほどに。歯が視界からなくなったかと思えば既に体は激しい痛みに襲われ、その痛みさえも一瞬で感じなくなる。それ以降、視界は暗雲に包まれたかのように真っ黒に塗り潰され、私は自分という存在を見失った。
咀嚼音が空気を伝って耳の中を通り過ぎる。それは人が動物のお肉を咀嚼する音よりも遙かに大きくて不快だった。赤い液体が時々飛び散って雨のように俺たちに降り注ぐ。
目の前でかつて恋人だった風花が食べられている。
俺は一年前、風花に告白をした。あの時は本当に風花のことが好きだったのだ。だけど俺は完全に風花のことを理解していなかった。風花が放心したような態度が嫌だったのだ。そんなにボーっとするほど自分に興味がないのではないかと。どうしてもそう思ってしまったのだ。
そうやって悩んでいた時に相談に乗ってくれたのが杏だった。彼女は親身になって俺を支えてくれる。そんな優しさが俺の心を温めてくれた。この人といたい。思ってからそう時間はかからなかった。それから風花と別れようと、改めてそう決意したのだ。
やがて咀嚼音が消える。土砂降りの雨が突然止むように。
「これでデスゲームを終わりにする」
骸骨のティラノサウルスがそう切り出す。そうか、もう終わったんだ。やっと元の世界に戻れるんだ。今はただ無事に帰れるのが嬉しくて笑みを零さずにはいられない。たとえそれが風花の犠牲の上で成り立っていたとしても。
「じゃあな」
突然目の前の骸骨のティラノサウルスはそう言う。
「じゃあなじゃなくて、ちゃんと俺たちを元の世界に戻してからにしろよ」
思わずそう抗議する。だってこのままじゃ……。
「お前たちは生き残ったんだ。この時代で。だからこれからはこの時代で生きていくんだよ。まぁ、私は博物館の展示物だから元の世界に帰るけど」
俺たちは絶望した。生き残れたから、元の世界に戻れると思っていたのに。この時代で生きていくなんて聞いていない。それってあの世に行くことよりも苦痛じゃないか。この瞬間、自分が犠牲者になればよかったという身勝手な思いが込み上げてきた。犠牲者になりたくないと願ったのは俺たちなのに。
そしてその言葉を最後に骸骨のティラノサウルスは煙のように姿を消した。その代わりに風花を食べたティラノサウルスが今度は口を開く。
「私が今度は獰猛な恐竜たちを従わせるから。お前たちは生きろよ。デスゲームの勝者たちよ」
「見て見て! 大きなティラノサウルスだよ、風花ちゃん!」
「うん! そうだね〜」
隣にいる親友の言う通り、目の前には大きなティラノサウルスが骨の姿で佇んでいた。今にも私たちを食べそうな迫力だ。まぁ、骨だからすぐに逃げれそうだけど。
「こちらのティラノサウルス、実は大変貴重な化石で普通の恐竜の倍以上の脳を持っていたと言われています。もしかしたら言葉を交わせたかもしれないという研究結果もあるくらいなんですよ」
ここの博物館のスタッフであるお姉さんが丁寧に説明してくれる。
私は中学での校外学習の一環で博物館に来ていた。たくさんの歴史的展示物がこの施設を彩っている。私はまるで恐竜のいた時代にタイムスリップしてきたかのような錯覚に陥った。
「皆さん、こちらにお越しください!」
お姉さんが校外学習で来ている中学生たちをそこへ誘導する。一見何の変哲もない大きな箱を開けてスタッフのお姉さんが言葉を投げかけた。
「こちらは人間の化石です。しかも恐竜と同じ地層で見つかったものなんですよ。これは恐竜の時代に人間が生きていた何よりの証拠なんです。貴重な化石なので皆さん、よく目に焼き付けてくださいね!」
私は本当にこれが人間の化石なのかと疑心を抱きながらもその貴重な化石を目に焼き付けた。その時どうしてか、懐かしい思いに囚われたのは私の気のせいだろうか。



