とにかく、これは最善なのだと月子も分かっていた。が、ポロポロと、涙が溺れて止まらない。

どこかで、幸せ、を求めているからだと、月子は自分を責めた。

赤の他人、それも、元々快く迎え入れてもらえていない立場で、縁組、そして、母の病まで気遣ってもらえているのだ。たとえ、そこに、身勝手な理由があったとしても、感謝しなければならないと、月子は、ひたすら卑屈になっていた。

西条家での暮らしが、月子の考え方すら変えてしまったのは、明白だった。月子自身も、それを分かっていたが、どうしようもないことがあるのだと、常に、自身に言い聞かせていた為か、それが、良いことなのか、悪いことなのかすら、もう、月子には、判断が付かなくなっていた。

頭を下げたままで、葛藤している月子へ、佐紀子が声をかける。

「月子さん、どうやら心配なようね。でも、あなたの嫁ぎ先との事は、私達には、関係のないこと。あなたが、上手くやらなければならないことよ、違って?だだ、上手く行くように、西条家として、出来る限りのことはさせて頂きます」

佐紀子からの申し出に、月子は、ドキリとする。

綺麗事を言っているが、何か、無理難題をふっかけられるのでは、もしや、母のこと……、つまり、結局は、男爵家で、養生させるように、と、言い出すのでは……。

「お姉様!わ、私は、何も不満はございません!」

涙顔のまま、月子は、佐紀子の機嫌を取らねばと、勢い頭を上げた。

「……そう。それなら、よかったわ。と、言うよりも……、肝心な事を取り決めておかないと……」

「……肝心な事……?」

いつもながらの、キリリとした表情で、佐紀子は、月子の乱れた様子を気にかける事もなく、男爵家へ嫁ぐ為の支度を口にし始める。

「ち、ちょっと、佐紀子!」

野口のおばが、血相を変えて佐紀子へ詰め寄った。

「月子の支度だって?!そんなもの、男爵家から、結納金が入るだろう!それで、賄えればいいだろうに!!」

「おば様……」

佐紀子が、呆れたように、小さく息を吐いた。

「……月子さんにも、お父様の遺産分けという権利はありますでしょ。今は、西条の籍に入っているのですから。それに、いくら、男爵家から結納金を受け取っても……仮にも男爵家ですよ。それなりのお支度が必用になるでしょうし。でも、そもそも、勘当されたらしいお方に、結納金が払えるのかしら?そこからじゃないですか?」

「佐紀子!じゃあ、月子へ、西条の金を渡すってことなのかい!」

野口のおばは、眉を吊り上げ、佐紀子へ食ってかかった。

「まあ、いくらかは、そうなりますわ。月子さんは、野口家の人間ではありませんから」

それは、どうゆうことだと、顔を歪めきる、おばから、プイと顔をそむけた佐紀子は、月子へ、静かに、今の西条家の懐具合を説明し始める。

「……よろしくて?あなたが、思っているほど、私達は、裕福ではないの。勿論、貧乏、ということでもなくてよ。月子さん、あなたも分かっているように、西条家には、使用人が大勢いる。そして、商いも手広く行っている。資産は、常に、手元に余らせておくべきなの。分かるかしら?」

そして、今の時勢について、佐紀子にしては珍しく、愚痴のような弱音のような事を吐き始める。

「……時期が悪かったわね。大戦景気で、世の中羽振りが良いはずなのに……どうしたことか、物価は、高騰するばかり。暮らしぶりは、逆に苦しくなっている……」

──欧州で勃発している大戦により、確かに日本は物不足となったかの地へ輸出することで、いわゆる、軍需景気に沸いていた。

しかし、日英同盟を理由に、連合国側へ付いた日本は、ドイツへ宣戦布告をし参戦する。

そして、連合国の圧力から、同時に起こったロシア革命による、社会主義の脅威、はたまた威力を防ぐ為の協力を強要される。

革命軍によって囚われたチェコ軍団を救出する名目で、シベリアへ共同出兵、つまり、派兵することになったのだ。

そこに、目をつけた商売人達は、軍への供給で米が必要になると先き読みし、米が、高値で売れるだろうと米の買い占めを行い始める。

それは、巡り巡って、物価高騰となり庶民は日々の暮らしにあえいでいた。

「……このままでは、どこまで物価高になるかわからない。暮らしぶりだけなら、節約すれば良いけれど……商いにも影響がでるのではないかしら……」

だから、と、佐紀子は声をあらげる。

「月子さん、あなたへお渡しするお金は、西条家で、一時的に預からせていただきます!」

それは、つまり。

月子親子は、西条家から籍を抜き、そして、無一文で放り出される、ということか……。

ては、母の病は?!

「お、お姉様!私は、構いません!どうか、母を!母の事を!」

出された条件は全て飲む。ただ、最低限で構わない。ひとまず、母親を病院へかけてくれと、月子は、声を張り上げ、佐紀子へ懇願した。

必死の形相を浮かべる月子に、佐紀子は、けむたそうに、つっと眉をしかめる。

「もちろん、西条家の面子がありますもの。あの方は、ひとまず、かかりつけの、佐久間先生の所でお世話して頂きます。仮にも、お父様の妻、だった方ですからね。世間に、余計なことは言わせないわ。ただ……あなたは、連れ子でしょ?」

連れ子、という響きに、野口のおばが、ふっと鼻で笑った。

さっきまで、月子へ金を渡すのかと、食ってかかっていたのに……。

どうあれ、一時的な事かもしれないが、母は、蔵での生活から、病院で治療を受けられるようだ。

とはいえ、月子へ金を渡さないと言い切った佐紀子のこと、母の治療費も出すはずがない。

そのことは、男爵家と相談させて頂こうと、月子は思うが、相手は、勘当された身……らしい事を思い出す。

やはり、自分が働くしかないのだろうが、果たして、相手の許しが降りるのだろうか。

佐紀子と、身の振り方を話せば話すほど、月子の不安は高まるばかりだった。

「月子さん、手配は、全てこちらで行います。あなたは、何も心配することはありません」

実に、事務的な口調で、佐紀子は、話を終わらせた。

「でも、おばさま?私の縁談も、ですけど、月子さんの縁談も、まとまらなくては、西条の家はめちゃくちゃになりますわ」

一見、独り言のように佐紀子は、呟く。

野口のおばは、そうだ、確かに、と、慌て、

「佐紀子!これで、失礼するよ。うちの人に、報告しなきゃあねぇ。諸々をまとめないと!」

転がるかのように、勢い立ち上がる。

月子は思う。

おばは、当然、月子親子が邪魔だと思っているが、佐紀子が、月子達が手にするはずである金を、預り金として手元に置くと言ったことが気に入ったのだろう。

少しでも、今まで通り、野口家への資金援助を期待して。そのためには、余計な出費などない方が良いのだ……。

いそいそと、客間から出ていく、おばの姿に、別段、頭を下げることもなく、佐紀子は、平然としていた。

そして、野口のおばの姿が見えなくなったとたん、更に、その表情を強ばらせると、床の脇、部屋の隅に備わる、豪奢な仏壇へ目をやった。

「月子さん。私は、婿を貰っても、結局、西条家をまもらないといけないの。何故だかわかる?全ては、この家をここまでにした、ご先祖様の為。佐紀子が、女だから、婿を貰ったから、この家は、めちゃくちゃになった。そう思われたくないのよ。なんて事を言っても、うどん屋風情の娘に、分かる訳ないと思うけれど……」

そこまで言うと、佐紀子は、立ち上がり、仏壇の前へ座ると、ろうそくと線香に火をつけて、数珠を取り手を会わせ、念仏を唱え始めた。

月子は、ここまでだと、理解して、佐紀子の祈りを邪魔しないよう、そっと障子を開けると、縁側へ出た。

母の病以来、月子は、屋敷の中を移動することを許されていなかった。

縁側づたい、庭づたい、つまり、人とすれ違わない方法で、移動させられていた。

もっとも、母がいる蔵は、裏庭の隅にあるから、どのみち、自然、庭づたいに移動することになった。

月子は、縁側から、一度、庭へ降りると、裏方、台所のお勝手を目指す。

太陽は、随分高く昇っている。もう、昼が、来ているのだろう。母へ食事を用意しなければ。

ふと、月子が見上げた空は、雲一つなく晴れ渡り、植わっている木々の葉も、赤く色づきはじめていた。

もう、そんな季節なのかと思いつつ、月子の心の中では、先が見えない不安から、心地よい秋風ではなく、吹きすさぶ、吹雪のようなものが渦巻いていた。