麗しの君に。~大正イノセント・ストーリー~

「……君」

岩崎が思案しながら月子へ言った。

「……私も、様子を見てくる。先に休んでなさい」

「え?」

岩崎も出かけると聞いて、月子は、少し動揺した。

もしも、火の手が、迫ってきたら。もしも、岩崎が火事に巻き込まれてしまったら。自分はどうすれば良いのだろう。

「……だ、旦那様」

行かないでくれと、月子は、叫びそうになっている。

しかし、そんな子供じみたことを言っては、岩崎に叱られるかもしれないと思い、月子は、俯く。

「ああ、心配には及ばない」

岩崎も、月子の心細げな様子に気が付いたようで、ポンと月子の頭に手を置いた。

それでも、変わらない月子の様子に、余程のことと岩崎も思ったのか、

「大通りまでだ。外の様子を見るだけだよ」

と、まるで、幼子をあやすかの様に、優しく言った。

「すぐに戻る。だから、君は待っていなさい」

岩崎は、なお安心させようと、月子へ言うが、鳴り響く鐘の音のせいなのか、岩崎がいないという心細さからなのか、月子は、落ち着かず、返事をすることすらできなかった。

「ははは、そんなに怖がらなくていい。良く聞いてごらん。半鐘は
一つしか鳴っていない。つまり、近隣を巻き込んでの炎上は起こっていないということだ。意外と、小さなものかもしれないな」

大通りまで出れば、野次馬の噂話が聞ける。火事の詳細も分かるだろうと、岩崎は、ひたすら月子を落ちつかせようとしている。

そんな岩崎の姿に、月子も、観念しなければと思い、岩崎を送り出そうとするが、月子の手は、岩崎の腕を掴んでいた。

一瞬、なんとも言いがたい間ができる。

「大丈夫だ。心配しなくていい。それよりも、お咲を見ていてくれ……。もしも、火の手が……いや、大丈夫、大丈夫だよ」

岩崎は、腕に添えられている月子の手を取ると、ギュと握った。

そして、うん、と、大きく頷くと、月子の頭に、また、ポンと手を置いた。

無言の月子をちらりと見て、岩崎は、すっと、土間から板の間へ上がり、玄関へ向かって行く。

カンカンと半鐘は、変わらず不穏な音を鳴らしている。

岩崎が生み出す調べとは、大違いだと、月子は思いつつ、心細さに耐えた。

ひとまず、お咲の様子を見なければと、月子も板の間へ上がり、自分達の部屋へ向かった。

月子ですらこれだけ不安になっている。幼いお咲なら、どうなっていることか。

うっかりしていたが、お咲も、一人でいるのだ。鐘の音で目が覚めて、怖がっているかもしれない。

月子は、足を庇いながら、慌てて、お咲の元へ向かった。

食べ散らかした状態の居間から、月子とお咲の部屋へ入り、天井からぶら下がっている電灯をつけた。

岩崎の家は、西条の家と異なり、各部屋に電灯がある。

ランプや、蝋燭に頼らなくて良いため、とても便利だった。

すると、お咲は、かぶりついていた紅白饅頭を握りしめたまま、布団の中で、すやすやと寝息を立てていた。

余程、疲れていたのだろう。

灯った明かりにも、気が付かず、もちろん、火事を知らせる半鐘の音に目を覚ます気配もない。

ふっと、月子も気が抜けて、お咲の枕元へ座り込んだ。

思えば、二人とも、色々あった。

小さなお咲なら、疲れはてて眠り込んでしまうのも無理はない。

どうか、このまま、何事もなく、そして、岩崎も無事に戻って来ます様に、などと月子は思うが、少し大袈裟だったかと、自分に言い聞かせる。

お咲のあどけない寝顔を見たからか、少し、気分も安らいで、月子の瞼も重くなる。

岩崎が、戻って来るまではと、自身に言い聞かせるが、襲って来た睡魔には勝てないようで、月子は、崩れこむように、お咲の枕元に丸まって、眠ってしまった。