麗しの君に。~大正イノセント・ストーリー~

居間では中村が、何故かお咲へ頭を下げていた。

「頼む!お咲!唄ってくれ!」

お咲は、中村の姿など目に入らないようで、シベリアにかじりつき、至福の表情を浮かべている。

「おお、戻ってきたか」

岩崎と月子の姿に気が付いた男爵は、ニマニマしていた。

「あっ、ああ、これは、その、挨拶の行き帰りで頂いたもので……」

岩崎は、抱えている風呂敷包みが、珍しいのだろうと思ったのか、男爵に語った。

「ああ、そうか。そりゃまあ、大変だったなぁ。が、こっちは、もっと、大変なのだよ」

言いつつ、男爵は、くくくと、肩を揺らして笑っている。

「そうそう、中村さんったら、三回も演奏して、それでも、お咲ちゃんは、ぴーぴー唄わないのよねぇ」

芳子も、シベリアを頬張ると、亀屋の寅吉へ湯飲みを差し出している。

寅吉は、芳子へ茶を注ぎ、男爵、二代目、続いてお咲へ茶を注いで回った。

小まめに動く寅吉の様子に、月子は、焦りながら、変わると言うが、若奥様にそんなことはさせられねぇとかなんとか分かったような口を利き、寅吉は、座り込んでいる。

「いや、亀屋、店はいいのか?」

すっかり、お茶汲み係になっている寅吉へ岩崎は言うが、本音は、さっさと帰ってくれと言うところなのだろう。

「世話になったな、これを持って帰ってくれ」

追い返そうとばかりに、もらった野菜の包みを差し出した。

「えっ?!京さん!あんた、だめだよっ!引っ越し祝いの野菜だろぉ?!それで、夕飯作らねぇと」

寅吉は、受け取れないと言い、結局、居座っている。

はぁ、と、岩崎は息を付くが隣の月子が慌てた。

「お、お夕飯のお支度を!」

これまた、柱時計が、はかったようにボーンと四回鳴ってくれる。

「大変!もう、夕方!だ、旦那様!暫くお待ちください」

岩崎へ向かって、包みをよこすように月子は、手を差し出した。

すると、お咲がすくっと立ち上がる。

「女中だから、お咲も、お手伝い!母ちゃんの手伝いしてた!」

と、月子を手伝うと、言い始める。

「な、何?!お、お咲!行かないでくれっ!」

ペコペコ、お咲へ頭を下げていた中村が慌てている。

やれやれと、二代目が中村の様子に呆れながら、ポカンとしている岩崎へ、何が起こったのかを説明した。

「二代目の言う通りなのだ。京介」

「ええ、何故でしょうねぇ?どう思う?京介さん」

男爵夫婦も、不思議な話だと、納得していないようだった。

「……つまり、中村が、何度演奏しても、お咲は、私が演奏した時のように唄わない……と」

話を聞いて、岩崎も、うーんと唸る。

「そりゃ、お咲は、腹が減ってたんじゃねぇですかい?目の前に、食べ物がありゃ、演奏なんて、耳にはいらねぇでしょ」

寅吉まで、意見するが、すぐに、二代目が口出しして来た。

「うーん、寅さん、そうかねぇ。三回だよ。良く聞いとけと、皆で言って、お咲も返事してただろう?」

「あー、そーいやー、そうだった。でもよ、やっぱり、そこが、子供ってもんじゃねぇか?二代目よ」

「……かなぁ?」

結局、わからんと、皆は首をひねっている。

「天才少女現る、と、思ったんだがねぇ。やっぱ、気のせい、偶然だったか」

二代目は、残念そうに言う。

その渦中のお咲は、月子を誘って、女中だ、手伝いだと、台所へ向かおうと、張り切っていた。

「……もしかして……。お咲は、中村の演奏を評価していない、という事では……」

岩崎は、挨拶へ出掛ける前に、台所で少し耳にした中村の音は、酷かったと、皆に言った。

「な、なにも、今、言うことでは、それに、そんなに、酷いとは思わないが……」

岩崎に酷評された中村は、愕然としている。

「なるほどなぁ、それじゃ、京さんが、演奏してみれば?」

二代目が、どこか楽しげな顔をして、岩崎へ言ってくる。

「ん?どういうことだ?二代目よ」

寅吉が、訳がわからんと、渋い顔をするが、なるほどと、男爵は、ポンと膝を叩くと、岩崎を見る。

「京介、中村君と同じ曲を演奏しなさい」

岩崎は、一瞬考え、なるほどと言いつつ、野菜の包みを置くと、中村へバイオリンを渡すように言いつけた。

中村も、二代目と男爵の言いたい事が分かったような分からないような、半信半疑という顔をして、しぶしぶ岩崎へバイオリンを手渡した。

岩崎は、バイオリンを構えながら、

「中村、お前は、人に聞かせる時、つまり、ここぞという時、ビブラートをかけすぎる。格好つけすぎなのだ」

確か、と、岩崎は呟き、皆を見回した。

「では、お咲が、本当に才能があるか検証するために、私が中村と同じ曲を演奏します。楽曲は、エルガー作曲、愛の挨拶 」

言うと、顎を引き、岩崎は、バイオリンを構え直す。