「ねえ、陽斗(はると)……」
「? どうした? 桜(さくら)」

 恋人である桜の不安げな声に訊き返す。
 俺たちは地方の大学生だった。

 桜は黒髪が綺麗な娘で、俺とは釣り合わないような美人だった。
 研究室が同じだったことから付き合い始めた。今も研究室で二人きりだ。

 ……こう言うと楽しく遊んでいるように聞こえるが、実際は周囲を林で覆われた山奥に拘束されているようなものだ。そもそも遊ぶ場所が少ない。

 良くも悪くも暇を持て余している。大した事件もない。
 だからこそ、桜の深刻そうな雰囲気は意外だった。

「……あのさ、ドッペルゲンガーって知ってる?」
「……自分とそっくりな奴がいるって話か?」

 俺は少しだけ馬鹿馬鹿しく思いながら、話を合わせるように首を傾げた。
 冗談かと思ったが、どうやら真面目な話らしい。

「うん。それで……昨日、見ちゃったの」
「ドッペルゲンガーを?」

 まるで漫画のような話だが、桜は大真面目に頷いた。
 他人の空似だろう、と思いつつ先を促す。

「ドッペルゲンガーを見たら本物は殺されるらしい、っていう噂があって……」
「なるほどな……」

 確かにそういう話があった気がする。
 迷信の類だとは思うが、こういうものは信じている本人にとっては大事だ。

「どうしよう? 私、殺されるのかな?」
「うーん……それだけの情報じゃ、何ともなぁ」

 否定するのは簡単だが、それでは安心できないのだろう。
 俺は腕を組んで考える。現状だと、自分と似た人を見かけたというだけだ。

「…………」
「じゃあ、研究室から家まで車で送り迎えしてやるよ」

 思い詰めた様子の桜に、俺はこう提案した。
 ただの勘違いだと思うが、安心できるまで送り迎えをすれば良い。

「ありがとう!」
 桜が微笑んだ。
 
 研究室から桜の家は遠くない。これくらいなら安いものだ。
 俺は車で来ているから、途中で立ち寄るだけで良い。



 雲行きが怪しくなったのは、次の日からだった。
 俺の車から降りて自分の家に入る直前、桜が俺にしがみついた。

「……誰かいる」
「……っ」

 桜の言葉にちらりと振り返る。確かに誰かが後をつけているようだった。
 俺の視線に気付いて物陰に隠れた姿は、桜に似ていた気がする。
 
 ――まさか、本当に?

 それから三日ほど、この研究室と桜の家を往復する日々が続いた。
 その間、桜によく似た姿を何度も見かけた。

 流石に偶然で済ませるには不自然だった。
 それからは可能な限り、桜と一緒にいるようにした。



 その日も研究室から車へと向かっていると、桜が急に立ち止まった。
 見れば、俺の車の前に誰かが立っている……遠目には桜と同じ背格好だった。

「いや……!」
「おい!?」

 桜が車から逃げるように走り去ってゆく。
 俺は急いで追いかける。桜は校舎を囲む雑木林に入っていく。

「くそっ! 待て、桜!
 どこに逃げてんだ……!」

 思わずぼやきながら、俺は桜を追って林に足を踏み入れた。
 後ろから誰かが追いかけてくる足音に背筋が凍った。
 
 ――追いかけてきた!?

 逃げる桜を追いかける俺。さらに俺を追いかける誰か。
 奇妙な状況になった、と思いながら走り続ける。

「はあ、はあ……。やっと、追いついた」
「…………」

 肩で息をしながら、樹の根本で蹲る桜に近づいた。
 桜は震えながら、俺の背後を見ていた。釣られて、俺も振り返る。

「――!」
 思わず、息を呑む。桜の言う通りだった。

 俺を追ってここまでやって来たのは、桜と瓜二つの姿だった。
 まさにドッペルゲンガーという奴だろう。

「……あんた」
「……!」

 ドッペルゲンガーが桜に一歩だけ近づいた。
 桜の体がぶるりと震える。

「ふざけんなっ!」
 その瞬間、俺はドッペルゲンガーに飛び掛かった。

 そのまま首を押さえつけて、馬乗りになる。
 首を掻き毟るように、ドッペルゲンガーが俺の手に爪を立てた。

 離すものか。
 俺は荒く息を吐きながら、必死に首を絞めた。

 ドッペルゲンガーは口をパクパクと動かしている。
 やがて、その手がぽとりと落ちて、俺は恐る恐る首から手を離す。

「……助かったの?」
「…………」

 桜の呆然とした声。
 俺は返事も出来ずに動かなくなったドッペルゲンガーを見ていた。

 不死身の化物みたいに、もう一度襲い掛かってくるかもと思っていたが……どれだけ待っても、動き出すようなことはなかった。



 動かなくなったドッペルゲンガーはそのまま林に埋めた。
 墓というわけではないが、野ざらしにするわけにもいかない。
 
 学内のスコップを使って、最低限の穴だけ掘った。桜は俺に感謝しきりだったし、死体が見つかるようなこともなかった。俺たちは助かったということだろう。

 ただ、今でも夢に見る。
 ドッペルゲンガーは最期に口をパクパクと動かしていた。その時の口の動きが忘れられない。

 ――まるで「どうして『偽物』の味方をするの?」と言った気がして。