女の目は虚ろに空を見上げている。

 背の高い草の陰で身体を横たえている。 
 そよと吹いた風が、彼女の前髪と周囲の草を揺らした。
 春の夜は穏やかに濃度を増しつつある。温かな空気は芽吹きはじめた花々の香りを微かに運んでいる。

 帝都に接するとはいえ、いまだ瓦斯《がす》灯のひとつもない小さな町である。そのはずれ、木立に囲まれた小径《こみち》だから、揺れた枝の隙間からときおり照らす月明かりに依ったとしても、彼女の心臓がすでに停止していることを判別するのは困難だったはずである。

 緋色の絣《かすり》の上質な着物は、襟元がおおきく開いている。
 夜目にも白いその頸《くび》に、いく筋かの暗い色。
 流れた血液が下草を濡らしている。

 傍に人影がある。
 六尺《二メートル》ほど離れたあたり、小径のうえに、立っている。
 小柄な老婆だった。薄鼠色の着物と肩掛け。杖をついている。穏やかな表情。わずかに微笑みすら浮かべている。横たわる女に気づいているとも思えない。

 奇妙なことは三つある。
 骸の横に立っていること。
 先ほどから微動だにしないこと。
 そうして、月明かりを受けて、影をつくらないこと。

 老婆は、待っている。

 「……わあ」

 琴丹《ことに》 瑞香《みづか》は、げんなり、という形容が似つかわしい声をあげ、嘆息した。
 小径を歩いてきた彼らは、角を曲がったところでこの光景に出会《でくわ》したのである。
 斜め前を歩く、黒の二枚外套《インバネスコート》の男の背に、瑞香は消沈した声をかけた。

 「なんかいます」
 「いるな」

 男は短く返した。振り返りもしない。

 「戻りましょう」
 「遠回りになる。この道がいちばん早い」
 「……あれ、道に立ってます」
 「立っている」
 「そのまま通してくれるとは思えません」
 「だろうな」
 「……遊楽《ゆうら》先生」

 瑞香は立ち止まった。
 男、綺燐堂《きりんどう》 遊楽も足を止め、振り返る。
 端正な色白の頬が月明かりに浮かんでいる。雑に散らした前髪の隙間から瑞香を不思議そうに見つめている。
 瑞香は、傍の包みをぎゅっと胸に抱えて、憤然と声を出した。

 「今日こそわたし、この町の同人の皆さまにご紹介いただけるんですよね」
 「……その予定だが」
 「ずっと楽しみにしてたのに、もう三回、潰れてます。ぜんぶ、お役目です。集まりが夜半だから仕様《しよう》がないけど」
 「俺の責任《せい》ではない」
 「わかってます知ってます、だからせめて、お役目じゃないときくらい……あんなの相手にしてたら、集まり、遅刻します」

 と、遊楽が動いた。
 道の向こうを見やり、目線を瑞香に戻す。

 「残念だが、向こうさんが俺たちに用があるみたいだな」
 
 瑞香は遊楽の背越しに道の向こうを見て、きわめて深い息を吐いた。
 老婆は、こちらをじっと見ていた。

 「あああ。ほらあ、早く戻らないから……きゃっ」

 ぶん、と、空気が歪むような音。
 遊楽が外套を翻し、振り返りざまに左腕を振り上げた。
 その指先にはなんらかの紙片。
 紙片は、薄く発光していた。

 老婆は、紙片を中心として形成された燐光の壁に張り付くように、中空に静止していた。十間《十八メートル》の距離をひといきに跳躍したようだった。
 獣の顎のような形に曲げられた指が壁を破ろうとしてうごめいている。
 黒く落ち窪んだ両の目。大きく開けられた口には、長い犬歯が見えている。

 遊楽は瑞香のほうへ振り返り、眉尻を下げてみせた。

 「ほら。早く仕給《したま》え」
 「……嫌です。着物が汚れます」
 「かまわぬ」
 「わたしがかまうんです! これから文士の皆さまにご挨拶するんですよ! せっかく好《よ》い帯してきてるのに」
 「脱げばよかろう」
 「……は」

 と、老婆の爪が結界を破った。光の膜を喰らうように頭を振り、遊楽へ掴みかかる。腕が届こうとする刹那、遊楽はなんらかの手印を組んだ。老婆の身体は吹き飛ばされ、木立のなかへ転がった。

 「そら。俺の力では遠ざけるのが精一杯だ。奴はしつこいぞ。一晩、ここで相手することになるぞ。いいのか」
 「……だから、戻りましょうって、云ったのに……」
 「君が速やかに仕事を済ませればよいだけのことだ」
 「……絶対、載せてくださいね、文芸誌。わたしの新作」
 「さあ、それは同志諸君に訊ねてみなくては」
 「あああ! 載せるって云うんですそういうときは! ほら! 視界妨げてくださいよ誰も這入《はい》って来ないように」
 「こんな夜更けに誰も来ぬ」

 瑞香が上目に凝《じ》っと睨む。遊楽はふと息を吐いて、肩をすくめた。指先で模様を描く。周囲の暗さに、重量が加わる。月明かりが失せる。
 これで彼らは、誰の目にも触れない。
 瑞香は再び嘆息し、帯に手をかけた。袖を落とす。襦袢を外す。
 月明かりの下に、瑞香の薄く細い肢体が白く浮かび上がっている。
 
 遊楽が歩み寄る。
 瑞香は身体を斜めにし、屈みながら、恨むような視線を遊楽に向ける。
 だが、その瞳にわずかな期待の色が浮かんでいることを、男は知っている。
 遊楽の瞳も、輝いた。輝くのは、銀に、である。
 銀の光を宿した瞳が、縦に裂ける。
 先ほどまでの洒脱な印象の表情が失せている。
 瑞香は、震えた。いくど見ても慣れぬ、遊楽の本性。
 
 遊楽は、自らの小指を咥えた。
 先端の皮膚を喰い破る。
 血が滴り落ちる。
 遊楽の白い手首に紅い線が描かれる。
 その指を、遊楽は、瑞香の顔に近づけた。
 瑞香は本能的に顔を背け、しかし、ゆっくりと向き直った。
 その小さな唇が薄く開けられている。
 隙間に、遊楽の指が、差し込まれた。

 どくん。
 瑞香の背が、仰《の》け反《ぞ》る。

 「……あ……あっ……!」

 胸を抱える。背を丸める。
 しゃがみ込み、地に膝をつく。
 震え。目を見開く。怯えるような、痛みに耐えるような表情。
 遊楽はその様子を側で見下ろしている。
 紅を引いたような薄い唇が、愉悦に歪められている。

 その時。
 空気を裂くような音。
 老婆が再び跳躍した。
 鉤爪を突き出し、遊楽に迫る。
 
 鉤爪は、しかし、届かない。
 遊楽の前に立った影がその牙で受け止めたためである。
 ごり、という鈍い音を残して、爪は、噛み砕かれた。
 老婆が飛び退る。

 影は、女だった。
 長い尾を振っている。
 天を指して立つ耳とその尾とが、静かに発光している。
 遊楽と同じに縦に裂けた瞳に、蒼の炎を宿している。
 
 「……あたしの男に、手ぇ、出すんじゃねえ」

 ぷっと爪の残骸を吐き出して、女は、謳うように声を出した。いかにも気持ち良さげに両手を広げ、伸びをする。女の各部の寸法は、瑞香とは、あらゆる意味で適合《あわ》なかった。

 老婆が低く唸った。
 同時にその背が割れ、いく本かの枯れ木のような腕が伸びた。
 いずれも長い鉤爪を有している。

 「……うげ。気色わりぃな」

 女は鼻の上に皺をつくり、顔を顰めてみせた。
 と、その背から遊楽が声をかける。

 「りるる。あまり時間がない。急げ」

 女、りるるは不満げに振り返った。

 「なんだよ先生、そう、急《せ》くこたぁねえよ。せっかくこの姿になれたんだ。ゆるりと愉しみたいじゃないか」
 「急ぐと云ったのは君だ」
 「あたしじゃねぇよ、瑞香だよ……ま、いいや。ね、仕遂《しと》げたらさ、今夜さ、すこうしだけ、齧らせとくれよ。あんたの、頸《くび》。ね、善《よ》いだろう。そこの茂みでさ」

 遊楽の細い顎に指を這わせ、口に長い爪をかける。頬を寄せ、耳朶をあまく噛む。遊楽は、嘆息した。

 「……好きにしろ」

 言葉が終わらぬうちに、風が立った。
 りるるの体躯は天にある。
 巨大な月を背景に、さかしまに跳んでいる。

 老婆だった怪物の上に、りるるが降る。
 怪物は上を向き、すべての腕を鋭く突き出す。
 殺到した爪はりるるを捉えられない。
 腕の間を縫って背に立ち、腕を振り上げ、打ち下ろす。
 怪物は身体を捻って逃れ、反転した。
 りるるも地を蹴る。
 影が交錯した。
 なにかが転がった。
 怪物の、首。
 胴体が、どうと斃れると同時に、首も身体も、しゅうと蒸発した。

 「……さ、約束だよ」

 いつの間にか、遊楽の後ろに、りるるが立っている。
 男の胴に左腕を廻す。
 右腕が、顎を捉える。
 振り向かせ、傾け、喉に牙を当てる。

 と、遊楽がなにかを呟いた。
 懐でなにかが発光したようだった。
 どさり、と、遊楽の背で音がする。

 彼は振り返り、意識を失って倒れている瑞香のそばに膝を立て、その耳元に口を近づけた。
 
 「遅れるぞ、瑞香先生」
 
 そうして、思いついたように、耳朶を噛んだ。
 おそらく報復なのだろう。
 
 ◇◇◇

 二月、衣更着月《きさらぎ》。
 帝都東京にも遅い雪がうっすらと積もったという。それより北に位置するこの町は、尚のこと冷えた。

 瑞香《みづか》は布団からもぞもぞと手を出し、枕元の冊子を取り上げた。
 鬼灯《ほおずき》、と表紙に書いてある。
 それを顔の前にかざして、凝《じ》っと眺めている。

 貸本屋、琴丹《ことに》書房の店主、瑞香の父である利蔵《りぞう》は朝からでかけてしまった。夕方までには戻ると言い置いていったが、午後四時となる現在もまだ、戻らない。
 店は休業の札を出している。瑞香は店番をすると云ったのだが、こんな寒い日に店先に座っているのは身体に障ると、利蔵は手を振ったのだ。

 火鉢にかけた鉄瓶がかすかに音を立てるほかは、家の中はしんとしている。
 瑞香は冊子の下端を胸に乗せ、ゆっくりと頁を繰った。
 もう、指の感触で覚えている。
 目指す頁はすぐに見つかる。
 そこに、彼女の名が書いてある。

 瑞香は、店番が好きだった。
 貸本が積まれた店の奥に座って、接客をし、帳面をつけ、本を整え、埃を払い、そうして、空いた時間には好きな本を手に取るのである。
 ふるい時代の怪奇幻想譚、美しいあやかしが登場し、あるいは異能の陰陽師が活躍する、そんな小説がとくに好みだった。
 そうした本が入荷すると、進んで店番を引き受けたものだった。朝から夕まで没頭して、客が声をかけても耳に届かず、突《つつ》かれて慌てて顔をあげるということもしばしばあった。

 好きなことは、もうひとつあった。
 読んでいるうちに、自分ならこうするのに、あんな人物を登場させるのにと、考えを巡らせるようになったのである。
 はじめは頭の中だけであった。が、やがて不要の書付の裏に、言葉を綴りはじめた。人名を並べ、台詞を書き、情景を描写して、やがてひとまとまりの文章となっていった。
 読み書きは、彼女が十歳のときに世を去った母が教えた。教え方が良かったのもある。が、彼女が言葉をあやつる力は、天賦と思われた。

 利蔵は、彼女がそうすることを喜んだ。
 その母と似た体質で生まれた瑞香は、幼い頃から身体が弱く、外で遊ぶことも、友だちと出かけることもままならなかったのである。ずっと室内で、本を読むか、絵を描くか。瑞香の世界は、紙の上に存在していた。
 だから、自らで物語を綴り始めたことを心から喜び、奨励し、応援した。
 商用で日本橋などにでかけると、原稿用紙を土産にした。商売が上手ではないから、家は貧しい。であるのに、自分の食事を削ってでも、舶来の上等なペンを購《か》ってきた。

 小説、というようなものがいくつか出来上がった。
 利蔵と二人、夕食のあとに、卓で感想と意見を披露し合った。
 それは二人にとって、無上の楽しい時間となった。

 そうしてある日、利蔵が勧めたのだ。
 文芸誌に原稿を送ってみたらどうだろう。
 瑞香はその提案に驚愕し、動揺し、首を振った。
 そんな、わたしなんかが、だめ、ご迷惑になる……。

 それでも、一週間後、彼女は、父親に油紙をねだった。原稿を包んで発送するために必要だったのである。
 利蔵は喜び、その日のうちに原稿は逓信所へと持ち込まれた。
 宛先は、彼女がもっとも好きな雑誌、鬼灯。
 そうして、憧れの作家の名も併記した。

 綺燐堂《きりんどう》 遊楽《ゆうら》。

 色恋を絡めた耽美の妖異譚を得意とする若手の文士である。
 癖のある、だが、一読すれば離れられないと評される文章を綴ることで知られていた。著名とは言えないが、瑞香は遊楽の作品はすべて、そらんじることができるほどに読み込んでいた。

 遊楽の手に自分の原稿が触れる。
 その想像は瑞香の体温を数ヶ月間、上げ続けた。

 上がった体温が、報われた。
 利蔵は、体調がすぐれずに伏せていた瑞香の枕元に走った。玄関で受け取り、差出人の名前を確認し、予感したのである。不思議そうな顔をする瑞香に冊子を手渡す。
 おもてには、鬼灯、と記されている。
 なかほどに瑞香の名があった。
 次の冬、新人紹介の特集を組む。
 そうした言葉とともに、瑞香が送った原稿の一節が示されていた。
 推薦人は、綺燐堂 遊楽、とあった。

 瑞香の背骨は、利蔵の強い抱擁に悲鳴をあげた。
 彼女も同じように返したが、力が足りない。
 代わりに、大きく笑って見せた。
 笑ったつもりなのだが、溢れる涙とひしゃげた口が邪魔をした。

 それが、先月のことである。
 先月には、もうひとつの出来事があった。

 瑞香の生命は次の冬は迎えられない。
 往診した医者は簡潔にそのことを説明した。

 利蔵は、医者が立ち去ったあとも半時間ほどその場に立ち続けた。やがて気づいて、誰もいない戸口に頭を下げた。
 部屋に戻ると、瑞香は、微笑んだ。
 お父さん。
 そう云い、手を伸ばした。玄関での会話は聴こえていたのである。
 堪えていたのだろうが、やっと十八を迎えたばかりの、恋も知らぬ乙女に受け入れられる事実ではない。
 肉の落ちた顔を歪めて、唇を噛んで、瑞香は、それでも、声は出さずに泣いた。利蔵もそれは、同様だった。

 瑞香はいま、文芸誌、鬼灯をいくどもいくども、繰っている。
 大事に読んでいる。が、すでに平綴じの背も擦り切れはじめているのである。
 自らの名前が記された頁を開き、閉じ、開いて、指先でなぞる。
 しぜんと、涙が溢《こぼ》れる。 

 生きたい。

 生きて、冬を迎えたい。
 越えなくてもいい。ただ、ただ。
 琴丹《ことに》 瑞香の物語が歩き出すときを。
 情景が、登場人物たちが、色が、匂いが、空気が、手触りが、のぼる太陽《ひ》と沈む紅が、口煩《うるさ》くさえずる星々が、瑞香が見届けることができないであろう、とおいとおい時間の象徴が。
 歩き出すことを、確かめたかった。

 目を拭うと、咽せた。こん、こんと咳をつける。
 薬をとろうと身を起こした、その時。

 「帰った」

 板戸の引かれる音とともに、利蔵の声が聞こえた。
 瑞香は胸元を引き合わせ、布団をはぐった。
 廊下を歩いてくる足音。
 が、それは一人のものではなかった。

 「瑞香。開けるよ」

 襖の向こうから声をかけられ、はい、と答える。
 するりと開けられた襖の向こうには、利蔵のほかにもうひとりの影。
 客だろうか。布団の上に瑞香はなおり、手をついた。
 神職が身につける狩衣のような白い装束。ざんばらの髪。腹が出ている。
 贅肉の多い首に不釣り合いのちいさな目を歪ませ、男は、野鄙《やひ》の声を出した。

 「これは、別嬪《べっぴん》。なお肉があればよかろうもの」

 瑞香はどう返答してよいか分からず、ふたたび首《こうべ》を垂れた。
 利蔵は、わずかに眉を動かし、それでも愛想笑いをつくった。

 「娘です。瑞香。十八となりました」
 「十八か。もう少し早う、呼んで欲しかったの」

 男は笑った。その息は部屋の空気を濁したと、瑞香は感じた。

 「支度を」
 「はい」

 男は利蔵に命じ、部屋にはいってどかりと胡座を組んだ。
 利蔵は瑞香のそばに寄り、膝をついて、肩に手を置いた。

 「瑞香。着替えられるか」
 「……お父さん、こちらは……」
 「ああ、案ずるな。たいへん有名な先生だ」
 「せん、せい……」
 
 利蔵は、ちらと男のほうを見遣って、頷いてみせた。

 「瑞香のために、来てくださったのだ」
 「お医者さま……?」
 「ああ。そうしたようなものだ。さあ、着替えて」

 肩を支えて瑞香を立ち上がらせる。帯に手をかける。
 男は、その様子を眺めている。遠慮する様子もない。
 利蔵は薄い一枚着を手に持っていた。瑞香が見知らぬものだ。肩を出した瑞香にそれを掛けてやりながら、利蔵は、小さくつぶやいた。

 「……瑞香。おまえは、お父さんの大事な娘だ。どんな姿になろうとも」

 その言葉を咀嚼できず、瑞香はただあいまいに、頷いた。

 ◇◇◇

 
 瑞香《みづか》の肩が震えている。

 胸を抱き、男に背を向けている。
 与えられた着物の生地が薄い。
 細く骨ばった身体の線が露《あら》わとなっている。
 
 「ふん。ま、なんとかなろうかの」

 男は瑞香の背に侮蔑のような息を投げ、脂ぎった顎をずるりと撫でた。
 利蔵《りぞう》の手がわずかに震える。
 それでも口を引き結び、頭を下げてみせた。

 「恐れ入ります。では、先生……」
 「うむ」

 男は膝に手をついて立ち上がった。瑞香の方へ踏み出す。彼女より頭ふたつも背が高い。近寄ると、雨に濡れた獣のような匂いがした。
 瑞香は、身を引いた。
 男は薄笑いを浮かべた。

 「逃げるでない。いまから佳《よ》い術をさずけてやろうほどにな」

 瑞香は助けを求めるように父親を見た。
 利蔵は、膝をついている。その膝に拳を当てている。拳は、血が滲みそうなほどに握りしめられていた。
 瑞香を、見ない。顔を横に逸らして目をぎゅっと瞑《つむ》っている。

 「さあ」

 男の左腕が瑞香の後頭部を抑えた。ぐいと引き寄せる。瑞香はよろめいた。その身体を、男の右腕が支えた。

 「おっとと……しかしなんとも、貧相な。だがまあ、堪忍しよう」

 そういい、瑞香の頬のあたりに口を近づける。強い口臭に瑞香は咽せた。男は愉しげに瑞香の背を大きく撫でた。手は、やがて瑞香の腰まで落ちた。身を捩って逃れようとする。が、男は腕に力を入れた。なお強く、瑞香は抱えられることになった。
 耳元で男は小さく告げた。

 「そなたはのう、ひとを辞めるのだ」
 「……え……」
 「辞めて、儂《わし》のものとなる」
 「……い、や……」

 男の胸に手をあて、引き剥がそうとする。その腕を掴み、男は瑞香の指を咥えた。こり、という感触に、瑞香は小さく悲鳴をあげた。
 男はかまわず、今度は瑞香の頸に手をかける。力を込める。
 動脈を圧迫された瑞香は、すぐに意識を失った。
 その頸に、男は顔を近づけた。口を開く。
 牙が、覗《のぞ》いた。
 と、そのとき。

 「……先生。瑞香は、瑞香はいかがなりましょう」

 背から利蔵が声をかけた。畳についた手が大きく震えている。
 男はわずかに振り返って舌打ちをした。
 
 「邪魔立てするでない。いまから術をするのだ。黙って見ておれ」
 「瑞香を、実際《ほんとう》に、あやかしに化《か》えていただけるのでしょうか……強い身体と、永い生命を、与えてくださるのでしょうか」

 男は応えず、利蔵に再び背を向ける。瑞香の前髪を弄ぶ。そのまま声を出した。

 「案ずるな」
 「代償は、わたくしの生命と、伺っております。わたくしは構いませぬ。ですが、瑞香を、傷つけなさるようなことは……」
 「くどい。そも、そなたはもうこの娘を儂に売ったのだ。契約は覆せぬ。支払いはそなたの生命で。戻すのは、娘の生命。だが……」

 男は目を見開いた。
 赫く光を宿した瞳が、縦に割れている。

 「身体を無事で戻すとの約束は、しておらぬなあ」
 「……なんと」

 利蔵は膝を浮かせた。
 男は構わず、瑞香の首筋に鼻を押し当てた。匂いを嗅いでいる。ふう、ふうという呼吸のたびに、男の姿が変容してゆく。
 髪が伸びる。耳元から肩にかけて黒く硬い獣毛が浮き出す。爪が鋭く尖る。
 膨張した筋肉を包みきれずに、神職の白い装束が破れて落ちる。
 熊に類した獣が、瑞香を抱いている。

 「案ずるなと申した。わが生命は千年も続こう。その間、この娘の魂は儂の身体のなかで生き続けるのだ。儂の一部としての」

 くぐもった声で愉快そうに嘲笑《わらい》い、獣は改めて瑞香の身体を睨《ね》め回した。

 「さて、どこから喰らうてやろうかの」
 「お、お待ちくだ……娘を、瑞香をかえ」

 縋ろうとする利蔵は、だが、獣の掌底により頬を打たれた。
 吹き飛び、襖を倒して、転がる。
 口の端から血を流しながら、それでも利蔵は、獣に向かった。背に取り付き、首に肘を回して締めようとする。
 獣の腕から瑞香の身体が落ちた。が、それは利蔵の反撃による効果ではない。

 「まこと煩《うるさ》くてかなわぬ。ならば先に代償からいただくとしよう。不味そうだが、堪えてやる」

 獣が身をひねると利蔵は背から剥がれ落ち、ふたたび転がった。
 その身体を跨ぐように獣は立ち、襟首を掴む。
 持ち上げ、利蔵の頭と同じ大きさの口を開ける。

 が、咀嚼には至らなかった。

 獣が、吹き飛んだ。
 巨大な槌で下から叩き上げられるように天井に打ち付けられ、どんと落ちた。
 ごぶり、と血を吐く。

 「無調法《ぶちょうほう》を詫びます」

 庭に面した障子が開いていた。
 開いた者は、残照の鈍い紅色を背に受けている。
 が、その輪郭がわずかに蒼く輝いているのは、おそらく天然の現象では説明がつかない。

 「店の戸を叩いたのだが、返答がなかったのでね。勝手に裏にまわらせていただいた……おお、土足であった。失敬失敬」

 男はしごくのんびりと云いながら、緩慢な動作で縁に腰掛け、黒い皮の長靴《ブーツ》を丁寧に外した。外すと、再び縁側に登ってくる。
 背が高い。先ほどの男、すなわち獣に引けをとらない。
 黒の二枚外套《インバネスコート》の下は銀灰色の大島紬《おおしまつむぎ》。
 ざらざらと流した細い前髪の奥から、かすかに光を宿しているようにも見える瞳を部屋の奥に向けている。
 と、端正なその白い面を歪めてみせた。

 「……臭い」

 視線の先にあるのは、隅で倒れている獣。
 が、すぐに目を背けて見せた。
 懐から純白の手帛《ハンカチーフ》を取り出して鼻にあてる。
 
 「堪らん。なぜこんな下劣を呼び込んだのです」

 言葉は、尻餅をついて震えている利蔵に向けられていた。
 が、利蔵は口をぱくぱくさせ、なんら応えられずにいる。それをしばらく眺めたのち、男は何か思い当たったように手を打ち鳴らした。

 「ああ、重ねて失敬。名乗りもせずに」

 云って、青味を帯びた髪をはらりと揺らして頭を下げた。

 「綺燐堂《きりんどう》 遊楽《ゆうら》と申します」
 「……ゆうら、せんせい……」

 利蔵の耳には、娘がなんどもなんども繰り返し口にした憧れの文士の名が強く残っていた。
 先生、というのを聴いて、男、遊楽は楽しげな表情を浮かべた。

 「ご存知か。光栄です。瑞香さんから訊かれたのでしょう。拙作をよく愛してくださったようだ。あなたはお父上ですね」
 「……は、はい……」
 「送ってくださった原稿は俺が一等先に読みました。佳《よ》い小説だった。が、匂いを感じた。喰われる、と。それで卦《け》を張り、本日まずいと出たものですから、約束もせずに伺った次第です。間に合ってよかった」

 そこで、倒れている瑞香を見下ろし、言葉を止めた。

 「……こちらが、瑞香さん」
 「……は、はい……」

 利蔵が応えると、そばに膝をついた。顔を、彼女のそれに寄せる。

 「……ふむ。佳い匂いだ。が、まもなく尽きる」

 そう云い、利蔵の方を見た。

 「改めて問う。なぜ、そんなものを呼び入れました。瑞香さんの病を治させようと考えましたか」
 「……や、その……瑞香を……あやかし、に……」
 「あやかしに、しようとしたのですか。なぜ」
 「……う、噂で、あの先生は、病の者にあやかしの身体を与えてくださると……そうすれば生命を永らえられると……どんな病人でも、健やかな身体を得られると」
 「ふ」

 男、遊楽はわずかに笑い、懐から手帳を取り出した。何かを書きつけている。閉じて、ペンの背で耳元を掻きながら嘆息した。

 「これで今月、三件目だ。どうなっているのやら」
 「……あな、たは……」

 利蔵の問いには応えず、遊楽は立ち上がった。
 獣のほうを再びちらと見遣って、短く告げた。

 「置いておけば、あと半時間で尽きます。瑞香さんの生命」
 「……え……」
 「あの化体《けたい》に魂を喰われました。一部でしょうが、手当をせねば死にます」
 「あ、あ……」
 「それからね、生者をあやかしに変じることができる者など、この世に数人もいない。そこの下等な怪異《もののけ》なんぞにできるはずもない」

 と、獣が動いた。
 わずかに身を起こしたと思うと、次の瞬間には跳んでいた。まっすぐ遊楽に向かう。振り上げた手には長い爪。
 遊楽は懐に手を差し入れ、引き抜いた。指先にはなんらかの紙片。文字のように見えるものが書き付けてある。
 その紙片が、発光した。
 蒼に眩く輝く。輝きは薄い膜のようなものとなり、男の前に障壁を形成した。
 獣はその壁に打ち当たり、弾き飛ばされた。再び転がる。

 床が揺れた衝撃によるものか、そのとき、瑞香が声を漏らした。
 利蔵がわたわたと這い寄る。

 「瑞香……瑞香」
 「……ん……おと、さ……」
 
 抱き抱える父親に、瑞香は手を伸ばした。
 その白い肌はさらに白く、精気はない。指摘されるまでもなく、誰の目にも、瑞香の生命は遠からず去ると思われた。
 遊楽は紙片をかざしたまま、場に不釣り合いな、浮き立つような声を出した。

 「どうします。選択肢は三つ。ひとつ、このまま奴に魂を喰われて終わる。ふたつ、あなたが闘って娘御の生命を取り戻す。みっつ……」

 ちらと二人を見下ろし、切長の目を細めて見せた。

 「瑞香さんを俺に売る。飼われあやかしとして、ね」

 ◇◇◇

 
 利蔵《りぞう》の思考は、止まっている。
 投げかけられた言葉が降りてゆかない。

 瑞香《みづか》は腕の中で、苦しそうに胸を上下させている。
 その息が徐々に細くなっていることが利蔵にも感じ取れた。
 なかば本能的に部屋の左右に目を走らせる。

 と、その心底を見透かしたように遊楽は言葉を続けた。
 
 「逃げても構いませんよ。瑞香《みづか》さんを連れて。あの怪異《もののけ》からも、俺からもね。が、結果は変わらない。瑞香さんの息が止まるのがこの部屋のなかか、あるいは路上か。その違いでしかない」

 口調は変わらず軽妙だったが、告げる内容は酷薄なものだった。

 「それともうひとつ。奴《やっこ》さんが死ねば、瑞香さんも死ぬ」
 「……え」

 利蔵の目に色が戻る。腰を浮かして振り返り、遊楽を見上げる。

 「なぜ……です」
 「瑞香さんの魂がもう、あれに紐づけられてるからですよ。まあ、契約とでも云いましょうか。弱いあやかしが魂を喰うにはね、まず相手を騙して自分に喰われることを承諾させないとならない。あなた、あれに、娘を頼むと云いませんでしたか」
 「……あ」
 「云ったでしょう。親子の縁にあるものがあやかしに頼むと告げれば、もう、いけない。瑞香さんは半分、彼岸《あのよ》に堕ちてるんですよ」
 
 利蔵はふたたび瑞香に目を落とし、沈黙した。

 「だから、俺にはあれを殺すことができない。あなたたちを連れて逃げることもできない。さっき云った選択肢はね、そのまま真実なんです」
 「……」
 「ぜんぶ諦めるか、契約を結んだあなた自身があれを屈服させて契約を放棄させるか、あるいは……」

 飼われあやかし。
 
 「……だめ、だ」
 
 瑞香を抱く利蔵の腕が、小刻みに震えている。
 傾けた首の角度が深くなる。額に血管が浮いてくる。小さく呟いている。
 
 「だめだ……わたしが、間違ってた、ぜんぶ、わたしの責任《せい》だ……もう、だめだ、あやかしなんぞ、絶対に……瑞香をそんな目に、二度と……」

 遊楽が何か言葉をかけようとした、その時。
 蹲《うずくま》っていた獣がやにわに身を起こした。
 立ち上がる。がふ、という音とともに息を吐く。

 瞳が昏い赫に燃えている。両腕を上げる。その先端の爪が変化していた。硬質な、鉄《くろがね》のような色を帯びている。長さも倍ほどになっている。
 背を丸める。畳を蹴り、遊楽に向けて突進した。すぐに光の壁に衝突する。が、今度は倒れない。
 爪をたて、壁を突き破ろうとしている。圧力は、遊楽を押した。

 ち、と舌打ちをして、遊楽は左の腕を懐に入れ、別の紙片を取り出した。口で食い破り、いくつかの破片として、畳の床に撒いた。
 破片は畳に接触すると同時に強く発光し、きん、という鋭い衝撃音を生じた。刃のような形状となった光は、破片の数だけ、獣の腹をめがけて飛んだ。
 獣はぐうと苦悶の声を漏らし、手を緩めて退がる。

 が、次撃は即座に繰り出された。
 獣は同じ軌跡で走り、同じように壁に衝突すると見えた。しかし、構えた遊楽の目前で瞬時屈んで横に蹴った。
 利蔵と瑞香の背に襲いかかる。
 爪が届く瞬間に、遊楽が獣の腕を蹴り上げた。弾かれ、仰け反った獣は、上がった腕をそのまま振り下ろした。遊楽も腕を交差し、防ぐ。が、衝撃を消しきれない。側頭部を打たれ、遊楽は瞬時、意識を遠くした。

 その隙に、獣は瑞香を攫《さら》った。
 利蔵が覆い被さったが、その腹に爪を立てて弾き飛ばした。
 もがく瑞香の頬を打ち、抱えて獣は天井に跳んだ。さかしまに張り付く。その両腕の間から、瑞香は目を薄く閉じ、だらんと首を垂らしていた。

 「……仕挫《しくじ》った」

 遊楽は頭部を押さえながら、しかし迅速にいくつかの紙片を取り出し、撒いた。部屋の四隅がびんと震え、光輝を帯びた。
 遁走《とんそう》封じを行ってから、遊楽は、足元で腹を抑える利蔵のそばに膝を立てた。後頭部を掴み、ぐいと顔に近づける。

 「猶予がない。云え。俺に任せると。娘を、瑞香を、俺に委ねると」
 「……だ、めだ」

 利蔵の腹から紅黒い血が流れている。手を当て、苦悶に顔を歪めながら、利蔵はわずかに首を振った。

 「瑞香、は、もう……わた、さない」
 「ならば元《はじめ》からそうすればよかったのだ! もう遅い、どのみち助からぬ、ならば俺に賭けろ、賭けると云え」
 「……」

 利蔵は何も云わず、横を向いた。
 遊楽は大声を上げるべく息を吸ったが、止めた。ふうと吐く。
 立ち上がる。
 口中で小さく何かを呟く。
 すると、光の壁が失せた。部屋全体を満たしていた蒼の燐光もかき消える。
 
 「……お二人の彼岸の旅、善いものとなるよう祈ります。迷うて出てこられぬように」

 すいと背を向け、縁側に足をかける。
 と。

 「……たい……」

 小さな声。
 天井の、獣の腕の間で、瑞香が声を出していた。
 利蔵はふり仰いだ。手を伸ばす。震える指を、娘に向ける。

 「あ……」
 「……おと……さん……き、たい……いきたい……」
 「……」
 「しにた、く、ない……」
 
 瑞香に意識があるのかは判断が難しい。
 いまは瞼も閉じているからだ。
 が、そこから落ちた涙が、瑞香の命運を塗り替えた。

 利蔵は、だんと膝を立て、畳に手をついた。
 遊楽の背に向けて頭を下げる。
 
 「どうか、願います、娘を、瑞香を、救ってください……」

 遊楽は、黙っている。
 利蔵は言葉を続けた。

 「……委ねます。あなたに、娘を、任せます、だから、だから」
 
 遊楽は、ふうと息を吐き、振り返った。
 懐から新たな紙片を取り出す。
 右の小指をかざし、その先端の皮膚を噛み切った。
 鮮血が手首を伝う。
 その血で、紙片に大きく、みづか、と書き付けた。

 「これで二重契約となる。あとは、獲り合いです。瑞香さんのね」

 と、瑞香のうめき声。
 獣が、彼女の肩に牙を立てていた。

 「ああ……瑞香」

 悲鳴をあげる利蔵の背越しに、遊楽は先ほどの紙片をかざした。薄い蒼に発光する。同時に、瑞香の身体も同じ色の燐光に包まれた。
 獣はいちど彼女の肩から口を離した。が、さらに強く齧り付く。
 苦悶の声をあげる瑞香に、遊楽は声をかけた。

 「瑞香さん……瑞香くん。聞こえているね」

 返答はない。が、遊楽は構わず続けた。

 「君は物書きだ。作家だ。世界を創ることができる。どんな世界が欲しい。どんな世界で、生きたい。そこで君は、どんな姿をしている」

 やはり、返答はない。その間にも獣の牙が刺さった箇所から鮮血が迸《ほとばし》り、床にぱたたと落ちる。
 利蔵は遊楽の顔を見上げ、わなないた。
 遊楽の声が、いちだん、強くなる。
 
 「考えろ。想像しろ。君の身体を。勁《つよ》い君を。造るんだ。自分を。世界を。君が自由に奔《はし》り、跳び、笑っている世界を」
 「……た、し」

 瑞香が、かすかに声を出した。

 「わ……た、し……の、せかい……」
 「そうだ。君の世界だ。屹度《きっと》、その世界で、君は美しいのだ」
 「……うつく、し、い」

 ぼう、と、瑞香を包む光がわずかに強くなった。

 「どんな姿だ。何をしている。云え」
 「……おおきなみみ……ひかる、め……ながい、おが、ふわりと、おどって……」
 「そうか。ならば、手足も勁《つよ》いのだろうな」
 「……どこにでも、ゆける、つよいあし……つめ、も、きばも、するどく……そのうで、は、どんなてきをも、うちやぶ、って……」

 単語ひとつが口から流れるたびに、光輝が増してゆく。
 遊楽はその言葉を己の血により流れるように紙片に記した。
 文字は、その置かれるそばから、光となった。

 「続けろ」
 「……まえに、すすむ……じゆうに、ほんぽうに、かのじょの、みちは、かのじょの、いのちは、ずっとずっと、みらいに、ながいじかんに、つながっ……て……」

 が、そこで瑞香の言葉が止まった。
 光は収束する。薄れ、静寂に戻ってゆく。
 遊楽は、叫んだ。

 「問おう。名は」

 瑞香の表情は、動かない。
 生命の火が残っているかは、読み取れない。

 「美しい君を、勁い君を、俺は、なんと呼べば善《よ》い」

 反応がない。
 遊楽は、だが、信じて待った。

 報われたのは、十を数えた頃だった。
 瑞香の唇が小さく動いた。

 「……り、る、る……」

 刹那。
 部屋のすべてが、直視することの能《あた》わぬ光で埋められた。

 同時に、匂い。
 咽《む》せ返るような沈丁花の芳香。

 ◇◇◇

 
 眩《まばゆ》い光はすぐに失せた。
 室内にとろりとした夕の翳《かげ》りが戻る。

 が、情景は先刻と同一ではない。
 部屋の奥、天井の隅でさかしまにへばり付いている獣の腕の数。
 それが、異なった。
 ひとつ減じている。
 腕いっぽんとなった獣は、どうと音を立てて床に落ちた。
 
 霧のような、淡く蒼く、涼やかな光。
 それが波のように漂いながら、部屋をしずかに満たしている。
 
 女が、いる。
 部屋の中央、畳床に片膝と両の拳をついている。
 背で踊る腰までの髪は、蒼く、穏やかに発光している。
 部屋を満たす光は、その髪と、彼女のやや伏せた瞳が宿す蒼い炎に由来しているようだった。
 肩をゆっくり、上下させている。
 頭頂に立つ尖った耳は、空気を捉えようとするように時折り、ぴくりと動いた。
 呼気を吐くたび、光の霧がゆらりと揺れる。

 やがて、女はゆっくりと顔を上げた。
 伏せた瞳を正面に向ける。
 縦に割れた瞳は強い光を湛えている。
 その瞳を、端に紅を置いたおおきな目のなかで動かし、左右を見た。
 
 と、首をぶんと振る。なにかが飛んだ。
 遊楽と利蔵の足元に、太く黒いものが転がった。
 獣の腕だった。女の歯形が刻まれている。
 切断面には悍《おぞ》ましい、蛇のようなものが多数生じている。
 利蔵はそれを視認し、失血の影響もあったか、昏倒した。

 遊楽は、目を見開いている。
 寒気を感じたように、いちど、ぶるりと上体を震わせた。
 ひとこと、漏らす。

 「……美事《みごと》……」

 女は、銀の牙の覗く口元を、ぐいと甲で拭った。
 立つ。
 背に、髪とは別のものが揺れている。
 長い尾は、頭頂の耳と同じ、薄い蒼色の獣毛で覆われていた。

 何も身につけていない。
 過剰なまでに存在感を示す隆起を、だが、女は気にする様子がない。
 腕を持ち上げ、手のひらを顔の前でひらめかせる。
 爪紅《つまべに》をつけているよう思えたが、その長い鉤爪は、紅ではない。瞳と同じ、煌めきを含んだ蒼は、彼女が指を動かすたびに鉄《くろがね》が接触するような音をたてた。

 ふたたび左右を睨《ね》め回して、女は、伸びをした。
 右手を天に掲げ、左は、頭の後ろに曲げている。
 上腕のしなやかな筋肉が滑らかな曲線を描いている。

 「ふ、ああ」

 伸びと欠伸を収めて、女は目元に涙を浮かべた。
 と、遊楽の立つほうへ目を向ける。
 しばし、珍しいものを見つけたという表情をつくっていたが、やがて、にいと口元を歪めた。長い牙が覗く。目を半月にして、女は、踏み出した。
 品を作るように、あるいは勿体ぶるように、遊楽に近づく。

 「……ね」

 手が触れる距離になる。
 並べば、遊楽よりは低い。が、そう変わらない。
 女は右手を差し出した。遊楽の胸に手のひらを置く。
 人差し指を出し、上になぞる。
 顎《あご》に至り、口元に辿り着き、長い爪で、かり、と唇を掻いた。

 「呼んで、おくれよ」
 「……なにをだ」

 遊楽は表情をつくらず、短く応えた。
 女は上目で、愉しむような声を出した。

 「あたしの、名を、さ。識《し》っているのだろう」
 「……最前《さいぜん》、聴いた」
 「あは……ね、あんたさ、佳い匂いがするねえ」
 
 遊楽はわずかに眉を歪めたが、反駁しない。女は目を細めた。

 「おんなじだ。あたしとおんなじ、匂い」
 「……」
 「匂いを、溶かしてさ。互いに溶かして、ひとつになってさあ。ああ、堪らない。背の骨がぞわりとするよ……ね、ちょいとさ、あたしの頸《くび》、歯、立てとくれよ」
 「……なにを云っている」
 「なにでもいいからさあ、ね。魂縛《ちぎり》だよ。証が欲しいじゃないかさ……あんたが確実《たしか》に、あたしの色《もん》だって」
 「……いつ俺が、君のものになった」

 女は一歩退がって、艶めいた唇を大きく開いた。はあ、と息を天に吐く。沈丁花の香気が一段、濃くなった。下目に遊楽を見遣る。

 「あは。あはは、はあ……ああ。いいねえ」

 遊楽の首に、両手を廻す。手のひらを頭の後ろに這わせる。ぞろりと撫でて、顔を近づける。遊楽の左の頬は、女のそれに、重なった。
 耳許に、女は囁いた。

 「……あたしの名は、りるる」
 「聴いたと云った」
 「ね、どうして、召《よ》んだんだい。あたしを」
 「召んだのではない。君は、みづ」

 遊楽の口が言葉を出そうとするのを、りるるは強い抱擁によって封じた。

 「……遭《あ》いたかったんだろう、あたしに。そうに相違《ちがい》ない。そうだろう。相違ないよ……」

 りるるは遊楽の両肩に手を置き、いちど離した。
 先ほどから遊楽の瞳は銀に輝いている。
 それを眺めて、りるるは、満足そうに男の胸に撓垂《しなだ》れ掛《か》かった。

 遊楽は嘆息したが、りるるの肩越しに、気付いた。
 
 「おい」
 「んん……も少し、こうさせておくれよ」
 「場合ではない。気がついておらぬのか」
 「なにがさ」
 「後ろだ」

 遊楽の視線の先で、獣が立ち上がっていた。
 失った腕が再生しかけている。
 赫《あか》く蠢《うごめ》く組織が肩から先で腕の形状をとっている。
 太い牙の覗く口端からどろりとした泡を吹いている。

 「……見るんじゃないよ、そんな汚いもの」
 
 りるるはわずかに眉を顰《しか》め、それでも遊楽の胸で目を閉じたまま、夢を見るようなゆるりとした声を出す。

 「ねえ、そんなことよりさ。あたしの髪、どうだい。耳は。爪も、ほうら、綺麗だろう。好いてくれるかい。ねえ」
 「……みづ……りるる」
 「ああ、呼んでくれたねえ。嬉しや……ね、も一度。ねえ」

 と、獣が踏み出した。
 遊楽はりるるを軽く押し除け、懐に手をいれる。
 が、りるるが邪魔をした。胸を押し付け、手を封じる。

 「おい」
 「……あたしの、あんた。ね、今夜は、さ……」

 獣は、屈み込んだ。踏み切る。
 跳んだ身体が、りるるの背に殺到した。
 りるるは、腕を離した。

 獣の姿がない。
 数泊遅れて、轟音。
 裂かれた空気が悲鳴を上げた。風が打ちつける。破片が舞う。
 遊楽から見て左の壁が崩壊していた。
 轟音の中で、りるるはふわりと着地した。再び遊楽の胴に腕を廻す。
 
 離れた瞬間、りるるは音の速度で回転していた。
 回転した右足は獣のこめかみを精確に打ち抜き、胴と頭部を分けた。
 獣だったものは壁に衝突し、崩壊しながら構造を突き破った。
 庭先に転がった肉片がごぼりと音をたてて形象を喪失しつつあるが、それは彼らには見えていない。

 「……あたしのことだけ、見ていてお呉《く》れよ」

 遊楽はしばらく壁に開いた穴の向こうを見つめていたが、やがてふうと息をつき、りるるに視線を落とした。

 「……君はちと、暴力が過ぎるようだ」
 「なんだ。救けたんじゃないか」

 不満そうに口を尖らせ、りるるは上目に遊楽を睨んだ。
 と、遊楽は構わず、りるるの肩を掴んで引き剥がす。
 掴んだまま身体の向きを変え、あるいは後ろを向かせ、腕を上げさせ、指を伸ばし、しげしげと眺める。
 りるるは不思議そうな表情で、されるままにしていた。

 「……しかし。実際、美事《みごと》なものだ」
 
 その言葉に、りるるはにいと口角を上げてみせた。

 「惚れたかい。佳い身体つきだろう」

 遊楽は応えず、二枚外套《インバネスコート》を脱いだ。ぱさりと投げて寄越す。

 「着ておけ」
 「要らないよ」
 「君に云っているのではない。瑞香くんにだ」

 と、ちょうどその時。
 りるるの表情がやにわに強張《こわば》った。腕をあげ、手のひらを見る。その手が小さく震え出す。
 震えはすぐに全身に降りた。膝を折りかける。呼吸が荒くなる。
 先ほどまでの挑戦的な、自信に溢れた表情が失せている。遊楽に縋るような目線を向ける。
 遊楽はその肩をぐいと抱き寄せた。
 りるるを燐光が包んだ。徐々に強くなり、眩しい光となり、周囲を満たしてゆく。
 光はりるるの姿を隠して、やがてふと消失した。

 遊楽の腕のなかで、瑞香は意識を失っている。
 その薄く細い背を支えて、ゆっくりと床に下ろした。
 黒髪が床に流れている。

 「……沈丁花、か」

 何も知らぬげな瑞香の表情。穏やかに目を瞑っているその横顔をしばらく眺め、気づいて外套を掛けてやりながら、遊楽は小さくつぶやいた。

 <第一話 了>