静まり返った黒狼屋敷の廊下に、ゴチンと鈍い音が響きわたった。
「つぅ……」
たった今しがた柱に頭をぶつけた香夜は、追いかけるようにしてやってきたその痛みに顔をしかめる。
視界が揺れ、ぼやけていた。身体も熱く、思考も上手くまとまらない。
思い返せば数時間前、凪に誘われて大広間に行ったのが運の尽きだったのかもしれない。
あれは、午後を少し過ぎた頃だっただろうか。
示し合わせたかのように廊下の曲がり角で鉢合わせたのは烏天狗の頭領である凪と、土蜘蛛の当主・伊織の二人だった。
「お二人とも、来ていたんですね」
「……あんたって本当に無防備なんだな。黒狼の屋敷をそんなにボケっとした顔で歩いてるヤツとかはじめて見たんだけど」
会釈した香夜を見て一瞬驚いた顔をした伊織が、呆れ声でそう言う。すると、横にいた凪が笑いながら手のひらを振った。
「いやいや、今の識なら屋敷の真ん中で寝腐っとっても平気やろ。姫さんにベタ惚れやし。……あかん、自分で言うて空しくなってきたわ」
言葉の途中で顔色を変えていく凪を、口をへの字に曲げて見やる伊織。
両極端なふたりに苦笑いしていると、凪がぱっと顔を上げた。
「あ、そうやちょうどええ。今日、今から大広間で宴があるんよ。姫さんもよかったらこん? 人間用に甘ぁく薄めた蜂蜜酒でも飲んどればええから」
「宴……ですか?」
「そそ。センリが企画したんや。えぇっと、ほら、なんやったけ……人間界で最近流行り始めたっちゅう、渡来もんの祝日……」
額を指先でつつきながらうなる凪に、伊織が深いため息をつく。
「お前の猫は‟クリスマス”って連呼してたぞ」
「そそそそ! クリスマスやクリスマス! やるやん伊織」
「くりすます?」
初めて聞いた横文字に、小さく首をひねる。
――渡来ものの祝日ということは、西洋の祝いごとなのかしら。
そもそも香夜は世間一般的な知識をあまり持ち合わせていない。
そのため、このように知識面で凪たちに劣ることが多々あった。
きょとんとする香夜を前に、凪があっと声を上げる。
「でも識も呼ばんとあかんかな? 一人だけ除け者にされたって知ったらめっちゃ拗ねるんちゃう? しゃあない、後で呼びに行ってくるわ」
「この人を酒の席に誘ったって識に知られることの方がまずいと思うけど……」
面倒くさそうに眉をひそめる伊織に、思わず目を瞬いた。
伊織がそのような宴に参加するなんて、珍しいと思ったからだ。
識や凪の他に誰もいなかった黒狼の屋敷に、妖が戻り始めて数か月。
このような催しは、屋敷を盛り上げるという意味でも効果的だろう。ぎゅっと手のひらを握りしめた香夜は、わちゃわちゃと言い争いをしている凪たちに向きなおった。
「あの、ぜひ……私も参加させてほしいです。準備とかがあれば何でもお手伝いしますので」
♢ ♢ ♢
そうして参加した宴の席は、当たり前ではあるもののどこを見渡しても妖だらけだった。
「黒狼さま、こないみたいだな」
「そうですね……」
残念そうに尻尾を下げた‟猫又”のセンリに、同調しながらうなずく。
結局『クリスマス』の宴は当主である識不在のまま進められた。
「せっかく人間界のことを調べて‟つりー”とかも用意したのにな~」
センリが、もふもふな手で座敷の中央を指す。
つられて視線をずらすと、そこには色とりどりの短冊が下げられた盆栽が置かれていた。
クリスマスについての知識がない香夜でも、何かが間違っていると分かる飾りつけだ。
「なにあの盆と正月が一気に来たみたいな飾り。ふざけてんの?」
同じことを思ったのか、伊織が怪訝な顔をしながら‟つりー”らしき盆栽を見ていた。
「まあまあ、ええやん。こういうのは形式より楽しんだもん勝ちやから。それなんにあの根暗当主ときたら……」
じっとりとした声を落としながら、盃をあおる凪。
今思えば、冷静に考えて識がこのような浮かれた席に来るはずがない。
それでも凪は、あきらめることなく何度か識を呼びに行っていた。
そしてゲッソリと憔悴しきって帰ってくる、の繰り返し。不毛な挑戦が五回ほど続き、まさか一度も顔見せんとは思わんかった、と恨み節をつぶやいていた。
それでも、さすがは常夜を統べる黒狼屋敷の宴だ。赤く漂う狐火の中でさまざまな妖たちが一同に集う様は圧巻だった。代々常夜頭に仕えている土蜘蛛たちも当主の伊織と共に来ており、宴は大盛況を博していた。
「なあ、香夜。オイラも詳しいことは知らないけど‟クリスマス”は大切なひとと一緒に過ごす日らしいぞ」
「大切なひとと……?」
「だからオイラ、今日の宴を開こうって思ったんだ。オイラにとって香夜たちは何にも代えられない大切なひとだからな」
上気した頬をすりつけながら、ゴロゴロと喉を鳴らすセンリに胸をうたれる。
いつか凪がしていたようにセンリの頭を撫で、香夜はふんわりと微笑んだ。
「私も同じ気持ちです。素敵な宴を開いてくれてありがとうございます」
「でも、香夜は黒狼さまと過ごしたかったんじゃないか?」
「それは……」
識のことを思い浮かべた瞬間、ぐらりと視界が揺らぐのが分かった。
きらびやかな宴の空気にあてられたのか、大勢の妖に囲まれて緊張したのか、手元にあった椀に入った液体を飲んでから意識が朦朧としているようだ。
「ごめんなさいセンリ、私、ちょっとお水もらってきますね」
「大丈夫か? オイラもついてくぞ!」
心配するセンリにふるふると頭を振りながら、人差し指を口元に当てた。
凪たちに抜け出したことがばれてしまうと、きっと心配させてしまう。そんな香夜の仕草が伝わったのか、センリはハッとした顔をしてコクコクとうなずいた。その様子を見届けた香夜は、そっと息を殺して大広間を出たのだった。
――と、誰にも気づかれずに宴を抜け出したまではよかったのだが、自分はどうやら迷ってしまったらしい。
黒狼の屋敷は常夜の中央に鎮座しており、その敷地は一日で回り切れないほどに広大だ。
しかも巧妙に入り組んだその屋敷は、当主の力量に比例して生き物のように形を変化させる。
現当主は歴代最強の力を持つ識。つまり、識の気分次第でこの屋敷の構造が変わるのだ。
改めて、なんと奇怪な家だろうか。柱にぶつけた頭をさすりながら、ふらふらと歩いていると、目の前に鮮やかな猪鹿蝶の襖絵が書かれた扉が現れた。確かここを開ければ厨房へと続く廊下があったはずだ。
襖が開くと共に、かぐわしい華の香りが鼻先をくすぐった。
中にいた人物を見て、思わず小さな声が出る。
「なんで、識がここに……」
香夜がそう呟くと、部屋の中にいた美形の妖――識はこちらを見て、満足そうに笑った。
休んでいたのだろうか、身にまとった着物はいつもより大分着崩れているように見える。
「この座敷は、ある人のことを強く想わねばたどり着けない」
「ある人って……」
頭のなかでは答えが出ているのに、つい問うてしまった。
そんな心の内まで見通すかのように、識は香夜の手をゆっくりと引き寄せる。
「この俺のことだ」
耳元でささやかれ、カッと頬が熱くなった。どうやら香夜が水を求めてたどり着いたこの座敷は、識の自室のようだった。
熱にうなされたようにぼやける脳内が、識の甘い声色で一層茹だっていく。
水を取りに行こうとしていたんです、と口を開こうとしたその時、識の動きが止まった。そしてそのまま訝しげな顔をしてこちらを見る。
「香りがいつもと違う」
「えっ、わっ……!」
力強く腕を引かれ、香夜の身体は呆気なく識の大きな腕につかまってしまった。
そのまま首筋の香りを嗅がれ、反射的にひくりと身をすくませる。
「……酒か? まさか凪の言っていたふざけた宴にいたのではないだろうな?」
先程まで上機嫌に見えた識の表情が、一瞬にして険しく歪んだ。識から漏れ出した強い苛立ちの色に、硬直する。
香夜の反応を肯定の意と捉えたのか、識は背に回した手にぐっと力を込めた。
「この香りは、上級の妖が好んでよく呑む魔酒のものだ」
「そんなもの飲んでな……あっ」
思い返してみれば、香夜がこんな風になったのはあの椀に入っていた液体を飲んでからだった。もしかするとあの液体が、識の言っている魔酒だったのだろうか。
「頬が赤く染まっているのも、俺が触れているからではなく酒のせいか」
識の指がスッと頬を撫で上げる。それはいつものように甘い仕草であったが、こちらを咎めるような雰囲気も孕んでいた。
「ちが……聞いてくださ……」
「何を聞けばいい」
意地の悪い言い方をする識の声は、ひんやりと凍っている。
そもそも識が宴に来なかったのが悪いのではないか、そう思い、識を見た。顔を上げると、息がかかるほど近くにあった識の瞳と目が合う。吸い込まれてしまいそうな、深紅が揺れていた。
「……識も、宴に来て欲しかったです」
「なに?」
「クリスマスは、大切なひとと過ごす日らしいです。私にとっては凪も、伊織さんも、センリも、大切なひとたちです。でも……識は特別だから」
ぎゅっと着物を握りしめ、おそるおそる目を開ける。すると驚いた顔をして固まっている識の姿があった。
目線が絡み合い、識の瞳がゆっくりと揺れる。
「識……?」
「そのまま目を閉じていろ」
識の指先が香夜の頬にそっと触れる。先ほどとは違い、壊れ物に触れるようにして動く指に小さな声が零れ出た。
「宴や特別な儀は必要ない。俺は、お前がこうしてそばにいてくれるだけでいい」
切実に響いた言葉と共に、ふわりと識の唇が重ねられる。
身体が真綿に包まれたように温かくなった。それは酒のせいなどではなく、識から伝導した甘やかな温度。
何度目かのキスが交わされ、再び識と目が合う。その、心から愛おしいものを見つめているかのような表情に思わず目を奪われた。
「し、識……も、もう……」
「止める? おかしなことを言う。逃げようと思えばいくらでも逃げられるはずだが?」
そうしないのはお前の方だろう、と言わんばかりの微笑みに、胸の奥がじわりと疼いた。
遠くの方から、‟クリスマス”の宴を楽しむセンリたちの朗らかな声が響いていた。
凪の言うとおりだ。こういう祝いごとは形式を重んじるよりも、楽しむ気持ちが大切なのだろう。
「あとで、一緒に広間へ来てくれますか?」
「……ああ」
小さくうなずいた識に、笑みを返す。
赤く肥えた月が空に浮かんだ常夜は、年の瀬にもかかわらず穏やかな春風が吹いていた。
このままいつまでも、愛おしいひとたちに寄り添って生きていきたい。
優しい華の香りに包まれながら、香夜はゆっくりと目を閉じるのだった。
【完】



