「ちょっと」


 高校生になって一ヶ月が経ち、少しずつ新しい生活にも慣れてきた時。中学生の時と変わらず、何事もない日々は突然の終わりを告げた。
 なんて言うと大袈裟だけれど、そのくらい私には衝撃的だったのだ。



***


 整い過ぎている容姿の男子、倉石航《くらいしわたる》君と並んで教室に入った時、一瞬教室がしんとした。私はクラスメイトの視線を痛いほど感じながら自分の席につく。

「うそ!」
「やだ! 灯《あかり》の言ったこと本当だったの?」

 こそこそと話す女子の声が聞こえてきた。

「でも、確かに木村さん美人だもんね」
「クールビューティー」

 私の心は嵐のように混乱しているのに、悲しいかな、たぶん表情には出てないんだろう。

 全然クールでもビューティーでもないんだけどな。ああ。早く優菜《ゆうな》に話したい。

 私は中学の時からの親友の顔を思い浮かべて、一限目の数1の教科書を机に出した。早く昼休みになって欲しいと思いながら。

 
***


 昼休みを告げるチャイムと同時にお弁当箱を手にすると、私は優菜のクラスに急いだ。優菜を呼ぼうと教室を覗くと、ここでも視線の洗礼を受けた。ああ。この調子だと……。

「月香《げっか》、いつの間にこんなことになったの?」

 優菜がお弁当箱を手に教室から出てきた。優菜は私の顔を注意深く見て、ため息をついた。

「ほらほら、泣かない泣かない。ここじゃ目立つから私の部室行こう」

 私より5センチほど背の低い優菜が私の背中を押す。もちろん私は涙を流してはいない。でも、付き合いの長い優菜にはお見通しなのだろう。

「それで、倉石君に告白されたの?」

 文芸部の部室で優菜が訊いてきた。優菜のクラスまで広まってるんだ。

「それが……」

 私は今朝の出来事を優菜に話し始めた。



***


 いつものように桜庭高校の最寄りの駅で電車を降りたときだった。


「ちょっと」


 と腕を掴まれて、驚いて振り返るとクラスメイトの倉石君がいた。倉石君はクラス一、いや、もしかすると学年一かもしれないくらい全てが整った男子だ。そして、私が密かに気になっている人だった。その倉石君が私に何の用だろう?

「は、はい?」
「悪い、木村さん。頼まれてくれないかな」

 倉石君に耳元でこそっと囁かれて、私は硬直した。心臓がバクバク言っている。
 たぶん普通の女子だったら、顔が赤くなっているところ。でも私は側から見たら無表情のままなんだろうなあ。

「頼みごとって……」 

 私が胸を押さえながら訊き返そうとすると、

「倉石君!」

 確か同じクラスの佐藤灯さんが倉石君を呼び止めた。

「私、やっぱり倉石君のこと諦めきれない。彼女がいるなんて、聞いたことないもん。どうせ断る口実なんでしょ?」

 私は見てはいけない気がしてその場を去りたかったけれど、倉石君の手がそれを許さなかった。それどころか、倉石君は私をグイと引き寄せた。

「俺と付き合ってるのは、この木村月香《きむらげっか》さんだよ」

 頭が真っ白になる。
 な、何が起こってるの?

 「ね? 月香」

 美しすぎる顔はすごむと非常に怖ろしいのだと私は知った。私は言葉を発することが出来ず、ただ頷くしか出来なかった。

 佐藤さんの瞳に絶望が宿るのを見て、私は胸が痛んだ。失恋てどんなに辛いことだろう。

「わ、私、諦めないから!」

 佐藤さんはそう言って走って駅を出て行ってしまった。私は呆然と佐藤さんの背中を眺めていた。

「歩きながら話そっか」

 倉石君の言葉に私は惚けたまま頷く。私たちは学校までの道を歩き出した。

「木村さん、付き合ってる人いる?」
「いません」

 私は残念ながら今まで彼氏ができたことがない。高校生になれば何かが変わるんじゃなんて思っていたけれど、悲しいかな、全くそんなこともなかった。

「良かった」

 倉石君は直視できないくらい眩しい笑顔でそう言った。私には何が良いのかさっぱり分からない。

「単刀直入に言うね。俺の彼女のフリをして欲しいんだ。木村さん」
「え……?」

 彼女のフリ? えっと彼女じゃなくて、彼女のフリ?

「木村さんはいつも冷静だし、電車の中でも本ばかり読んでるし、なんか男子に興味なさそうだよね」

 私は「いやいや」と突っ込みたかった。
 周りには誤解をされているけれど、私は決して冷静なんかじゃないのだ。表情筋が発達してないのか、感情が全く顔にでないだけで。
 そしてカバーをかけてるから分からないだろうけど、私が読んでるのは甘々な少女漫画。心の中では少女漫画のような恋を夢見る妄想乙女なのだ。倉石君と付き合っている妄想を何度したことか。

「だから、木村さんなら俺を好きにならないと思って」

 はい?

 もう、全然意味が分からない。私、倉石君が気になっていて、好きになる一歩手前なのに。

「俺、高校に入ってから一ヶ月でもう何人もの女子に告られて、中にはストーカーになるんじゃって娘《こ》までいて困ってるんだよね」

 それは羨ましいような悩ましいような。

「でもクールビューティーの木村さんと付き合ってることにすれば解決できるんじゃないかと」

 私はようやく事態が読めてきて、急に心がしぼんだ。

「……つまり、騙すんですか?」

 私の責めるような言葉に倉石君は少し顔を歪めた。歪んだ顔も憂いを帯びて美しい。

「まあ、そうなるね。俺は誰とも付き合うつもりはないんだ。それなら、諦めて次の恋を探すほうが彼女たちにとってもいいんじゃないかな」

 私は先ほどの佐藤さんの目を思い出して悲しくなった。

「彼女たちは真剣です」
「……うん。分かってる。だから余計に付き合えないんだよ」
「……もしかして、倉石君て、女性を好きになれないタイプですか?」

 私の言葉に倉石君は、へ? と形の良い目を大きくして、そして次の瞬間笑った。

「あはは。そう言うわけじゃないけど。将来的には結婚もできればいいなと思ってるし」

 私はますます分からなくなる。

「俺は告白されて付き合うんじゃなくて、自分が本気で好きになった子と付き合いたい。でも、たぶんそれはまだ先。俺、女子って苦手だから」

 何か理由があるのかもしれないけれど、そこまでは訊かない方がいい気がして、私は、

「私も女ですが」

 とだけ言った。

「ああ、ごめん。気を悪くした? なんか木村さんは堂々としてるし、表情も変わらないし、オンナオンナしてないよね」

 それは私に女子力がないということ?

 気になる人にこんなこと言われる私って悲しすぎる。

「とにかく、木村さんなら俺を好きにならない気がする。だから木村さんに頼みたいんだ」

 私は視線を地面に落とした。

「……じゃあ、私がもし倉石君を好きになったら?」

 私は消え入りそうな声でそう問いかけた。
 倉石君の足が止まる。

「そうなったら、それは困るかな」 

 困る……。
 ああ。失恋て、こんな感じなんだ。心が冷たく死んでいくようだ。

「木村さん?」
「私には向かないと思います。私は倉石君が思っているような人間じゃないから」

 私はそれだけ言って、その場を立ち去ろうとした。その私の腕はまた倉石君に掴まれた。

「木村さん! お願い! 理不尽なことを頼んでるのは分かってるんだ。でも、こんなこと頼めるの、木村さんしかいないんだ」

 倉石君のすがるような目。
 断りたい。倉石君は私を誤解してるし、何より私は倉石君に好意を抱いている。だから彼女のフリなんてできっこない。想いを知られたら嫌われるかもしれないのに。それでも倉石君のこんな顔は見たくないと思ってしまう私、馬鹿だ。

「途中で無理だと思ったらやめます。それでもいいなら」 

 それが私の出した答えだった。

「良かった。ありがとう! これからよろしく木村さん。じゃなくて、月香って呼ぶことにしていい? 月香も俺のことは航でいいから」

 倉石君の心地良い声で名前を呼ばれると、全身がむず痒いような、痺れるような不思議な感じがした。

「わた、る、君。すみません。これが限界です」

 私は倉石君から目を逸らして言った。

「じゃあ、それで。それから俺たちタメなんだから敬語はやめよう」
「……分かり、分かった」

 恐る恐る倉石君を見つめて言い直すと、倉石君は美しすぎる笑顔を見せた。

 だめだ。ときめいちゃだめなのに。私、今世界で一番不幸で幸せかもしれない。

 結局、私たちはそのまま二人で学校まで歩き、教室へと入ったのだった。
 

***


「そんなことが」

 私の話を聞き終わった優菜が楽し気にそう言った。もう、他人事《ひとごと》だと思って。

「月香の顔、全然変わんないけど、内心妄想でいっぱいなんじゃないの? いつのまにか惹かれ合う二人。『月香、やっぱり俺と本当に付き合ってくれ!』 『私で良ければ喜んで!』」

 私は優菜の言葉に頭を振った。

「そんな簡単なことじゃないよ。私が倉石君を好だって倉石君に気づかれたら終わるんだよ?」
「難儀なことね〜。自分は月香の青春を奪うような頼み事してんのに」

 優菜の言葉に私は、

「青春を奪う?」

 と訊き返した。

「だあってそうでしょう? 月香に他の男寄ってこないよ? あんないい男の倉石君がそばにいるんだから」

 私は絶句した。

 そっか! じゃあ、私、倉石君と付き合ってることになってる限り、新しい恋愛できないんだ!

「今、分かったの? ショックうけてるんだろうけど、顔、全然変わってないよ、月香」
「やっぱり? 泣きたいくらいショックなのに」

 私の言葉に優菜ははあとため息をついた。

「月香ってさ、長い黒髪はサラサラで、切れ長の目も麗しく、色白で見た目はほんと、和風美人でさらにモデル体型。表情が乏しいせいでクールビューティーなんて言われちゃってるけど、本当は感情豊かな普通の女子なんだよね。なのに損してるわ」

 私は優菜に抱きついた。

「優菜〜! ほんとだよ〜! 私普通の女子なのに!」
「私も月香の表情と思ってることのギャップを理解するの、半年かかったもんね。今のクラスにも理解者ができれば月香も楽なんだろうけど」

 私は優菜の言葉に、

「それは難しそう」

 とポツリと返した。

「今までも近寄ってくる子いなかったけど、今日、倉石君と教室入った時、ほとんどの女子が私のこと凄い目で見てたから、たぶん敵視されたんだなと」
「はあ。倉石君てほんと罪作りね」
「やっぱり断ればよかったのかな」
「まあ、でも、あんな美形にこんな頼まれごとされたら断るのも難しいよね」

 私は首を横に振った。

「ちょっと違うかな。なんかね。倉石君、必死だったんだ。だから断れなかった」
「月香、お人好し過ぎ」

 優菜は私の背中をポンと叩いた。

「まあ、これから色々ありそうだけど、頑張って! 私にできることなら力になるから。面白そうだし」
「ありがとう。最後の一言は聞かなかったことにするね」


***


 教室へ戻ろうとすると、教室前の廊下の壁に寄りかかるようにして倉石君がいた。

「ちょっといい?」

 倉石君は私の手首を掴むようにして、ずんずんと歩いて行く。手を繋いでいるわけではないのに、私はそれだけでドキドキした。

 倉石君は平気なのかな? もしかして女慣れしてるのかな。

 人気のない渡り廊下まで来た倉石君は、

「昼、一緒に食べて作戦会議したかったよ。
いつも一緒に食べてる友達がいるの?」

 少し面白くなさそうにそう言った。

「ご、ごめん。うん。違うクラスの子なんだけど、毎日一緒に文芸部の部室で食べてるの」
「ふーん。それじゃあさ、たまには俺とも食べること。その友達も一緒でもいいし。それから、俺、バレー部だから、帰りは6時頃になるんだ。悪いけど待っててもらえないかな? さすがにフリとは言え、付き合っている印象付けたいからさ。登下校は一緒にしたいんだ。月香は部活は入ってる?」

 と声を潜めて言った。

「部活入ってないけど、いつも優菜のいる文芸部で読書してる」

 私もなんとなく小さな声で返す。

「じゃあ、俺が部活後文芸部の部室に寄るか、月香が体育館来るかしようか」

 二人で登下校……。恋人らしい!

 私は鼓動が早まるのを抑えられなかった。

「で、月香の方は何か要望はないの?」

 倉石君にじっと見つめられて、私は視線を受け止めるのが恥ずかしくて俯いた。

「月香?」
「えっと、航君の部活の様子見てみたい、かも」
「そんなこと? いつでも来るといいよ。ただ、見学の女子が多いから気をつけて。それじゃ、そういうことで。細かいことは今日の帰りにでも。あ、やばい。授業始まる。教室へ戻ろう」

 私たちが教室へ戻ると、ちょうど授業が始まるチャイムが鳴って、

「こら、遅いぞ。二人とも早く席に着け」

 と生物の先生に怒られた。

 鋭い視線を感じてそちらを見ると佐藤さんが睨んでいた。私が見つめ返すと、佐藤さんは悔しそうに顔を歪めて視線を逸らした。佐藤さん、本当に倉石君が好きなんだろうな。

 同じ立場なのに、私だけあくまでもフリとはいえ倉石君と付き合うことになってしまったんだもん。何も知らない佐藤さんには恨まれて当然だよね。少女漫画では、ライバルとは仲良くなれる展開もあるけど、現実はやっぱり無理なのかな。

 そんなことを考えていたらいつの間にか授業が終わっていた。ノートほとんどとれてない。確か倉石君、頭も良かったはず。後でノート見せてもらえないか頼もう。

 それよりもまず。
 今日、夕方倉石君と本当に一緒に帰るんだろうか。帰るんだよね。
 何話したらいいんだろう。心臓持つかな、私。

 私の比較的平穏だった日常は、こうして幕を閉じた。