「急げ急げ!」
 一人の男が薄暗い森の中を全力で走っていた。
 枝をかき分け、幹をかわし、落ち葉を踏み、前へ前へと進んでいく。
「急げ急げ……あッ!」
 しかし、一際大きな木の根に躓いて転んでしまう。その拍子に男はしっかりと握っていたはずの斧を落とした。斧は派手な音を立てながら転がっていく。
 そして――ぽちゃん、と小さな水音が男の耳に届いた。
「ああ! 斧が……」
 男は倒れたままで反射的に湖へと手を伸ばした。が、湖に沈んだ斧が戻ってくるわけではない。
「痛たた……」
 男はどうにか立ち上がると、湖に近づいていった。
 湖の周囲は森を切り抜いたような広場になっていて、小さな湖は不自然なほどに透明だった。
 どうにかして取り戻さなくては、と男は湖面を覗き込む。
 その時――
「な、なんだ!?」
 急に湖全体が輝き始めた。驚いた男が眩しさから目を覆う。
 直後、湖の中から白い布をまとった女性が浮かんできた。やがて足の先まで湖から出ると……どういう理屈なのか、女性は湖の上に立っていた。
 だが、違和感はない。
 それほどに女性の佇まいは神々しく、人間ではないと誰もが気付けるほどだった。
「……」
 その証拠に、男はその姿に見とれて言葉が出せずにいる。
「私はこの湖の女神。あなたが落としたのはこの『金の斧』ですか? それとも『銀の斧』ですか?」
 女神は透き通るような声で男に訊ねる。両手にはそれぞれ金と銀の斧が握られていた。
 男はどうにか首を横に振る。
「では、正直者のあなたにはこの二つの斧を」
「違う。俺が――」
 女神の言葉で男は平静を取り戻し、口を挟んだ。
 男の深刻そうな様子を見て、女神が僅かに首を傾げる。
「俺が落としたのは――伝説の斧だ!」
 女神が首を傾げた状態で固まった。
 そう。男が落としたのは通称『魔神の斧』
 言い伝えによると強力な魔法を使う魔神が封印されていて……そのおかげか『魔神の斧』も強い魔力を帯びている。
「……魔神が?」
 説明を聞いた女神が驚いた声を上げる。
「ああ。非常に優れた武器だが……もし封印が解けたら、その魔神が復活して大変なことになる! 最悪でも再封印をしなくては駄目だ」
 女神が憂鬱そうに男から顔を逸らした。
 しかし男は気にしている余裕がないらしく、
「でも良かった。この湖に『魔神の斧』が落ちてるはずだ。持ってきてくれないか?」
 早口でまくし立てた。
「ごめんなさい、わかりません」
「なんでだ! 湖の女神なんだろう!?」
 女神は態度を一変させ、あからさまに嫌な顔を見せながら答える。
「……魔神なんてものに関わるのはちょっと」
「……」
 男は数秒間だけ硬直してしまうが、その間も女神は続ける。
「そもそも私の仕事は斧を落とした人にちょっと質問を投げかけて正解者に景品を渡すだけだし」
「クイズみたいに言うな! ああ、急いでるってのに!」
 叫びながら男はその場にうずくまった。
 いっそのこと湖に飛び込んで探そうかと思案していると――男の向かっていた方向から剣戟の音が響いてきた。
「畜生! 戦闘が始まったか……これ、もらうぞ!」
 男は素早く女神から『金の斧』をひったくった。しかし『金の斧』を手に持つと、なんとも言えない微妙な表情を浮かべる。
「これで戦えってのか……」
『金の斧』は不必要なほどに光り輝き、汚れ一つなかった。この斧で戦ったらさぞや目立つだろう。加えて、武器として使える保証もない。
「仕方ない! あとで必ず戻るから」
 男――戦士はそう言い残し、すでに戦いが始まったのであろう勇者の下へと走り始めた。

 男が広場を去り、その背中がすぐに見えなくなる。さらにしばらく経ってから、
「まったく、慌ただしい人」
 女神は柔らかく微笑んだ。
「でも――どうして人間は魔神と聞くと、男だと思い込むのかしら」
 唐突に女神は微笑みを嫌らしく歪めた。
「女の魔神なんて大勢いるのに……私みたいな」
 ――さて、まずは弱った力を取り戻さないと。
 禍々しい声を響かせ、女神は姿を消した。
『封印』と書かれた札が湖面に浮かび上がった。