誰よりも大切で、誰よりも大好きで。
そして、誰よりも遠い、あなたへ。
この言葉を贈ります。
長い長い手紙にも似た言葉を。
終わらない物語のような言葉を。
星が願いを叶えるのなら。
いくつもの季節を巡り、遥かなる時を越え。
どうか、あなたに届きますように。
高校の入学式の朝、通学路ははしゃぐ新入生たちの声で賑わっていた。
慣れない制服に身を包み、うつむいて歩く僕の視界には、明け方の雨に濡れた灰色のアスファルトと、そこにちりばめられた無数の桜の花弁、そしてそれを踏みしめる自分の足先だけが映っている。
薄桃色の花弁は道行く人々に踏みにじられ、千切れて薄汚れている。桜は散るから美しい、と誰かが言ったそうだけれど、散って、踏まれて、汚されて、やがて忘れられていくのなら、最初から咲かなければいいのに、と僕は思ってしまう。
生徒玄関に貼り出されていた紙で自分のクラスを確認し、廊下を歩いて教室に入った。春の透明な朝日が射し込む明るい教室には、既にグループを作ってお喋りをしている人や、緊張気味に席に座る人、机に突っ伏して眠っている人、色んなクラスメイトがいる。それらを横目に机の間を歩き、自分の席を見つけて椅子に座ると、鞄から文庫本を取り出して読みかけのページを開いた。
僕は知っている。誰とも関わらなければ、傷付くこともない。大切なものを持たなければ、失う痛みに苦しむこともない。
桜は咲かなければ散ることもない。それと同じだ。
僕は知っているんだ。大切な人が、大好きな人が、目の前からいなくなってしまうということが、どれだけつらく、悲しいことなのかを。
体育館に集まって退屈な話を聞かされた後、再び教室に戻ると、自己紹介の時間になった。担任の男性教師が出席番号順に名前を呼び、呼ばれた生徒は教壇の前に立って、名前と、趣味や抱負なんかを簡単に話して、席に戻っていく。
「次は、星乃くん、お願いします」
「はい」
自分の名前を呼ばれ、僕は立ち上がる。教壇の前に移動して視線を上げても、クラスメイトの顔は見ないようにする。みな、同じ顔。全員が無関係な他人。
小さく息を吸って、自分の名前を名乗った。
「星乃勇輝です。趣味は――」
その時、教室の中央でガタンと派手な音がして、一人の女子生徒が勢いよく立ち上がった。
「見つけた!」
その女子が発した大声に、部屋がしんと静まり返る。教室中の視線が彼女に注がれ、それに気付いた彼女は顔を真っ赤にし、ゆっくりと椅子に腰を下ろして言った。
「ご、ごめんなさい……どうぞ、続けて」
周りからクスクスと笑いが起こる。恥ずかしそうに照れ笑いをする彼女の、ボーイッシュなショートボブの黒髪が揺れた。大きな目と、華奢な鼻。白く透き通るような肌に、紅潮した頬。彼女を中心にして、見ないようにしていた教室の精度が上がっていく。
「星乃くん、続けて」
担任の声で我に返った。
「あ、えっと、星乃勇輝、趣味は読書です。短い間ですが、よろしくお願いします」
小さく頭を下げて、自席に戻る。ざわついた心を静めて、自分と世界との繋がりを薄めていく。初めから何も持たなければ、失うこともないんだ。
その日は授業はなく、教科書の配布や高校生活における注意事項なんかを聞かされて、昼前には下校となった。騒がしくなった教室の中で鞄を持ち、帰ろうとすると、突然後ろから名前を呼ばれた。
「きみ、星乃勇輝くん、だよね?」
振り返ると、先ほどの自己紹介の時間で「見つけた!」と声を上げた女子生徒だった。何やら嬉しそうに満面の笑みを湛えている。
「そうだけど……何か用?」
「もちろん用があるから声をかけたんだよ。ところで、私の名前、知ってる?」
入学初日で名前を覚えたクラスメイトなんて一人もいないし、覚えるつもりもなかった。
「……いや、ごめん」
「まったく、自己紹介を聞いてなかったな? じゃあ改めて言うからよく聞いて、今、ちゃんと覚えてね。私は、風間、夏美。オッケー? リピートアフターミー!」
「え?」
「風間、夏美!」
突然のことに戸惑うが、彼女の勢いと笑顔に気おされ、渋々その名を復唱する。
「……かざま、なつみ」
「そう! よろしくね、星乃くん!」
「よろしく。じゃ、さよなら」
背を向け歩き出した僕のショルダーバッグを彼女に掴まれ、危うく首が絞まりそうになる。
「ちょっとちょっと、用があるって言ったじゃん! なんで帰ろうとするの!」
「じゃあその用を早く言ってよ……」
向き直ると、彼女は嬉しそうに微笑み、誇らしげに胸を張って、言った。
「星乃くん、私と文芸部を創ろう!」
「ごめん、他を当たって」
それだけ答えると踵を返し、歩き出す。
「即答すぎるでしょ!」
彼女は僕の後ろについて歩きながら、話しかけるのをやめようとしない。
「ねえ、楽しいよ、部活。青春といえば部活、部活といえば青春。学生の今だけしか経験できないことだよ。熱い友情、迸る情熱、流れる汗……は文芸部にはないかもだけど、感動で流れる涙ならあるかもね!」
下駄箱で外靴に履き替え、振り向かずに言う。
「興味ないから、他の人に声をかけた方がいいよ」
「むう、頑固だなあ」
校舎を出て校門を通る時、ふと気になってちらりと振り返ったけれど、さすがに諦めたのか風間さんの姿はなかった。
……名前、覚えてしまったじゃないか。すぐに忘れないと。
帰宅すると、唯一の家族である祖父は出かけているのか、家の中はガランとして静かだった。築百年ほどの古びた平屋に、春の澄んだ風が優しく吹き抜けていく。
鞄を畳の上に置き、制服のまま縁側からサンダルを履いて庭に出る。約十メートル四方の小さな庭だけれど、小高い丘の上にぽつんと建てられた家だから、視界を邪魔するものがなく、空が広く見える。小さな子供の頃、僕はこの庭が好きだった。
その庭の中央には今日も、一メートルほどの高さの黒灰色の岩が、二つ並んで立っている。軽石のようなゴツゴツとした質感で、陽の光を受けて金属にも似た淡い光沢を放っている。その岩の前に立ち、僕は声をかける。
「姉さん、母さん、ただいま。今日、高校の入学式だったよ」
この岩は、〝星塚〟と呼ばれている。星化症患者の症状が最終段階に至った後に残されるものだから、星化症によって亡くなった人たちの墓標のように捉えられている。
人体の一部が徐々に石のように硬化し、それが次第に全身に拡がっていく病、〝星化症〟。
硬化した箇所は夜になると、まるで夜空の星のように淡く光る。発症すると三か月ほどで最終段階に入り、全身が硬化した後、一筋の光になって流星のように空に昇ることから、その病名が付けられたらしい。
感染性はなく、発症の原因は不明で、治療方法も皆無。発症率は十万人に一人で、うちのように家族が二人、立て続けに発症することは、非常に稀、だそうだ。
「入学初日から騒がしい女子に話しかけられてさ、文芸部を創ろうなんて突然言われて、驚いたよ。まあ、すぐに断ったんだけど……」
姉さんが、母さんが、今も生きていたら、どんな風に答えただろうか。断るのが早すぎだと笑うだろうか。女の子には優しくしなさいと怒るだろうか。僕には分からない。だってもう、二人は話さない。笑わない。怒りもしない。
胸の辺りがキリキリと痛み出したので、星塚に背を向けて自室に戻り、本を読んで過ごした。
翌日、授業を終えて放課後になり、下校しようとバッグを持ち席を立つと、声をかけられた。
「星乃くん!」
見ると、昨日僕を呼び止めた風間さんが、今日も満面の笑みで立っている。
「どうかな、考えてくれたかな、私と文芸部を創ること」
僕はため息をついた。昨日あれだけ冷たく断ったのに、諦めていなかったのか。
「だから、僕にその気はないんだから、他の人にお願いした方が効率的だよ」
「ふふーん、そう言うと思って、今日は助っ人を用意しました」
不敵にニヤリと笑う風間さんの後ろから、眼鏡をかけた小柄な女子生徒が一人、おずおずと顔を出した。
「あ、花部、麻友、です……どうも」
そう言って小さく頭を下げる。長めの前髪で表情が隠れた。
風間さんが満足げな表情で続ける。
「麻友ちゃんはね、文芸部の設立に協力してくれるんだってさ。ね?」
彼女の言葉に、花部さんはこくんとうなずいた。
「あたし、本が好きで、高校生になったら文芸部に入ろうと思ってたんですけど、この学校、そういうのがなくてがっかりしてたんです。そしたら、風間さんが声かけてくれて」
「先生に訊いたら、部活を創るには部員が四人必要なんだって。だから、これであと一人だね!」
僕は考える。部活を創るには四人が必要。そして今集まったのは、風間さん、花部さんの二人。
「……あと二人じゃないの?」
「やだなあ、私と、麻友ちゃんと、」
風間さんは笑いながら一人ずつ指をさしていく。その指先は三番目に僕に向けられた。
「星乃くんで、三人じゃん。ほら、あと一人!」
「なんで勝手に僕をカウントするんだよ……やらないって言ってるだろ。あと二人、頑張って探してね」
風間さんたちの顔を見ないように視線を背け、足早に教室を出る。今日は廊下までついてくることはなかった。
夜、いつものように祖父と二人で夕飯を食べていると、祖父が言った。
「勇輝、高校は、どうだ?」
「別に、普通だよ。昨日も同じ話をしたよね」
顔を上げずに、箸で煮魚の小骨を取り分けながら答える。
「今日はどんなことをしたんだ?」
「学校でやることって勉強以外にないでしょ」
「友達は、できたか?」
「……今食事中だよね。静かに食べたいんだけど」
「あ、ああ、ごめんな。じいちゃん、勇輝とお話ししたくてな」
祖父の表情は見ていないけれど、こちらの顔色を窺うような声音に、少し苛々(いら)した。同時にそんな自分にも、苛立ちを感じてしまう。
「話し相手がほしいんなら、近所の公民館にでも行くといいんじゃない。年の近い人もいっぱいいると思うよ」
「そうか、そうだよな、ははは……」
「ごちそうさまでした」
食べ終えた食器を重ね、流しに運び、洗う。三年ほど前、母が星化症で動けなくなった頃から、食事は祖父が作り、洗い物は僕がやるという分担になり、それが今も継続している。
祖父が小さくため息をつく声が、僕の耳に届いた。僕だって、祖父が嫌いなわけじゃない。小さな頃は沢山遊んでもらったし、優しくて、大好きなじいちゃんだった。
でも、もう七十も中盤を過ぎて、体の具合もよくないらしく、ちょくちょく病院に通っている。人生何があるか分からないから確証はないけれど、僕より先にじいちゃんが死んでしまうことは、僕が先になることよりもよほど可能性の高いことだ。
それなら、自分を残して死んでいく人に思い入れなんて持たない方がいいだろう。繋がりが大きいほど、大好きになってしまうほど、大切に想えば想うほど、いつか必ず訪れる別れの痛みが増していく。失ったものは二度と戻らないし、心に開いた穴は塞がることはない。
だから、最初から、僕は何も持たない。
誰も好きにならない。誰も大切に想わない。
そうすれば、耐えがたい離別の痛みに打ちのめされることもない。
十二歳の時に姉を、その翌年に母を、星化症が無情に奪っていってから、僕は世界と自分の接点を極限まで小さくすることで、自分の心を守ることを決めた。
誰とも関わらない。誰とも繋がらない。それなら傷付くこともない。
この残酷な世界に、独りで立っている限り、僕は無敵なんだ。