(謝る、と言ってもなぁ……)

 店長から教えてもらった住所は店から五分くらいのところにあるマンションの一室だった。
 辺りは閑静な住宅街で、奏多は近くにあるコンビニで雑誌をめくりながら時間を潰す。

 店長に大口を叩いてみたものの、いざとなるとインターホンを押す勇気が出なかった。
 彼のマンションを通り過ぎ、立ち寄ったコンビニの中から空の色が変わっていくのをただぼんやりと眺める。

 店を出たときには青く澄んでいた空も、いまでは半分がオレンジ色だ。

(行かなきゃいけないってことは、わかっているんだけど……)

 あと一歩が踏み出せない……。
 いつもそうだ。こういう自分に嫌気が差し、離れていった人は数知れない。

 奏多は太陽が西の空に沈む頃になってから、ペットボトルの水を一本だけ買い、コンビニをあとにした。

 大好きな群青色の空も、今日は自分を責めているような気がする。
 しばらく周りをうろうろしてから、マンションが視界に入るくらいの距離で店長からもらった猫耳のカチューシャをつけてみた。

 路上に停まった車の、サイドガラスに写る自分の姿を見て唖然とする。

(いやいやいや……さすがに無いよ、これは)

 色味はハイライトの入った自分の髪色によく合っていて本当にちょびみたいだと思ったが、そもそも色の問題でもない。

 さすがに、これをつけて本人の家に行くっていうのはちょっと……。

「……えっと、あの」

 背後から声が聞こえて、飛び上がるほど驚いた。
 まずい……加賀谷さんだ。
 間違えるはずがない。あの日からずっと、頭の中で何度も反芻した声だ。

 奏多は後ろを振り向かず、弾かれるようにして走り出した。
 彼が何か言っているのが聞こえたが、かまわず前だけを見て走り続ける。
 
 角を曲がって路地に入ったが、道は運悪くアルファベットのUの形になっている。このままだと元の道に出てしまいそうだったが、直前で別の道路に抜ける一本の小道を見つけた。

 猫が好みそうな狭い道。住宅の隙間を縫うようにして進むと、道の出口が見えてきた。

「……あ」

 パタパタという足音とともに、ちょうど加賀谷さんが戻ってきたところだった。
 
 目が合ってしまった……。

 彼は息を切らしながら、道を塞ぐようにして目の前に立ちはだかっている。
 ちょっとそこまで出かけるようなサンダル履き。奏多がさっきまでいたコンビニの袋を下げているから、買い物でもしに出かけたのかもしれない。
 
 急に頬が熱くなるのを感じた。
 ……恥ずかしさで死んでしまいそうだ。頭に猫耳のカチューシャをつけたまま外を走り回るなんて、滑稽以外の何物でもない。

「み、見ないで……ください」
 
 その場にしゃがみ込み、手のひらを前に向けて顔を隠す。
 心の中で言い訳を無数に唱えていると、加賀谷さんがゆっくりと近づいてきて、長い足を折った。
 手が伸びてきたので、奏多は慌てて腰を引いて目を瞑る。

「……かわいい」

 いつも猫たちにそうするように、彼は白く長い指で奏多の頭を撫でた。
 一瞬、何が起きているかわからなかったけれど、彼は自然な仕草で頭を撫で、耳のつけ根の辺りを撫で、顎を撫で、頬を撫でた。
 
 本当に猫になってしまったような、不思議な気分だった。
 ちょっと思考がついていかない。
 完全に声を出すタイミングを逃してしまったみたいだった。

 おとなしい猫のように黙って撫でられていると、不意に腰を抱かれて抱え上げられた。
 視線が急に高くなる。線が細いように見えて意外と力強いんだなぁ、とまるで他人事のように思った。

「……連れて帰ろう」
「えっ」

 口をついて出た言葉にも、彼は声色を変えなかった。

「……首輪、ないから」

 この人は自分のことを本当に猫だとでも思っているのだろうか……。
 変わった人だと思った。
 家に連れて行かれて、何かされない保証もない。
 
 抵抗しようと思えばできたのだが、奏多は普段の彼がどれだけ猫たちに優しいのかを知っていた。
 たぶん、店長の言う通りで、本当に怒っているわけでもないし、危害を加えるつもりでもないんだろう。その証拠に、というわけではないけれど、腰を支えている手がかすかに震えているのを感じた。
 顔や耳が、朱が差したように赤いのはきっと暑さのせいだけでもないんだろう。

 猫のように後ろ向きに抱え上げられ、一歩を踏み出すたびに身体が揺れる。
 そのたびに、彼の緊張が伝わってくるみたいで、奏多は不安が和らいでいくような不思議な感じがした。