「加賀谷さんはさ、昔ちょっと色々あって、後ろに立たれるのがすごく苦手なんだって」
「……彼と、話したんですか?」
「うん、大川さんがね。彼もあの後、少し様子がおかしかったから」

 店長は眼鏡を何気なく外すと、息を吹きかけてからクロスでそっと拭った。

「奏多くんがタオルを渡してくれていたことに後になってから気づいたんだけど、反射的に手が出ちゃったことをすごく後悔してるって。
 謝ろうにもタイミングを逃しちゃったから気まずいみたいで……日を改めてでも、さくっと謝っちゃえばいいのにね」

 タイミングが悪かったのは自分の方だと、奏多はあの日を振り返って思う。
 彼は何か言おうとしていた。それを遮ってバックヤードに逃げ込んだのは自分なのだ。
 拒絶されたのだと決めつけて、彼の言葉に耳を傾けようともしなかった。

「奏多くんはさ。加賀谷さんのこと、嫌い?」
「いえ……そんなことは」
「じゃあ、好き?」
「えーっと……」

 どう答えればいいんだろう。
 考えていると、店長は頬を緩め、くすくすと控えめに笑っている。

「僕はね、加賀谷さんって奏多くんのこと、けっこう気に入ってるんじゃないかと思ってるんだ」
「え……」
「いつからかな? たまに奏多くんのことじっと見ているときがあって……それが、なんていうか、ちょうど遊んで欲しいときのたまごみたいなんだよ。わかるでしょ? あの顔。
 かまって欲しいって顔してるんだ」
「そう、なんですか……?」
「そうだよ。彼はわかりやすいところあるなあって思ってたんだ。僕が言うんだから、間違いはないのさ」

 たしかに、店長の人と猫を見る目には定評がある。彼は小鼻を膨らませながら胸を張って言った。

「お互いにすれ違っちゃうことって、よくあるけどさ。今回に関しては本当にもったいないなぁって思うんだよ。加賀谷さんはうちのいいお客さんだし、奏多くんだって思いやりがあって優しいでしょ。ふたりともいがみ合ってるわけじゃないからなおさら、見てられなくってね」
 
 肩をポンと軽く叩かれる。そっと背中を押して励ますような、そんな仕草だった。
 
 店長の心遣いは素直にありがたかった。
 誰かに言ってもらわなければ、自分は一生動くことすらできなかったかもしれない。

「加賀谷さんのこと……嫌いじゃない、です。……できれば僕も謝りたい」
「おっ、言ったね」
 
 絞り出すように言うと、肩をばしばしと強く叩かれた。
 痛かったけれど、彼の優しさが伝わってくるようだった。

「仲直りするといいよ。大丈夫。きっかけさえあれば、きっと何とかなるから」
「何とかなりますかね……」
「なるよ、なるなる! そんな不安な君に、店長の僕からこれをプレゼントしよう。うちの新作だよ。もちろんハンドメイトさ」

 ビニール袋の擦れる音。大きめのパッケージを「はい」と言って手渡された。

「これは……」
「ハロウィン用の試作品ね。その名も『猫ちゃんなりきりセット』」

 お茶を飲んでいたら、あやうく吹き出していたかもしれない。
 白黒茶で構成された三毛っぽい色のカチューシャと、どうやってつけるのかわからない尻尾のセット。パッケージには『君も猫になれる!』と、まるで誰もが猫になりたがっているようなキャッチコピーがついていた。

「いや、これはさすがに……」
「色はね、奏多くんの明るめの髪色に合わせてみました! 茶トラにするか迷ったんだけど、今回はちょび風ね。
ちなみにユニセックスだから男の子でも女の子でも大丈夫。心配は要らないよ!」
 
 べつにデザインのことを言っているわけではないのだが、店長は得意げに言って肩をそびやかす。

 良くも悪くも、彼はこういうところがあった。
 ノリがいいというか、独特のセンスがあるというか、何というか……。

「これを店でつけるのはちょっと……イベントでもないですし」
「じゃあ、そのままお家まで行って来たら? 近所なんだしさ」

 たしかに近所に住んでいると聞いてはいたが、これをつけて外に出る勇気はない。

「ば、バカにしてるって、思われませんか……?」

 意見に反論することなど大の苦手だが、背に腹は代えられない。
 勇気を最大限に振り絞ったひと言は、だが、店長の「あはは」という笑い声にかき消されてしまった。

「いいかい、奏多くん。仲直りに大事なのは、相手をくすっと笑わせることだよ。そこでちょっとでも笑ってくれれば、そのあとお互いに『ごめん』って言いやすくなるだろ?」
「それは、そうかもしれませんが……」

 論理は理解できるが、彼が笑ってくれるイメージはどうしても湧かない。
 「でも」と言いかけた奏多を遮るように、店長はもう一度、奏多の肩にそっと手を乗せた。

「僕も猫たちも、元気な奏多くんのことが好きなんだ。落ち込んでると心配になるし、それはたぶん加賀谷さんも同じだよ。
 なぁに、猫のコスプレが滑ってもちゃんとフォローしてあげるから、さくっと仲直りしておいで」

 返却しようと思っていた猫セットを胸に抱き、奏多は深く息を吐いた。
 
 店長の言うことは、何ひとつ間違っていない。ここの仕事に支障をきたすわけにはいかないし、加賀谷さんは個人的な気持ちの前にこの店の大切なお客さんだ。

 たとえ気まずくても、こっちからちゃんと謝らなくちゃ。
 店長は善意でここまでしてくれている。それなら、僕も頑張らないと……。

「わかり、ました」

 やっとのことで言葉を捻り出すと、桝田店長はレジにあるタブレット端末を手に取り、目を輝かせた。

「じゃあ、さっそく行っておいでよ! 加賀谷さんには僕から連絡しておくし、いつも通り五時までは出勤扱いにしておいてあげるからさ」
「ええ……」

 あまりにも急な展開に気持ちがついていかないのだが、「ほら、行って行って」と背中を押されるとどうしようもできず、奏多はバックヤードから荷物を取って、店を出た。

 後ろを振り返ると、店の中からすっかり体調の戻ったシエルとはづきが、揃って不思議そうにこちらを見つめていた。