靴を脱ぐ鷹揚な仕草。
 長身を気だるげにかがめて店に入ってくる。

「いらっしゃいませ~」

 店長が陽気な口調で声をかけた。
 後ろ手で静かに戸を閉めた彼は、傘を持っていなかったのかずぶ濡れだ。

 たまごはそんな些細なことは気にもならないのか、待ちに待った彼が来た、とばかりに尻尾をピンと立てて彼の肩に飛び乗った。

「わっ」

 彼の口から驚きの声がこぼれても素知らぬ顔だ。背が高く、一度のジャンプでは難しいので二度目のジャンプで肩までよじ登っていく。

「ちょっ、と待って……。まだ手も洗ってないのに」

 たまごに翻弄される青年の姿に、店のそこここからくすりと笑いが漏れた。
 彼はたまごを落とさないよう細心の注意を払いながら受付横にある洗面台へと足を運ぶ。
 
 年に一度の誕生会。
 楽しいイベントの日ということもあって、少し浮ついていたのだと奏多は後になって思う。

 浮かれていたんだ。直接話しかけられたわけじゃなかったけれど、目が合ったから。
 あの日、初めて彼が声を聞かせてくれたと思ったから……。

 奏多は鞄に私物のタオルを入れてあったことを思い出し、バックヤードまで取りに戻った。
 水浸しのままでは楽しめないだろう、と気を遣ったつもりだった。彼が手を洗い終わったのを見計らって、後ろからそっと近づいた。

「あの……」

 一生のうちで、もっとも勇気を振り絞った瞬間だった。
 早鐘のように脈打った心臓が、いまにも口から飛び出してしまいそうだった。

 一瞬の出来事だった。差し出されたタオルに彼の身体がびくりと震える。
 あまりに大きく揺れたので、たまごが避難するように受付のカウンターへと飛び移った。
 手が、強く振り払われる。

 パシッ、と乾いた音がした。拒絶の音だ。
 
 叩かれた手よりも、心に痛みが走った。
 言葉も出ず唖然としていると、自分でそうしたはずなのに、彼自身が驚いたように目を見開いていた。
 彼が何か言いかけていたが、それを遮るようにしてとっさに頭を下げた。

「す、すみませんっ……!」

 背を向け、脱兎のごとくバックヤードへと駆け込む。
 
 タオルを鞄にしまったところまでは記憶があるのだが、その後、無事にカフェスペースへ戻れたかどうかは憶えていない。パソコンが壊れたときのように、データが飛んでしまったみたいだった。
 
 どうしよう、どうしよう、どうしたらいいんだろう……。

 真っ白な頭でひたすらそう繰り返す。
 拒絶された。嫌がられた。嫌われてしまった。
 きっと自分の浅はかな行動が悪かったんだ……。

 身を焦がすような焦燥と激しい後悔が押し寄せきて、奏多は溢れてくる涙をこぼさないよう、うずくまって抱えた膝に顔を押しつけた。
 眩しかったはずの世界から太陽が消えてなくなり、辺りが一瞬にして暗くなってしまった。そんな気がした。

* * * * *

 日常は、たとえどんなことがあっても続いていく。時間の流れは平等で不可逆的で、そしてときに残酷でもあった。

 仕事に行きたくないと思ってもシフトの時間はやって来るし、かわいい猫たちは相変わらず自分が来るのを待っている。

 桝田店長や店で働く同僚たちも同様だ。
 接客も上手にできない自分のことを受け入れてくれ、同じ仲間として認めてくれている。その期待を裏切りたいとは思わない。

 加賀谷さんのことは、好きだ。
 それも、たぶん特別な意味で。

 誰かに対してこんな感情を抱く日が来るなんて思ってもみなかったけれど、これはおそらく店長や仲間に抱く好意とも異なっているんだろう。

 もっと彼のことを知りたかった。
 遠くから眺めているだけでいい。
 許されるなら、猫たちと戯れるその姿を、微笑ましい気持ちでずっと見続けていたかった。

(でも……これ以上、嫌われたくない)

 彼も話すのが苦手なのだと店長から聞いている。あの時の彼の態度からは、紛れもない拒絶を感じた。

 ……当然だ。
 人間も猫も、かまって欲しくないときにかまわれたり、近づいて欲しくないときに近づかれたりするのは苦痛だろう。彼の態度がはっきりしているなら、自分はもう引くべきなのだ。

 答えはもう出ている。
 出ているようなものだった。

「……奏多くん、奏多くん!」

 店長に軽く肩を揺さぶられ、はっと我に返る。足元にいたちょびが、奏多のズボンで爪とぎをしていた。
 そういえば、さっきからやけに脛のあたりが痛むなぁと思っていたところだった。

「呼ばれてたんだよ、さっきから」
「そう、ですか……。ごめんね、ちょび」

 何度鳴いても気づいてもらえないから、強硬手段に出たのだろう。ひょいと抱え上げるようにして足から引き剥がすと、「ついて来て」と言わんばかりにねこじゃらしの置いてある場所まで誘導された。

 ああ、なるほど。
 遊んで欲しかったのか。

「いいよ。遊ぼう」

 お気に入りの釣り竿タイプの猫じゃらしを選んで振ってみる。ちょびはぶら下がったエビのぬいぐるみを獲物に見立て、狩りをするときのような仕草で飛びかかった。
 何度かそうやってジャンプしていると、五回目くらいでぬいぐるみが両前足に捕まったので、噛みつこうとするちょびからエビをうまく救出して遊びを続けた。
 
 途中、自分も遊びたいとやってきた黒猫のはづきも列に加わって代わる代わる遊んでいたのだが、しばらくすると満足したらしい。ふいと背を向けて水を飲みに行ってしまった。
 
 ようやく戻った受付のカウンターには店長がまだ座っていて、どうしたのかと思ったら、何やら言い出しにくそうに口を開いた。

「奏多くんさ……大丈夫?」
「えっ……?」
「最近、よく考えごとしてるし、何だか元気がなさそうだなって思ったから」

 全身からさっと血の気が引いていく。
 
 そうだ、仕事中なのに猫たちのことをしっかり見ていなかった……!
 奏多は咄嗟に頭を下げて言った。

「すみませんっ! 僕っ……」
「あ、いや、いいんだよ。注意したいとかそういうのじゃなくてさ……ただ、心配だっただけなんだ」

 店長は眉尻を下げ、むず痒そうに首の後ろをさする。

「間違ってたら悪いな、と思って訊けなかったんだけど……もしかして、奏多くんに元気がないのって、たまごの誕生日のときのあれが原因?」
「あれって」
「ほら、加賀谷さんとの」

 図星だった。たぶん、そう顔に出てしまったんだろう。
 店長は言葉を失くしてしまった僕に苦笑いを浮かべながら「やっぱりね」と、呟いた。

「あれ、気にしなくていいから」
「え、でも……」

 加賀谷さんはあれから、以前ほど店には来なくなってしまった。訪れるのは週に一度ほどで、来てもすぐに帰ってしまう。

 言葉を交わさないのはいつものことだったけれど、彼の感じている気まずさだけはひしひしと伝わってきた。
 お店や猫たちのことはきっと好きなはずなのに、自分の所為で足が遠ざかってしまっているのなら、本当に申し訳ない。
 
 店長はどこから話そうかと考えあぐねている様子だったが、やがてぽつりぽつりと言葉を選んで話し始めた。