穏やかながらも代わり映えしない日々がまた始まって、ある事件が起きたのは月末に開かれたたまごの誕生会のときだった。
その夜はとても蒸し暑く、上陸するはずの台風が熱帯低気圧に変わったとかで、雨足がひどく強かった。遠くから響く雷鳴に長いため息を吐いたのは、同い年でアルバイトとしては先輩の大川美波さん。
「お客さん、少ないかもしれませんね。せっかくのイベントなのに……」
眼鏡の蔓を押し上げ、どこか飄々と言いながら店の電気を点ける彼女に、通りがかった店長が苦笑いをしながら肩を竦める。
「まぁ、仕方がないよ。天気はどうにもならないからさ。電車もダイヤが乱れてるとかで、キャンセルのメールがいっぱいだ。
今日はこじんまりって感じかな。ねぇ、たまご?」
たまごは籐のかご型ベッドでくつろぎながら、澄まし顔だ。店長はそんなたまごの頭を撫でると、首元にフリルのついた首飾りをつけて目を輝かせた。
「それよりもさ! 見てよ、これ。かわいいでしょ~!」
真ん中にカラフルな魚のあしらわれたニット素材の首飾り。淡い色合いがかわいらしく、隅にHPBの文字がある。
「また、凝ったデザインのものを……。もしかして手編みですか?」
「そうそう。一針一針、愛をこめて丁寧に編ませていただきました」
「うわぁ……」
大川さんの声は感嘆とも呆れているともとれる響きだ。
なんとも言えない表情で店長の方を眺めているので、もしかすると後者かもしれない。
店長は蓄えられた髭のせいなのだろうか、少々うさん臭い見た目とは裏腹に(と言うのも失礼なのだが)手先がすごく器用で、こういった猫の小物を作るのが大好きだった。グッズ作りはもはや彼の趣味と言っても過言ではないかもしれない。
元はアパレル関係の仕事をしていたらしいから、それを聞くとなんとなくだが合点がいく。
『特別な衣装を着た猫ちゃんとの記念撮影』。
これが店で開かれる誕生会の目玉のひとつで、一緒に写真を撮れることがお客さんたちには好評だった。
写真や動画の撮影をして、ケーキで誕生日のお祝いをする。
それだけのものではあったが、この店に通うみんなが楽しみにしてくれているイベントのひとつだった。
奏多は粛々と飾りつけを進めながら、まだ閑散とした店内をぐるりと見回す。
たまごは誰にでも人懐っこくて、この店の看板猫と言ってもいいくらいだから、去年はイベントもすごく盛り上がったのだけれど……。
(加賀谷さんも、まだ来てないんだな)
普段なら来店していてもいい時間なのだが、今日はまだ姿を見せていない。
天候のこともあるのかもしれないが、彼は店からわりと近いところに住んでいるのだと以前店長から聞いたことがあった。
(何か、あったのかな……)
彼が初めてこの店に来てから、約三か月。
毎日のように来てくれる人が顔を見せないのはどこか寂しいような、そわそわした気持ちになる。
「奏多くん。飾りつけが終わったら、ケーキの準備よろしくね」
店長の指示に返事をして、奏多はバックヤードの冷凍庫からケーキを取り出しお皿に乗せる。
猫用のケーキは猫にとって安全な食材だけで作られていて、いちごに見えるピンク色のムースも実はサーモンが使われていたりするそうだ。生クリームには砂糖の代わりに猫が好む煮干しの粉。見た目は紅茶にも合いそうな、美味しそうなケーキそのものだ。
味見したくなる気持ちを抑えて、『3』という数字のろうそくを飾る。
甘いものは嫌いじゃなかった。
今夜、自分用にもケーキ買って帰ろうかと奏多は思いを巡らせる。
コーヒーはいつか飲んでみたいと思うのだけれど、まだ苦くて慣れない。
紅茶、特にアールグレイが好きだった。柑橘系のフルーティーな味と香りが、疲れた身体を優しく癒してくれる気がする。
「奏多くん」
急に名前を呼ばれて、ドキリとした。
後ろに大川さんが立っている。
すごく仲がいいわけじゃなかったが、店長がそう呼ぶせいか、店の同僚からは下の名前で呼ばれることが多かった。クールな彼女はいつも飄々としていて、感情が読めない。
「え、あ……何?」
しどろもどろに訊くと、彼女は数枚の写真を手に、静かに悩みを口にした。
「ボードに飾る用のたまごの写真なんだけど……選ぶの手伝ってくれない? どれもかわいすぎて選べない」
思いのほか、かわいらしくほのぼのとした悩みだった。
「あ、うん……僕で良ければ」
そうは言ったものの、写真映えするたまごのベストショットを多くても三枚までに絞らなければいけないのはとても骨の折れる作業で……。
店長に言われて次の作業に取りかかるまで、ふたりでたっぷり十五分は悩むことになった。
* * * * *
横殴りの雨が激しく窓を叩いている。
お客さんたちがまるで終演間近の映画でも見に来るかのようにぽつりぽつりとやってくるなか、今日で三歳になるたまごの誕生会は始まった。
盛況とまではいかないものの、足元が悪いにも関わらず、普段の平日にしては多くのお客さんが来てくれた。
店長が感謝の言葉を述べ、会は和やかに始まった。
みんなに祝われながら魚のケーキを平らげたたまごが、写真映りのいい顔を機嫌よくカメラに向けている。
「ねぇ、たまご。お願いがあるんだけど……」
店長がパステルカラーのゆめかわいい帽子を手に、じりじりと距離を詰めていた。
「実は、その首飾りとお揃いで帽子も編んできたんだ。よかったら被ってくれないかなぁ……?」
だが、さすがに被り物は嫌いらしい。
背を向けて走り去ってしまうたまごに、会場から笑いが起こった。カメラを構えた大川さんもこらえきれずに失笑している。
会は中盤を過ぎた。
雨はまだ止まない。
たまごはすぐ輪の中に戻ってくるかなと思いきや、玄関の前でぴたりと足を止めてしまった。
外をじっと見つめたまま動こうとしない。まるで誰かを待っている、ような。
(あ……)
気づいた奏多が引き戸の向こうに潜む暗闇に目を遣った。
「たまご、いつもの彼かな?」
「ねー。待ってるのかも」
水野さんと吉田さんがそう楽しげに話している。あの後、何度か夕方に来店したふたりは加賀谷さんとも遭遇していて、そのたびに彼と遊んでいるたまごを見ていたのだ。
たまごはスタッフのなかでは奏多によく懐いていたし、お客さんのなかでは特に加賀谷さんが好きなようだった。彼が来たときは、真っ先にかまってもらいに行く。
たまごも、何か満たされないものを感じているのかもしれなかった。いつもいるはずの人がいないのはなんだか寂しい。
顔を見たいし、声をかけて欲しいし、できれば撫でて欲しい。そう思っているのかもしれない。
数分のあいだ、そうして玄関の前で待っていると、まるで想いが通じたかのように外の引き戸ががたがたと揺れた。
その夜はとても蒸し暑く、上陸するはずの台風が熱帯低気圧に変わったとかで、雨足がひどく強かった。遠くから響く雷鳴に長いため息を吐いたのは、同い年でアルバイトとしては先輩の大川美波さん。
「お客さん、少ないかもしれませんね。せっかくのイベントなのに……」
眼鏡の蔓を押し上げ、どこか飄々と言いながら店の電気を点ける彼女に、通りがかった店長が苦笑いをしながら肩を竦める。
「まぁ、仕方がないよ。天気はどうにもならないからさ。電車もダイヤが乱れてるとかで、キャンセルのメールがいっぱいだ。
今日はこじんまりって感じかな。ねぇ、たまご?」
たまごは籐のかご型ベッドでくつろぎながら、澄まし顔だ。店長はそんなたまごの頭を撫でると、首元にフリルのついた首飾りをつけて目を輝かせた。
「それよりもさ! 見てよ、これ。かわいいでしょ~!」
真ん中にカラフルな魚のあしらわれたニット素材の首飾り。淡い色合いがかわいらしく、隅にHPBの文字がある。
「また、凝ったデザインのものを……。もしかして手編みですか?」
「そうそう。一針一針、愛をこめて丁寧に編ませていただきました」
「うわぁ……」
大川さんの声は感嘆とも呆れているともとれる響きだ。
なんとも言えない表情で店長の方を眺めているので、もしかすると後者かもしれない。
店長は蓄えられた髭のせいなのだろうか、少々うさん臭い見た目とは裏腹に(と言うのも失礼なのだが)手先がすごく器用で、こういった猫の小物を作るのが大好きだった。グッズ作りはもはや彼の趣味と言っても過言ではないかもしれない。
元はアパレル関係の仕事をしていたらしいから、それを聞くとなんとなくだが合点がいく。
『特別な衣装を着た猫ちゃんとの記念撮影』。
これが店で開かれる誕生会の目玉のひとつで、一緒に写真を撮れることがお客さんたちには好評だった。
写真や動画の撮影をして、ケーキで誕生日のお祝いをする。
それだけのものではあったが、この店に通うみんなが楽しみにしてくれているイベントのひとつだった。
奏多は粛々と飾りつけを進めながら、まだ閑散とした店内をぐるりと見回す。
たまごは誰にでも人懐っこくて、この店の看板猫と言ってもいいくらいだから、去年はイベントもすごく盛り上がったのだけれど……。
(加賀谷さんも、まだ来てないんだな)
普段なら来店していてもいい時間なのだが、今日はまだ姿を見せていない。
天候のこともあるのかもしれないが、彼は店からわりと近いところに住んでいるのだと以前店長から聞いたことがあった。
(何か、あったのかな……)
彼が初めてこの店に来てから、約三か月。
毎日のように来てくれる人が顔を見せないのはどこか寂しいような、そわそわした気持ちになる。
「奏多くん。飾りつけが終わったら、ケーキの準備よろしくね」
店長の指示に返事をして、奏多はバックヤードの冷凍庫からケーキを取り出しお皿に乗せる。
猫用のケーキは猫にとって安全な食材だけで作られていて、いちごに見えるピンク色のムースも実はサーモンが使われていたりするそうだ。生クリームには砂糖の代わりに猫が好む煮干しの粉。見た目は紅茶にも合いそうな、美味しそうなケーキそのものだ。
味見したくなる気持ちを抑えて、『3』という数字のろうそくを飾る。
甘いものは嫌いじゃなかった。
今夜、自分用にもケーキ買って帰ろうかと奏多は思いを巡らせる。
コーヒーはいつか飲んでみたいと思うのだけれど、まだ苦くて慣れない。
紅茶、特にアールグレイが好きだった。柑橘系のフルーティーな味と香りが、疲れた身体を優しく癒してくれる気がする。
「奏多くん」
急に名前を呼ばれて、ドキリとした。
後ろに大川さんが立っている。
すごく仲がいいわけじゃなかったが、店長がそう呼ぶせいか、店の同僚からは下の名前で呼ばれることが多かった。クールな彼女はいつも飄々としていて、感情が読めない。
「え、あ……何?」
しどろもどろに訊くと、彼女は数枚の写真を手に、静かに悩みを口にした。
「ボードに飾る用のたまごの写真なんだけど……選ぶの手伝ってくれない? どれもかわいすぎて選べない」
思いのほか、かわいらしくほのぼのとした悩みだった。
「あ、うん……僕で良ければ」
そうは言ったものの、写真映えするたまごのベストショットを多くても三枚までに絞らなければいけないのはとても骨の折れる作業で……。
店長に言われて次の作業に取りかかるまで、ふたりでたっぷり十五分は悩むことになった。
* * * * *
横殴りの雨が激しく窓を叩いている。
お客さんたちがまるで終演間近の映画でも見に来るかのようにぽつりぽつりとやってくるなか、今日で三歳になるたまごの誕生会は始まった。
盛況とまではいかないものの、足元が悪いにも関わらず、普段の平日にしては多くのお客さんが来てくれた。
店長が感謝の言葉を述べ、会は和やかに始まった。
みんなに祝われながら魚のケーキを平らげたたまごが、写真映りのいい顔を機嫌よくカメラに向けている。
「ねぇ、たまご。お願いがあるんだけど……」
店長がパステルカラーのゆめかわいい帽子を手に、じりじりと距離を詰めていた。
「実は、その首飾りとお揃いで帽子も編んできたんだ。よかったら被ってくれないかなぁ……?」
だが、さすがに被り物は嫌いらしい。
背を向けて走り去ってしまうたまごに、会場から笑いが起こった。カメラを構えた大川さんもこらえきれずに失笑している。
会は中盤を過ぎた。
雨はまだ止まない。
たまごはすぐ輪の中に戻ってくるかなと思いきや、玄関の前でぴたりと足を止めてしまった。
外をじっと見つめたまま動こうとしない。まるで誰かを待っている、ような。
(あ……)
気づいた奏多が引き戸の向こうに潜む暗闇に目を遣った。
「たまご、いつもの彼かな?」
「ねー。待ってるのかも」
水野さんと吉田さんがそう楽しげに話している。あの後、何度か夕方に来店したふたりは加賀谷さんとも遭遇していて、そのたびに彼と遊んでいるたまごを見ていたのだ。
たまごはスタッフのなかでは奏多によく懐いていたし、お客さんのなかでは特に加賀谷さんが好きなようだった。彼が来たときは、真っ先にかまってもらいに行く。
たまごも、何か満たされないものを感じているのかもしれなかった。いつもいるはずの人がいないのはなんだか寂しい。
顔を見たいし、声をかけて欲しいし、できれば撫でて欲しい。そう思っているのかもしれない。
数分のあいだ、そうして玄関の前で待っていると、まるで想いが通じたかのように外の引き戸ががたがたと揺れた。