突然のことで、頭が上手く回らない。

 彼が午前中のうちに来るのは初めてのことだった。いつもは猫たちの夕飯時を狙って店に来る。
 今日は仕事が休みだったのだろうか。
 そもそも、何の仕事をしているのかもわからないのだけれど。

 メニュー表を示す指はいつも綺麗で傷ひとつついていなかった。すらりと長い指はどちらかと言えば華奢な方で、たとえば「仕事としてピアノを弾いている」と言われてもまったく違和感がない。

 筋骨隆々というわけでもないし、線の細さを見ても身体を酷使する類の仕事ではないような気がする。考えながら扉を思いきり引いたら、隙間に指を挟んでしまった。
 歯を食いしばりながら二枚目の扉を開ける。

「先、どうぞ……」

 喘ぐようにそれだけ言うと、彼は億劫そうに靴を脱ぎ、ただ曖昧に頭を下げた。

 窓からの陽射しは、眩しいだけじゃなく辺りをじりじりと焦がしていくような気がして、奏多はエアコンの温度を調節してからカウンター裏の定位置に腰を下ろした。普段は気ままに過ごしている猫たちも午前中は元気いっぱいだからか、それとも加賀谷さんが通い慣れたお客さんだからなのか、半数ほどが彼の近く集まってうろうろしている。

 座っている彼の膝を占領しているのが琥珀、茶トラの長毛で鼻が低く全体的にぺちゃっとした顔をしているエキゾチックの男の子。
 その近くでまったりしているのが琥珀の兄弟で食いしん坊のソラ。猫じゃらしで遊んでもらっているたまごと、その後ろでじっと順番待ちをしている不器用なちょび。

 彼は本当に猫が好きで、そして猫からもよく好かれているようだった。猫の嫌がることは基本的にしないし、かまって欲しい子たちにはこうやって読みかけの本を伏せて相手をしてあげている。
 積極的にコミュニケーションを取りに行かなくとも、穏やかで優しい彼の元には自然と猫たちが集まってくるように見えた。

 初めてここに来たときからそうだった。
 彼はずっと前からこのカフェにいたかのように、猫たちのいる店とこの店の風景によく馴染んでいた。
 
 いつの間に彼のことが気になりだしたんだろう、と奏多は思った。
 気づけば目で追ってしまっている。
 足元で黒猫のはづきが鳴いていることに気づいて、奏多は腰を上げ催促し続けるはづきをそっと抱え上げた。
 
 時間はゆっくりと流れ、開店から一時間ほどが経った頃。ようやく戻ってきた店長が奏多たちのいるカフェスペースへと顔を出した。

「いやぁ、遅くなってごめんね! 奏多くん」
「店長」

 流れる汗をタオルで拭いながら、桝田店長は人の良さそうな顔で笑っている。

「いえ。あの……シエルは」

 開口一番にそう聞いた。
 風邪や、他の重い病気だという可能性はなかったのだろうか。

 のんびりと琥珀を撫でていた加賀谷さんが何かに弾かれたように顔を上げた。そういえば、店に入るなり辺りを見回していたことを思い出し、あれはシエルの姿を探していたのだろうかと思い至る。
 
 店長は笑いながら、首を静かに縦に振った。

「うん、軽い熱中症みたい。注射と点滴をしてもらって今は落ち着いてるよ」
「そうですか……」

 よかった。
 そう思っていると、足元にいたはずのはづきがドアの隙間をすり抜けてバックヤードの方へ行くのが目に留まった。はづきはシエルと仲がいいから、様子でも見に行ったのかもしれない。
 
 思わず頬を緩めていると、こっちを見ていた加賀谷さんと目が合った。彼は気まずそうに視線を逸らしていたけれど、

「……よかった」

 独り言のようにそう呟くのが耳に入った。

 初めて聞いた彼の声は想像していたよりもずっと柔らかく、少し低く掠れていて、そして思っていたよりも何倍も優しげだった。

「しばらく奥にいるから、よろしくね。奏多くん」

 ドアの隙間からひらひらと手を振る店長に短く返事をして、奏多は受付のあるカウンターへと戻る。
 
 立てつけの悪いドアと格闘する音がした。
 初めて見るお客さんだ。

 彼と話をしてみたい。もっと色んな声を聞きたいと思ったけれど、あいにく話しかける勇気などは持ち合わせていない。

 奏多はたったの一度だけ聞いたその声を忘れないよう記憶の隅に留めながら、新規のお客さん向けの接客マニュアルを棚から出し、軽く目を通した。

 彼はしばらくのあいだ猫たちと戯れながら本を読んでいたけれど、昼過ぎには普段と変わらない様子で立ち上がり、店をあとにしてしまった。