立てつけの悪い引き戸を不器用そうに開ける。日本人にしてはだいぶ恵まれているのだろう長身を面倒くさそうに折り曲げながら靴を脱ぎ、気だるげに二枚目の扉を潜る。
歳は二十代後半くらいだろうか。
仕事終わりの疲れた顔とその整った顔立ちは、いつも長く伸びた前髪の奥だ。
加賀谷真。
以前、カフェのイベントに来てくれたので名前だけは知っていたが、ここ三か月ほど毎日のように現れる彼の声を奏多はまだ聞いたことがない。
「いらっしゃいませ」
カウンターまでやってきた青年に声をかけたが、返事はない。視線は斜め下、彼を好いている猫にのみ向けられている。
「メニューはどうされますか」
マニュアル通りの言葉に、彼はいつものように指でメニュー表の一番上を示した。
「かしこまりました」
奏多はカードに入店時間を書き込んで渡す。
頷いたかどうかわからないほど小さく頭を動かした彼はロッカーに荷物を預け、カウンター横にある小さな洗面台で手を洗った。
そして心なしか軽くなった足取りで部屋の隅にある座椅子に腰を下ろし、その後は店内にある雑誌や漫画を適当に読みながら、寄ってくる猫たちを片手で撫で続ける。いつもの流れだ。
「ああ、来てたんだ。加賀谷さん」
大量のフードボウルを抱えた店長がバックヤードから現れ、彼の背中を眺めながら呟いた。
「はい」
「ここんとこ、よく来てくれるよね。月末にあるたまごの誕生日イベントにも参加してくれるみたいだし」
「話したんですか?」
「いや、メールでね。直接話すのはあまり得意じゃないみたいだから」
小声でそうつけ足しながら、店長は抱えた銀色のボウルを店の中央へと並べていく。すぐに気づいた猫たちがボウルに群がり丸い円を作った。それに釣られるように、散らばっていたお客さんも次々と集まってくる。
「かわいい~!」
感嘆の声を上げながらはしゃぐ水野さんと吉田さん。いつもは午後のもっと早い時間に来るふたりだから、食事の姿は珍しかったのかもしれない。
一方の加賀谷さんはというと、猫のそばに座って膝を抱えながら、首を斜め四十五度に傾け、その様子をただ静かに見守っていた。無表情に見えたが、口元がすこし緩んでいるような気がしないでもない。
言葉を交わしたことはない。でも、彼のことは嫌いじゃなかった。
むしろ、何だろう。
親近感にも近いものがある。
(僕と同じなんだろうか?)
猫は好き。
でも、人と話すのは苦手。
奏多は彼の隣にかがみ込むと、自分のボウルが見つからずに彷徨っているちょびをひょいと抱え上げ、空いているボウルの前で下ろしてやった。
「君はこっちね」
単に出遅れただけなんだろう。たまごや他の猫たちに比べて不器用なところがあるちょびは、大人しく目の前のボウルに顔を近づけ、ゆっくりとマイペースに食べ始める。
(極端に食欲のない子は……いなそうだな)
猫の体調管理も店員に任せられた大切な仕事のひとつだ。些細な変化にも気づいてあげられることが、健康を維持するうえで大事だったりもする。
(あれ、シエル……もういいのかな?)
食事の情報をタブレット端末に入力していると、まだ一歳にも満たないロシアンブルー女の子が不意にその場を離れてしまった。
こういうことはままあることだが、しばらく様子を見ていても戻って来ることはない。
夏バテか何かだろうか。
そういえば朝も食が細かったし、お腹も緩いみたいだった。今のところ元気に動いているし極端に弱っている様子は見られないけれど、あまり続くようなら心配だ。
奏多は端末にメモを残し、バックヤードに戻る際に店長にも報告をした。
食事が終わり、空になったボウルを回収していたときだ。
ふと、誰かから見られているような妙な感じがした。
加賀谷さんかもしれない。
何の根拠もないが、ただそんな気がした。
後ろを振り返ってみたものの、彼の視線は相変わらず猫たちの方だけに注がれていて……ほっとしたのと同時にどこか拍子抜けしたような気分になった。
そして、そんな風に思う自分に、少し不思議な心地がした。
* * * * *
一夜が明け、朝になってもシエルの食欲は戻らなかった。
「食べないですね……」
普段の食事にウェットフードを足すなど、色々と工夫はしてみたものの、何をやっても口をつける気配はない。いつもなら好奇心旺盛に歩き回るブルーグレイの背中も、心なしか元気がなさそうに見えた。歩いているとふらつくときがあるし、舌を出して体温調節をしているときもある。
「これは、病院かな?」
ひょいと持ち上げられたシエルが店長の腕の中で暴れ回っている。
そもそも、抱っこされること自体があまり好きではない子だ。おやつとおもちゃで機嫌を取りながら、なんとかキャリーケースまで誘導する。
「じゃ、あとはよろしく! 奏多くん」
シエルが無事におさまったのを見るなり、店長はケースを抱えたまま風のような速さで店を出て行ってしまった。
近くの動物病院までは車で十分ほどかかる。診察待ちの時間などを考えると開店までに戻ってくるのは難しいかもしれない。
奏多はシャツの袖を捲ると、店に二台あるロボット掃除機の電源を入れ、自らもコロコロクリーナーを手に立ち上がった。
店内の清掃、自動給水機の設置、猫たちのトイレ掃除……。
店を開けるまでにやらなければならないことはたくさんある。
ここで働き始めて一年半。完璧ではないにしろ、要領は何となく心得ていた。
(頑張れ、僕……!)
バックヤードの壁掛け時計を見る。どこかで戦いのゴングが鳴った気がした。
行く手を阻むのはお腹が満たされ、遊んで欲しそうな猫たちだ。
「ごめんね、あとで遊んであげるから!」
たまごを筆頭に、甘えたがりの代表みたいな猫たちが鳴きながら後ろをついて来ていたが、今はかまってあげる余裕などない。心の中で謝りながらも、奏多は開店までの間、ひたすらに手を動かし続けた。
午前十一時。ようやくすべての作業が終わり、外に提げてあったクローズの札を裏返す。
開店時間ぎりぎりだ。危なかった。
慌てて玄関の鍵を開ける。
ふと、背後に視線を感じて思わず後ろを振り返った。
夏の陽射しを背に立つ、見上げてしまうほどの長身。ラフなTシャツ姿でもスタイルがいい所為か妙に様になって見えた。
「加賀谷、さん」
声が裏返っている。
それでも、彼は眉尻ひとつ動かさず、ただあさっての方に目を向けていた。
歳は二十代後半くらいだろうか。
仕事終わりの疲れた顔とその整った顔立ちは、いつも長く伸びた前髪の奥だ。
加賀谷真。
以前、カフェのイベントに来てくれたので名前だけは知っていたが、ここ三か月ほど毎日のように現れる彼の声を奏多はまだ聞いたことがない。
「いらっしゃいませ」
カウンターまでやってきた青年に声をかけたが、返事はない。視線は斜め下、彼を好いている猫にのみ向けられている。
「メニューはどうされますか」
マニュアル通りの言葉に、彼はいつものように指でメニュー表の一番上を示した。
「かしこまりました」
奏多はカードに入店時間を書き込んで渡す。
頷いたかどうかわからないほど小さく頭を動かした彼はロッカーに荷物を預け、カウンター横にある小さな洗面台で手を洗った。
そして心なしか軽くなった足取りで部屋の隅にある座椅子に腰を下ろし、その後は店内にある雑誌や漫画を適当に読みながら、寄ってくる猫たちを片手で撫で続ける。いつもの流れだ。
「ああ、来てたんだ。加賀谷さん」
大量のフードボウルを抱えた店長がバックヤードから現れ、彼の背中を眺めながら呟いた。
「はい」
「ここんとこ、よく来てくれるよね。月末にあるたまごの誕生日イベントにも参加してくれるみたいだし」
「話したんですか?」
「いや、メールでね。直接話すのはあまり得意じゃないみたいだから」
小声でそうつけ足しながら、店長は抱えた銀色のボウルを店の中央へと並べていく。すぐに気づいた猫たちがボウルに群がり丸い円を作った。それに釣られるように、散らばっていたお客さんも次々と集まってくる。
「かわいい~!」
感嘆の声を上げながらはしゃぐ水野さんと吉田さん。いつもは午後のもっと早い時間に来るふたりだから、食事の姿は珍しかったのかもしれない。
一方の加賀谷さんはというと、猫のそばに座って膝を抱えながら、首を斜め四十五度に傾け、その様子をただ静かに見守っていた。無表情に見えたが、口元がすこし緩んでいるような気がしないでもない。
言葉を交わしたことはない。でも、彼のことは嫌いじゃなかった。
むしろ、何だろう。
親近感にも近いものがある。
(僕と同じなんだろうか?)
猫は好き。
でも、人と話すのは苦手。
奏多は彼の隣にかがみ込むと、自分のボウルが見つからずに彷徨っているちょびをひょいと抱え上げ、空いているボウルの前で下ろしてやった。
「君はこっちね」
単に出遅れただけなんだろう。たまごや他の猫たちに比べて不器用なところがあるちょびは、大人しく目の前のボウルに顔を近づけ、ゆっくりとマイペースに食べ始める。
(極端に食欲のない子は……いなそうだな)
猫の体調管理も店員に任せられた大切な仕事のひとつだ。些細な変化にも気づいてあげられることが、健康を維持するうえで大事だったりもする。
(あれ、シエル……もういいのかな?)
食事の情報をタブレット端末に入力していると、まだ一歳にも満たないロシアンブルー女の子が不意にその場を離れてしまった。
こういうことはままあることだが、しばらく様子を見ていても戻って来ることはない。
夏バテか何かだろうか。
そういえば朝も食が細かったし、お腹も緩いみたいだった。今のところ元気に動いているし極端に弱っている様子は見られないけれど、あまり続くようなら心配だ。
奏多は端末にメモを残し、バックヤードに戻る際に店長にも報告をした。
食事が終わり、空になったボウルを回収していたときだ。
ふと、誰かから見られているような妙な感じがした。
加賀谷さんかもしれない。
何の根拠もないが、ただそんな気がした。
後ろを振り返ってみたものの、彼の視線は相変わらず猫たちの方だけに注がれていて……ほっとしたのと同時にどこか拍子抜けしたような気分になった。
そして、そんな風に思う自分に、少し不思議な心地がした。
* * * * *
一夜が明け、朝になってもシエルの食欲は戻らなかった。
「食べないですね……」
普段の食事にウェットフードを足すなど、色々と工夫はしてみたものの、何をやっても口をつける気配はない。いつもなら好奇心旺盛に歩き回るブルーグレイの背中も、心なしか元気がなさそうに見えた。歩いているとふらつくときがあるし、舌を出して体温調節をしているときもある。
「これは、病院かな?」
ひょいと持ち上げられたシエルが店長の腕の中で暴れ回っている。
そもそも、抱っこされること自体があまり好きではない子だ。おやつとおもちゃで機嫌を取りながら、なんとかキャリーケースまで誘導する。
「じゃ、あとはよろしく! 奏多くん」
シエルが無事におさまったのを見るなり、店長はケースを抱えたまま風のような速さで店を出て行ってしまった。
近くの動物病院までは車で十分ほどかかる。診察待ちの時間などを考えると開店までに戻ってくるのは難しいかもしれない。
奏多はシャツの袖を捲ると、店に二台あるロボット掃除機の電源を入れ、自らもコロコロクリーナーを手に立ち上がった。
店内の清掃、自動給水機の設置、猫たちのトイレ掃除……。
店を開けるまでにやらなければならないことはたくさんある。
ここで働き始めて一年半。完璧ではないにしろ、要領は何となく心得ていた。
(頑張れ、僕……!)
バックヤードの壁掛け時計を見る。どこかで戦いのゴングが鳴った気がした。
行く手を阻むのはお腹が満たされ、遊んで欲しそうな猫たちだ。
「ごめんね、あとで遊んであげるから!」
たまごを筆頭に、甘えたがりの代表みたいな猫たちが鳴きながら後ろをついて来ていたが、今はかまってあげる余裕などない。心の中で謝りながらも、奏多は開店までの間、ひたすらに手を動かし続けた。
午前十一時。ようやくすべての作業が終わり、外に提げてあったクローズの札を裏返す。
開店時間ぎりぎりだ。危なかった。
慌てて玄関の鍵を開ける。
ふと、背後に視線を感じて思わず後ろを振り返った。
夏の陽射しを背に立つ、見上げてしまうほどの長身。ラフなTシャツ姿でもスタイルがいい所為か妙に様になって見えた。
「加賀谷、さん」
声が裏返っている。
それでも、彼は眉尻ひとつ動かさず、ただあさっての方に目を向けていた。