「ね、殺してほしい人間いる?」

今、たしかにそう、言われた。
──────聞き間違いでなければ。

一度、ゆっくりまばたきをしてみたけど、目の前の景色が変わることはない。

現在、夜の8時を少し回った頃。街灯がぼんやりと照らす通学路にて、私の行く手を阻むようにして立っている男の子がひとり。

“彼”は、つい5秒ほど前にとつぜん現れた。ユーレイみたいに、なんの気配もなく。


「誰でもいいよ。嫌いなやつ憎んでるやつ邪魔なやつ、俺が全員消してあげる」


な……なんか、また物騒ワードが聞こえたような。

念のため、もう一度まばたきをしてみる。

二重に縁どられた瞳、ほんのり色づいた薄い唇、シュッと無駄のない輪郭。
………暴力的に綺麗な造形だあ……。なんて見惚れている場合じゃない。


――誰!? この人誰っ!?
何拍か遅れてようやく驚きがやってきて、とりあえず一歩退いた。

もしかしたら知り合いだったかもと思って記憶をかなり昔まで巻き戻してみたけど、こんな綺麗な人、やっぱり会ったことない。

そもそも、開口一番に『殺してほしい人間いる?』って。いろいろやばいよね……っ?


変質者だ。そう呼ぶには容姿が整いすぎていていささか申し訳ない気もするけど、変質者は変質者。

そして、私が退いた分だけ相手も距離を詰めてくるのでよっぽど怖い。逃げようがない。視線を斜めにズラして、拳をぎゅっと握りしめる。


「……なんのご用でしょうか……」

意を決して、そう尋ねた──直後のことだった。

静まり返った夜道に、突如、轟音が走った。
ドンッという効果音にさらに濁点をつけたような、金属が潰れるような、とにかく鈍くて激しい音。

いったい何が起こったのか。反射的に顔を上げるも、前に立ちふさがる彼が視界をしつこく遮ってくる。


「っ、あの」

「4トントラックが電柱にぶつかった音だよ」

「……え」

「場所はお前から見て約40メートル先の十字路を左に曲がったすぐのところ。原因は飲酒運転。体内のアルコール濃度は基準値の6倍超え」

「え……あ、え?」

「車体は左側が大きく破損、運転手は肋骨を折る重症を負うが命に別状はなし」


淡々とそう告げる彼を、しばしぽかんと見つめることしかできなかった。


なにをテキトウに。デタラメに。この人、音がした方にずっと背中を向けてたもん。わかるはずない。
そしてこういう冗談をおもしろいって思って言ってるなら、いよいよやばい。友達相手ならまあともかく、私たちは初対面、赤の他人だよ。

……だけど、トラックが電柱にぶつかった音だと言われて、正直すごくしっくりきた。
すぐ先の十字路付近で事故があったのは間違いなさそ───


「お前はソレに巻き込まれて死ぬはずだった──伊藤りりこちゃん」
予期せず名前を呼ばれ、心臓がドッと跳ねる。

今、イトウリリコって……。そんなはずは。聞き間違い? ううん、でも確かに……。


「お前が死ななかったのは、俺がお前を足止めしたから──今お前が生きているのは、俺が生かしているから」


彼は、抑揚のない声でそう言い切った。
さっきから物騒でヘンな冗談ばっかり。

“いい加減にしてください。警察呼びますよ”アブナイ人に絡まれたとき、マンガやドラマではそんなセリフがよく出てくるけど、実際に口にするにはとても勇気がいる。

それでも何か言おうと唇を開きかけたけど、結局、声になることはなかった。彼の極めて冷静な表情にどきりとして。その一瞬、呼吸をすることさえ忘れてしまったから。


「十字路ではもう騒ぎが起こり始めてる。少し遠回りになるけど、手前の路地を通って家に帰ろう」


夜の静けさを閉じ込めたみたいな昏い瞳は不思議な魅力を放っていて、気を抜けば吸い込まれちゃいそう。

気づけば手を取られていた。冷たくもあったかくもない手のひらだった。ぬるいというわけでもなく、なんだろう、表現しがたい……そう、温度がない、みたい。ただ“触れている”という実感だけが静かにそこにあった。


とつぜん現れた男の子に奇妙なハナシをされた挙句、その人に手を引かれながら歩いている。普通に考えておかしいありえない。私、なに大人しく従ってるんだろう。


でも……。

──『お前はソレに巻き込まれて死ぬはずだった──伊藤りりこちゃん』

彼に話しかけられたときの位置から十字路までの距離は、彼が言うように40メートルほど。
足止めされなかった場合、タイミング的に巻き込まれていたとしても本当におかしくはない。

さっきの衝撃音が嫌なイメージとともに脳裏をよぎり、再び心臓が跳ねた。


私は、死ぬはずだった……?
指先から体温が徐々に失せていく。

いやいや、違う違う!所詮結果論というか、後付けというか。もしかしたら巻き込まれてたかもしれないよ、あぶなかったねーってハナシでしょ?
そもそも本当にトラックの事故だったのかもわかんないし。

でも、じゃあなんで、私の名前を知ってるの?
しかも、“遠回りになるけど、手前の路地を通って家に帰ろう”なんて、まるで私の家まで知ってるみたいな口ぶり。

冷静に考えて、一般的に導き出される答えは……“ストーカー”。

だけど困ったことに、この綺麗な人とストーカーという言葉がまったく結びつかない。
綺麗だからストーカーしなさそうとか、そんなガバガバな理由じゃなくて、彼を綺麗だと思う理由のひとつに、おそろしいほどの冷静さが含まれているから。

誰かを熱く追いかける姿なんて想像できない。むしろ普段は、他者との関わりを極力避けていそうな印象を受ける。

……きちんとたしかめなくちゃ。この人が何者なのか。なんで私に話しかけたのか。

手を引かれるままに歩いていた私は、つま先にぐ、っとブレーキをかけた。
すると彼は、思いのほか素直に足を止めてくれた。


「あのっ……あなたは誰なんですか、どうして私に話しかけたんですか……あと、なんで私の名前を知ってるんですか?」


一拍分の間をおいて、振り向いた彼はくすっと笑う。


「言っても信じないと思うよ。それに今の状況は俺にとってもイレギュラーだから説明が難しい」

「?…… と、とりあえず話してくれませんか? 聞かないことには判断のしようがないし……」

「ん……それもそうだね。俗っぽい人間の言葉を借りるなら死神ってのが1番近いかな」

「……、……」

「く、はは、やっぱり信じないでしょ」


そりゃあ、にわかに信じられるわけもない。のに、彼の声や瞳が極めて冷静なせいか、妙な説得力が生まれてしまっている。
今さら、信じないでしょと言われても、初手に『殺したい人間いる?』なんてぶつけてきた相手だから、新たな驚きもなくて。
それに、本当に妙なハナシ、しっくりくる。影も声も形も感触もあるのに。……彼がここに存在しているっていう実感が得られないんだもん。

存在感がないと表現するには少し違う気がする。

街を歩けば10人中10人が振り返るほど綺麗な容姿に加えて、周りを呑むほどの静けさを纏った圧倒的な雰囲気があって。むしろ存在感しかないはずなのに、その美しさがバリアみたいに働いている。
こちらを魅了すると同時に手の届かないものだと理解させてくる。

そんなあらゆる違和感も──死神なら、あっさり腑に落ちる。

……って、やばやばである。
こんな簡単に信じそうなるなんて、私、将来アブナイ宗教に引っかるんじゃないの!
次の瞬間にはグサリと刺されちゃうかもしれないし早く逃げないと。


「手……離してください」

「いいけど、その代わりにお前が殺したいやつ一人教えてよ。それが条件」

「へ? いや……そんな人いないです」

「死ぬはずだったお前が死ななかった。だから代わりの誰かが死ななきゃいけない。数字はきっかり合わせないといけないからね」


にこっと柔らかい笑顔の裏に、凍てつくほどの冷たさを感じた。

──ああ、やっぱりこの人は死神かもしれない。
死神じゃなくても、それと同等の恐ろしい存在なのは間違いない。


今、無理やり手を振りほどいて逃げたとしても逃げ切れる気がしない。物理的にはもちろんだけど、今もう既に、目に見えないもので縛られている気さえしてくる。

恐怖のせいか思考が鈍くなる。しまいには、どうにでもなっちゃえ、と、とつぜん諦めの境地に入ってしまった。

だって……大層な人生歩んでないし。しにたいとか思ったことないけど、しぬならべつにそれでいいもしれない。特に夢もないし何か熱狂的にハマっているものがあるわけでもないし。


友達のことは好きだし大事だけど、それだけ。
“きらきらJK(笑)”、楽しいよ。みんなといるとき、ちゃんと心から楽しいなって思ってる。ただ、それ以上でもそれ以下でもない。
自分のこういう薄っぺらいところ、ずっときらいだったんだよね。

強いて言うなら誰かと恋人になって愛し合ってみたかったけど、気になってた人にはこの前彼女ができたみたいだし……ザンネンでした。

私……いつからこんな風になっちゃったのかな。好きとか楽しいとか、そういう世界から不意に我に返る瞬間がときたまあって、その瞬間がなによりも怖い。そう、下手したらこの人より怖いかも。



「名前……なんて言うんですか?」


今度は、頭でセリフを準備する前に声が出た。


「名前……俺の?」

「そうです……はい」

「俺は夏川」

「ナツカワ? 死神にも苗字とかあるんだ……」


「そう、苗字というか名前というか、上の連中が付けた呼び名がある。俺は夏の日に川で死んだから夏川」

「しんだ……、しんだんですか?」

「そう、悪趣味な由来でしょ。記憶がないから本当かはわからないけどね、死んだってのも含めて」


しんだ……しんだってことは、かつては、


「俺も人間だったのかも」

思考を読んだようなタイミングでそう言われて、ぞく、としたものが背中を駆け抜ける。


「上の連中のハナシによれば、こっちのセカイにも閻魔大王様みたいな一番偉い存在がいるらしくてね、そいつが、死んだ人間の中から死神の適性があるやつを引き抜くんだって」

「へえ……じゃあ夏川さんは選ばれし者ってことなんですね」

「超ポジティブに捉えればそうかも。てかタメ語でいいよ、あんま歳変わらんし。知らんけど」


そこまで言うと、彼は──夏川くんは再び私の手を引いて歩き始めた。私はそうされることが当たり前のように足を踏み出した。
数秒後、彼のハナシをすんなり受け止めている自分に気づいて、あっと驚く。

いや、信じたわけじゃないもん。根っから信じてないわけでもないけど! うーん、どうだろ、なにこれ。ぐちゃぐちゃでよくわかんなくなってきた。


「俺もね、」

狭い路地を右に曲がったとき、ふと、静かな声が落とされた。

「俺も、自分がおかしいんじゃないかって今でもときどき疑うことがある。実は精神異常者で、死神なんてのは思い込みにすぎなくて。しまいには見えてる世界ぜーんぶ妄想なんじゃないかとか」

声が静かなのは相変わらずだけど、今、微かに震えていたような。


「でもザンネンながら違った。俺はこの世界に確かに存在してるけど、お前みたいに生きてない」

「…………」

「人間の終わりを見届ける使命があって、ときには誰かの命を選んで無理やり奪うこともできる得体のしれないナニカ」

──────だめだ、やっぱりしっくりきてしまう。
あっさり納得できてしまう。

今、間違いなく夏川くんの手に触れている。人間のそれと全く違わない肌の感触もある。だけどやっぱり……温度がない。

“ない”ってなんだろうと思いつつ、ナイものはナイ。凍えるようでも、普通に冷たいわけでも、ぬるいわけでも、あったかいわけでも、熱いわけでも、火傷しそうでも……どれでもない。奇妙だ。本当に奇妙。

だけどおかしなことに、その奇妙さを不気味に感じることなく、私はただ受け入れている。

繋がれた手に、初めて自分から力を込めてみた。
驚いたのか、夏川くんが振り向く。


「どうしたの、伊藤りりこちゃん」

「なんか、本当に生きてないんだなって……ちゃんと存在してるのに生きてない。ただの物質みたい」

「…………」

相手が息を呑んだ気配で、また我に返る。


「っごめん!! 言葉の選び方間違えた、物質とか言って、その、モノ扱いしたいわけじゃなくて……っ」

「大丈夫、まさにそんな感じだから」


夏川くんはそう言って、私の手を自分の胸元へと誘導した。
夏川くんの、胸元の、左側。ぴたりと重ねてみても、そこにあるべきものが感じられない。


「……うそだ、そんなわけない」

「服の中まで確かめていいよ」

「っ、あ……」


今度はシャツの裾から滑り込むようにして肌をなぞらせられる。
直に触れてみても、結果は同じ。


「人のかたちを為して存在してるけど、生きてない。俺はそういうモノなの」

「……………、うん、わかった」

「はは、わかっちゃったか」

「心臓がないんだもん」


「そうだよ。心臓“だけ”がない。肺はあるから空気を吸ったり吐いたりできる。肌を切れば血も出てくる。無論、それらもヒトの細胞や器官と同じ役割をもったナニカにすぎないんだけど。人間の真似ごとはだいたいできるよ」

「だいたい……。そんなに、できるんだ」

「そう。だから、例えば……」


不意に距離が近づいて、目の前に影がかかる。

唇が、触れる……

「こういうことはもちろん、もっとえろいことだってできる」

かと、思った。

触れるか触れないかギリギリのラインを攻めて、ゆっくりと離れていく。その様子をぼんやりと追いかける。彼の昏い瞳が、すうっと妖しく弧を描いた。

ワンテンポ遅れて、首から上がかーっと熱をもった。

今……っ、今……!
奪われるかと思っ……!!


「はは、真っ赤な顔」

「〜っ、わ、私たち初対面だよねっ? 冗談でもしていいことと悪いことがあると思うんだけど……っ」

「“だいたいできる”ことの一例をわかりやすく示してあげただけ」

「もうわかったっ、もういいからっ!」


さっきまでの恐ろしさはどこへ行ったのか。暴力的に綺麗なお顔だとか綺麗すぎて手が届かない存在だとか、ちょっと買いかぶりすぎてたかも。

今は、めちゃくちゃ顔がいい(中身はその辺にいる)ただの男子高校生にしか見えない─────


「ま、茶番はこの辺にして。本題に戻るけど、殺してほしい人間をひとり教えて」


─────いや、撤回。この人(?)やっぱり普通に普通じゃない。
初めと同じ異様な静けさだけを纏った声に、私はごくりと息を呑む。

──『殺してほしい人間いる?』

茶番だと思っていたあのやりとりは茶番じゃなかった。
声で、瞳で、嫌でもわからせてくる。もう観念するしかない。


殺してほしい人間がいるか。
私の中ですでに答えは出てるんだけどね、焦らしてごめんなさい。答える前に私も知っておきたいことができちゃった。

ギブアンドテイクだよ、秘密を共有するなら、対等な関係でいなくちゃでしょ。


「……わかった。真剣に考えてみる。その代わり、死神……のシステムみたいなのと、あと、夏川くん自身のことを詳しく教えてほしいんだけど」

………いい?
首を傾げて見つめれば、彼は一度、視線を斜めに逸らした。それからまた、ゆっくりと私に戻した。


「嫌だけど、いいよ」

その声は少しだけ震えていた。



夏川くんは色んなことを教えてくれた。

前述の通り、死神(って言葉は夏川くんいわく俗っぽくて嫌いらしいけど、他に言いようがないので仕方ない)は、死んだ人たちの中から選出される。

その姿かたちは、死んだ当時を写したもの。生きていたときの記憶はすべて奪われるけど、本人の性格や嗜好などの中身はそのまま反映される。

つまり、夏川くんは見た目が高校生くらいのなので、推定17歳の夏の日、川で亡くなった……ということ。


──────これもあくまで“上の連中が言うには”、らしい。
死神になる前の記憶を奪われているので真偽は確かめようがないんだとか。

人間として生きていた時代なんて、本当はなかったのかもしれない。
夏の日に川で死んだ“──くん”なんて存在しなかったのかもしれない。

そんなふうに言っていた。


へえ、そうなんだ。
夏川くんは初めから死神の夏川くんでしかなかった。
そういう可能性もあるかもしれないんだね。

ところで……“初めから”の“初め”って……いつなんだろう。


「夏川くんは、いつから夏川くんなの?」

「わからない」

「え……? 死神になってからだいたい何年くらいとか、そういう感覚はあるんじゃないの?」

「時間の概念はあるよ、でもわからなくなる。だんだんと消えていくから」

「消えていく?」

そう、と夏川くんが頷いた。それと同時に足を止めた。見れば、私の家の前だった。


「俺たちの記憶の保管能力には限界があって、容量がいっぱいになると古い記憶から自動的に消えていく」

「………」

「もちろんシゴトに必要な記憶は記録として残るけど。今まで何人の死を見送ってきたのかも、どのくらい長く続けてきたのかもわからない」

「そんな、」

「だからお前と出逢ったこともいつか忘れる」


そっと手が解かれたのがわかった。無意識に、その指先を追いかけようとした。避けられた。触れさせてくれなかった。夜風が夏川くんの髪をさらりと揺らして、このまま彼を攫っていくんじゃないかと、思った。


「人間はいいなって、ときどき思うんだよね。過去と未来に挟まれて、ちゃんと今があるから」


風にかき消されたのか、はたまた夏川くんが意図的にトーンを落としたのか。セリフを聞き取ることはできなかった。


「──とまあ、俺のハナシはこんな感じかなー。早く殺したい人間教えてよ」

「え、うっ……でもまだ、わからないことがたくさんあるし……」

「はあ? 面倒くさいな、他には何が知りたいの」

「んー……そうだなあ、えっと、そう、あれ」


嘘、ごめんなさい、特にもう思いつかない。自分でもなんでこんなことを言ったのかよくわからない。
もう少しだけ話していたいって、一緒にいたいって思っちゃったのかも。

どうせ、家には誰もいないから。──────不覚。


「夏川くんは……死神は……どうやって、人の命を奪うの?」


尋ねるつもりはなかった質問が、苦しまぎれに零れた。


「いい質問だけど、まず大前提、俺たちの使命は命を奪うことじゃなくて、その人が死ぬべき日に無事死ぬように管理するってのが正しいかな」

「……はあ……管理する……?」


意味がよくわからない。
それに、無事しぬようにって言い方もなんかヘン。


「人が死ぬ日って各々予め決まってるんだよ。そういう……いわゆる運命?の歯車が狂わないようにするのが死神」

「………運命、」


ということは私は、今日、死ぬ運命だった。
ほんの数分までは本気にしていなかったハナシが、今になってようやく現実味を帯びた。

本来、私はもう死んでいるはずだった。だけど今生きている。私が生きているのは、夏川くんが生かしているから。
──────どうして?


「夏川くん、助けてくれたんだよね」

「助けた?」

「トラックの事故に巻き込まれて死ぬ運命だったって言ったじゃん。あれは嘘なの?」

「嘘じゃないよ。伊藤りりこは今日死ぬ運命だった。俺が邪魔をしたから死ななかった」


「うん。そうだよね。どうして助けてくれたの?」

「助けようと思ったわけじゃない。悪いけど、死ぬのが可哀想とかそんなことは微塵も思わなかった。なんとなく生かしてみただけ。どうなるかなって」

「な……」

どうなるかなって……まるで人を玩具みたいに。いや、そのおかげで今生きてるわけだから強く文句は言えないんだけど。
「つまり、私は運よくたまたま生き延びた、と」

「そう。お前を見たとき、ちょうどたまたま、未来が欲しいなって考えただけなんだよ。本当に、たまたま」

「……ふーん、なるほどお……」

と返事をしつつ、全然理解できなかった。人が死ぬ日は運命で定められてるって言ってたよね。その運命が歯車狂わないようにするのが死神の使命だって。


「死ぬべき私が死ななかったら、夏川くんは怒られるんじゃないの」

「うん。このまま何もしなければペナルティがくだる」

「大丈夫なの?」

「別の人間を殺して数を合わせるからへーき」

「それってもっとだめでしょ」

「いいんだよ。周りはみんなやってる。倫理の観点からアレコレ言われてるけど、最終的に数さえ合えば問題ない」

ハナシが現実味を帯びたせいで、焦りと恐怖がいっきに押し寄せる。
私のせいで、別の誰かが死ぬかもしれない。死ぬ運命になかった人の命が奪われるかもしれない……。


「だめだよ、死ぬはずだった私が死ななくちゃ。別の人じゃなくて、私を殺してよ」

「それを決めるのはお前じゃない」

「っ、夏川くん、」


名前を呼びかけた瞬間、ひゅっと息を呑む。底の見えない昏い瞳を、初めて、本当の意味で怖いと思った。


「俺の話を信じたなら自分の立場くらい理解しろ。お前が生きているのは、俺が生かしているから。……この意味がわかるか」

「っ、――――」

言葉を失う。という経験を初めてした。

怖くて怖くて指先が震えて、涙までもがこみあげてきて。頑張って堪えようと唇を噛んで。それでも我慢できなくなって。……溢れる。と思った寸前。

「っく、ははっ」

とつぜん笑い声が響いた。見ると、夏川くんが肩を震わせている。綺麗な彼にいい意味で似合わない豪快な笑い方に、しばしぽかんとしてしまう。


「あー……、お前やっぱり可愛いね」

「?……、??」

「死なせてもいいけど生きてるほうがいいな。あったかいし」

そう言いながら、夏川くんは一度だけ私を抱きしめた。ほんの一瞬のできごとだったのに、冷たくもあったかくもない体に包まれている時間は、永遠にも思えた。


「また明日の夜会いに来るから、それまでに殺したいやつ決めといて」

昏い瞳が、再び妖しい弧を描く。

夏川くんは、理解が追い付かない私を置いてけぼりにして夜の闇に消えていった。



─────『お前やっぱり可愛いね』
─────『また明日の夜会いに来るから』

昨日の夜からずっと、夏川と名乗った死神のことを考えている。

ひどく綺麗な顔をして、冷たくもあたたかくもないぬるっとした手の温度に、どこか感情がないような冷静さを纏っていて。現実味を帯びていない“死神”というワードがどこかしっくりきてしまう、そんな(ひと)だった。

ナツカワ。夏川。シニガミ、死神……。ぐるぐる考えていたせいで寝不足のまま起きた朝、テレビのニュースで昨日の事故が取り上げられていた。やっぱり結構大きい事故だったみたい。


『昨夜19時頃、○○市内○○交差点十字路付近にて。4トントラックが電柱にぶつかる事故があり、国道ーー号線では3時間にも及ぶ大渋滞が発生しました。車体は横転と同時に左側が大きく破損、運転手は助骨を折る重傷ですが命に別状はないとのことです。幸いにもこの事故で他の怪我人はありませんでした』

『巻き込まれる歩行者がいなかったのが不幸中の幸いですね。しかしこの事故、運転手は飲酒運転だったんですよね?』

『そうなんです、事故原因は運転手のアルコール摂取による飲酒運転で、検出された体内のアルコール度数は基準値の6倍以上だったとか─────』


テレビの中で、ニュースキャスターとコメンテーターが交互にそう話すのをどこか上の空で聞いていて、その内容が昨晩夏川くんから聞いたものと完全に一致していることに鳥肌が立った。

あの時あの瞬間、事故を起こした張本人である運転手しか知り得ないことを飄々と言ってのけたこと。それに、夏川くんは事故から背を向けていたのだ。視覚から読み取ったわけでもない。

あまりに冷酷な瞳を思い出して身震いする。わたしが死ぬはずだった事故。それから、代わりに誰かを殺すと言う夏川くん。


─────『殺したい奴決めといて』
いないよ。いるわけない。だけど、決めなきゃわたしが死ぬかもしれない。

誰もいない殺風景な広いリビングで、わたしは味気ない朝ご飯のトーストを囓った。