「何も書いてない進路希望書を提出したのは、塚原だけだぞ?」 

 黙り込む私にそう言ったのは夏目先生。
 どこか冷めたような目をした彼は私の担任だ。

 机の上に置かれた進路希望書は、今日が提出期限だというのに名前以外の欄はまっさらだった。
 

「だって~、書くことがなかったんだもん」
「なに系の仕事に就きたいとか。大学に進学するとか。細かく決まってなくても書いてほしいんだけどな」

 高校2年の12月。
 周りはみんな将来の仕事に夢があったり、行きたい大学が絞れていたりする。
 
 わたしだけだ。
 明日のその先を見ることが出来ていないのは。
 
 将来はこの仕事に就きたいとか。
 正直よくわからない。


「明日のことだって、不安なのに……」
「……そうだよな。これはこのまま預かっておく。思い浮かんだら声かけて?」
 
 夏目先生は、進路希望書を持ってそのまま教室を出ていった。
 すんなり受け入れられたので、拍子抜けしてしまう。
 ぽつりと取り残された私はしばらくボーっと座ったまま。

「……思い浮かぶなら苦労しないんだよ」

 いなくなった夏目先生に向けて、苦言を零した。


 ♦


「教室でクリスマスパーティーしようだってー。和香も参加しようよ」
「う、うん……」

 放課後の教室。みんなの浮かれた声が飛び交っていた。
 今日は12月25日。クリスマス。
 浮かれるには十分な理由だ。
 
「せっかくだから夏目先生も呼ばない?」

 誰かの一声で担任の夏目先生も呼ぶことになった。
 夏目先生は素っ気ないように見えて、相談には真意に向き合ってくれる。そのおかげか、クラスメイトからの好感度も高いらしい。
 
 
「職員室にいなかったよー」
「夏目先生ってふらっとどこかにいなくなるよね」
 
 職員室に呼びに行った生徒が、肩を落としながら戻ってきた。
 どうやら夏目先生は見つからなかったようだ。

 みんなが頭を悩ませる中、私の頭の中にはすぐにある場所が思い浮かんだ。
 先生がいそうだと思い当たる場所がある。


「私、わかるかも……」





 
 まだ校内に残る生徒たちの笑い声の中をかいくぐって、ある場所へと足を進める。

 その場所にたどり着くと、笑い声は聞こえず、しんと静まり返っていた。
 ここは屋上につながる非常階段。
 カラーコーンが置かれて、赤い文字でしっかりと「立ち入り禁止」と書かれている。
 普段なら誰も近づかない場所。
 だけど私は知っていた。
 ここに夏目先生が出入りしていることを。


 冷えたドアノブを回すと、予想通り鍵がかかっていなかった。
 重い扉を開くと、すぐに冷やりとした風が体を突き刺した。

「さむっ」

 冷たい風が体に沁みて肩をすぼめる。
 顔を上げると、落下防止フェンスを見上げる夏目先生が見えた。

「……やっぱり、いた」
 
 声をかけようとすると、ドアが閉まる音に反応した夏目先生が振り返った。
 一瞬目を見開いたかと思えば、いつもの口調で淡々と口を開く。

「塚原……なにしてんだ? こんなところで」
「先生! それはこっちの台詞なんだけど!」
「塚原、立ち入り禁止って読めなかったか?」

 露骨にイヤそうな顔をするので、私は間髪入れずに言い返す。

「知ってるよ! 夏目先生だって立ち入り禁止なんだから屋上に入っちゃダメでしょ!」
「……いいか? これが職権濫用ってやつだ」

 軽く口角を上げると、まるで見せびらかすように。銀色に光る屋上の鍵をひらりとちらつかせる。
 生徒には立ち入り禁止というくせに、自分は入っていいだなんて。
 大人ってずるい。
 ちょっとムッとしながらも、フェンスの前に立つ夏目先生の横に並んだ。
 
「はぁ、大人ってずるいな」
「そうか?」
「そうだよ。なんでみんな夏目先生のことすきなんだろ?」
「それは初耳だ。光栄だな」

 ふっと口角を上げた。
 だけど、目の奥は笑ってないような。少し冷たさも感じる乾いた笑い。
 
「こんなに寒い中、どうして屋上にいるの?」

 私が問いかけると、夏目先生はゆっくり空を見上げた。
 そして、ワンテンポ遅れて返事が返ってくる。

「大切な生徒との思い出の場所だから、かな」
「へぇ……」

 懐かしむように空を見上げたので、私も後を追って空を見上げた。
 雲が一面に広がって、どんよりした空。
 今日は一日曇りだと、朝の天気予報でいってたっけ。

「クラスのみんなが教室でクリスマスパーティーしてるんだけど、夏目先生もきてーだってさ」
「……はぁ、そういうのは担任を呼ぶなよ。頼むから内緒でやってくれ」
「だって~~、みんなが夏目先生も呼ぼうっていうんだもん」
 
 夏目先生は言葉を返すことなく、ふっと力なく笑った。
 
「教師って楽しい? 辞めたいと思ったことってある?」
「いい質問だな。辞めたいと思ったことは……ある。ダメな教師だったからな」

 そう言った夏目先生の顔がちょっと悲しそうに見えた。
 私は慌てて言葉を紡ぐ。

「夏目先生はいい先生だよ。私にとっては、ね?」

 それは自然と出た言葉だった。
 何気ない、深い意味はない言葉。

 けれど、夏目先生はハッとしたように勢いよく振り返る。
 目が合ったその瞳は、揺れているように見えた。
 
「え、なにか変なこと言っちゃった?」
「いや、同じ台詞を言われたことがあったから……少し思い出しただけだ」
 
 悲しげに苦笑をもらした。
 昔の受け持ち生徒のことを思い出したのだろうか。

「その人は今なにしてるの?」
「どうだろうな……」
「えー。やっぱり卒業したら、もう終わりって感じ? さみしいー」
「会いに来なくても、生徒が元気にいてくれたらそれでいい」
「ふーん。そういうものなの?」

 寒くてすぐに引き返したかったくせに、気づけば夏目先生と話し込んでいた。
 今まで抱いていた夏目先生の印象と違って、なんだか今の方が話しやすい。
 

「あの時、教師を辞めようと思ったとき……辞めなくてよかったと思ってるよ」
 
 夏目先生の顔つきが穏やかになって、私の心もホッと和む。
 
「進路希望さぁ、教師も結構いいかも……?」

 思いつきだった。
 だけど、夏目先生は今まで見たことのないくらい優しい笑顔を浮かべる。

「あぁ、悪くないよ」

 そう言って先生は、また空を見上げた。
 本当に教師になってやろうかな。
 そう思えるほどに、柔らかな笑顔だった。
 
 後を追って私もまた空を見上げる。すると曇り空の中から一筋の光が顔を出した。


「進路希望書に"教師"って書くことになったら責任とってよね」
「もちろんだ。それが教師の勤めだからな」

 夏目先生は隣にいる私にではなくて、違う誰かに言っているような。
 不思議とそんな気がした。

「今日はクリスマスか。卒業生もみんな……どこかで笑っててほしいな」
 
 夏目先生が零した言葉は、風に乗って消えていく。
 それはまるで遠くの誰かに届けるように――。