朝、出勤して患者の情報収集をするためにパソコンを眺める。自分が受け持つ患者の夜間の様子や、治療方向などが変わっていないか確認するためだ。

 パソコンを見つめていると、同僚が声を掛けてきた。

「おはよ。三連休だったんだって?」

「おはよー。そうそう」

 シフト制の看護師は、土日祝日関係なく勤務に入る。そのため、平日に三連休や四連休が入ることは珍しくない。私はちょうど三連休明けだった。

「一昨日のインシデント、まだ見てないでしょう? 読んでみ」

 同僚は面白がるような顔で私にそう言った。不思議に思いながらも、私はファイルを手に取って中身を読んでみた。

 それが、朝早く個室に女が入り込んでいた、という主旨のレポートだった。

 淡々とその時起こった様子のみが書かれたレポートをじっと読み、なんだか嫌な気分になる。私はすぐにファイルを閉じて同僚に言う。

「これインシデント書かなくてよくない? インシデントじゃなくて、変質者が入り込んでるってことじゃん。看護師はどうしようもないでしょう。それとも、最後に突き飛ばされて患者と転倒しちゃったところ? こんなの仕方ないよ」

 病院は、案外外部の人間が出入りできるシステムだ。うちの病院は夜間診療もあるので夜間出口はいつでも空いているし、病棟だって夜に急変した患者の家族を呼び出すことも珍しくない。鍵を掛けて管理しているなんて、精神科の閉鎖病棟ぐらいのものだ。

 なのでこの女がどこからか入ってきたとしても、不思議ではない。そしてこれは看護師が犯したインシデントではなく、病院全体の問題なので、レポートを書く必要は見いだせなかった。それに、パッと読んだところ看護師の対応は冷静で間違っているところはないと思った。

「まあ同感だけど、体験したの新人の村端さんだから。書いてみんなに共有したかったんじゃない? これ、めちゃ怖い体験だもん」

 同僚は私の手からファイルを取り、同情するような、でも面白がっている目で読み直している。そして、やや声をひそめて言う。

「私昨日、村端さんと日勤一緒で、詳細を聞いたんだけど、ヤバい」

「え?」

「教えてあげる」

 そう得意げに話し始めた同僚の内容は、確かに異様なものだった。




 レポートにもあった通り、看護師は朝食の配膳に個室に入った。その個室に入っているのは五木さんという認知症がある女性の患者だった。大人しく暴言を吐いたりもしない、普段から穏やかに過ごす方で、認知症はあれどもトラブルや問題行動は見当たらない人だった。

「失礼しまーす。五木さん、朝食を……」

 言いかけて看護師は止まった。五木さんは一人でにこにこしながら誰かに話しかけていたのだ。

「そうなの……大変ねえあなたも……それで、その人とはどうなったの? 私はもう年だから、力になれなくてもうしわけないわあ」

 非常に楽しそうに話す彼女の傍らに、一人の女が立っていた。

 真っ黒な髪は長く腰まで伸びている。手入れがされていないことが一目でわかる痛んだ髪だ。顔はひどく俯いてよく見えず、どんな表情をしているのかさえわからなかった。そして、まるで海のような真っ青なワンピースを着ており、足元はサンダルを履いていた。

 この真冬の中、薄着でサンダルとは。

 さらに女は、ワンピースの袖から出ている腕や、伸びている足が異常に細かった。骨と皮という表現がこれほど相応しい体もそうそうない。

 そして女は、頭を小刻みに揺らしていた。ずっと同じリズムで、ただひたすら揺れていた。

 驚いた看護師は少しの間固まってしまう。果たして、五木さんの家族だろうか?

 五木さんの家族は多忙らしくほとんど会いに来ていない。それに確か、一人息子がいるだけだとカルテに書いてあった気がする。面会時間でもない今、会いに来ているなんて誰なのだろうか。

「ふふ、面白いわねえ。ふふ、ふふふふ」

 女は先ほどから一切声を出していないのに、五木さんはまるで会話をしているかのように話し続けている。そのあまりに異様な光景に、看護師は恐怖を覚えた。すぐに運び入れた食事を置き、なるべく平静を装って声を掛ける。

「おはようございます。ご家族の方ですか?」

 すると、五木さんと女の動きがぴたりと止まった。看護師は続けて声を掛ける。

「今から食事なのですが……面会時間もまだですし」

 五木さんはまるで電池が抜かれた人形のように固まり、無表情のまま黙り込んだ。そして女は、痰の絡んだ掠れ声を突然上げた。

「イスルギ ミサトはここにいますか」

 全く知らない名だった。

 看護師は五木さんの家族ではないのだと判断。ベッドサイドにあったナースコールを目立たぬように押し、他の看護師の応援を呼んだ。

 なるべく刺激しないようにしなくてはならない……そう咄嗟に思った看護師は、淡々と答える。

「ここにはそのような方は入院していませんね」

 そう答えながら、五木さんをそれとなくベッドから下りるように誘導すると、彼女は素直に従ってくれた。女は動かず、俯いたまま何も答えなかった。

 絶対に変質者だ。

 心の中はだらだらと汗を搔き、心臓がどくどくと緊張で鳴っていたが、とにかく刺激しないようにしなくてはいけないという一心で、慌てることもなく五木さんと共に部屋から出た。女が何もしてこないのは意外だった。

 廊下に出た時、ナースコールで呼んだ他の看護師がようやく顔を出す。

「あれ、どうしたの?」

「す、すみません。中に知らない人が……」

 慌てて説明しようとした途端、背後から耳をつんざくような悲鳴が聞こえてきたので振り返ると、女が凄い形相でこちらに走ってきた。ようやく見えた女の顔は、ファンデーションで真っ白、唇は不自然なピンク色のリップを塗った不気味な物だった。

 女はそのがりがりの体から出したとは思えない力で看護師たちを突き飛ばし、そのまま逃走した。突き飛ばされた看護師と五木さんは転倒してしまったが、二人ともけがはなかった。

 ……というのが、詳細らしい。