忌引き休暇に休みがついて連休となっていた私ですが、ようやく休みが明けて出勤することになりました。病院に行くのは少し久しぶりだったので、やや気が重くなります。これは青いワンピースの女どうこうではなく、社会人なら誰でも経験のある、あの憂鬱さです。
白衣に着替えて病棟へ向かい、まず休みを頂いたことを看護長にお礼を言って、すぐさま仕事に取り掛かりました。まずは今日の受け持つ患者が誰なのか確認するところからです。
受け持ち表を見ていると、同僚が声を掛けてきました。
「あ、美里! 色々大変だったみたいだね、大丈夫?」
心配そうに言ってくれる同僚が言う『色々』は、もちろん祖母が亡くなったことに対してです。私が北陸まで足を運び、初めて父方の祖父母に会ったことまでは知るはずがありません。
「うん、ありがとう」
「元気そうならよかったよ。それよりさ、インシデントレポート、見てみ」
いつだったか、あの女がうちの病院に侵入してきたときと同じように、同僚はどこか面白がるような表情で私に言います。私が首を傾げつつファイルに手を伸ばそうとすると、同僚が止めます。
「あ、うちの病棟で起こったことじゃないから。こっちこっち」
「他のところってこと?」
自分の病棟で起こったインシデントのレポートはファイリングされますが、他の病棟のレポートまで回ってくることはまずありません。膨大な量になりますし、把握しきれないので。こうして他病棟にまで共有させるということは、何か大きなことが起きたということです。
同僚はナースステーション中央にある大きな机の上に置かれた一枚のプリントを、私に手渡しました。それを読んだ時、自分の心臓がぎゅっと小さくなったように感じました。
「『個室から一人女性が出てくるところだった』……?」
短いレポートの中に、その女性の特徴など書いていません。しかし、そのレポートは二枚重ねになっており、次のページを捲ると、目立つ文字で『変質者に注意!!』の見出しが書いてありました。
『変質者に注意!!
今年一月に、消化器内科で個室へ見知らぬ女性が侵入する事件がありました。
今回、総合心療内科でも似たような事案が発生しています。
おかしな人物などを見かけたらすぐに通報を!
特徴:青いワンピース 長い黒髪 細身の体 身長は150cmくらい イスルギミサトという人物を探している』
「…………え?」
擦れた声が自分の喉から漏れました。この条件は間違いなく、あの女です。私のことを探しているあの女。
でもそんなはずはない。あの女は、すでに死亡しているはずなんです。
同僚は私の様子に気が付いていないのか、噂話を楽しむようにペラペラと話し出しました。
「丁度二日前、総合心療内科でもまた変な女が入ったんだって! これがさ、うちの病棟に入り込んだやつと特徴がバッチリ合っちゃったみたいなの。正直さ、もう四ヵ月以上前のことだし、みんな忘れかけてたじゃん? 気が緩んでたっていうのはあるよねー」
「……これ、まだ、探してる……?」
「し、か、も! やばいよ、凄い噂になってるんだけどさあ」
同僚は興奮したようにやや声のボリュームを上げます。
「ほら、うちに侵入してきたときって、ここまで詳細な特徴を公にしなかったじゃない? あれはよくなかったと思うんだよね。今回ようやくこうやってみんなに教えたら、なんと! この女を見たって言う人が続々現れてるらしいの!」
「どういうこと……?」
「四ヵ月前に侵入後も、ちょくちょくうちの病院に来てたんだって。受付で見たって人とか、薬局とか図書コーナーだったりとか、給食室でも……みんな、『変な人がいる』とは思ったらしいけど、上司に報告するまでもないかって思ったらしくて。それが今回、この事件の概要を聞いて、あの人だ! ってなったらしいよ。今月も、目撃情報が……」
「そんなはずない!!」
私はつい、大声を出してしまいました。同僚はぎょっとしたように目を見開き、私を見つめています。
すぐにはっと気が付き、何とか愛想笑いをしました。言えるわけありません、あの女は私の祖父母が殺したのだから、もううちの病院に現れるわけがない、だなんて……。
「ご、ごめん、あんまり怖い話でびっくりしちゃって……」
「あ、そうだよねえ! めちゃくちゃ怖いよね? 私もびっくりしてさー。そうそう、今回の事件の詳細も噂で聞いてきたんだけど……」
同僚は気分を害した様子もなく、私に話を続けてくれました。
夜勤の巡視の際、廊下を歩いていると個室から誰かが出てくるのが目に入った。だがその部屋に入院しているのは、寝たきりの患者で起き上がれないどころかナースコールを鳴らすことすら出来ない状態だったため、出入りする人間なんて看護師しかいないはずだった。
暗い廊下の中で目を凝らしてみると、青いワンピースを着ている女性だとわかった。他の患者が部屋を間違えた、とかではないらしい。
とはいえ、家族がこんな夜中に面会に来るはずもない。
「すみません、どなたですか?」
毅然とした態度で近づきながら尋ねる。女はひどく俯き顔がよく見えなかったが、何かを小声でぶつぶつ呟いているのがわかった。
「イスルギミサト……イスルギミサト、どこ……イスルギミサト……?」
そう言いながら顔を上げた女は、看護師の胸元にある名札を見ていることに気が付いた。
あ、これヤバイやつ。
そう思った時、今先ほど出てきた病室内から悲鳴が上がった。その声に驚き、咄嗟に女から視線をずらして扉を開けて中を覗き込んだ。
「……嘘でしょ」
ベッドの上に寝ているはずの患者がいない。いや、違う、ベッドサイドにいる。転落したのだ。転落……転落? ありえない。
体は拘縮し、自分で寝返りも打てず、痰も出せない。食事も取っていないし、何より声なんて一度も出したことがない患者が叫び、ベッドから転落したということか? その上、ベッドには柵がしてあった。それを乗り越えて転落するはずがないのだ。
信じられない光景に呆気にとられたが、すぐにはっとして振り返る。
女はすでにいなくなっていた。
慌てて廊下を確認するも、姿はないし足音すらない。忽然と煙のように姿を消してしまったのだ。
探しに行く暇もなく、看護師はすぐに応援を呼んで転落した患者の対応に追われた。患者は目を見開き、何か恐ろしい物でも見たかのような凄い表情をしていた。


