A県で興信所に勤める朝倉さん(仮名)は、その仕事に就いてもう十年以上になる。元々は普通のサラリーマンをしていた朝倉さんだが、五十代に入ったと同時にリストラに遭い、次の仕事を探している時に、知り合いが経営している興信所に誘われた。

 昔から探偵ものの小説や映画が好きで、そう言った世界に興味があったので、面白半分で引き受ける。もし合わなければまた次の仕事を探そう、と楽観的な考えだった。彼は独身で気ままに生活していたので、こうした考えでもよかったのだ。これでもし、大学進学を控えた受験生の子供がいたらこうはいかなかった。

 五十を過ぎてから興信所で勤めるなど、かなり厳しいだろうな、と本人は思っていたのだが、これが結構合っていた。一からいろんなことを覚えるのは大変だったが、彼はすんなり習得していった。

 現在興信所では、浮気調査が最も多い。夫や妻の浮気を調べてほしい、と次から次に訪れる現状は、結婚生活に夢も希望もなくなりそうだった。でもプロとして彼は依頼に答え続けたし、結果を出し続けた。

 そんなある日、事務所に一本の電話が掛かってきた。その時は朝倉さんが一人で留守番をしている時だった。

「はい、〇〇興信所です」

 電話を取った彼の耳には、沈黙が流れた。首を傾げて相手の様子を窺う。

「あの、もしもし?」

 いたずらか? と思っていると、しばらくしてから向こうが口を開いた。

『人を……探しています』

 相手は女だとわかったが、酷く痰が絡んだような声で不快感を覚えるものだった。さらに、口が渇いているのか、ねちょっとした音が受話器から聞こえ、自然と朝倉さんは顔を顰めた。

「人探しですね」

 人探しも時々入る依頼だ。だがこれは、内容によってだいぶ労力に差が出る。簡単に見つかれば浮気調査より楽なものもあるが、結局見つからない案件もあった。

『探してください』

「うちで人探しも承っています。簡単に詳細を伺ってもよろしいでしょうか。探している方とのご関係は?」

『……』

 女は答えなかった。

「人探しはとにかく情報が大切ですので……小さなことでも情報を頂きたいのですが。それに、難易度によって料金も大幅に変わります」

『見つかればいくらでもお支払いします』

 抑揚のない言い方は、機械みたいだな、と彼は思った。だが、いくらでも支払うとは、いい客なのかもしれない。

「そういうことでしたら、うちも全力を尽くします。それで、ご関係は?」

『……』

 なぜ黙る。

「今回調べようと思った経緯なども、できれば教えて頂きたいのですが」

『……』

「一度、こちらに足を運んでいただきたく……」

 それでも相手は答えなかった。

 朝倉さんは頭を抱えながら質問を変えた。

「では、お相手のお名前は?」

 今度は女は答えた。その口から、一人の女性と思しき名前が告げられたので、朝倉さんは手元にメモをした。少し珍しい苗字だと思った。

 それにしても女が名前を言ってきたのは意外だった。これだけ質問を無視してくるので、てっきりいたずら電話かと思ったのだ。

「お名前は分かりました。ですが名前だけでは調査が難航しますので、やはり一度こちらに来て頂き詳細を教えて頂けましたら……」

『探してください』

「ですので詳細を」

『探してもらえればお金はいくらでも払います。探せないのなら依頼しません。来週連れてきてください』

「来週?」

 朝倉さんはいたずらだ、と確信した。名前のみの情報で来週までに人探しを完了させろといは、無理難題以外何者でもない。

 苛立った彼は少し声を大きくした。

「いたずらですね。電話は切ります」

『探しています。探してください』

「他を当たってくださいねー」

『探しています。本当に探しています。探してください。探しています』

 淡々とそれだけ言ってくる女に、朝倉さんはぞっとした。これ以上話していても無駄だと思い、電話を切った。

 嫌な電話だったな、と思い気分を変えるために飲み物を飲もうとしたところ、自分が書いたメモが視界に入る。名前が一つ書かれただけのメモだ。

 彼は苦々しい顔をしながら、それをちぎり、ゴミ箱に捨てた。その女からの電話はもうかかってこなかったという。