高校に入学して一週間が経っても、やはり内部進学をしたクラスメイトたちは相変わらずグループになっていて、僕はクラスに溶け込む機会を逃してしまったようだった。
昨日でオリエンテーションが終わり、今日から通常授業が始まった。高校の授業は難しいかと思っていたけれど思っていたよりも難しくなかった。先生が話していることを少しぼうっとしながら聞いて、全く頭には入ってこないが、とにかく板書をノートに写した。ふっと隣を見てみると翠生は空に浮かぶ雲や教室の窓まで届く高さの木に止まっている鳥を見つめていた。少し弧を描く彼女の唇や青く澄んだ空を映す瞳がとても綺麗で僕は握っていたシャーペンの芯をしまった。先生の声をBGMにして、翠生の纏う空気に飲み込まれて、僕も同じように空を漂う儚く薄い雲を見つめていた。そうしていると、僕には地獄とも思える時間が訪れてしまった。昼食の時間だ。僕の通う学校では仲の良い友達と固まって食べることがあたり前とされていた。クラスに馴染めていない僕には一緒にお弁当を食べる友達なんていなかった。クラスメイトがどんどんグループになって固まっていく中、僕は自分の席から動かないまま、きっとこれからずっと一人でお昼ご飯を食べ、そのまま僕は寂しい高校生活を送るのだなんてことを考えていた。
僕は自分の情けない考えに対して鼻で笑った後、小さくため息をついた。一人寂しく自分の席で昼食を食べるしかないと思い、鞄からお弁当袋を出そうとしていると、つんつんと軽く肩を突かれた。
「もしよかったらなんだけど、私と一緒に食べない?」
僕の目の前に立ち、小さな声でそう呟いたのは翠生だった。恥ずかしそうに俯く彼女の両耳はほんのり赤くなっていた。
「僕でいいなら一緒に食べよう。ここだとあれだから屋上でも行く?」
僕は嬉しくなって即答してしまった。彼女は僕の言葉を聞いた途端、バッと顔を上げて嬉しそうに微笑んだ。
僕たちはお弁当袋を提げ、横に並んで歩いた。一週間前、僕が思わず足を止めてしまうくらい美しい歌声が響いていたあの階段の下についた。
「この階段は……。一週間前の入学式の日、ここを通りかかった時に君の歌声が聞こえたんだ。とても綺麗だった。」
僕がそう呟いたが彼女は何も言わなかった。どうしたのだろうかと思い彼女の方を向くときょとんとした顔をしている彼女がいた。それを見て今度は僕の方がきょとんとした顔をしていると彼女がハッとしたように口を開いた。
「あっ、ごめんね。私歌声褒めてもらったの初めてで。びっくりしちゃったんだ。嬉しい。ありがとう。」
彼女は顔を赤らめながらそう言い、パタパタと階段を登って行ってしまったので僕は急いで追いかけた。
僕たちは壊れた鎖を跨ぎ、屋上の扉を開いた。春の優しいそよ風が彼女のスカートを揺らした。
今日も空は透き通ったような青だった。
「ほらほら、早くここ座って。」
僕がぼうっと空を見上げていると屋上に一つだけ設置してある二人掛けのベンチに座った彼女が、微笑みながら手招きをしてそう言った。
「ごめんごめん。」
僕はそう言いながら彼女の隣に座りお弁当を広げた。
「恭介くんのお弁当美味しそう。お母さんが作ってくれてるの?」
彼女が目を輝かせながら僕のお弁当を覗き込んでいた。
「うん、そうだよ。」
「そうなんだね。恭介くんのお母さんすっごく優しいね。」
目を細め、優しい笑顔を向けて彼女は微笑んだ。
「僕の家、母子家庭だから母さんは働き詰めで。朝ご飯と夜ご飯は自分で作ってるんだ。忙しい中でも毎日ちゃんとお弁当を作ってくれる母さんには感謝してる。」
僕がお弁当に視線を落としながらそう言うと、彼女がクスッと笑う声が聞こえた。不思議に思い彼女の方を見ると、優しく微笑む彼女がいた。
「恭介くんはお母さんによく似てるんだね。」
彼女のその言葉を僕は理解できなかった。少し眉を顰めるとまた彼女が笑った。
「恭介くんはお母さんに似てるから、優しいんだね。」
微笑みながら僕にかけてくれた言葉が僕の心に暖かく広がった。
「そんなことないよ。でも、母さんに似てるって言われるのはすごく嬉しい。ありがとう。」
彼女は微笑みながら大きく頷いた。彼女は僕が欲しい言葉をくれる。その言葉は僕の心の中を暖かいもので満たす。
「翠生のお弁当は誰が作ってるの?」
僕がそう尋ねると彼女は少し寂しそうに微笑んだ。
「自分で作ってるよ。私もお父さんと二人で住んでて、お父さんはずっと働いてるから……」
彼女は遠くを見つめながらぼそっとそう呟いた。彼女の心に踏み込んでしまいすぎたように感じた。
「そっか。そんなに美味しそうなお弁当、自分で作ってるってすごいね。」
静かになってしまった彼女を見ていると心が痛くなった。僕は明るい話題に戻そうと笑顔で彼女の顔を覗き込んでそう言った。少し驚いたように眼を見開いていたが柔らかく微笑んで、ありがとうと言ってくれた。
彼女はまるで雪の結晶のような人だ。洗練されていて、思わず目で追ってしまうほど可憐だけど、どこか寂しそうで、すぐに消えてしまうのではないかと感じる時がある。
僕は彼女に、人生で初めての恋をした。淡くて脆い、儚い恋心を抱いた。
笑顔の裏に深い悲しみを浮かべる、誰かにずっと助けを求めているような表情を浮かべる彼女を、翠生を僕は守ってあげたいと思ってしまった。
そんな淡い恋心を僕が抱いていることを知らない彼女と僕。僕と彼女は毎日、毎休み時間、ずっと一緒にいた。朝早く登校する僕が自分の席で勉強していると彼女は登校してきた途端、僕の席に来る。僕の目には眩しいと感じるくらいキラキラと輝く笑顔で毎朝、おはようと言ってくれる。そんなふうに始まる毎日が僕は幸せだった。
