入学式はすぐに終わった。相変わらず校長先生の話は長かったが、あっという間に終わってしまった。終礼では、明日から始まるオリエンテーションの説明を聞いたり、教科書が配られたりした。この量の教科書を持って帰るのかと思うと気が引けてしまった。
 終礼後、僕は大量の教科書を持って帰ることに苦戦していた。
「こんなにたくさん、絶対に入らない。くそっ。」
 僕は大きなため息をついた。
「そんな大きなため息ついてどうしたの?」
 その声に僕が顔を上げてみると、彼女がニコニコしながら僕の顔を覗き込んでいた。一瞬驚いてしまったが彼女とわかるとホッとした。
「こんなにたくさん教科書が配られるって思ってなかったからカバンに入らなくて。無理やり詰めようとしてみたけどてんでダメなんだ。」
 僕は苦笑いをしながらそう言った。
「これは絶対に入らないね。ちょっと置いて帰ったほうがいいよ。」
 そう言いながら口元に手を添え、静かに笑う彼女から僕は目が離せなかった。
「ねえ、手止まってるよ。ほら、手伝うから。」
 彼女はそう言い、僕の鞄を覗いた。
「いや、申し訳ないよ。それに水無瀬さんだって、」
 早く帰らないとダメだろうし。そう言おうとしたが彼女には届かなかった。
「翠生。」
 彼女が僕の声を遮ったのだ。
「え?」
「水無瀬さんじゃなくて、翠生って呼んで。」
 僕は思わず唖然としてしまった。まさか、今日会ったばかりの僕に名前で呼んで欲しいと言ってくるわけがないと思ったからだ。
「恭介くん帰りどっち?」
「こっちだよ。赤石駅の近くに住んでる。」
 僕が自宅の方を指差してそう言うと、彼女はなぜか目を丸くした。
「え、本当?私も最寄駅赤石だよ。」
 偶然、同じ駅を使っていたことにびっくりして、二人で笑った。笑い終わると話すことが無くなってしまった。どうすればいいかと焦りながら考えていると隣からクスッと笑う声が聞こえた。
「今、天使が通り過ぎたね。」
「天使?どういうこと?」
 僕は、彼女の言った『天使が通り過ぎた』という言葉の意味がわからなかった。彼女は少し考えるような仕草をしてから口を開いた。
「『天使が通り過ぎる』っていうのはフランスのことわざだよ。続いていた会話が途切れてその場にいる人がみんな黙り込むっていう意味で使われるの。素敵な表現だよね。お気に入りなの。」
「翠生はいろんなこと知ってるんだね。」
 僕は彼女に釣られてクスッと笑いながらそう言った。
 翠生は変わっている。もちろん悪い意味ではない。彼女と僕は本当に同い年なのか、そう思ってしまうくらい彼女はどこか大人びているように感じた。今日知り合ったばかりの僕に彼女のことはほとんどわからない。でも僕は少なからず彼女のことを知りたいと思った。
 僕と翠生は一緒に駅まで歩き、同じ電車に乗った。その間も、僕たちの話は尽きなかった。彼女と話すのはとても楽しい。彼女はとても表情が豊かだと思った。僕は彼女に引き込まれるように、コロコロと変わる彼女の表情から目が離せなくなっていた。

 僕と翠生の家は思っていたよりも近かった。
「こんなに近いなんてびっくりだね。」
「この辺りから僕たちの高校に通ってる人は少ないって聞いてたから、てっきりこの地域から通ってる人は僕だけだと思ってた。」
 僕と彼女は顔を見合わせて笑い合った。
「じゃあ、また明日ね。」
 彼女はそう言って微笑みながら小さく手を振った。
「うん。また学校で。」
 僕も彼女に手を振り返す。僕が直進する道を彼女は右に曲がっていった。彼女の背中がどんどん遠ざかっていく。今日初めて会ったのに、初めて話したのに。このずっと前から知っているような感覚は、鳴り止まない鼓動は一体何なのか。僕には全くわからなかった。彼女が放っている、あの特徴的な雰囲気のせいだろうか。