忘れてしまう君だけど


 「私は生まれつき先天性儚心症候群っていう奇病を患ってるの。だから目の色も髪の色も普通の人と違う。それとね、この病気、運命の人に出会ってその人に好意を寄せてしまうと相手のことが大好きっていう気持ちは心に残るんだけどその相手に関することを全て忘れちゃうの。顔も名前も匂いも声も、全部忘れちゃうの。」
 そこまで話した時、彼女は僕の両頬にそっと手を添えた。
「私の大好きな人はね、恭介くん。君なの。ある日、気づいたら恭介くんのことを少しずつ忘れてしまっていたの。あの日、梅雨の日の朝、恭介くんのことがが全くわからなかった。姿を見ても、声を聞いても、心の中に大好きだって気持ちは広がるのにそれまでの恭介くんとの思い出とか話したこととか全部思い出せなかったの。」
 彼女の指が僕の下瞼を優しく撫でた。その彼女の行動が僕の中の何かをプツンと切ってしまった。涙が止まらない。彼女が僕のことを好きでいてくれたということへの嬉しさと彼女が僕のことを覚えていない、今までの思い出も全て忘れてしまっているということへの悲しみで僕の心はぐちゃぐちゃになってしまった。
「私はね、恭介くんが大好きなの。大好きで大好きで仕方ないの。でも、だからこそ忘れたくない。忘れてしまうのが怖い。先天性儚心症候群はね、奇病だからたくさんの人に注目される。でも、この病気を患っているとたくさんの視線が自分に向けられることに恐怖を感じるの。たくさんの人からは嫌でも注目が集まるのに、大切で大好きな人のことは自ら突き放してしまう。残酷な病気なの。」
 そこまで言って彼女は少し顔を歪め、僕から彼女の綺麗な、薄く膜の張った目を逸らした。
「恭介くんにお願いがあるの。私に恭介くんのことを嫌いにならせてほしい。」
 僕は彼女の言葉を理解することができなかった。彼女が僕のことを嫌いになるように仕向けるってことなのか。僕も彼女のことが大好きなのにそんなことできるはずがない。でも、そうすれば彼女はこれ以上苦しまないのではないだろうか。僕は散々考えたが、彼女に自分のことを嫌ってもらうなんてできなかった。
「ごめん、翠生。僕にはそんなことできない。だって僕は、翠生のことが好きだから。僕も翠生と同じ。大好きで大好きで仕方ないんだ。翠生が思っているよりもずっと。君と出会ったから、毎日が楽しかった。君に恋をしたから、たくさんのことを知ることができた。翠生のことを知ることができた。翠生とあの日で会えたこと、運命だと思ってる。だから離れるなんてできない。」
 彼女は困ったようにでも、どこか安心したように微笑んだ。
「きっと、恭介くんならそう言ってくれるって思った。私も自分でこんなこと頼んでおいておかしいけど恭介くんのこと、嫌いになんてなれるわけないから。」
 彼女も同じように思ってくれていたことに僕は安堵した。この後、大きな後悔が僕の心を、僕たちの心を蝕んでいくということも知らずに。
「僕は翠生のことを一番大切に思ってるし、僕がずっと守っていきたいって思ってる。これから大変なこともあるかもしれないけど、彼氏として翠生のそばに居させてくれないかな。」
 彼女の細くて美しい手をとって僕はそう告げた。目にうっすら涙を浮かべながら彼女は頷いて僕の言葉を聞いてくれた。
「もちろん。病気のせいで恭介くんのことを苦しめちゃったりすることもあると思う。でも、私は恭介くんと一緒にいたい。」
 僕はその言葉を聞いて、翠生の背中に優しく腕を回した。すると翠生も同じように僕の背中に腕を回して優しく僕の背中をさすった。どうして彼女は僕の背中をさすっているのだろうか。そんなことを考えていると彼女が少し体を離して僕の顔を見つめた後、彼女がクスッと笑った。
「恭介くん、泣かないで。」
 僕はあまりの嬉しさに泣いてしまっていた。僕が声を漏らしながら泣いている間、翠生はずっと僕の背中をさすってくれていた。僕は怖かったのだ。翠生が僕を呼び出して何を伝えようとしているのか。そして、本当に翠生が僕のことを忘れてしまっているということを知って。その緊張が一気に解けて僕は彼女の暖かな優しさを感じながら泣いた。