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 退職代行を使って他人を辞めさせて監禁。犯人は捕まり、被害者は無事保護されたとあるが、そこは問題ではない。事務所の誰もが西川多果子の退職を想起した。
「西川さんも監禁? 誰に」
 所長が薄ら笑いとともに発した言葉は、西川への蔑みを孕むような響きがあった。しかし今それを咎めようとする者はいなかった。
「監禁とは限りませんよ」
 泉がやけにはっきりした声で言う。
「たとえば僕が、小田さんにものすごく腹を立てていたとして」
 もうその時点で、小田は泉の言わんとしていることを察した。ほかの者もそうだったに違いない。
「小田さんを山か海にでも始末して、アパートその他も全部解約して。本人確認のガバガバな退職代行業者を選んで辞めさせてしまえばもう、独り身の小田さんをわざわざ探そうとする人は、多分いないでしょう。完全犯罪の成立です」
 自分の名前が使われてはいたが、それはどうしたって西川のことを言っているとしか思えなかった。
「そういうことは、言うもんじゃない」
 ぼそりと所長が泉を窘める。所長は小田に同意を求めるような視線を寄こしてきたが、何を言っても正しくないように思えて何も言えなかった。今日のこのときまで、誰もがその存在を知りながらも無視を決め込んでいたタブーに、思わぬかたちで直面してしまった。
 西川多果子は本当に自ら辞めたのだろうか。彼女が辞めるような理由は、ない。退職代行業者が一方的に退職届を送ってきただけだ。その退職届も、すべてがデジタルで本人のものとわかるようなところは何もない。あらゆることが符号して、泉の説を採ったほうが辻褄が合うと納得してしまいそうになる。
「私たちの誰かがそれをしたって言うの」
 三木が立ち上がって言った。声は震えていたがよく響いた。泉がたじろいで、別にそうは言っていないなどともごもご言う。青山が座ったまま、でも、と口を開く。
「でも、きっと、責任は私たち全員にあるよ」
 青山の発言に三木が目を見開いた。
「責任って何です。私たちがいったい何をしたって言うんですか」
 座っている青山を見下ろす格好で三木がまくしたてる。青山はそんなふうにして言葉を浴びせられるのが心外であるかのように三木を見上げたが、すぐに俯いた。そしてそのままの姿勢で話し続ける。
「西川さんが辞めたとき、皆不思議に思ったはず。でも誰も深くは言えなかった。あのときちゃんと、ちゃんとしていたら」
 小田はあの日、泉や青山の口を塞いだことを思い返していた。言外にそれ以上言うなと釘を刺したのはほかの誰でもない、自分である。監禁だの山だの海だの、そんなもの本当は誰も信じちゃいない。ただ、自分たちはこの話題を避けすぎた。何も話さなかったせいで、今その反動が余計なものまで引き連れて押し寄せている。
「ちゃんとしていたら? 何を? 私たちが何かする義理はないですよね」
「そうやって西川さんを毛嫌いしていたから何もしてこなかったんじゃない」
 これだ。青山のこの言葉が決定的だった。自分たちはいじめに加担する子どもではないのだ、分別のある大人なのだ。それなのに「いなくなってしまえばいいのに」が思いがけず叶ってしまい「いなくなってせいせいした」に発展した。そんな科白を内に抱え込んできた後ろ暗さに、小田だけでなくここにいる全員が苛まれていたはずなのだ。青山はこれを機に懺悔を始め、三木は否定を続けて自身を守っている。どちらの気持ちもわかり小田は口を挟むことができずにいる。
「あの人は勝手に辞めたの! これ見よがしに反省して自分だけ善い人ぶらないで!」
 三木が声を荒げ、青山は口を閉ざした。同時に、パタンと場違いな音が響いて誰もがそちらに注目した。所長が食べかけの弁当の蓋を閉じた音だった。そんな音が立つとは思わなかったのだろう、所長は仕方なさげに、
「現場に行ってきます」
 と言って、作業着を小脇に抱えてパソコンもかばんにしまって、弁当を手にして部屋を出ていった。泉が小さく「マジかよあの人」と言ったのが小田には聞こえた。
 中断されたものを再開する気には誰もなれず、居心地の悪いまま昼休みを過ごし、各々の仕事に戻った。
 終わったと思った。つかの間この事務所に訪れていた平穏がまやかしであったことを悟った。部屋の中央に鎮座していた何ものかに、全員で腕を突っ込んで掻き回して、腕に絡まったままそれを各々が引っ張り出してしまった。もともと、いつまでも知らないふりをしていられるものではなかった。とはいえ引っ張り出したところでそれをどう処理すればよかったのだろう。

 端的にいえば、職場の環境は悪くなった。
 まずは、青山が退職届を出した。三木と言い合ってから数日が経ったころだった。あの日から、人と建設的な話し合いをしながら仕事を進めていた以前のような姿は見られなくなっていた。彼女は孤立していた。所長は事務所を離れがちだったし、三木が小田の仕事の一部をするようになったことで二人セットでいる時間が多くなっていた。青山としてはそんななか小田に話しかけるのも躊躇われたのかもしれない。
 それでも青山は突然消えるような真似はせず、退職届の提出後、自分の仕事の引継ぎなどをある程度の期間おこなった上で辞めていった。今までの退職者と比べればまっとうな去り方をした。
 青山がいなくなったことで一人あたりの作業量が大幅に増えた。青山が新規に手を出していたあれこれに関連する案件が増えていたこともある。余計な仕事を残してくれたものだと小田も内心思ったが、三木にいたっては口に出してよく言った。青山が去ってから三木の愚痴は倍以上増えた。我慢しなくなったといったほうが正しいかもしれない。小田はもっぱら三木の愚痴の聞き役だった。
 泉は逆に静かになった。青山のことで責任を感じているのかもしれない。妙な仮説を唱えたことが引き金になったと捉えていてもおかしくない。遅い時間まで黙々と終わらない仕事に向き合っているさまは不気味だった。明日にも来なくなるのではと思いながら小田は慎重に接した。
 人員が足らない。まったく足りていない。青山が抜けたぶんだけでも、一人だけでもいいから人手がほしい。所長を掴まえて訴えると、社長に相談すると約束してもらえた。わずかに希望を抱いた小田だったが、それは早々に打ち砕かれることとなる。
 本社が寄こしてきたのは四十すぎの男で、あろうことか西川と同じタイプの人間だった。本社での勤務年数は小田よりもずっと長い。所長は完全に事務所に寄りつかなくなったし、小田も三木もその男の顔色を窺いながら窮屈な思いで仕事をした。泉は一人で客先に行けないことを詰められ、免許を取る余裕はもはやないのだろうが言い返すこともせず、殻に閉じこもるように沈黙を通した。男に言われてヘッドホンは着けなくなった。誰も新しい西川に逆らえなかった。何もかもが逆戻りだった。

 小田はときどき≪Всё_в_порядке≫のことを考える。自分たちにエラーを示すフラグがあったとして、それはいつからエラーを訴えていたのだろう。どんな値がそこに入っているのだろう。
 泉がおかしな話を始めたときか。青山と三木が言い合ったときか。青山が退職したときか。それとも西川が辞めたあの日だろうか、自分が泉たちの言葉に蓋をしたときか、あるいはもっとずっと前からか。
 すべてが順調と思われたあの期間でさえ、フラグは立っていたのだろうか。
 フラグの中身の数値がわかったとして、どの段階でエラーが起きたか知れたとして、プログラムのようにそこに戻って修正することなどできない。
 それでも小田は≪Всё_в_порядке≫に思いを馳せずにはいられなかった。