3
ある日の午前。小田は朝から泉を連れて、客先の工場の新設ラインに出向いていた。新設といっても製品の増産のために既存のラインを増やすという、小田たちプログラマーの領分だけで見れば簡単な案件である。彼らの仕事はベースと同じプログラムを新設用に微調整して導入するだけだった。作業だけなら泉一人でじゅうぶんだったが、向こうの担当者が新人で、小田たちから仕様を説明してやってほしいというのが先方の願いだった。基本は泉に任せ、小田は不備があれば補足する役割にまわった。車での送迎のこともあった。車といえば、日々の時間に余裕ができたことで、泉は退勤後や休日に自動車学校に通えているという。
泉の説明は小田から見てもよくできていた。相手が泉と同年代の女性で、二人がすぐに打ち解けたというのも大いにあっただろう。
「小田君、ちょっといいかね」
途中で声をかけてきたのは都築だった。都築は工場に長く勤めている古株の一人だ。彼にこうして声をかけられると、どこかを無償で見てやることになる。とはいえ下請けの競争が厳しいなか、小田たちに案件を多数寄こしてくれる彼の頼みである、無下にはできない。
「じゃあ佐藤ちゃん、よろしく頼んだよ」
都築が見たこともないような笑顔を新人の女性に向けた。はい、と佐藤が元気に返事をする。小田も泉に後を任せると、泉は佐藤の真似をした。若者二人は顔を見合わせて笑った。
歩き出してすぐに、都築が溜息を吐いた。皺の深く刻まれた顔が不機嫌そうに歪んでいる。しかしこの顔は素であり、たいていは不機嫌でも何でもないことを経験上知っている。だが、さきほどの若い二人のやりとりか何かが気に障っただろうかと、小田は繕う言葉を探した。
「頼もしい人ですね、佐藤さん。不明瞭な部分はしっかり質問してくれましたし」
「ああ、あの子はきちんとしとるよ。……問題はほかの連中だ」
都築がやれやれというふうに首を振る。
「今の人は、若いのもそうじゃないのも、何かあるとすぐ辞める。派遣の作業員なんかも突然来なくなるんだ、参ったもんだよ」
あの都築のぎこちない笑顔の正体が、佐藤への気遣いだったと小田は思い至った。
「派遣会社はすぐに代わりを寄こしてくるがね。単純作業のラインだって、初めは教えなきゃならんことがいくらでもある。都度教えていたら手間でしょうがない。別の人間を補充すれば済むような簡単な話じゃあないってのに」
なあ、と同意を求められ、小田は相槌を打つ。小田の会社でもかなりの人数が辞めているのを都築は知っている。横に泉がいなくてよかった。泉がこの場にいたら、西川が退職代行を使ってぱったり来なくなったことや、その後職場の雰囲気ががらりと変わったことまでぺらぺらと喋っていたことだろう。西川が辞めたことはこの工場にも伝えてあるが、あんな辞め方をしたことまではさすがに言わない。
都築に案内されたのは工場の端の、見るからに古い機器が立ち並ぶ一画だった。そこに都築が立つと、彼自身もそこに昔から存在する設備の一つのように見えた。
「ずいぶんと古そうですが、まだ稼働しているんですか、ここ」
「ああ。製品が出るのは、年に四つか五つくらいだがな」
佐藤のいたラインなどは一日に何百という数を生産する。圧倒的な差だ。こちらは古い型式専用で、注文があるときにしか動かさないという。
「どうも計測器の値を取ってくるときにエラーが出たり出なかったりするんだ。そこんとこだけでもいいから、ちょいと見てほしい」
プログラムを小田のノートパソコンにコピーしてもらう。所長あたりが触っていたら意見を求めることができると思い更新履歴をざっと確認すると、西川多果子の名があった。彼女以外に社の人間が携わったことはないようで、ほかはすべて小田の知らない個人名や社名が並んでいる。この工場では多くの案件が相見積もりで安いところに発注されるので、よその会社が作ったプログラムをいじるのは珍しいことではない。それにしても様々な外注が手を加えているのが少し気になった。
都築に言われたあたりの記述を探す。真っ先に目に飛び込んできたものがあった。英字とは違うかたちの文字だった。≪Всё_в_порядке≫という変数名で、コードのところどころに現れる。ほかは英数字で書かれているのでそこだけ異物があるように目立った。
翻訳にかけると「すべて順調」という意味だとわかった。コードを追うと、どうやらエラー用のフラグとして設けているらしいと知れた。
この使い方自体はほかのプログラムでもよく見るものだ。フラグの状態としてあらかじめ“0”や“False”という値を代入しておき、正常でない動きをしたときに“1”や“True”に切り替える。初期状態では≪Всё_в_порядке = 0≫、問題が起きたら≪Всё_в_порядке = 1≫といった具合だ。プログラム内でフラグの状態を都度監視し、フラグが“0”のままなら正規ルートを進ませ、“1”ならば異常時用の処理(エラーメッセージを表示するとか、システムを終了するなど)へと導く。
通常、この手の変数名は“ErrorFlag”や“ErrFlg”とされることが多いが、どんな名称にしても動作の上で違いはない。≪Всё_в_порядке≫でも問題はないわけである。変数名はぱっと見で誰もがわかる名称が望ましい、という観点からいえば首を捻るものだが「すべて順調」という言葉をここに持ってくるのは、ある意味気が利いていると思えなくもない。
もう少し言っておくと、この≪Всё_в_порядке≫のエラー時の値は“1”以外にも複数設定できるようになっており、それらの数字を使い分けることで、どこで異常が発生したかわかるようになっていた。都築が計測器の部分でエラーが出る、と言ったのは≪Всё_в_порядке≫の返す値によってそれが計測器関連だと知れたからだ。
結局、不具合の原因はわからなかった。テスト用の製品ダミーを使っても、小田が見ている前でエラーが再現されることはなかった。プログラム全体を精査すれば何か出てくるかもしれない、設備の劣化も大いに考えられると都築に伝えた。
「全体ねえ。タダで小田君にそこまで見てもらうわけにはいかんしなあ」
「機材も全体的に古いですしね。何にしても、突然使えなくなる前に買い替えたほうがいいでしょうね」
「こんなとこに予算は下りんだろうな。一個新しいのに取り替えれば済むってもんでもないんだろう? いろんな部分に影響が出ちまうんだもんな」
都築の言う通りだ。現行のプログラムは今ある設備に向けて作られている。例えば計測器一つ替えるだけでも、新しい計測器に合わせたコードの記述をしなくてはならない。ほかの機器がその計測器に対応しなければそちらも新調する必要があり、またそれに合わせた改造を、と手間も費用も膨らんでいく。都築が話していた派遣の話と同じだ、人も機械もただ取り替えるわけにはいかないのだ。
「悪いな、時間取っちまって」
もうしばらく一人で動かしてみるという都築を置いて、小田は泉の元へ向かった。振り返ると、都築はぼんやりと古い設備を眺めていた。改善を求めていたというより、その一画を小田に見せたかっただけのようにも思えた。その真意が詳らかになることはなかったが。
都築のいつもの「また今度案件どっさり回してやるから」という科白が今日はなかったことに、小田はしばらくしてから気がついた。
泉を助手席に乗せて帰路につく。道中、泉は佐藤の話をずっとしていた。短時間でずいぶん仲良くなったらしい。小田は話半分で聞きながら別のことを考えていた。西川のことだ。
どんなかたちで携わったか知らないが、西川もあの≪Всё_в_порядке≫という変数を目にしたはずだ。意味は調べただろうか。意味を知り小田のようになるほどと思ったのか、それともわかりにくさに憤慨したのか、あるいは両方か。プログラム全域に点在しているので、たとえ不満に思ってもおいそれと手は出せない。眉間に皺を寄せながら自分の仕事をする西川がありありと思い浮かぶ。小田があんな文字を使ってプログラムを組んだら、それこそ西川に怒鳴りつけられたことだろう。
夢ではときどきそんな状況になる。夢を見ている間は西川が退職した事実はなかったことになっており、そこにいる小田は常に西川に怯えている。現実でも時折忘れては西川にどう説明したものかと考え込むことがある。こうなってくると何が夢か現かわからない。
ぼんやり運転しているうちに事務所に着いた。ちょうど昼休みに入る時間だった。
所長の持参したやきそば弁当のにおいが充満した部屋のなか、青山と三木が席でひそひそやっていた。いつになく深刻そうな顔をしていた。
「どうかしたんですか」
泉が躊躇いなく二人に声をかけにいった。青山がスマホをこちらに向けた。画面に出ていたのは、退職代行絡みの事件を取り上げた記事だった。
*
「それって、あの事件の」
小田氏は頷いた。大々的に報道され、何日もメディアを沸かせた事件だ。しばらくはテレビでもネットでもその話題を見ない日はなかった。
それは退職代行サービスを悪用した犯罪だった。
被害者は、大学を卒業したばかりの若い女性である。以前から彼女にしつこく付きまとっていたという男が女性宅に押し入り、監禁した。無断欠勤で会社が不審に思ったり警察に通報したりしないよう、男は女性を騙り退職代行を利用した。一人住まいだった女性は社会との繋がりが断たれてしまい、友人が気づいて通報するまでのおよそ数か月の間監禁され続けた。
退職代行業者と、女性の勤め先の会社においては、本人確認を怠ったことや対応のずさんさが問題であったとメディアに相当叩かれた。台頭当初に持て囃されたぶん、退職代行への風当たりは厳しかった。
ある日の午前。小田は朝から泉を連れて、客先の工場の新設ラインに出向いていた。新設といっても製品の増産のために既存のラインを増やすという、小田たちプログラマーの領分だけで見れば簡単な案件である。彼らの仕事はベースと同じプログラムを新設用に微調整して導入するだけだった。作業だけなら泉一人でじゅうぶんだったが、向こうの担当者が新人で、小田たちから仕様を説明してやってほしいというのが先方の願いだった。基本は泉に任せ、小田は不備があれば補足する役割にまわった。車での送迎のこともあった。車といえば、日々の時間に余裕ができたことで、泉は退勤後や休日に自動車学校に通えているという。
泉の説明は小田から見てもよくできていた。相手が泉と同年代の女性で、二人がすぐに打ち解けたというのも大いにあっただろう。
「小田君、ちょっといいかね」
途中で声をかけてきたのは都築だった。都築は工場に長く勤めている古株の一人だ。彼にこうして声をかけられると、どこかを無償で見てやることになる。とはいえ下請けの競争が厳しいなか、小田たちに案件を多数寄こしてくれる彼の頼みである、無下にはできない。
「じゃあ佐藤ちゃん、よろしく頼んだよ」
都築が見たこともないような笑顔を新人の女性に向けた。はい、と佐藤が元気に返事をする。小田も泉に後を任せると、泉は佐藤の真似をした。若者二人は顔を見合わせて笑った。
歩き出してすぐに、都築が溜息を吐いた。皺の深く刻まれた顔が不機嫌そうに歪んでいる。しかしこの顔は素であり、たいていは不機嫌でも何でもないことを経験上知っている。だが、さきほどの若い二人のやりとりか何かが気に障っただろうかと、小田は繕う言葉を探した。
「頼もしい人ですね、佐藤さん。不明瞭な部分はしっかり質問してくれましたし」
「ああ、あの子はきちんとしとるよ。……問題はほかの連中だ」
都築がやれやれというふうに首を振る。
「今の人は、若いのもそうじゃないのも、何かあるとすぐ辞める。派遣の作業員なんかも突然来なくなるんだ、参ったもんだよ」
あの都築のぎこちない笑顔の正体が、佐藤への気遣いだったと小田は思い至った。
「派遣会社はすぐに代わりを寄こしてくるがね。単純作業のラインだって、初めは教えなきゃならんことがいくらでもある。都度教えていたら手間でしょうがない。別の人間を補充すれば済むような簡単な話じゃあないってのに」
なあ、と同意を求められ、小田は相槌を打つ。小田の会社でもかなりの人数が辞めているのを都築は知っている。横に泉がいなくてよかった。泉がこの場にいたら、西川が退職代行を使ってぱったり来なくなったことや、その後職場の雰囲気ががらりと変わったことまでぺらぺらと喋っていたことだろう。西川が辞めたことはこの工場にも伝えてあるが、あんな辞め方をしたことまではさすがに言わない。
都築に案内されたのは工場の端の、見るからに古い機器が立ち並ぶ一画だった。そこに都築が立つと、彼自身もそこに昔から存在する設備の一つのように見えた。
「ずいぶんと古そうですが、まだ稼働しているんですか、ここ」
「ああ。製品が出るのは、年に四つか五つくらいだがな」
佐藤のいたラインなどは一日に何百という数を生産する。圧倒的な差だ。こちらは古い型式専用で、注文があるときにしか動かさないという。
「どうも計測器の値を取ってくるときにエラーが出たり出なかったりするんだ。そこんとこだけでもいいから、ちょいと見てほしい」
プログラムを小田のノートパソコンにコピーしてもらう。所長あたりが触っていたら意見を求めることができると思い更新履歴をざっと確認すると、西川多果子の名があった。彼女以外に社の人間が携わったことはないようで、ほかはすべて小田の知らない個人名や社名が並んでいる。この工場では多くの案件が相見積もりで安いところに発注されるので、よその会社が作ったプログラムをいじるのは珍しいことではない。それにしても様々な外注が手を加えているのが少し気になった。
都築に言われたあたりの記述を探す。真っ先に目に飛び込んできたものがあった。英字とは違うかたちの文字だった。≪Всё_в_порядке≫という変数名で、コードのところどころに現れる。ほかは英数字で書かれているのでそこだけ異物があるように目立った。
翻訳にかけると「すべて順調」という意味だとわかった。コードを追うと、どうやらエラー用のフラグとして設けているらしいと知れた。
この使い方自体はほかのプログラムでもよく見るものだ。フラグの状態としてあらかじめ“0”や“False”という値を代入しておき、正常でない動きをしたときに“1”や“True”に切り替える。初期状態では≪Всё_в_порядке = 0≫、問題が起きたら≪Всё_в_порядке = 1≫といった具合だ。プログラム内でフラグの状態を都度監視し、フラグが“0”のままなら正規ルートを進ませ、“1”ならば異常時用の処理(エラーメッセージを表示するとか、システムを終了するなど)へと導く。
通常、この手の変数名は“ErrorFlag”や“ErrFlg”とされることが多いが、どんな名称にしても動作の上で違いはない。≪Всё_в_порядке≫でも問題はないわけである。変数名はぱっと見で誰もがわかる名称が望ましい、という観点からいえば首を捻るものだが「すべて順調」という言葉をここに持ってくるのは、ある意味気が利いていると思えなくもない。
もう少し言っておくと、この≪Всё_в_порядке≫のエラー時の値は“1”以外にも複数設定できるようになっており、それらの数字を使い分けることで、どこで異常が発生したかわかるようになっていた。都築が計測器の部分でエラーが出る、と言ったのは≪Всё_в_порядке≫の返す値によってそれが計測器関連だと知れたからだ。
結局、不具合の原因はわからなかった。テスト用の製品ダミーを使っても、小田が見ている前でエラーが再現されることはなかった。プログラム全体を精査すれば何か出てくるかもしれない、設備の劣化も大いに考えられると都築に伝えた。
「全体ねえ。タダで小田君にそこまで見てもらうわけにはいかんしなあ」
「機材も全体的に古いですしね。何にしても、突然使えなくなる前に買い替えたほうがいいでしょうね」
「こんなとこに予算は下りんだろうな。一個新しいのに取り替えれば済むってもんでもないんだろう? いろんな部分に影響が出ちまうんだもんな」
都築の言う通りだ。現行のプログラムは今ある設備に向けて作られている。例えば計測器一つ替えるだけでも、新しい計測器に合わせたコードの記述をしなくてはならない。ほかの機器がその計測器に対応しなければそちらも新調する必要があり、またそれに合わせた改造を、と手間も費用も膨らんでいく。都築が話していた派遣の話と同じだ、人も機械もただ取り替えるわけにはいかないのだ。
「悪いな、時間取っちまって」
もうしばらく一人で動かしてみるという都築を置いて、小田は泉の元へ向かった。振り返ると、都築はぼんやりと古い設備を眺めていた。改善を求めていたというより、その一画を小田に見せたかっただけのようにも思えた。その真意が詳らかになることはなかったが。
都築のいつもの「また今度案件どっさり回してやるから」という科白が今日はなかったことに、小田はしばらくしてから気がついた。
泉を助手席に乗せて帰路につく。道中、泉は佐藤の話をずっとしていた。短時間でずいぶん仲良くなったらしい。小田は話半分で聞きながら別のことを考えていた。西川のことだ。
どんなかたちで携わったか知らないが、西川もあの≪Всё_в_порядке≫という変数を目にしたはずだ。意味は調べただろうか。意味を知り小田のようになるほどと思ったのか、それともわかりにくさに憤慨したのか、あるいは両方か。プログラム全域に点在しているので、たとえ不満に思ってもおいそれと手は出せない。眉間に皺を寄せながら自分の仕事をする西川がありありと思い浮かぶ。小田があんな文字を使ってプログラムを組んだら、それこそ西川に怒鳴りつけられたことだろう。
夢ではときどきそんな状況になる。夢を見ている間は西川が退職した事実はなかったことになっており、そこにいる小田は常に西川に怯えている。現実でも時折忘れては西川にどう説明したものかと考え込むことがある。こうなってくると何が夢か現かわからない。
ぼんやり運転しているうちに事務所に着いた。ちょうど昼休みに入る時間だった。
所長の持参したやきそば弁当のにおいが充満した部屋のなか、青山と三木が席でひそひそやっていた。いつになく深刻そうな顔をしていた。
「どうかしたんですか」
泉が躊躇いなく二人に声をかけにいった。青山がスマホをこちらに向けた。画面に出ていたのは、退職代行絡みの事件を取り上げた記事だった。
*
「それって、あの事件の」
小田氏は頷いた。大々的に報道され、何日もメディアを沸かせた事件だ。しばらくはテレビでもネットでもその話題を見ない日はなかった。
それは退職代行サービスを悪用した犯罪だった。
被害者は、大学を卒業したばかりの若い女性である。以前から彼女にしつこく付きまとっていたという男が女性宅に押し入り、監禁した。無断欠勤で会社が不審に思ったり警察に通報したりしないよう、男は女性を騙り退職代行を利用した。一人住まいだった女性は社会との繋がりが断たれてしまい、友人が気づいて通報するまでのおよそ数か月の間監禁され続けた。
退職代行業者と、女性の勤め先の会社においては、本人確認を怠ったことや対応のずさんさが問題であったとメディアに相当叩かれた。台頭当初に持て囃されたぶん、退職代行への風当たりは厳しかった。