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事務所に戻った所長は小田と同じことを訊いた。もちろん小田たちは何も答えようがなかった。所長は本社に連絡を入れた。本社といっても同規模の事務所が隣県にもう一つだけあり、そこに社長ほか数名がいるというだけだ。この会社の発足は社長と、今はこちらの所長である日比野の二人によるものである。
これまでにも退職者は山ほどおり、西川はそれらと同様に処理されただけだった。西川の人物像は社長にもある程度伝わっているはずだが、だからといって特別なことは何もなかった。引継ぎや割り振りをきちんとするように。そんな社長からの伝言を所長が誰にというのでもなく部屋の宙に向けて言った。
西川は何にでも「ウエストリバー」なるパスワードを使っている、という話をしたことがあるらしい。これを青山と三木が覚えていて、西川のパソコンのロックに手を焼くことはなかった。所長を除いた四人で西川のパソコンや机を漁り、未完了のものをピックアップしていった。
「辞める人のパソコンって感じじゃないですよね」
泉が呟いた。今までにも、何もかもほったらかしたまま来なくなった者はいた。今の状況はそれと同じといえば同じだが、どこか違和感があった。でもそれは小田にとって、なぜか触れてはいけないもののように思えた。より正確に言うなら、触れたくないもの。
「今日のデバッグも、普通に自分で行くつもりだったようなメモがあるよ」
青山と三木は紙の資料をさらっていた。小田は彼女たちの手元を覗き込んだ。たしかに青山の言う通り、西川の字はあくまで自身のための走り書きという感じに見えた。しかしそれが反証になるとは限らないと小田は考えてみる。反証、と頭に浮かべてから、いったい何の反証を探すつもりだ、と思考を振り払った。
「誰か、午後のデバッグに代理で行ける人は」
これ以上余計なことを考えまいと――あるいは言わせまいと、小田は現実的な話に舵を切る。青山と三木はこのタイプは扱ったことがないと首を振った。そこに泉が手を挙げた。
「僕、何度か西川さんとやったことあるので多分行けます」
しかし泉はまだ車の免許を持っていなかった。常に誰かの現場入りに同行するかたちで連れていっていた。今日は小田も青山も三木も動けそうになかった。自分の仕事だけでも手一杯のところに西川の分まで降ってきているのだ。
「所長、現場に行くなら泉君を連れていってくれませんか」
「今日は現場に用事ないけど」
所長の言葉に、やっぱり用もないくせに朝から向こうに逃げていたのかとあきれた。四人全員が同じような顔を所長に向けていた。所長は慌てて、
「ああ、いや、泉君と一緒に行くよ。西川さんのやっていた仕事は我々で回せるようにしないとね」
と繕った。お願いします、と泉はわざと高校生のような大きな声を出した。
その日を境に何もかもが好転した。
一番初めに訪れた変化は、所長が事務所に居るようになったことだ。これは翌朝から早速だったので、四人は内心可笑しかった。作業着も数日経つと着なくなった。工場へ行く用事があるときだけ出発の直前に着替えるようになった。
私服で過ごすことが当たり前になると、泉は仕事中にヘッドホンを使い始めた。声をかければ外して返事をするし、誰も咎めることはなかった。昼休みに、流行りに疎い小田や所長が、泉や女性たちから最近の曲を仕入れて聴いてみることもあった。休憩時間は本来の役割を取り戻し、業務から離れて穏やかに過ごせた。
残業時間についてははじめは人員が欠けた分、大きく延びた。しかしそれも難なく乗り越えられた。西川を残して先に帰ることが憚られたあのときとはまるで違った。また、以前ならベテランの西川を差し置いてほかに相談するわけにもいかず、かといって頼ったら頼ったで何を言われるかわからなかった。そんな状況に彼らはやりにくさを感じていたものだった。今では互いに気兼ねなく訊けるし、一度でわからなければ二度、三度と理解できるまで教え合える。結果的に必要以上に一人で悩む時間を減らせたわけだ。
泉は特に、西川にミスをこき下ろされたくない一心で長考しがちなところがあった。時間をかけ、しかし根本から誤っていたために大きなロスになることもよくあった。それが今では周りに相談しながら早めの軌道修正ができるようになっている。
一番変化が目覚ましいのは青山で、彼女は新規の仕事を増やすようになった。彼女も西川の指摘を恐れ、以前は自分のできることだけをやっていた。周囲を頼れるようになってからは積極的に新しいチャレンジを始めている。所長や小田に知識を請うたり、ときには三木や泉にも意見を求めたりしながら仕事に励むさまには、これが彼女の本来の姿だったのかと誰もが見直した。青山に対抗するように三木も、小田しか扱ってこなかった分野を学び始めた。小田が欠けては受注できない案件が多くあったため彼にとっても大いに助かった。小田は彼女に余すことなく教えられることを教えた。
そんな具合で、職場の環境は非常に良くなっていた。しかし小田は、毎日どこか迂回しているような心地だった。部屋の真ん中に見てはいけないものが置いてあって、それを右や左に避けて歩いているような感覚。そこに置かれているものが何なのか、小田も、ほかのメンバーもよくわかっていた。
西川多果子の退職について――その理由について、誰もいっさい口にしなかった。思い当たることはなかった。理由が見当たらなければ、退職そのものを疑うことになる。それを疑い始めたら、何か取り返しのつかないことが起きてしまう気がした。
*
――Всё в порядке.
「今、何と仰ったんです?」
私が聞き返すと小田氏は再度発音してくれた。知らない言語の言葉だった。
「すべて順調という意味です。このころはまさに、すべてが順調でした」
何も映していないような遠い目で彼は言った。
事務所に戻った所長は小田と同じことを訊いた。もちろん小田たちは何も答えようがなかった。所長は本社に連絡を入れた。本社といっても同規模の事務所が隣県にもう一つだけあり、そこに社長ほか数名がいるというだけだ。この会社の発足は社長と、今はこちらの所長である日比野の二人によるものである。
これまでにも退職者は山ほどおり、西川はそれらと同様に処理されただけだった。西川の人物像は社長にもある程度伝わっているはずだが、だからといって特別なことは何もなかった。引継ぎや割り振りをきちんとするように。そんな社長からの伝言を所長が誰にというのでもなく部屋の宙に向けて言った。
西川は何にでも「ウエストリバー」なるパスワードを使っている、という話をしたことがあるらしい。これを青山と三木が覚えていて、西川のパソコンのロックに手を焼くことはなかった。所長を除いた四人で西川のパソコンや机を漁り、未完了のものをピックアップしていった。
「辞める人のパソコンって感じじゃないですよね」
泉が呟いた。今までにも、何もかもほったらかしたまま来なくなった者はいた。今の状況はそれと同じといえば同じだが、どこか違和感があった。でもそれは小田にとって、なぜか触れてはいけないもののように思えた。より正確に言うなら、触れたくないもの。
「今日のデバッグも、普通に自分で行くつもりだったようなメモがあるよ」
青山と三木は紙の資料をさらっていた。小田は彼女たちの手元を覗き込んだ。たしかに青山の言う通り、西川の字はあくまで自身のための走り書きという感じに見えた。しかしそれが反証になるとは限らないと小田は考えてみる。反証、と頭に浮かべてから、いったい何の反証を探すつもりだ、と思考を振り払った。
「誰か、午後のデバッグに代理で行ける人は」
これ以上余計なことを考えまいと――あるいは言わせまいと、小田は現実的な話に舵を切る。青山と三木はこのタイプは扱ったことがないと首を振った。そこに泉が手を挙げた。
「僕、何度か西川さんとやったことあるので多分行けます」
しかし泉はまだ車の免許を持っていなかった。常に誰かの現場入りに同行するかたちで連れていっていた。今日は小田も青山も三木も動けそうになかった。自分の仕事だけでも手一杯のところに西川の分まで降ってきているのだ。
「所長、現場に行くなら泉君を連れていってくれませんか」
「今日は現場に用事ないけど」
所長の言葉に、やっぱり用もないくせに朝から向こうに逃げていたのかとあきれた。四人全員が同じような顔を所長に向けていた。所長は慌てて、
「ああ、いや、泉君と一緒に行くよ。西川さんのやっていた仕事は我々で回せるようにしないとね」
と繕った。お願いします、と泉はわざと高校生のような大きな声を出した。
その日を境に何もかもが好転した。
一番初めに訪れた変化は、所長が事務所に居るようになったことだ。これは翌朝から早速だったので、四人は内心可笑しかった。作業着も数日経つと着なくなった。工場へ行く用事があるときだけ出発の直前に着替えるようになった。
私服で過ごすことが当たり前になると、泉は仕事中にヘッドホンを使い始めた。声をかければ外して返事をするし、誰も咎めることはなかった。昼休みに、流行りに疎い小田や所長が、泉や女性たちから最近の曲を仕入れて聴いてみることもあった。休憩時間は本来の役割を取り戻し、業務から離れて穏やかに過ごせた。
残業時間についてははじめは人員が欠けた分、大きく延びた。しかしそれも難なく乗り越えられた。西川を残して先に帰ることが憚られたあのときとはまるで違った。また、以前ならベテランの西川を差し置いてほかに相談するわけにもいかず、かといって頼ったら頼ったで何を言われるかわからなかった。そんな状況に彼らはやりにくさを感じていたものだった。今では互いに気兼ねなく訊けるし、一度でわからなければ二度、三度と理解できるまで教え合える。結果的に必要以上に一人で悩む時間を減らせたわけだ。
泉は特に、西川にミスをこき下ろされたくない一心で長考しがちなところがあった。時間をかけ、しかし根本から誤っていたために大きなロスになることもよくあった。それが今では周りに相談しながら早めの軌道修正ができるようになっている。
一番変化が目覚ましいのは青山で、彼女は新規の仕事を増やすようになった。彼女も西川の指摘を恐れ、以前は自分のできることだけをやっていた。周囲を頼れるようになってからは積極的に新しいチャレンジを始めている。所長や小田に知識を請うたり、ときには三木や泉にも意見を求めたりしながら仕事に励むさまには、これが彼女の本来の姿だったのかと誰もが見直した。青山に対抗するように三木も、小田しか扱ってこなかった分野を学び始めた。小田が欠けては受注できない案件が多くあったため彼にとっても大いに助かった。小田は彼女に余すことなく教えられることを教えた。
そんな具合で、職場の環境は非常に良くなっていた。しかし小田は、毎日どこか迂回しているような心地だった。部屋の真ん中に見てはいけないものが置いてあって、それを右や左に避けて歩いているような感覚。そこに置かれているものが何なのか、小田も、ほかのメンバーもよくわかっていた。
西川多果子の退職について――その理由について、誰もいっさい口にしなかった。思い当たることはなかった。理由が見当たらなければ、退職そのものを疑うことになる。それを疑い始めたら、何か取り返しのつかないことが起きてしまう気がした。
*
――Всё в порядке.
「今、何と仰ったんです?」
私が聞き返すと小田氏は再度発音してくれた。知らない言語の言葉だった。
「すべて順調という意味です。このころはまさに、すべてが順調でした」
何も映していないような遠い目で彼は言った。