*
西川多果子さんの同僚の男性(以下、小田氏)に話を聞くことができた。
彼女が辞めたのはまったく突然のことで、小田氏を含め職場の誰もが驚いたという。
私が小田氏と対面したとき、彼はひどくやつれた様子だった。二十代後半と聞いていたが三十代にも四十代にも見えた。聴き取りを拒まれるかに思えたが、彼は西川さんが退職した日から現在に至るまで、詳細に語ってくれた。
1
その日、小田は遅刻ギリギリの出社だった。連日遅い時間の帰宅が続き、それを巻き返すかのように睡眠時間を削ってより遅くまで無為に過ごした。ようするに小田は寝坊したのだ。
出社にはじゅうぶんな余裕がなければならなかった。始業前に作業着に着替えておかなければいけないし、その日とりかかる仕事の段取りをつけておかなければ始業時刻ぴったりに仕事を始められない。
小田が勤めているのは、工場内で運用する機器に特化したIT企業である。作業着は客先の現場に立ち入る際に必要なものだ。客先に赴くことなく自社でプログラムと向き合うだけの日などは本来着なくてもいいのだが、西川がそれを許さなかった。西川の言い分としては、いつ呼び出しがあるかもわからない。常に出向けるよう支度しておくべきであるし、それを勤務時間中にのろのろやられては会社にとって損失との由。
ある裁判で、会社指定の着替えにかかる時間は労働時間と認める判決が出た話を小田は知っていた。しかしそれを西川に突きつける気は起きなかった。
西川は社内の絶対だった。着替えなど序の口で、休憩時間の過ごし方や残業代の申請、そのほかについても攻撃的な口調で周りを律した。
小田が入社したてのころ、昼休みに自分の車内で食事を済ませて仮眠を取っていたら西川が起こしにきたことがある。休憩入りからまだ十五分と経っていなかった。「皆忙しくしているのに自分一人だけ寝に行かないで」「新入りだからっていつまでもお客様気分でいないで」「相手の電話を待たせているから早く戻りなさい」そのときの彼女の冷ややかな目が忘れられない。小田が休憩を取っていたと察した先方は、緊急でもない用件でそれを邪魔したことを恐縮していた。
休憩時間にもかかわらず社員が昼食片手に仕事を続けているのも、西川のその態度のせいだった。また残業代についても己の力不足と責められ満足に申請できない。西川がいるために申請がしにくい状況下で、残業時間を延ばすよりは昼休みに前倒しすることを選ぶわけだった。
あのころの社員たちは小田、西川、所長の日比野の三名を残してもういない。辞めていった人間は当然のこと、新しく入った者たちも、西川に物申す強者はいなかった。五十近くになる所長でさえ、一回りも年下の彼女に何も言えなかった。西川自身もすべてを犠牲にするような働き方を進んでしていたし、何より仕事ができた。昨今「仕事ができる」の定義は変わりつつあるが、西川は実質的な業務だけを見れば抜きん出ていた。誰も文句は言えない。
タイムカードの打刻は始業の二分前だった。朝から西川の機嫌を損ねることを、そのせいで部屋の空気がいっそう重たくなることを、小田は同僚たちの沈みきった顔を一つずつ思い浮かべ申し訳なく思いながら机に向かった。部屋に当の西川はいなかった。急いでパソコンを立ち上げ作業着を羽織り、設計図や仕様書をそれらしく机に並べた。
始業時刻ちょうどに代表電話が鳴った。小田が取って社名を告げると、聞いたことのない女性の声が話し始めた。
「こちらは退職代行のXXサービスです。西川多果子様より退職の旨を伺っております」
「はい? 今、何て」
通話口の抑揚のない声は小田の反応を無視して続ける。
「つきまして、退職届の送付や今後の手続きをご案内するため、メールを差し上げたく」
女性はつらつらと小田のいる事業所の代表アドレスを読み上げて確認を促す。それで合ってますけどと小田が言うが早いか、メールボックスに一通のメールが現れた。以後のやりとりは本文記載の弊社連絡先に、というようなことを一方的に言われて通話は終わった。
五分もかからなかった。退職代行なるものはこれほどあっさりしたものなのか。過去にも退職者はやたらといたが、退職代行は意外にも今まで使われたことがなかったと気づいた。代表電話の留守録にもう行けませんとだけ残して退職届を郵便で送りつけてきたり、西川とは別の女性社員にLINEで泣きながら連絡してきたり、そういうのはあった。だから退職代行のすべてが今のようにあっけないものなのか、それとも業者によって違うのか、小田にはわからなかった。
何より驚くべきことは、辞めるのがあの西川多果子という点である。今度脱落するなら事務所で一番若い泉か、次点で西川以外の二人の女性のどちらかだと思っていた。あるいは小田自身か、その前に所長か。これでこの事務所のメンバーは全員なのだが、西川は退職から一番遠い存在だと思っていた。というより西川がいるために辞めていくものと決め込んでいたから、当人がその候補に入るはずもなかった。
聞き違えたかとも思ったが、添付された退職届には彼女の名前が記されている。文書ソフトで作成され、名前も、押印までもがデジタルのそっけないしろもの。もちろん理由については「一身上の都合」とだけあった。
小田は女性社員二人の席に近づいて訊いてみた。
「西川さんのこと、何か聞いてる?」
小田の訊き方が曖昧なために、退職についてというより、今この場にいないことの理由を求めるようなかたちになった。ある意味で意図してそうしたともいえた。彼女たちが西川の退職のことを知っているかどうかも知りたかったからだ。
「さあ。現場に直行ですかね」
青山が、西川という名に露骨に顔を顰めて言った。つい最近も西川に詰められ、自身の至らなさを責めて泣いていたのを小田は知っている。青山は自分に厳しいタイプとみえ、西川の言葉もそのまま受け止めてしまいがちだった。
「でも西川さんの実機デバッグは、午後からでしたよね」
隣の三木が言う。青山の一つ後輩で、彼女はしばしば西川の理不尽に愚痴をこぼしては青山に宥められていた。三木が西川のスケジュールを把握していたことに、小田は妙な親近感を覚えた。同じ空間にいたくないあまり西川の予定をつい意識してしまうのは小田も同じだった。そうすることで何が変わるでもないが、事務所に西川がいない時間帯がわかるとわずかに心の平穏を得られたものだった。
二人は西川の退職について何も知らないようだった。女性同士なら何か話しているかと思ったが、そうでもないようだ。
「あの、メールで西川さんの退職届が来てるんですけど」
声を上げたのは泉だった。小田ははっとした。代表アドレスに届いたメールは事務所の全員に転送される設定になっているのだ。小田が閲覧できたということは泉や、青山も三木も見られるわけだ。
「え、うそ」
青山がメールソフトを立ち上げ、三木も青山の画面を覗く。隠しておくつもりもなかったが観念したような気分になって小田は言う。
「実はさっきの電話、退職代行からだったんだ。誰か、西川さんから何か聞いてないか」
改めて三人を見るが、誰も何も知らないようだった。
「日比野所長は知ってるんでしょうか」
三木が言う。所長はたいてい客先に直行していて、この朝もいなかった。事務所の居心地が相当悪いのだろう、たいした用もなく工場へ出向いて、隅でノートパソコンを開いて作業しているのが常だった。
小田が電話すると所長もメールを見ていたところだった。彼にとっても寝耳に水で、急ぎ事務所に戻るとのことだった。
*
「このとき、西川さん本人には連絡しなかったんですか」
聞くまでもないことだと思ったし、責めているように聞こえてしまうのはわかっていた。しかし問わずにはいられなかった。小田氏の答えは想像通りのものだった。
「退職代行業者から、必要な連絡はすべて業者を介するよう言われていましたから」
私の質問に気分を害したふうでもなく小田氏は言う。
しかし仮に、業者に何も言われなかったとしても彼らが西川さんに連絡することはなかっただろうと私は考える。
西川多果子さんの同僚の男性(以下、小田氏)に話を聞くことができた。
彼女が辞めたのはまったく突然のことで、小田氏を含め職場の誰もが驚いたという。
私が小田氏と対面したとき、彼はひどくやつれた様子だった。二十代後半と聞いていたが三十代にも四十代にも見えた。聴き取りを拒まれるかに思えたが、彼は西川さんが退職した日から現在に至るまで、詳細に語ってくれた。
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その日、小田は遅刻ギリギリの出社だった。連日遅い時間の帰宅が続き、それを巻き返すかのように睡眠時間を削ってより遅くまで無為に過ごした。ようするに小田は寝坊したのだ。
出社にはじゅうぶんな余裕がなければならなかった。始業前に作業着に着替えておかなければいけないし、その日とりかかる仕事の段取りをつけておかなければ始業時刻ぴったりに仕事を始められない。
小田が勤めているのは、工場内で運用する機器に特化したIT企業である。作業着は客先の現場に立ち入る際に必要なものだ。客先に赴くことなく自社でプログラムと向き合うだけの日などは本来着なくてもいいのだが、西川がそれを許さなかった。西川の言い分としては、いつ呼び出しがあるかもわからない。常に出向けるよう支度しておくべきであるし、それを勤務時間中にのろのろやられては会社にとって損失との由。
ある裁判で、会社指定の着替えにかかる時間は労働時間と認める判決が出た話を小田は知っていた。しかしそれを西川に突きつける気は起きなかった。
西川は社内の絶対だった。着替えなど序の口で、休憩時間の過ごし方や残業代の申請、そのほかについても攻撃的な口調で周りを律した。
小田が入社したてのころ、昼休みに自分の車内で食事を済ませて仮眠を取っていたら西川が起こしにきたことがある。休憩入りからまだ十五分と経っていなかった。「皆忙しくしているのに自分一人だけ寝に行かないで」「新入りだからっていつまでもお客様気分でいないで」「相手の電話を待たせているから早く戻りなさい」そのときの彼女の冷ややかな目が忘れられない。小田が休憩を取っていたと察した先方は、緊急でもない用件でそれを邪魔したことを恐縮していた。
休憩時間にもかかわらず社員が昼食片手に仕事を続けているのも、西川のその態度のせいだった。また残業代についても己の力不足と責められ満足に申請できない。西川がいるために申請がしにくい状況下で、残業時間を延ばすよりは昼休みに前倒しすることを選ぶわけだった。
あのころの社員たちは小田、西川、所長の日比野の三名を残してもういない。辞めていった人間は当然のこと、新しく入った者たちも、西川に物申す強者はいなかった。五十近くになる所長でさえ、一回りも年下の彼女に何も言えなかった。西川自身もすべてを犠牲にするような働き方を進んでしていたし、何より仕事ができた。昨今「仕事ができる」の定義は変わりつつあるが、西川は実質的な業務だけを見れば抜きん出ていた。誰も文句は言えない。
タイムカードの打刻は始業の二分前だった。朝から西川の機嫌を損ねることを、そのせいで部屋の空気がいっそう重たくなることを、小田は同僚たちの沈みきった顔を一つずつ思い浮かべ申し訳なく思いながら机に向かった。部屋に当の西川はいなかった。急いでパソコンを立ち上げ作業着を羽織り、設計図や仕様書をそれらしく机に並べた。
始業時刻ちょうどに代表電話が鳴った。小田が取って社名を告げると、聞いたことのない女性の声が話し始めた。
「こちらは退職代行のXXサービスです。西川多果子様より退職の旨を伺っております」
「はい? 今、何て」
通話口の抑揚のない声は小田の反応を無視して続ける。
「つきまして、退職届の送付や今後の手続きをご案内するため、メールを差し上げたく」
女性はつらつらと小田のいる事業所の代表アドレスを読み上げて確認を促す。それで合ってますけどと小田が言うが早いか、メールボックスに一通のメールが現れた。以後のやりとりは本文記載の弊社連絡先に、というようなことを一方的に言われて通話は終わった。
五分もかからなかった。退職代行なるものはこれほどあっさりしたものなのか。過去にも退職者はやたらといたが、退職代行は意外にも今まで使われたことがなかったと気づいた。代表電話の留守録にもう行けませんとだけ残して退職届を郵便で送りつけてきたり、西川とは別の女性社員にLINEで泣きながら連絡してきたり、そういうのはあった。だから退職代行のすべてが今のようにあっけないものなのか、それとも業者によって違うのか、小田にはわからなかった。
何より驚くべきことは、辞めるのがあの西川多果子という点である。今度脱落するなら事務所で一番若い泉か、次点で西川以外の二人の女性のどちらかだと思っていた。あるいは小田自身か、その前に所長か。これでこの事務所のメンバーは全員なのだが、西川は退職から一番遠い存在だと思っていた。というより西川がいるために辞めていくものと決め込んでいたから、当人がその候補に入るはずもなかった。
聞き違えたかとも思ったが、添付された退職届には彼女の名前が記されている。文書ソフトで作成され、名前も、押印までもがデジタルのそっけないしろもの。もちろん理由については「一身上の都合」とだけあった。
小田は女性社員二人の席に近づいて訊いてみた。
「西川さんのこと、何か聞いてる?」
小田の訊き方が曖昧なために、退職についてというより、今この場にいないことの理由を求めるようなかたちになった。ある意味で意図してそうしたともいえた。彼女たちが西川の退職のことを知っているかどうかも知りたかったからだ。
「さあ。現場に直行ですかね」
青山が、西川という名に露骨に顔を顰めて言った。つい最近も西川に詰められ、自身の至らなさを責めて泣いていたのを小田は知っている。青山は自分に厳しいタイプとみえ、西川の言葉もそのまま受け止めてしまいがちだった。
「でも西川さんの実機デバッグは、午後からでしたよね」
隣の三木が言う。青山の一つ後輩で、彼女はしばしば西川の理不尽に愚痴をこぼしては青山に宥められていた。三木が西川のスケジュールを把握していたことに、小田は妙な親近感を覚えた。同じ空間にいたくないあまり西川の予定をつい意識してしまうのは小田も同じだった。そうすることで何が変わるでもないが、事務所に西川がいない時間帯がわかるとわずかに心の平穏を得られたものだった。
二人は西川の退職について何も知らないようだった。女性同士なら何か話しているかと思ったが、そうでもないようだ。
「あの、メールで西川さんの退職届が来てるんですけど」
声を上げたのは泉だった。小田ははっとした。代表アドレスに届いたメールは事務所の全員に転送される設定になっているのだ。小田が閲覧できたということは泉や、青山も三木も見られるわけだ。
「え、うそ」
青山がメールソフトを立ち上げ、三木も青山の画面を覗く。隠しておくつもりもなかったが観念したような気分になって小田は言う。
「実はさっきの電話、退職代行からだったんだ。誰か、西川さんから何か聞いてないか」
改めて三人を見るが、誰も何も知らないようだった。
「日比野所長は知ってるんでしょうか」
三木が言う。所長はたいてい客先に直行していて、この朝もいなかった。事務所の居心地が相当悪いのだろう、たいした用もなく工場へ出向いて、隅でノートパソコンを開いて作業しているのが常だった。
小田が電話すると所長もメールを見ていたところだった。彼にとっても寝耳に水で、急ぎ事務所に戻るとのことだった。
*
「このとき、西川さん本人には連絡しなかったんですか」
聞くまでもないことだと思ったし、責めているように聞こえてしまうのはわかっていた。しかし問わずにはいられなかった。小田氏の答えは想像通りのものだった。
「退職代行業者から、必要な連絡はすべて業者を介するよう言われていましたから」
私の質問に気分を害したふうでもなく小田氏は言う。
しかし仮に、業者に何も言われなかったとしても彼らが西川さんに連絡することはなかっただろうと私は考える。