担当医から明日には退院できそうだと告げられたのは、二人が帰った後のことだった。
 
 記憶についてはなんとも言えないが、一生このまま記憶が戻らない可能性は低いということだ。いずれは戻るだろうが、その時まで待つということだろう。記憶が戻る瞬間は、いつの間にか意図していなかった時間に訪れるそうだ。そうしたら、あの❝こうせい高校❞とか❝行方不明❞とかの意味がわかるのだろうか。

 もう、一生このままでいいと願いたいが、現実はいつか突きつけられる。

 午後6時頃には、両親も病院を訪れてくれた。1日ぶりに再会した両親は、いつも通りの笑顔を浮かべていたけれど、その目には疲労感が深々と刻まれていてた。両親のことははっきりと覚えていて、僕は思わず2人を抱きしめてしまった。両親はいつもはそんなことする子じゃないのにとぼそっと呟きながらも、抱きしめ返してくれた。

 両親に記憶のことを話すと、黙考にふけっている顔をしたが、少しずつ思い出していけばいいと励ましのような言葉をくれた。

「でもよかった、明日には退院できそうなんだね。痛いところとかはないの?」

「うん、特には。ところでこの傷は、この事件の前にできたものなの? 知ってる?」

 僕は痛いところと言われ、今日の朝、警察の方々に見せてもらった生徒手帳の証明写真に、怪我をした部分があったことを思い出し、母に聞いてみた。

「……それは、その事故の前にできたものだから、安心して。犯人も早く捕まるといいのにね」

 母の口調は、何かを隠しているかのようにも聞こえたが、僕が知りたいのはこの顔の傷よりも自分の記憶のことだ。混乱を避けるため、特に問い詰めることはしなかった。

「まあ、早く捕まることを祈るよ。明後日から学校も行けそうだし」

「……ああ、学校、行くのね。そうか、うん、わかった」

 やはり、さっきから母の言動が怪しい。傷の話も、学校に行くという話も、過去の記憶を戻してはいけないのではないか。どこかに僕の闇が潜んでいるのではないか。僕はこの両親にどう育てられ、今、どういう高校時代を送っているというのか。

 その後、他愛もない話を交わしてから、両親は病室を後にしていった。

 入院最終日も初日とあまり変わらず、昨日と同じ警察2人との事情聴取があった。放課後には友達2人が遊びに来てくれた。もちろん退院前に検査はあったけれど、無事に夕方頃に両親が迎えてきてくれて退院することができた。記憶の変化というものはほぼ変わりない。




 数日前、両親に言った通り、『こうせい高校』に行くこととした。記憶の一部に異常があったものの、それ以外は特に問題ない。どの教科の授業があるかはわからなかったので、家にあった教科書を無造作にカバンに詰め込み、母が作ってくれた朝食を急いで胃に流し込み、学校が始まる時間に合わせて家を出た。

 『こうせい高校』の場所もいまいち記憶になかったが、スマホに入っているマップアプリで検索すると、少し時間はかかったものの、やがて経路が表示された。

 まずは、最寄りの駅に行くらしい。徒歩10分といったところだろうか。この辺から僕と同じ学校に通う人はいないのか、同じ制服を着た人と出会うことはなかった。というか僕の学校の制服、やけに重い。設計ミスだろ、これ。金具か何か余計についているのではないか。

 被害にあった現場でもある最寄りの駅に着く。僕の血痕のようなものは見つけられなかった。もうあの時の状況をうかがい知ることはできないのかと思うほど、今や多くの人々が行き交い、地面は何度も踏まれていた。まるで、あの悲劇など存在しなかったかのように感じられる。

 ただ、

 ――あと時の❝記憶❞が、かすかに宿った。

 フラッシュバック。

 僕は3日前のあの時、誰かに肩を叩かれた。一度目は特別な叩き方ではなく、まるで手がそっと触れたかのような感触だった。だから、ただの偶然だと解釈し、振り返ることはしなかった。でも、僕はもう一度肩を叩かれた。これは明らかに僕に対しての行為だと思った。だから振り返った。周囲には大勢の人がいる空間だし、怖い人がいるとか、恐ろしいことが起こるとは思えなかったので、逃げる準備は、一切していなかった。

「こんにちは『も◯◯◯くん』」

 振り返ると、僕と同じぐらいの年齢の女性がそこにいなきゃいけないかのように立っていた。

 僕を睨むような顔をして堂々と立っていた。

 ただ、『も◯◯◯くん』の部分がよく聞き取れなかった。いや、僕の宿った記憶の中では存在していないだけかもしれない。少なくとも僕の名前そのものではないような気がした。もっと抽象的なもののように感じた。

「どうしたんだい……」

 僕はなんだか怖かった。目の前にいる人が。だって、目の前にいる人が現実と妄想が混同していたり、幻覚を見ていたりしているように思えたから。そして、僕にとって大切な人のように、もしくは大切だった人のように思えたから。僕の人生の一部であったから。

「ふ、く、し、ゅ、う」

 次の瞬間、僕は何か凶器のようなもので頭を殴られた。それは、稲妻が走るように本当に一瞬だった。だから、僕は何があったのか状況をすぐに理解することができなかった。

 次に気づいた瞬間、僕は頭から出血していた。

 でも、なぜだか平気と痛くなかった。理由なんて考えてる暇はなかった。その女性を追いかけなければと思った。正しい罰を受けてもらわなければいけないと思った。

 その女性はニッコリと笑ったあとに一言こう言った。

「私はこれから❝違う意味で行方不明❞になるよ、さよなら、3日後に」

 そう言って、彼女は通行人の間を巧みにすり抜けて逃げていった。通勤時間とはいえ、周囲の人々が何が起こっているのか理解していないのか、あるいは彼女を捕まえようという気持ちがなかったのか、あっという間に彼女は僕の目の前から姿を消した。

 ――僕の記憶もここまでなようだ。

 これ以上はもう頭が反応しない。大事な部分が思い出せなかった――僕は誰に殴られたのか。ただ、僕が何かこの女性に恨まれているのではないか。その理由はわからないが少なくとも記憶を辿るとそうなのではないかと思った。