――あなたを殴った人物に、心当たりはありますか?
消毒液のツンとした刺激的な臭いが鼻腔を突き刺す。白い蛍光灯の光がまるで拷問のように部屋の隅々まで照らし、カチカチと秒針が刻む音だけが響く。
この閉鎖された空間で、僕は二人の警察官に囲まれていた。
ひとりは大柄で、必要以上に脂肪を蓄えた中年の男性警察官。目つきは鋭いが、どこか疲れが見える。もうひとりは、制服がまだ新品のように真新しく見える小柄な女性警察官。慣れない手つきで、先輩警察官の指示に従っていた。
今、僕は事情聴取を受けている。
しかし、僕が決して何らか罪を犯したわけではない。むしろ僕は、事件に巻きこまれた被害者であると考えられているのだ。
その事件が起きたのは、そう――おそらく昨日の夕方のことだった。
「……見たこと、あるような気がするんですよね」
犯人の顔が、霧がかかったようにぼんやりとしか思い出せない。何かが頭の片隅に引っかかっているのだが、それが何なのか掴めない。自分の記憶が、何か大切なものを隠しているかのようだった。
男性警察官はボールペンを執拗にカチカチさせながら、書類に何かをメモしていた。そして、ふと視線を上げて僕をじっと見つめてきた。まるで心の奥底まで見透かされているような気がして、心臓がバクバクと鼓動し、思わず体が後ろに引けた。
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24日午後5時半頃、神奈川県厚木市内の小田急線本厚木駅前で、帰宅途中の男子高校生が木棒のようなもので女に突然殴られる事件が発生しました。近くのコンビニの店員からの通報を受け、警察が駆けつけましたが、現在も犯人は逃走中です。警察によると、犯人は身長155センチ前後の痩せ型の女性で、事件後、南西方向に逃走したと思われています。男子高校生は近くの病院に搬送され
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残り49文字
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今朝、僕が見た●●電子新聞の記事。会員登録はしていないため、この続きを読むことはできないが、僕は今こうやって市内の▲▲総合病院の病室にいる。少なくとも記事の残り49文字には「命に別状はない」という内容が書かれているだろう。
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日時: 2023年11月15日 19:30
投稿者: @ミン子
内容: 【⚠閲覧注意⚠ ※苦手な人は見ないで】
え、マジ!? うちの近所でこんなことあったの!? 現場を見てきたけど、血痕が凄すぎて思わず声出ちゃった。こんな事件、初めて見たわ。
#事件 #怖い #厚木 #血痕
(写真添付)
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日時: 2023年11月15日 22:42
投稿者: @観察眼
内容:んー、厚木市で起きた事件の犯人と思われる人物を俺も見たんだけど、この辺にそんな制服の高校ってあったかな……? 俺、よく女子高生をナンパしてるけど、あんな制服は見たことないな。もしかして、改造した制服なのか?
#女子高生 #改造
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日時: 2023年11月16日 08:30
投稿者: @地域見守り隊
内容: 【!犯人逃走中!】
厚木市の路上で揉み合いがあったのか、男子高校生が殴られたみたい。今日の小中高の登校はいつも通りみたいだけど、警察官がパトロールを強化しているみたい。その様子を撮影しておきました。家の2階から撮ったものです。
#犯人捕まれ #警察官 #地域安全
※念のためモザイク処理を施しています。
(写真添付)
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日時: 2023年11月16日 08:55
投稿者: @いつでも高校1年生
内容: 学校の先生が昨日の事件について話してた。犯人はまだ捕まってないんだって。なんか怖いな…… 登下校の時、いつも以上に気をつけないと。
#厚木事件 #登下校心配 #犯人逃走中
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これらが今日の朝、X(旧Twitter)のタイムラインで流れてきたこの事件に関する世論の反応だ。
これを見る限り、この事件が小さなもので片付けられるようなものではないと感じた。
虚偽の情報が混じっている可能性は否定できないけれど、SNSで事件に関する情報が拡散され、世間の注目を集めているのは事実だろう。路上に血痕が残っていることを考えると、僕が負った怪我を軽視するわけにはいかない。
そんなことを思い出していると、男性警察官がふと一度瞬きをし、
「……誰なのか、詳しくは思い出せないんだね」
と言った。少し投げやりな感じも受けた。僕は間髪を入れずに「はい」と頷いた。
「で、君の高校についてなんだけど、生徒手帳を見させてもらったところ『こうせい高校』で合ってるのかな?」
これ以上は進展がないと思ったのか、今度は女性警察官が一歩前に出て僕のと思われる生徒手帳を見せながら、高校について尋ねてきた。ただ、女性警察官は緊張していたのか、僕の目の前で1回つまずいた。
その生徒手帳には確かに【生徒手帳 25回生 こうせい高等学校】と書かれている。
「はい……多分、『こうせい高校』だと思います」
裏には確かに僕の名前もはっきり書かれており、添付されている証明書の写真の顔もおそらく僕ので間違いないだろう。ただ、頬の右に切り傷があることに今、気づかされた気持ちになった。この傷は、あの事件で出きたものだろうと思っていたから。僕はその傷を触り、痛くないことを確かめた。
ん……? 僕は今さっき❝多分❞という言葉を放っていただろうか?
「……多分、というと?」
女性警察官の目が、キリリと輝いていた先ほどとは打って変わり、曇り空のようにどんよりと沈んでいた。僕が通っている高校にも関わらず、❝多分❞という言葉を使ってしまったことが、彼女の表情を変えたのは明白だった。
「実は、自分自身のことをよく覚えていないんです。記憶が途切れていて……」
「記憶喪失…?」
女性警察官の顔がさらに曇る。
「――あの、僕、どこか、その、あの……❝記憶喪失❞になってしまったみたいなんです」
言葉にするのも恐ろしいことだったが、捜査のためにも、僕は真実を告げることにした。でも、なぜだか思いの他、言葉には詰まったものの僕の声は震えておらず、まるで他人事のようだった。
殴られたことによる衝撃で記憶が飛んでしまったのだろう。昨夜、それに気づいたとき、僕の中でもすぐに処理する事ができた。
僕の名前、家の場所、家族の名前、好きな食べ物――それらは覚えている。
でも、あの犯人のことは思い出せないし、僕の通っている高校も、うまく思い出せない。
他にも、断片的に覚えていることと、全く思い出せないことが入り混じっている。記憶の中で、何が鮮明で、何が失われたのか、もはや自分でも分からないのだ。
それでも、今、この女性警察官の方が言っていた高校で間違いないないんだと思う。生徒手帳の名前と顔写真が一致しているのだ。そして、そんな風だったよなという高校の名前(ひらがなだったことは覚えていた)でもあったから。
僕はそのことを伝えると、二人の警察官は互いに顔を合わせ目にシワを寄せた。男性警察官は年齢相応の渋さを持っていたが、若い女性警察官のその顔には不安が色濃く映っていた。記憶喪失になったことで、事件の捜査が難航するという思いからの嫌悪感だったのだろうか。
しかし、彼らの表情が曇ったのは、僕が『さいせい高校』という名前を口にしたときからだったかもしれない。まるで、事態が思っていたよりも複雑に絡み合っていると感じたように見えた。
警察官のアドバイスに従い、僕は記憶を呼び起こすために、紙に昨日の出来事を思いつく限り、書き出していくことにした。警察官2人は事件現場へと戻り、この部屋には重苦しい空気を残していった。彼らの行動に、少しの不満を感じながらも、こんなにも真剣に事件に取り組んでくれていることに、複雑な気持ちになった。
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じけん当日の行動(つまり昨日の行動)
※★は病院の先生などたしゃから教えてもらった行動
7:20頃 きしょうする(ねぼうした可能性大)
7:50頃 高校へ向けて出発(朝食はふめい)
8:20頃 高校とうちゃく(友人と会話。あまりいい話ではないかも)
(※以下、16:30頃まで記憶なし)
16:30頃 学校を後にする
17:00頃 近所の図書館へたちよる(本はかりてない。じんせいかんの本を読んでいた可能性あり)
(※以下、じけん発生まで記憶なし)
17:30頃 じけん発生
★18:00頃 きゅうきゅうしゃで病院へはんそうされる
★20:00頃 両親が病院へとうちゃく(いしきはあったものの、すいみん中だったそう)
★21:30頃 両親は用事できたく
22:00頃 起きる(両親がおみまいに持ってきてくれたおにぎりで夕食)
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こんな感じだろうか。記憶喪失と言っても全てを忘れているわけではなく、断片的に残こっていることは、これで証明できた。ただ、僕の記憶が回復しない限り、事件の真相は闇のままかもしれないと思うと、どこか焦る気持ちも湧いてくる。
でも、なにか思い出したくない記憶が潜んでいる――そんな風にも感じてしまうのだ。
思い出すな――そう第三者にそういわれているような気がするのだ。
病室の窓の隙間から吹き込む風が、まるで僕の脳内に埋め込まれた記憶を引き裂こうとしているかのように感じる。それは、ただの気のせいなのだろうか。