──ああ、まずい。
 想像を遥かに上回る恐怖がピフラを襲った。 
 ドアの軋みが止み、続けて「ひたり」と一歩踏み出した音が確かに聞こえた。ひた、ひた、ひた。一歩ずつゆっくりと、しかし着実に。
 気がつけばピフラの体は小刻みに震えていた。
(もしあの犯人が使用人じゃなかったらどうしよう……! ううん、もし使用人だとしても公爵家そのものに不満があれば、わたしを害そうとするかも……!!)
 ここに来て自分の考えの甘さを初めて実感した。何を根拠に相手を「諭せる」などと思ったのだろう。
 ぺたり……跫音(きょうおん)が止んだ。
 タンスの目の前に、()()

 ──バンッ!!!!
 タンスの扉が一気に開け放たれた。
 恐怖に慄くピフラが膝を抱き、タンスの隅で丸くなる。
(誰か助けて!!)
 ピフラが目をギュッと瞑ると、生白い腕が容赦なく突っ込まれ、ハンガーに掛かった服を掻き分けた。

「まあっお嬢さま! こんなところで何をなさっているんです!」
「マルタ!? あなたこそ何をしているの……? まさかマルタがガルムの服を……」
「服? 何を仰っているんですか。今日は夜の見回り当番なんですよ」
「見回り? はあー……なんだ。驚かせないでよ……」
 ピフラは涙声で言った。緊張が解かれて体が弛緩する。
 こんなことはもうやめよう。今日はたまたま無事に済んだが、相手に丸腰で挑もうとはあまりにも軽率だった。後悔と安堵で深く深く溜め息をつくとマルタが手を差し伸べてくれて。その手を取ってより安心感が増した。
 助かったのだ、と。
 それにしてもマルタは随分冷え性のようだ。
 まるで血が通っていないような冷たさである。少しでも温まるよう願い、ピフラはマルタの手を握り返す。
 すると、マルタは口を大きく歪めて微笑んだ。

「本当に、手間がかからなくて良かったです」
「え? きゃあっ!!」
  ──グンッ!! ドシャッ!!
 マルタに手首を握られ、ピフラは風を切る勢いで乱暴に放り出された。幸いにして床は絨毯が敷かれているので酷い打撲はなさそうだ。
 しかし状況を飲み込めないピフラは立ち上がれず、尻餅をついたまま後退る。
 
「マルタ、おふざけにしてはちょっと乱暴よ?」
『おふざけ? ぷっ……あははは!!!! おふざけなもんですか。あたしはこの日をずっと待っていたんだから』
「……あなた誰なの?」
『あらま、ボケちゃいましたかお嬢さま! あたしはマルタよ。まあ、正確にはマルタの()()()()()。でもあるお方のおかげで、ただの欲求だったあたしが肉体を得たの』 
(マルタとは別の人格があった……? じゃあ人格が乖離しているということ?)
「元のマルタは眠っているの?」
『ああ、それなら喰べちゃった』
 ──ヒュッとピフラの呼吸が震え、血の気が引いた。
 その様子を嘲笑うかのようにマルタは揚々と言葉を続ける。
 
『あいつの人格を食べてあたしがこの肉体の主になったってわけ。元のマルタちゃんはもうとっくにいないわよ』
「そ……んな……」
『でもさあ、どうせならも一っと美人になって、地位も名誉も欲しいわけ。分かる? そのためには()()()()望みを叶えなくちゃいけないの。だから……』
 そう言いながら、得体の知れない者がジリジリ距離を縮め始めた。瞬きを忘れた目を赤く充血させ、開けた口から涎をダラダラと垂らし、明らかに常動を逸している。
 
 『死んで?』
 マルタが腕をあげて拳を握った。すると拳の周りの空間が捩れ物が歪んで見える。
 やがて捩れがぐにゃぐにゃと蠢めき始めると、そこから漆黒の大鎌が現れた。全長は2m近くあるだろうか、しかしマルタはその鎌を易々と肩にかける。
 ピフラは恐怖のあまり腰が抜け、その様子にマルタが喜悦を浮かべた。
 ──ヴンッ!! マルタが真っ赤な口を開けて嗤いながら鎌を振り回す。

「きゃああああ!!!!」
 空を切る音が耳の横で鳴り、反射神経でピフラは避ける。
『ちょろちょろしないでくれるー?? 大丈夫よっ肉体に傷はつかないから。ま一、魂は知らないけど』
 振り回される鎌は部屋の物全てを透過しており、部屋を荒らした形跡は1つも残らない。ピフラの置かれている危機的な状況に反して、部屋は綺麗に整ったままだ。
 ピフラはついに壁に追いやられた。もう逃げられない。
 マルタは喜色満面で大きく鎌を振りかぶった。

『ばいばいっピフラお嬢さま!!!!』