大学を志望する受験生は模試続きの踏ん張りどころ。
 美術室のソファは寝床の主が留守状態なので寂しそうにも見える。
 
 ちょっぴり嘘だ……
 私の心が、そう感じているからだろう。

 このソファがやって来た時をふと思い出す。(あおい)くんが眠っていて驚いたっけ……
 星屑が燦めいて、火花が眩しくて、あんなにクオリアが騒いでいたのに。今では……

 たくさん私に降り注いだキラキラの欠片は、太陽を写した水面(みなも)の光のように私の中を穏やかに流れてる。
 こうして美術室に独りで過ごしていても、なぜか温もりの感触を肌身に起こさせる……
 新感覚になったのかもしれなかった。

 そのクオリアは幾度もシュンとした雰囲気を紛らわしてくれていた。英語の授業も後ろが静かな週となり、そうして11月も過ぎようとする頃。
 美術室に尋ねてきたのは、葵くんではなくて彼の担任だった。

神崎(かんざき)来てる?」
「いいえ」
「何か聞いてる?」

 首を横に振った。

「遅刻魔だけど無断欠席とか珍しくて。休みの連絡は絶対してくる奴なんだけど、携帯も繋がらなくてさ」

 ……胸騒ぎがした。
 すぐに私も葵くんにコールするも……電源が入っていないため、と遮断される。

 なら!
 スモックを脱ぎ捨てパーカーを羽織りリュックを背負うと道具は放ったらかして美術室を飛び出した。

 荒い呼吸と押し寄せる不安。
 もう心臓が飛び出して来るんじゃないかと思うくらい、ドクッドクッ鳴り止まない。 

 予感。あのときの予感がすぐ蘇った。
 影のある青いオーラ……

 やっぱり何か苦しんでいたんだ!
 苦い塊が喉の奥でつっかえて重く痛みつける。後悔、そればかりが頭を巡った。

 葵くん……ごめん。

「はぁっ……はぁっ……」

 ―――ごめん、葵くん。
 私、気付かないフリしてた。

 顔は笑ってるのに心が青ざめた人、もう灰まみれなのに頑張るって無茶する人……

 この目で見えてしまっても、嘘つきって言えない。だから見てないフリが癖になった。

 ―――葵くんのことも、そして、自分の心も。

「……はぁっ、けほっ、くっ」

 どうせ別々の道を歩むのだから……

 葵くんは大学へ行って就職をして、やっぱり都会で生活するんだろう……
 私は専学を出て就職するにしても、ここから遠くへ行けない……
 家族に何かあったら私が助けなきゃ。

 だから、特別な感情は持たない。
 友達、がベストだとわかってる。

 なのに。
 本当に葵くんがいないってなったら―――
 こんなに心が痛くなる。
 会いたくて、居ても立ってもいられない。

 本当は葵くんに会いたいって―――
 寂しいのを我慢してただけなんだって……
 もう誤魔化せない。

 こんな時になって……
 『好き』―――が溢れてしまうなんて。


 記憶の道順を何度も思い返し上り電車に乗った。(あおい)くんの最寄り駅であるひとつ先の西堀駅で降りる。そして天体観測の朝、二人乗りして自転車で颯爽と駆け抜けた景色を逆戻りする。

 あのときは朝光を浴びてときめいていたのに、今は……
 夕焼けが刻一刻と胸の奥の(あせ)りを()がして苦しめる。

 息が途切れ途切れになっても、止まらないで走って。

 黄昏の空が夜色に染まる頃。急な坂を駆け上がって公園に入り、やっとたどり着けた階段をよれよれと登った。

 予感。……ここに、いて欲しくないのに。
 ―――どうして、どうしてここにいるの


「葵くん。葵くん……」

 ブランケットにくるまった肩をそっと揺すってみる。モゾモゾと葵くんの体が動いて、最悪な想定が外れたので、泣きそうだった心が持ち(こた)えた。

「……誰? ……真白(ましろ)?」
「葵くん、スマホが繋がらないから(みんな)心配して」
「あ……充電。切れてるかも……」

 葵くんはおでこに手をかざしてか細い声を出す。
 声を聞けてより安心できたのか、じんわりうるんだ瞳で葵くんの顔を覗き込むと、辛そうに奥歯を噛みしめる表情が見えた。
 いつも学校で着ている葵くんのパーカー。きっと制服のまま。

「葵くん……家に帰ろう?」
「………………」

 返事はない。
 わかってたけれどその言葉しか私は言えなかったから。
 ここにいる理由を、私は何となく気付いているのに。

「葵くん?」
「……俺は、帰れない。帰りたくない……」

 今にも消えそうな掠れた声で……
 悲しげに……
 時の流れにのみ込まれた、葵くんの答え。

 私は……ちゃんとその囁きを聴き入れて……
 まだ、捕まえている。
 
 初めて葵くんの心の内を聞けた気がして、その回答を繰り返し頭で再生し続ける。
 こうなるまでの苦悩を心で感じてみれば、胸は張り裂けそうに痛かった。

 遅刻魔なのもいつも居眠りしてるのも、安眠できてないから。野宿に慣れてるのは、家で苦しむ事があるから。一度じゃない、何度も、ずっとだ。
 唇を強く結んでその苦痛を刻みこむ度に、私も答えが固まってゆく。

 帰りたくない、それでいいよ。

 葵くんの苦渋の色は私に染み込ませた。私が、塗り替えてみせる……
 はんぶんこして痛みも分け合える。
 
 大丈夫。私がそばについているから!

「うん。私も帰したくない」
「……真白?」

 涙は引っ込めてリュックを下ろし中身を探る。
 葵くんの頭の周りを漂う痛みの濃紺と灰混じりのオーラ。胸からお腹まで。

「これお茶の水筒と薬。あと栄養食品。頑張ってくちにして待ってて」
「……待つって?」

 私はささっとパーカーを脱いで、ケットの上から葵くんに被せるとリュックを背負った。安心させるようしっかり目を見て告げる。

「また戻ってくるから。大丈夫。元気になるまで帰らなくていいよ」

 葵くんの肩にぎゅっと両手を重ねて私は階段を下りる。「自転車借りるね!」と付け加えて公園を後にした。茂みの中の葵くんの自転車に乗って坂を一気に下り、また記憶を遡って向かった先は―――。

「……えーと、真白ちゃん?」

 突然の押し掛けに玄関ドアを開けたシオリ先輩は驚いている。私は深々と頭を下げ不躾(ぶしつけ)なお願いを早口でした―――。


「もしもしシオリです。あ〜いえいえ……真白(ましろ)ちゃんはいい子ですよ〜。はい、代わりますね」
「もしもし。……うん、わかった」

 シオリさんから戻されたスマホに私は返事をした。
 今日は帰れない、そう母に告げた。

 卒アルの制作で遅くなって明日朝も早くから作業する。だから先輩の家にまた泊めさせてもらうと……今度は自らアリバイ工作した。
 (あおい)くんのそばにいるために。
 嘘は今日進路決定した子達が話していた事を参考にした。

「ありがとうございました」
「葵くんは? 大丈夫そう?」
「わかりません。詳しくは……」
「ちょっと待ってて!」

 シオリさんは家の中に慌てて戻ると暖かそうなコートを持って来た。
 「これ持っていって」優しいオーラの中に……影が混じって見えた気もするが、早る気持ちが先を急がせた。

 ―――そして、丘に自転車を登り上げた時にはもう門が閉まっていて、公園は静かさに包まれていた。
 余計な灯りは無くて夜影も薄っすらとだけ……
 だから葵くんは、ここで誰にも見つからずに隠れんぼをしていたんだ。

 今夜はそんな事させない……
 私は急げいそげと門の隙間をくぐり抜け、駆け足でそのまま展望台の階段を登りゴールテープを切った。ひとまず大きく息を吐いて荷物を置くと―――

「ほんとに戻ってきた……」
 
 ボソッと小さな声がして顔を上げれば、壁を背もたれにして気怠そうに寄り掛かっている葵くんが私を見ている。
 薄暗い視界を切詰めて(そば)に寄り、すぐ隣で様子を伺う。

「大丈夫?」
「……少し楽になったよ」
「はっ……良かった」
 
 一気に萎む風船のように安心のひと息をついた……のも束の間に、コンビニで買ってきたスープを葵くんに渡す。口にするのを見届けながらカイロを全部開けて、葵くんのパーカーのポケットやブランケットの中に入れた。
 今回の野外泊は厳しくなる……予感だ。


「……真白(ましろ)
「うん?」
「俺ね……家に居たくなかったんだ……」
「……うん」

 私はその弱々しい声に心ごと寄り添う。
 夜の冷ややかな空気にひっそりと(あおい)くんは声を溶け込ませた。

「両親が離婚した原因は父さんの……不倫、でさ。母さんは俺を育てるのに熱心でいい母親だった。父さんだって……。
 俺は普通で当たり前の家族だと思ってたんだけどな。夫婦の形が崩れると家族も壊れるんだ、簡単に。
 俺が母さんと新しい家族の形、作ろうとしたけど……母さんの傷は大きかったみたい。段々コントロール効かなくなってさ、感情の起伏が激しい時もあって。
 俺が……父さんに似てきたから、余計俺と居るのが辛いんだって。そーゆー時はここで過ごしてたんだ。
 昨日もバイトして帰ったら荒れててさ。なんか……俺も、限界っつーか……
 ほんと疲れちゃって……」

 葵くんの言葉は段々と、吐き出すのが重たそうにつっかえていた。
 
 ひと(こと)ひと言、受け取った声を心に積んでいったら……
 同じぶん私の両目には涙がいっぱいに溜まっていた。

「……真白には全部話さなきゃと思って」

 暗がりの光景に佇んでいた葵くんの白い眼が、私に向けられるとそれは決壊してボロボロと落ちていった。

「……聞きたくなかったろ?」

 独りで抱え込んでいた葵くんの辛い傷みを知った。そして……
 傷ついても優しさを忘れない、その気遣いに泣いた。
 優しい人が悲しい思いをしている、それが余計に辛くて泣いた。

「ごめんな。
 もう俺は平気だから、真白は帰んな。
 まだ電車あるだろ?」

 止まらない涙を振り払うのと同時に、私はその返事を。
 強く……左右に……首を何度も振った。

「……真白」

 優しく私の名を囁いて……
 説得しようと、葵くんがしている。

「……ぃや」

 どうしても私はそれを受け入れられない。
 葵くんの袖をギュッと掴んで、指に力を込めた。

 離れられない……
 離れたくない―――
 葵くんのそばにいたい、どうしようもなく抑えられないこの気持ち……

 『好き』言ってしまおうか?
 特別なこの想い、葵くんに……

「俺は……父さんと同じかもしれないよ……」
「……?」
「真白の気持ち……裏切るかも、しれないよ?」

 ―――!?
 それは、私の思いに答えられないと……
 『好き』は葵くんの負担になる、ということ?

 葵くんは自信がない……
 お父さんに似ているから自分も浮気性じゃないか、って。
 だから私の気持ちを先回りして警告したんだ―――

 『好きにならないで』

 そうだね……
 私が『好き』と伝えたら……
 もっと葵くんを苦しめてしまうね。

 声にしてしまったら、取り戻せない。
 関係を揺るがす言葉なら、二度と元の形へは戻れない。

 思い上がった力はほどけて、するりとシワシワになった袖を離した。


(あおい)くんは……
 美術部の仲間だから。私もいろいろ助けてもらったし、困ってるなら力になりたい」
「……そっか。
 悪い、横になりたくて。いい?」

 急に力が抜けたみたいに葵くんの体は傾きかけて。私は焦ってコクコク頷くとケットを捲ってあげた。

「ここにいるから」
「うん……」

 葵くんは私のパーカーを顔まで被ってケットに潜り込んだ。

 ―――虚しさが、私を襲う。
 溢れそうだった恋のクオリアを捨てた……

 葵くんの揺れる瞳が、怯えているように感じたから。真っすぐなのに(もろ)い視線に私は従ったんだ。
 
 誰の気持ちも欲しがらないで、
 自分の気持ちも信じられなくて―――。

 急に大人になれるわけじゃないのに。
 心細い時や少し甘えたい時……我慢ばかりしていたの?

 自分が受けた痛みを、もしかしたら同じように他人(ひと)に与えるかもしれないと……
 不安で、怖くて、葵くんは独りぼっちでどんなに寂しい時を過ごしたのだろう。

 何も伝えられないけれど、今くらい安心して眠ってくれたら……
 ケットの丸みをなぞって一定のリズムで擦り続けた。やがて寝息が聞こえてくると、葵くんから……

 どうして……こんな、コト―――? 

 葵くんの体から……
 白い、白い雲みたいなオーラが、私に向かって……伸びてきて―――。

「……ふっ」

 片方の手で咄嗟に口を塞いだ。起きるはずもない現象をこの瞳で映して、私の中の感情が……震えて漏れ出した。

 もう片方の葵くんを擦っていた私の手に―――
 葵くんの白いオーラがふうわりと覆い被さってくる。

 葵くん……どうして白色のオーラを出せるの?

 私は今までその色を放つ人を、母と父以外……見たことがないよ。

 真っ白なオーラは……
 私を思ってくれる気持ちの色なんだよ―――

「うぅっ……」

 胸の奥からこみ上げてきた熱い波は、涙の粒になって零れてゆく。

 桃色よりもその真っ白なオーラは、私にとって特別だから。嬉しいのか悲しいのか、クオリアが強く反応して抑圧できそうにない。

 暗闇の中でその白いオーラは、くっきりと私の手を包んでくれている。

 幼くて臆病で、好きな人を幸せにしてあげれない私……私達は……
 『好き』も言えず心の中に閉じ込めて。
 いつしか訪れる別れの時が辛くならないよう、この愛しさと切なさの初恋をあきらめる。
 私達の未来はここにはないから。

 だから、せめて今だけは…… 

 手のひらを広げ、白のオーラを優しく握る。
 葵くんの手を繋げなくても……
 この目に映る気持ちは大切に大事に大事に掴んで。

 嗚咽する声を押し殺し、ずっとその白色が消えるまでそうして泣いていたんだ。


☆☆☆


「やっぱり私が家まで送った方が……」
「大丈夫。ちゃんと帰れるから」

 まだ日の出前の駅。もう電車の始発は走っていった。私は学校、葵くんは帰宅の道へ。

 時を戻し公園で今日を迎えた頃、真夜中。私達はうたた寝から一度目覚めるもクタクタだった。寒くて体も冷えている。
 背中合わせで一緒に寝よう―――ふたりで決めたのだ。同じブランケットに納まり、私は着ていたシオリさんのコートを上にかけ自分のパーカーを着て潜り込んだ。

 起きたのは4時頃。葵くんも薬の効果を得てコンビニへ移動し始発を待った。そして親切に駅まで送ってくれたのだ。
 駅舎と街灯の明かりがまだ仄暗い景色に光っていて、静けさもより物寂しく不安な気持ちを起こさせる。

 顔に出てしまっていたのだろうか、葵くんは私の頭をポンポンと優しくなだめて……
 自転車のスタンドをかけると、シオリさんのコートを脱ぎ自分のパーカーも脱いで私の肩に羽織らせる。
 「袖通して」と言われて従うとジッパーを上までかけた。

「ごめんな。コートは俺が返しておくから、真白は俺の着て行って」

 疲れ切った目元を垂らして笑って見せる。大丈夫、と私を安心させるように。

「ありがとう。困った時は連絡してほしい……」
「うん。わかったよ」

 私達は手を振り合って別れた。
 けれど、なかなかその場を動けずに……
 夜明けを待つ町並みに小さくなってく後ろ姿を見つめていた。

 離れていく程に……胸が締めつけられる。ずっと一緒にいた時間が恋しくなる。
 思い出す度に……会いたくなって。
 もう声が聞きたいと……寂しくなる。

 一度生まれた恋心は簡単に消えてくれない。

 恋のクオリアは捨てたつもりが、元に戻ってきてしまった。葵くんのパーカーが私を包んでいるからだ。

 まるでそばにいるような、感覚。
 温もりも匂いもドキドキも、ぎゅっとされた時のように。

 叶えられない、伝えられない、熱い気持ちは……
 いつしか思い出のひと欠片になるよ、きっと―――。

 遠い日の自分が、ゆらゆら戸惑う私に言い聞かせる。
 電車の窓から眺めた景色は、まだ夜明け直後だというのにパステルカラーで眩しかった。