真白(ましろ)の絵さ……なかなか進んでないね?」

 放課後の美術室。(あおい)くんがキャンバスの周りをうろついて言う……その通り!
 美術室で描くのも今年が最後。大切にして過ごすつもりが、葵くんに侵入されてから落ち着いていられないから!

 バイトまでソファで寝るって、一度眠りに落ちるとなかなか起きない。少し揺すったり、手を叩いたぐらいじゃ目を覚まさないし。
 起こしてとお願いされてないけれど、遅刻するんじゃないかと思うほどにガチな昼寝をしている。だから毎回スマホのアラームを止めるのも私で、代わりに私が葵くんの目覚まし時計係になっていた。

 さっきも英語の授業中、『グ〜……』。
 本気のイビキが背後から聞こえて、チラッと後ろを見てみると葵くんは机に伏して居眠り。

 なんだか周りから飛んでくる視線が痛い。
 私じゃないのに。『グ〜……スゥ〜』

 先生と目が合うと無言の圧力を感じて……
 まるでしっかり面倒を見なさい、という目線に仕方がないと私は苦肉の策に出る。

 一発で起こすイイ方法。深く椅子に座って背筋を伸ばすと、先生が板書する時を見計らって……

『ゴッ!』『ってぇ!』

 首を反らして後頭部で寝ている葵くんの頭に向かって頭突きした。鈍い音と痛みが走る。

『痛て〜。真白、何かした?』

 フリフリと首を横に振る。どうやら目覚めはイイみたい。私も頭がジンジンしてるけど雷落としは成功♪

 ふいにキラキラの欠片が横目に映って、小森(こもり)くんを見ると肩で笑いを我慢していた。
 彼は同中で不動の図書委員長。地元からこの高校に進学した5人のうちの残り1人。原川中から2年生の時に田原中に転入してきた物静かな人だ。同じメンツで小中進級してきたから、途中参加は居心地悪かったみたい。いつもひとりで本を読んでいた。

 ムスッとした表情しか見たことない彼がウケるほど、私は馬鹿げたことをしてるんだなぁ。
 こんな感じで余計な事ばかりしているから、私の絵は一向に進まないのだ。


「……今度山に登って、模写してくる」
「へぇ、山かぁ。……よしっ俺も行く!」
「えっ!?」

 何で(あおい)くんはいつも予想外な事を言い出すのか。
 期末前の7月初め、朝9時大原山駅で待ち合わせ。

 ―――本当に来たんだ……
 私は家から最寄りのバス停で田原駅から来たバスに乗り、1時間かけて終点の大原山駅前に到着した。
 少し待ちぼうけしていると改札から葵くんが出てきて……私に気付くとイヤホンを外し手を振って合図する。
 楽しそうなキラキラのオーラを纏って。

 駅からすぐの登山口に私達以外にもリュックを背負った人達。山麓の草花や頂からの連峰を愉しむ登山客が多い、標高1000mの大原山。小中と毎年遠足で登ってきた。山すそは草原のように緩やかな遊歩道が延びていて初心者にも登りやすい。

 先を歩く葵くんはキラキラが溢れ止まらない様子。重ねてお喋りも止まらない。

「海外は行ったことある?」
「ない」
「俺ん家は夏休み毎年スイス行ってた。
 真白(ましろ)も気に入ると思うよ〜、自然のコントラスト半端ないから。
 いつか連れてってやりたいなぁ」

 山の澄んだ空気に開放感もあっての単なる独り言。期待するわけでもないのに私の心はときめく。

 向かいから下山してくる初老の夫婦と挨拶を交わす。疲労も感じているのだろう青のオーラ、でもその中にキラキラ光る希望の星達。私が一番好きなオーラの色。
 頑張った後に心が満たされてる証拠だ。

 ご機嫌な葵くんも鼻歌まじりに進んで行く。私の気分も乗ってきて「進路、もう決まった?」との質問につい本音で答えが。


「まだ……第一志望は美大だけど、
 うちの家計じゃ費用も無理だし浪人も駄目だし。それにただ好きに絵を描いてる私が美大なんて失礼だと思って。
 無難に……美術系の専門学校かな。
 なんか……諦め、で将来決めてくみたいでちょっと不甲斐無い気もして、っ」
「俺ね、自慢なんだけど……
 高1の3学期に転校してくるまで東京の有名な進学校に通ってたの。
 んで、高校入ってすぐの進路希望に東大理科2類って書いてたよ」

 私が自分に嫌気が差すのを止めた強気な前置きも納得の事実に、尊敬の声がもれて「東大目指した人に会うの初めて」と眼差しで崇める。

「初めまして? ハハッ。
 もう過去の栄光だよ。親が離婚してさ親戚のツテでこっち来たんだけど……
 環境って染みるよな。東京は勉強ばっかでこっちは自由と自然ばっか。イイも悪いも順応するけど、元にも戻れないし新しい居場所は簡単にできないし?
 その中で理想を求めるって難しいよ」

 私達はまだ未成年で、叶えられる事も自由に羽ばたく事も限られている。
 今いる世界から飛び出す事は難しい……

「俺は大学…… 
 行った方がいいんだろうけど、結局またここも旅立たないとだしな」

 地元から通える進路の選択肢は極めて少ないと思う。高校を卒業後はたいてい地元を離れた生活になるのだ。

「頑張って生きようとか、幸せってなんだろうネ……よくさ、辛いとゆう漢字に横棒一つ足せば幸せになる、って励まされてきたけど。
 字をピッと一筋書くのとワケが違うよな?
 その一つ手に入れるのに……死ぬほど努力しても無理かもしんないし。
 一生辛いままかもよ……皆がおんなじ物で幸せになれるわけじゃないし。
 人それぞれじゃん、一番欲しい物なんて」

 山の中腹に入って草原から木々の中に登山道が進むと勾配がややキツくなる。疲れも出てくる頃、会話も愚痴っぽくなってきてしまった。木漏れ日も弱くなって雲行きも怪しそうだ。
 いよいよポツポツと木々の隙間を抜けて雨が落ちてきた。

「葵くん、雨宿りしたほうが」
「どこにする!?」


 先を歩く葵くんに少し上の大きな木を教えた。頭の上に手をかざして雨粒を防いでいたけれど、木の下に潜り込んだ時には体がしっとりしていた。通り雨な気もするが雨足が強く傘をリュックから出す。

(あおい)くん、傘は?」
「持ってきてない。マンパーでイケるかと思った」
「山の天気は変わりやすいのに。一緒に入って……」

 私は葵くんの(そば)に寄って傘をふたりではんぶんこする。木宿の元に落ちてくる雫はボタボタと傘を打ち付け、葵くんの背に合わせて伸ばしていた腕がグラグラし始めた。

 「……俺が持つ」葵くんは私の横にピッタリ寄り添って、私から傘を受け取った。もう片方の手で傘からはみ出ていた私の肩の雫をはらう。

 木陰の傘の下…… 
 葵くんが天体観測の朝に見た空色のオーラを私に被せていた。
 
 ラムネ色の淡いアオと、ピンクレモネードの濃いハル色。
 ちょっぴり胸がパチパチ……恥ずかしいな。

「あとどの位?」
「もうすぐそこだけど…… 
 あ、今日の山登りも部外秘で。秘密の場所なので」
「……ははっ、オッケ」

 見上げてぶつかる視線が短い。近すぎるとクオリアが敏感に反応して体中擽ったくなる。
 
 この木から登山道を外れて茂みの中を歩いていくと、絵の光景が見えるスポットにたどり着く。頂上は連なる山々と空を見渡せる絶景だけど、私達の町が背になってしまうので、このポイントからしか望めない。人の歩く道ではないので雨の時は危険だ。
 
 ポツポツ傘の下に響く雨音が小さくなってきた。
 サワサワ……
 ふと、木の葉達が騒ぎ出したような。

 予感。
 すごい何か……感じる。

 私はおもむろに傘の外へ抜け出していた。

真白(ましろ)?」


 導かれるように茂みを掻き分けて、グシャグシャとした足元を踏みしめ秘密の場所へ。
 木枝の間にぽっかり開いた自然の窓。町を見渡せる景観がキラキラと鮮やかに輝いている。

 はっ!!

     ―――・・・ わ、ぁ。

 心を、奪われた。

「……はあぁっ」

 呼吸、忘れてた。慌ててめいっぱい吸い込む。

「……すっげ」

 追いかけてきた(あおい)くんが隣で同じ光景を目の当たりにし、一緒に私達は立ち竦んだ。

 まるで星が降っているみたいだ。空から照らす太陽の光が雨粒を光らせて…… 
 そして、
 大きな虹が……町を覆う一本の架け橋に。

 夢、じゃない。
 すごい奇跡が……神秘の絶景がすぐそこに!

 なのに―――
 どうして、こんなに泣きたくなるの?

 夢は叶うよ!
 幸せになれるよ!

 七色の彩る虹が燦めいて、そう励ましてくれているみたい。
 私達が嘆いてきた憤りを、その美しい様で一瞬のうちに吹き飛ばしてくれた。

 これは天からの贈り物でしょう?

 ……嬉しくて、喜びと感動がピリピリ体中走り、抑えきれずに爆発しそう。もう自分の中に閉じ込めておけないくらい!

 ムズムズする指先が何かに触れて……それを掴まずにはいられなかった。
 ぎゅっとして溢れる気持ちを(こら)えるも、ぎゅうっとされて返される。

 力一杯握り締めるお互いの手は、固くひとつに結ばれて。希望を見つけた私達は、言葉なくその歓喜を伝えあう。

 いっとき、時間を忘れて……
 美しい幸せの一本線を、ふたりで心に刻みつけた―――


☆☆☆


「起こせばよかったのに〜」

 夕焼けのオレンジ色に染まるバス乗場。
 (あおい)くんは寝起き顔で嘆き声。私が降りるバス停を通り越して終点の田原駅まで来たからだ。

「よく寝てたから。同じバスですぐ帰れる」
「そお? じゃあ、夏休みの為に期末頑張るか〜。絵も完成したら教えて」
「うん」

 私はイヤホンを葵くんに返すと降りたバスに再び乗車した。チラリと車窓から改札に向かう葵くんの後姿をぽうっと見送って、また同じ座席に腰を下ろすと夢見心地にスマホの写真を眺める。

 あのとき天がくれた贈り物はふたりで分け合った。虹をはんぶんこしたのだ。

『デカくて入んない。真白(ましろ)もスマホ! 早く早く、消えちゃう! こうやって……半分ずつ。2つの画面におさめれば……
 ほら! な?』

 私達のスマホを宙に並べて、その奇跡の瞬間を写し撮った―――

 それから頂上を満喫し下山。絶好調な顔色の葵くんはバスで一緒に帰ると言い出した。純平(じゅんぺい)に会いに行くつもりらしい。田原駅行きのバスに乗り後部座席に並んで座った。

 出発して純平が不在とわかると葵くんはがっかり。『暇だぁ』背伸びの後にイヤホンの片方を私によこして、殺風景な窓の流れとバスの揺れに身を任せていると、暫くして……葵くんは眠ってしまったのだ。
 景色は青空が暖かさに包まれ始めていた。

 葵くん……ナイショにしてごめんなさい。
 眠りに落ちた葵くんが私の肩に寄りかかってきて……ずっとスヤスヤ寝ていたの。

 途中で乗車してきた男の子に『ラブラブだね』って言われて凄く恥ずかしくて。
 それでも……起こす気にはなれなかった。
 だって眠りについたらなかなか起きないでしょう?
 ……嘘です。

 葵くんが桜色のオーラをふわふわ出していたから―――

 疲れて眠る澄んだ青色に、その優しい春色を溶け込ませ……
 私がこのまま葵くんのオーラに包まれていたかった。だから、起こさなかったの。

 今ならわかる気がする。青色と春色のクオリアは青春の感じ、ではなくて……
 まだ私が知らない、恋の……
 初恋の感じ―――かもしれない。

 この切なさと儚さの気持ちが歯痒くて、熱っぽい片側がいつまでも温もりを放さなかった。