「真白の絵さ……なかなか進んでないね?」
放課後の美術室。私がいつもの通りに座って絵を描いていると、葵くんがキャンバスの周りをうろついて言う。
……その通り!
葵くんに侵入されてから落ち着いていられないから!
卒業するまで美術室で過ごす時間は大切にするつもりだった。けれど葵くんがバイトまでソファで寝るとやって来て、一度眠りに落ちるとなかなか起きない。少し揺すったり、手を叩いたぐらいじゃ目を覚まさないのだ。起こしてとお願いされてないけれど、遅刻するんじゃないかと思うほどにガチな昼寝をしている。だから毎回スマホのアラームを止めるのも私で、代わりに私が葵くんの目覚まし時計係になっていた。
さっきも選択英語の授業中―――『グ~……』。
本気のイビキが背後から聞こえて、チラッと後ろを見てみると葵くんは机に伏して居眠りをしている。私じゃないのになんだか周りから飛んでくる視線が痛い。『グ~……スゥ~』と気持ちよさそうなイビキがまた響く。
呆れて黒板を見ると先生と目が合い無言の圧力を感じる……まるで、しっかり面倒を見なさいという目線だ。仕方がないと私は苦肉の策に出る。
一発で起こすイイ方法。深く椅子に座って背筋を伸ばすと、先生が板書する時を見計らって……『ゴッ!』首を反らして後頭部で寝ている葵くんの頭に向かって頭突きした。鈍い音と痛みが走り『ってぇ!』と彼はうめき声をあげる。
『痛て~。真白、何かした?』と聞かれたがフリフリと首を横に振る。どうやら目が覚めたみたいだ。私も頭がジンジンしてるけれど雷落としが成功して満足したところ……
ふいにキラキラの欠片が横目に映って、小森くんを見ると肩で笑いを我慢していた。
彼は同中で不動の図書委員長。地元からこの高校に進学した5人のうちの残り1人。原川中から2年生の時に田原中に転入してきた物静かな人だ。同じメンツで小中進級してきたから、途中参加は居心地悪かったみたい。いつもひとりで本を読んでいた。
ムスッとした表情しか見たことない彼がウケるほど、私は馬鹿げたことをしてるんだなぁと少し自分にも呆れた。
―――こんな感じで余計な事ばかりしているから、私の絵は一向に進まないのだ。筆を置いてひと息つくと、気持ちを新たに前進させる為の決断を口にする。
「……今度大原山に登って、模写してくる」
「へぇ、大原山かぁ。……よしっ俺も行く!」
「えっ!?」
予想外な返事に驚いて嫌な予感が頭をよぎった。ひとりで行くつもりで話しただけなのに、葵くんはすごく乗り気で予定を詰められる。
期末前の7月初め、朝9時に大原山駅で待ち合わせすることになった。
当日、私は家から最寄りのバス停で田原駅から来たバスに乗り、1時間かけて終点の大原山駅前に到着した。
少し待ちぼうけしていると改札から葵くんが出てきて……私に気づくとイヤホンを外し手を振って合図する。私は手を振り返して半信半疑で彼の様子を観察した。
本当に来たんだ……
楽しそうなキラキラのオーラ、もう出してる。
駅からすぐの登山口に私達以外にもリュックを背負った人達がいる。山麓の草花や頂からの連峰を愉しむ登山客が多い、標高1000mの大原山。小中と毎年遠足で登ってきた。山すそは草原のように緩やかな遊歩道が延びていて初心者にも登りやすい。
今日は絶好の登山日和。快晴の山道は見渡す限り鮮やかな緑色で、金鳳花や小桜などの黄色や白色の花が可憐に咲いている。
先を歩く葵くんはキラキラが溢れ止まらないみたいで絶好調。重ねてお喋りも止まらない。
「海外は行ったことある?」
「ない」
「俺ん家は夏休み毎年スイス行ってた。
真白も気に入ると思うよ~、自然のコントラスト半端ないから。
いつか連れてってやりたいなぁ」
山の澄んだ空気に開放感もあっての単なる売り言葉だろう。期待するわけでもないのに私の心はときめく。今までで一番楽しい登山になってるし、浮ついているのか足取りも軽い。
途中、向かいから下山してくる初老の夫婦と挨拶を交わす。疲労も感じているのだろう青のオーラ、でもその中にキラキラ光る希望の星達。私が一番好きなオーラの色。
頑張った後に心が満たされてる証拠だ。
ご機嫌な葵くんも鼻歌まじりに進んで行く。私の気分も乗ってきて「進路、もう決まった?」との質問につい本音で答えていた。
「まだ……第一志望は美大だけど、
うちの家計じゃ費用も無理だし浪人も駄目だし。それにただ好きに絵を描いてる私が美大なんて失礼だと思って。
無難に……美術系の専門学校かな。
なんか……あきらめ、で将来決めてくみたいでちょっと不甲斐無い気もして、っ」
「俺ね、自慢なんだけど……
高1の3学期に転校してくるまで東京の有名な進学校に通ってたの。
んで、高校入ってすぐの進路希望に東大理科2類って書いてたよ」
私が自分に嫌気が差すのを止めた強気な前置きも納得の事実に、尊敬の声がもれて「東大目指した人に会うの初めて」と葵くんを眼差しで崇める。
「初めまして? ハハッ。
もう過去の栄光だよ。親が離婚してさ親戚のツテでこっち来たんだけど……
環境って染みるよな。東京は勉強ばっかでこっちは自由と自然ばっか。イイも悪いも順応するけど、元にも戻れないし新しい居場所は簡単にできないし?
その中で理想を求めるって難しいよ」
私達はまだ未成年で、叶えられる事も自由に羽ばたく事も限られている。
今いる世界から飛び出す事は難しい……。
「俺は大学……
行った方がいいんだろうけど、結局またここも旅立たないとだしな」
地元から通える進路の選択肢は極めて少ないと思う。高校を卒業後はたいてい地元を離れた生活になるのだ。
「頑張って生きようとか、幸せってなんだろうネ……よくさ、辛いとゆう漢字に横棒一つ足せば幸せになる、って励まされてきたけど。
字をピッと一筋書くのとワケが違うよな?
その一つ手に入れるのに……死ぬほど努力しても無理かもしんないし。
一生辛いままかもよ……皆がおんなじ物で幸せになれるわけじゃないし。
人それぞれじゃん、一番欲しい物なんて」
山の中腹に入って草原から木々の中に登山道が進むと勾配がややキツくなる。疲れも出てくる頃、会話も愚痴っぽくなってきてしまった。木漏れ日も弱くなって雲行きも怪しそうだ。
いよいよポツポツと木々の隙間を抜けて雨が落ちてきた。
「葵くん、雨宿りしたほうがっ」
「どこにする!?」
先を歩く葵くんに少し上の大きな木を教えた。頭の上に手をかざして雨粒を防いでいたけれど、木の下に潜り込んだ時には体がしっとりしていた。通り雨な気もするが雨足が強く傘をリュックから出す。
「葵くん、傘は?」
「持ってきてない。マンパーでイケるかと思った」
「山の天気は変わりやすいのに。一緒に入って……」
私は葵くんの側に寄って傘をふたりではんぶんこする。木宿の元に落ちてくる雫はボタボタと傘を打ち付け、葵くんの背に合わせて伸ばしていた腕がグラグラし始めた。
「……俺が持つ」葵くんは私の横にピッタリ寄り添って、私から傘を受け取った。もう片方の手で傘からはみ出ていた私の肩の雫をはらう。
木陰の傘の下……
葵くんが天体観測の朝に見た空色のオーラを私に被せていた。
ラムネ色の淡いアオと、ピンクレモネードの濃いハル色。
ちょっぴり胸がパチパチ……恥ずかしいな。
「あとどのくらい?」
「もうすぐそこだけど……
あ、今日の山登りも部外秘で。秘密の場所なので」
「……ははっ、オッケ」
見上げてぶつかる視線が短い。近すぎるとクオリアが敏感に反応して体中擽ったくなる。
この木から登山道を外れて茂みの中を歩いていくと、絵の光景が見えるスポットにたどり着く。中学の登山の時、私はいつもスケッチをするので最後尾になるのだが、偶然穴場の観察地点を発見したのだ。
頂上は連なる山々と空を見渡せる絶景だけど、私達の町が背になってしまうので、このポイントからしか望めない。人の歩く道ではないので雨の時は危険だ。
ポツポツ傘の下に響く雨音が小さくなってきた。
サワサワ……。
ふと、木の葉達が騒ぎ出したような、そんな音が耳に届いて胸騒ぎがする。
予感。
すごい、何か……感じる。
「真白?」
私はおもむろに傘の外へ抜け出していた。感じるまま、引っ張られるように突き進む。
何か、呼んでる……
こっちに……おいでって。
導かれるように茂みを掻き分けて、グシャグシャとした足元を踏みしめ秘密の場所へ。
木枝の間にぽっかり開いた自然の窓。町を見渡せる景観がキラキラと鮮やかに輝いている。
「はっ!!」
――――――わ、ぁ。すごい……。
すごい! すごい!! すごい!!!
その瞬間、心を、奪われた―――――――――。
そこに立ち止まり動けなくなる。両目をこれでもかと大きく広げ、欲張りにも全部映し逃さないよう、瞳の奥の脳裏に刻み込もうとしていた。
余りに見惚れてしまい呼吸を忘れ息苦しくなって、慌てて空気をめいっぱい吸い込んだ。
「……すうぅっ」
「……すっげ、マジ?」
追いかけてきた葵くんが隣で同じ光景を目の当たりにし、一緒に私達は立ち竦んだ。
まるで星が降っているみたいだ。空から照らす太陽の光が天気雨の雨粒を光らせて。
そして、虹が、大きな虹が……町を覆う一本の架け橋に。
夢、じゃない。
すごい奇跡が……神秘の絶景がすぐそこに!
なんて、なんて綺麗なのだろう……
こんなに綺麗な色、美しい色、見たこともない。
なのに―――どうして、泣きたくなるの?
涙が今にも溢れそう……
夢は叶うよ!
幸せになれるよ!
七色の彩る虹が燦めいて、そう励ましてくれているみたい。
私達が嘆いてきた憤りを、その美しい様で一瞬のうちに吹き飛ばしてくれた。
これは天からの贈り物でしょう?
だって……奇跡、としか思えない。
嬉しくて、泣きそうなくらい嬉しくて。ただその場でひたすらに感動していた。体中で花火が弾けているみたいで、感激している気持ちが抑えきれずに爆発しそう。もう自分の中に閉じ込めておけないくらい!
ムズムズする指先が何かに触れて……それを掴まずにはいられなかった。
ぎゅっとして溢れそうな気持ちを堪えるも、同じようにぎゅうっとされて返される。
ちからいっぱい握り締めるお互いの手は、固くひとつに結ばれていた。燦めく希望を見つけた私達は、言葉なくその歓喜を手を握って伝えあう。
いっとき、時間を忘れて……
美しい幸せの一本線を、ふたりで一緒に刻みつけた―――。
―――夕焼けのオレンジ色に染まるバス乗場。田原駅で葵くんは寝起き顔で嘆き声を上げた。
「起こせばよかったのに~。また家のバス停まで戻んなきゃでしょ」
「よく寝てたから。同じバスですぐ帰れる」
「そお? じゃあ、夏休みの為に期末頑張るか~。絵も完成したら教えて」
「うん」
私はイヤホンを葵くんに返すと降りたバスに再び乗車した。チラリと車窓から改札に向かう葵くんの後姿をぽうっと見送って、また同じ座席に腰を下ろすと夢見心地にスマホの写真を眺める。
あのとき、天がくれた贈り物はふたりで分け合った。虹をはんぶんこしたのだ―――
『デカくて入んない。真白もスマホ! 早く早く、消えちゃう! こうやって……半分ずつ。2つの画面におさめれば……
ほら! な?』
私達のスマホをヨコにして宙に並べ、その奇跡の瞬間を写し撮った……『カシャ』『カシャ』ふたりで同時にシャッターを押す。
それから頂上を満喫し下山。清々しい顔色の葵くんは私とバスで一緒に帰ると言い出した。純平に会いに行くつもりらしい。大原山から田原駅行きのバスに乗り後部座席に並んで座った。
出発して純平が不在とわかると葵くんはがっかり。『暇だぁ』背伸びの後にイヤホンの片方を私によこして、殺風景な窓の流れとバスの揺れに身を任せていると、しばらくして……葵くんは眠ってしまったのだ。
景色は青空が暖かさに包まれ始めていた。
葵くん……ナイショにしてごめんなさい。
眠りに落ちた葵くんが私の肩に寄りかかってきて……ずっとスヤスヤ寝ていたの。
途中で乗車してきた男の子に『ラブラブだね』って言われてすごく恥ずかしくかったけど、それでも……起こす気にはなれなかった。
だって眠りについたらなかなか起きないでしょう?
……嘘です。
葵くんが桜色のオーラをふわふわ出していたから―――。
疲れて眠る澄んだ青色に、その優しい春色を溶け込ませ……
私がこのまま葵くんのオーラに包まれていたかった。だから、起こさなかったの。
今ならわかる気がする。青色と春色のクオリアは青春の感覚、ではなくて……
まだ私が知らない、恋の……
初恋の感じ―――かもしれない。
この切なさと儚さの気持ちが歯痒くて、熱っぽい片側がいつまでも温もりを放さなかった。
放課後の美術室。私がいつもの通りに座って絵を描いていると、葵くんがキャンバスの周りをうろついて言う。
……その通り!
葵くんに侵入されてから落ち着いていられないから!
卒業するまで美術室で過ごす時間は大切にするつもりだった。けれど葵くんがバイトまでソファで寝るとやって来て、一度眠りに落ちるとなかなか起きない。少し揺すったり、手を叩いたぐらいじゃ目を覚まさないのだ。起こしてとお願いされてないけれど、遅刻するんじゃないかと思うほどにガチな昼寝をしている。だから毎回スマホのアラームを止めるのも私で、代わりに私が葵くんの目覚まし時計係になっていた。
さっきも選択英語の授業中―――『グ~……』。
本気のイビキが背後から聞こえて、チラッと後ろを見てみると葵くんは机に伏して居眠りをしている。私じゃないのになんだか周りから飛んでくる視線が痛い。『グ~……スゥ~』と気持ちよさそうなイビキがまた響く。
呆れて黒板を見ると先生と目が合い無言の圧力を感じる……まるで、しっかり面倒を見なさいという目線だ。仕方がないと私は苦肉の策に出る。
一発で起こすイイ方法。深く椅子に座って背筋を伸ばすと、先生が板書する時を見計らって……『ゴッ!』首を反らして後頭部で寝ている葵くんの頭に向かって頭突きした。鈍い音と痛みが走り『ってぇ!』と彼はうめき声をあげる。
『痛て~。真白、何かした?』と聞かれたがフリフリと首を横に振る。どうやら目が覚めたみたいだ。私も頭がジンジンしてるけれど雷落としが成功して満足したところ……
ふいにキラキラの欠片が横目に映って、小森くんを見ると肩で笑いを我慢していた。
彼は同中で不動の図書委員長。地元からこの高校に進学した5人のうちの残り1人。原川中から2年生の時に田原中に転入してきた物静かな人だ。同じメンツで小中進級してきたから、途中参加は居心地悪かったみたい。いつもひとりで本を読んでいた。
ムスッとした表情しか見たことない彼がウケるほど、私は馬鹿げたことをしてるんだなぁと少し自分にも呆れた。
―――こんな感じで余計な事ばかりしているから、私の絵は一向に進まないのだ。筆を置いてひと息つくと、気持ちを新たに前進させる為の決断を口にする。
「……今度大原山に登って、模写してくる」
「へぇ、大原山かぁ。……よしっ俺も行く!」
「えっ!?」
予想外な返事に驚いて嫌な予感が頭をよぎった。ひとりで行くつもりで話しただけなのに、葵くんはすごく乗り気で予定を詰められる。
期末前の7月初め、朝9時に大原山駅で待ち合わせすることになった。
当日、私は家から最寄りのバス停で田原駅から来たバスに乗り、1時間かけて終点の大原山駅前に到着した。
少し待ちぼうけしていると改札から葵くんが出てきて……私に気づくとイヤホンを外し手を振って合図する。私は手を振り返して半信半疑で彼の様子を観察した。
本当に来たんだ……
楽しそうなキラキラのオーラ、もう出してる。
駅からすぐの登山口に私達以外にもリュックを背負った人達がいる。山麓の草花や頂からの連峰を愉しむ登山客が多い、標高1000mの大原山。小中と毎年遠足で登ってきた。山すそは草原のように緩やかな遊歩道が延びていて初心者にも登りやすい。
今日は絶好の登山日和。快晴の山道は見渡す限り鮮やかな緑色で、金鳳花や小桜などの黄色や白色の花が可憐に咲いている。
先を歩く葵くんはキラキラが溢れ止まらないみたいで絶好調。重ねてお喋りも止まらない。
「海外は行ったことある?」
「ない」
「俺ん家は夏休み毎年スイス行ってた。
真白も気に入ると思うよ~、自然のコントラスト半端ないから。
いつか連れてってやりたいなぁ」
山の澄んだ空気に開放感もあっての単なる売り言葉だろう。期待するわけでもないのに私の心はときめく。今までで一番楽しい登山になってるし、浮ついているのか足取りも軽い。
途中、向かいから下山してくる初老の夫婦と挨拶を交わす。疲労も感じているのだろう青のオーラ、でもその中にキラキラ光る希望の星達。私が一番好きなオーラの色。
頑張った後に心が満たされてる証拠だ。
ご機嫌な葵くんも鼻歌まじりに進んで行く。私の気分も乗ってきて「進路、もう決まった?」との質問につい本音で答えていた。
「まだ……第一志望は美大だけど、
うちの家計じゃ費用も無理だし浪人も駄目だし。それにただ好きに絵を描いてる私が美大なんて失礼だと思って。
無難に……美術系の専門学校かな。
なんか……あきらめ、で将来決めてくみたいでちょっと不甲斐無い気もして、っ」
「俺ね、自慢なんだけど……
高1の3学期に転校してくるまで東京の有名な進学校に通ってたの。
んで、高校入ってすぐの進路希望に東大理科2類って書いてたよ」
私が自分に嫌気が差すのを止めた強気な前置きも納得の事実に、尊敬の声がもれて「東大目指した人に会うの初めて」と葵くんを眼差しで崇める。
「初めまして? ハハッ。
もう過去の栄光だよ。親が離婚してさ親戚のツテでこっち来たんだけど……
環境って染みるよな。東京は勉強ばっかでこっちは自由と自然ばっか。イイも悪いも順応するけど、元にも戻れないし新しい居場所は簡単にできないし?
その中で理想を求めるって難しいよ」
私達はまだ未成年で、叶えられる事も自由に羽ばたく事も限られている。
今いる世界から飛び出す事は難しい……。
「俺は大学……
行った方がいいんだろうけど、結局またここも旅立たないとだしな」
地元から通える進路の選択肢は極めて少ないと思う。高校を卒業後はたいてい地元を離れた生活になるのだ。
「頑張って生きようとか、幸せってなんだろうネ……よくさ、辛いとゆう漢字に横棒一つ足せば幸せになる、って励まされてきたけど。
字をピッと一筋書くのとワケが違うよな?
その一つ手に入れるのに……死ぬほど努力しても無理かもしんないし。
一生辛いままかもよ……皆がおんなじ物で幸せになれるわけじゃないし。
人それぞれじゃん、一番欲しい物なんて」
山の中腹に入って草原から木々の中に登山道が進むと勾配がややキツくなる。疲れも出てくる頃、会話も愚痴っぽくなってきてしまった。木漏れ日も弱くなって雲行きも怪しそうだ。
いよいよポツポツと木々の隙間を抜けて雨が落ちてきた。
「葵くん、雨宿りしたほうがっ」
「どこにする!?」
先を歩く葵くんに少し上の大きな木を教えた。頭の上に手をかざして雨粒を防いでいたけれど、木の下に潜り込んだ時には体がしっとりしていた。通り雨な気もするが雨足が強く傘をリュックから出す。
「葵くん、傘は?」
「持ってきてない。マンパーでイケるかと思った」
「山の天気は変わりやすいのに。一緒に入って……」
私は葵くんの側に寄って傘をふたりではんぶんこする。木宿の元に落ちてくる雫はボタボタと傘を打ち付け、葵くんの背に合わせて伸ばしていた腕がグラグラし始めた。
「……俺が持つ」葵くんは私の横にピッタリ寄り添って、私から傘を受け取った。もう片方の手で傘からはみ出ていた私の肩の雫をはらう。
木陰の傘の下……
葵くんが天体観測の朝に見た空色のオーラを私に被せていた。
ラムネ色の淡いアオと、ピンクレモネードの濃いハル色。
ちょっぴり胸がパチパチ……恥ずかしいな。
「あとどのくらい?」
「もうすぐそこだけど……
あ、今日の山登りも部外秘で。秘密の場所なので」
「……ははっ、オッケ」
見上げてぶつかる視線が短い。近すぎるとクオリアが敏感に反応して体中擽ったくなる。
この木から登山道を外れて茂みの中を歩いていくと、絵の光景が見えるスポットにたどり着く。中学の登山の時、私はいつもスケッチをするので最後尾になるのだが、偶然穴場の観察地点を発見したのだ。
頂上は連なる山々と空を見渡せる絶景だけど、私達の町が背になってしまうので、このポイントからしか望めない。人の歩く道ではないので雨の時は危険だ。
ポツポツ傘の下に響く雨音が小さくなってきた。
サワサワ……。
ふと、木の葉達が騒ぎ出したような、そんな音が耳に届いて胸騒ぎがする。
予感。
すごい、何か……感じる。
「真白?」
私はおもむろに傘の外へ抜け出していた。感じるまま、引っ張られるように突き進む。
何か、呼んでる……
こっちに……おいでって。
導かれるように茂みを掻き分けて、グシャグシャとした足元を踏みしめ秘密の場所へ。
木枝の間にぽっかり開いた自然の窓。町を見渡せる景観がキラキラと鮮やかに輝いている。
「はっ!!」
――――――わ、ぁ。すごい……。
すごい! すごい!! すごい!!!
その瞬間、心を、奪われた―――――――――。
そこに立ち止まり動けなくなる。両目をこれでもかと大きく広げ、欲張りにも全部映し逃さないよう、瞳の奥の脳裏に刻み込もうとしていた。
余りに見惚れてしまい呼吸を忘れ息苦しくなって、慌てて空気をめいっぱい吸い込んだ。
「……すうぅっ」
「……すっげ、マジ?」
追いかけてきた葵くんが隣で同じ光景を目の当たりにし、一緒に私達は立ち竦んだ。
まるで星が降っているみたいだ。空から照らす太陽の光が天気雨の雨粒を光らせて。
そして、虹が、大きな虹が……町を覆う一本の架け橋に。
夢、じゃない。
すごい奇跡が……神秘の絶景がすぐそこに!
なんて、なんて綺麗なのだろう……
こんなに綺麗な色、美しい色、見たこともない。
なのに―――どうして、泣きたくなるの?
涙が今にも溢れそう……
夢は叶うよ!
幸せになれるよ!
七色の彩る虹が燦めいて、そう励ましてくれているみたい。
私達が嘆いてきた憤りを、その美しい様で一瞬のうちに吹き飛ばしてくれた。
これは天からの贈り物でしょう?
だって……奇跡、としか思えない。
嬉しくて、泣きそうなくらい嬉しくて。ただその場でひたすらに感動していた。体中で花火が弾けているみたいで、感激している気持ちが抑えきれずに爆発しそう。もう自分の中に閉じ込めておけないくらい!
ムズムズする指先が何かに触れて……それを掴まずにはいられなかった。
ぎゅっとして溢れそうな気持ちを堪えるも、同じようにぎゅうっとされて返される。
ちからいっぱい握り締めるお互いの手は、固くひとつに結ばれていた。燦めく希望を見つけた私達は、言葉なくその歓喜を手を握って伝えあう。
いっとき、時間を忘れて……
美しい幸せの一本線を、ふたりで一緒に刻みつけた―――。
―――夕焼けのオレンジ色に染まるバス乗場。田原駅で葵くんは寝起き顔で嘆き声を上げた。
「起こせばよかったのに~。また家のバス停まで戻んなきゃでしょ」
「よく寝てたから。同じバスですぐ帰れる」
「そお? じゃあ、夏休みの為に期末頑張るか~。絵も完成したら教えて」
「うん」
私はイヤホンを葵くんに返すと降りたバスに再び乗車した。チラリと車窓から改札に向かう葵くんの後姿をぽうっと見送って、また同じ座席に腰を下ろすと夢見心地にスマホの写真を眺める。
あのとき、天がくれた贈り物はふたりで分け合った。虹をはんぶんこしたのだ―――
『デカくて入んない。真白もスマホ! 早く早く、消えちゃう! こうやって……半分ずつ。2つの画面におさめれば……
ほら! な?』
私達のスマホをヨコにして宙に並べ、その奇跡の瞬間を写し撮った……『カシャ』『カシャ』ふたりで同時にシャッターを押す。
それから頂上を満喫し下山。清々しい顔色の葵くんは私とバスで一緒に帰ると言い出した。純平に会いに行くつもりらしい。大原山から田原駅行きのバスに乗り後部座席に並んで座った。
出発して純平が不在とわかると葵くんはがっかり。『暇だぁ』背伸びの後にイヤホンの片方を私によこして、殺風景な窓の流れとバスの揺れに身を任せていると、しばらくして……葵くんは眠ってしまったのだ。
景色は青空が暖かさに包まれ始めていた。
葵くん……ナイショにしてごめんなさい。
眠りに落ちた葵くんが私の肩に寄りかかってきて……ずっとスヤスヤ寝ていたの。
途中で乗車してきた男の子に『ラブラブだね』って言われてすごく恥ずかしくかったけど、それでも……起こす気にはなれなかった。
だって眠りについたらなかなか起きないでしょう?
……嘘です。
葵くんが桜色のオーラをふわふわ出していたから―――。
疲れて眠る澄んだ青色に、その優しい春色を溶け込ませ……
私がこのまま葵くんのオーラに包まれていたかった。だから、起こさなかったの。
今ならわかる気がする。青色と春色のクオリアは青春の感覚、ではなくて……
まだ私が知らない、恋の……
初恋の感じ―――かもしれない。
この切なさと儚さの気持ちが歯痒くて、熱っぽい片側がいつまでも温もりを放さなかった。



