本来の美術室は授業もあって生徒がたくさん絵に親しんだ、のだろう。教室には教壇と黒板、後ろの隅っこには木製のイーゼルが40台ほど立掛けられている。キャンバスに絵の具と画材は棚にぎっしり。埃を被って古びているけれど賑わっていた教室の面影を計り知る。

 今は私が独りきり……

 イーゼルにキャンバスを乗せテーブルに道具を準備すると筆を握る。高校最後のコンクールに応募する作品は、大原山の秘密の場所から望める町の風景画。
 田んぼの緑が溢れる長いあぜ道、稲穂の黄金色の海原に紅葉の彩り、燦めく白銀の世界。美しい町で生まれ育った思い出に描き残したいと思った。
 卒業後の進路は地元を出て専学へ通う予定。一旦町を出たらいつ戻って暮らせるか……わからない。
 
 椅子に座り面と向かう絵は、下描きは終わって陰影をつけ始めた具合。白と紺のアクリルガッシュを筆で色付けする。私は好きなように描いてきただけなので、作法も知識もないからアクリルと油と混ぜ塗りしたりする。
 下描きは青鉛筆だし影は紺色。普通は炭や黒色だと思うけれど、黒は苦手で避けている。逆に青系は一番好きな色……だから。

 瑠璃色の髪、青い瞳、蒼い顔色、葵……
 
 昨日からずっと夢の中までも青色だらけで朝を迎え天描きどころではなかった。

 置き去りのソファをチラッと見て溜息。
 私のお気に入りの場所はソファに占領されてしまって、反対側に陣取りをしたものの気になって集中できないのだ。

「はぁ……」
「ホントにぼっちでやってんだな」
「ひっ!?」

 突然の声にびっくりしてお尻から飛び跳ねた。もう何が起きても驚かないよう身構えていたのに台無しだ。


 今日も急な登場をしては勝手に動き回り「昨日ここに落し物……あったあった」ソファの下を覗き紙を手にして我が物顔の(あおい)ひと。髪色は確かに瑠璃の美しさを失っている。
 
 キャンバス越しに目が合うとまた私を視界の中にきっちり納める。それをされると緊張するのに、側まできて彼はまじまじと絵を眺めた。
 腕組みをした葵ひとは視線を絵から私に向けると瞳を上下に動かして……

「なんかそれ……可愛いな。園児みたいで」
「かっ!?」

 長袖のスモックエプロンが園服に見えるのだろう。中学からの愛用品で絵を描く時は制服を汚さない為に着用している。元は水色だけれど色褪せてしまったし絵の具は付いてるし、可愛いと言われる容姿ではないのに。

 唐突な発言で私を困らせるとさらに腰を折り曲げて私の顔を覗き込むので、背筋がキュッとなって息が止まりかける。

「てか前髪長くてよく見えんね?」
「なっ!?」

 私の前髪に指を添わせてサラッと横に流し自分の目線と強引に合わす。その瞳の虹彩は昨日と違い、本物の濃褐色で瞳孔に焦点がぶつかれば……金縛りみたいに身動きできない。

「あれ? 毛先に絵の具ついてるよ」
「えっ!?」
「これ落ちんの?」

 さっき驚いた時に髪がキャンバスに触れたのだろうか。葵ひとはつぅーっと私の横髪をなぞって絵の具を自分の指先に拭き取ってくれる。
 躊躇いもなく他人の髪をよく触り汚れまで自分に移す行為に、私の思考は理解が追いつかずロボットみたいにササッと濡れ布で指の絵の具を消し取った。

 「ありがと」と言われてロボットな私は言葉もなくコクコクと頷いて見せるが……スッと大きな手が顔に迫ってきて!?

「髪も結んだらいいんじゃないの? こうやって……」

 ―――雷が。
 頭に落ちたかと思った。ビリビリ全身が痺れて……
 私、爆発しそう!

 葵ひとは私の背後に回ると両手で頬の横から髪を掻き集めて押さえている。

「ほら、結べるじゃん。絵の具もつかないでしょ?」
「―――っ!」

 もう限界っ。頭の中パニック!  
 コクン、コクン、コクン、コクン、コクン。

 壊れたおもちゃみたいに首を小刻みに縦振り。ゆるりと解かれた髪が耳をくすぐると、自分が破裂しそうな衝動を必死に耐える。
 ん〜っ、心臓が痛い。

 初めての感覚に体をふるふる揺らす私を面白がって笑い声をばら撒くと「じゃあな、まひろ」葵ひとは去っていった。
 ビリビリ、ジリジリ。ソワソワしてホカホカしてる。それでいてピカピカと体の中を弾けて回ってる。

 どうやったら、この電流消えてくれるの?

 
 ……どうやってもパチパチ火花が弾けてるし、目を瞑れば星屑の欠片が絶えずキラキラと落ちてくる。体中眩しくて今夜も寝付けない。
 
 早く目覚めた朝にしたのは、私の中に残った感触と感覚を断ち切ること。

 ハサミで……チョッキンと。
 前髪は短くしたし伸びた髪は後ろでひとつに結いた。耳が出てるとソワソワするし首筋もスースーしてやっぱり落ち着かない。

 でも我慢をして過ごしてみると、友達は褒めてくれたし慣れてきて。これで今日こそはまともに絵が描けるだろうと考えたのも束の間!!
 (あおい)ひとだ。急いで柱の影に隠れる。

 一階の廊下に降りると、腕組をして仁王立ちしている姿が行先にあった。そこを通らないと美術室に行けないのに。校舎から作業棟に向かうには校長室と応接室の前を通って外廊下を使う以外ない。後は一旦上履きを外履きに履き替えて外から作業棟に侵入するか。

 私はオロオロと迷っていたが、葵ひとがじっと動かないのでそっちが気になってしまって。柱から少し顔を出して様子を伺って見た。

 今日はYシャツをきちんと制服のズボンに入れている。
 ……身長は176センチ。ウエストの位置からして短足ではない。上履きのサイズは27かな?

 やはり美術モデルにしても良さそうな……ついコソコソと観察をしてしまった私は我に返る。
 髪型も変えたし気付かれないのでは?
 どうにか廊下の隅の方をこっそり通って見つからないように……そろ〜り……

大井田原(おおいたわら)真白(ましろ)!」
「はいっ」

 急に呼び止められ私が気をつけをしてゆっくり顔を向けると、クイクイと指でこっちに来いと合図する。初めから私を待ち構えていたのだろうか。壁に貼られたネームプレートを指差し、むっとした顔でこじんまりした私を叱る。

「ま()ろ、言って! 名前間違えてたじゃん」
「……はい」
「コレずっとここにあったろ?
 応接室の真ん前だから何度も見てて……
 すげぇ綺麗だって思ってた。真白の絵だったのか」

 そう言ってプレート上の額縁で飾られた私の絵を……念入りに観賞している。
 これは高校に入って最初に描いた作品でコンクールで大賞を取った。

「コレ桜……だよな?
 花火のエフェクトかけたの? 画出効果狙ってデザインした?」
「エフェクト?」
「……真白にはこうゆう風に見えるってこと?」
「!?」

 心臓が大きく跳ね上がる。
 強い眼差しが私の瞳を覗き込んで、またパチパチと絵の中の桜達みたいに私の体が弾ける。

「ん? 真白、髪切ったの?
 ……よしっ! 決めた。ちょっと来て」
「えっ? 何!?」

 私の手首を拘束すると強制的に伴って連れて行く。とても早足で私の体はヨタヨタと揺れるのに、がっしり支えられているような不思議な感覚。

 掴まれた手首から伝わってくる熱がもどかしくて、反対の手がムズムズしてビリビリ……スカートを握って紛らわす。

 そして美術室で私を解放すると突拍子もないことを彼は言った―――

「俺の髪に色塗って。黒髪に戻して欲しい」


 ☆!?


 私はいつもの通りスモックを着ているが……色塗りするのはキャンバスじゃなくて―――髪の毛だ。

 しかも、(あおい)ひと……葵くんの。
 
 彼は私を連行する足取りに合わせて、早口で事情を有難迷惑にも説明していた。昨日の進路面談で髪のカラーを注意されたと。
 モデルとして社会貢献したとか……放っといたらすぐ落ちるとか?
 担任に弁明したけど遅刻が多いし、2年時にも何たらかんたら?
 単位はギリ計算で大丈夫だけど、態度がヤバくてガチの指導くらった??
 ……な感じの話だったが動揺してて曖昧な聴き取り。

 要は!
 今日が校長と再面談なのに、すっかり髪色戻すの忘れて来ちゃったから……髪に色塗ってなんてどうかしてる!!
 私は目をひん剥いて言った。

『無理っ!』
真白(ましろ)なら出来る!
 流石に校長処分は卒業に響くから……真白にかかってる。頼む! 処分回避できたら御礼するから!』

 真っ直ぐなのに私の心に絡まる彼の視線は……初めて交わした時から、魔法みたいに従わせるんだ。
 御礼なんてどうでもいい。何より私の絵を真剣に見て『綺麗だ』と褒めてくれた人を、私は粗末に相手できない。


 「急ぎで!」と向けられた手合わせに私は頭を回転させた。パレットと水、乾きの速いアクリルガッシュの青墨と焦茶。スポンジをガーゼでくるみ輪ゴムで留めてたんぽを作る。スモックを来てイスに腰掛けた彼の肩にタオルをかけた。

 3日前とても美しい瑠璃色をしていた髪は、やはり色落ちが早いのかもう艶がなくなっていた。メッシュの所だけ指で掻き取り左掌にのせ、墨と茶の半分色のたんぽでポンポンと色をのせていく。なるべく1本1本カバーできるよう指でなぞって調節しながら、速く乾くように息を時折吹きかけて……

「素手で大丈夫?」
「感覚がわからないので。髪の毛のほうがシャンプーで落ちるか心配です」
「平気、平気」

 彼の喋った吐息が私のスモックの胸元を揺らす。彼は大股開きで座り私はその間に入っている、なんとも密接した態勢だ。

 こんなに(そば)で……髪に私の息までかけられて、彼は嫌ではないのだろうか?

 つい集中力を欠く疑問が浮き出ると、彼の顔色を観察したい気に囚われて……ズームアウトするとバチッと目が合った!!

真白(ましろ)ってさ、よく観察してるようで違うとこ見てるよね?」
「えっ!?」

 彼の瞳に縛られてドクンと心臓が大きく鳴った。この至近距離で射抜かれた心音が伝わらないようはぐらかす。

「ぜ、全体的なイメージを観察する癖です」
「そう……」

 彼の視線が外れると私は髪だけ視界に入れて集中することにした。顔面に熱を籠もらせながら全部の青髪を塗り終えると、仕上がりに彼はとても満足して、教室の鏡の前に立ち自分と私を交互に見る。

「すげぇ! ありがと、真白!」
「早く行って……」

 鏡越しにも面と向かっても繰り返される賛辞と笑顔に、また手がピリピリとむず痒くなってきた。後ろに隠して右手と左手とぎゅっと繋いでみたり揉み合いっこしてみたりするけれど……
 彼が無邪気に去った後まで、髪の感触も寄り添った感覚も余韻が残って―――今日も絵を描くことができなかった。


☆☆☆


 「はぁっ、はぁっ。んっ、はっ」

 私にとって事件が突如発生した!
 只今緊急捜索中……
 強烈に血が騒いでぎゅっと拳に力を込めては、溜めに溜めて全力で廊下をかける。
 目的地の美術室は入口が案の定開いていて、ゴールのソファまで駆け抜けた。
 
 予感。絶対……ほら、いた!!

(あおい)くんっ、どうゆう……わっ」

 床に置かれたリュックに勢いよく躓いて足がもつれる。よろけて倒れかけた体はソファに両手をついてブレーキをかけた。踏ん張ってる腕がじんじんする。

「ホント俺……何回襲われんの?」
「違っ……コレ! どうゆうこと!?」

 私は手にしていた紙っぺらを真下に捕らえた彼の目の前に突き出した。危うく寝込みに抱き着く寸前だったが、半分馬乗りのこの状態もそっちのけになる程の大事件。
 必死な私とは打って変わって、けろっと白状する重要参考人。

「あぁ。俺、美術部入ったよ?」
「何で!?」
「御礼? 真白(ましろ)をサポートする応援部員?」
「……っ」

 葵くんは寝そべっていた体を起こして「バイトまで寝ようと思ったのに」とボヤきながら欠伸をひとつ。
 私は力が抜けて長い溜息と共に座り込んだ。

 このソファで堂々と寝たいが為だけに入部したのではないか、と落胆していると葵くんはそっと私の左手を取って自分の顔に近づけた。 
 ナニ!?

「だから大丈夫かって聞いたのに。やっぱり爪黒くなっちゃったじゃん」

 容易く……触れないで欲しい。
 ドキドキも、ピリピリもしちゃうから……

「……そのうち、オチルノデ」
「そぉ? 良かった。髪はシャンプーで落ちたよ。カラーも目立たなくなったっしょ?」

 手が擽ったくてコクンとだけ頷く。

「こんなちっさい手でよく繊細な絵描けんなぁ」

 まじまじと私の手を崇めるかのように触り自分の手を重ねて大きさを比べている。

「……っ! あ、葵くんの手の方が2.5センチ大きいのでっ便利だと……思いマス」
「え……?」

 また爆発しそうになったので早口で謙遜すると、不思議そうに私をじっと見て、葵くんはいつもの蒼白気味の顔で笑った。
 少しひんやりしていた大きな手から、ようやく左手が逃れると火がついたように熱くなる。気付けば右手にあった入部届は皺苦茶だった。

 今日もまた私は彼に翻弄されている。


 私……からかわれてる?
 疑惑の目の色をいつも滲ませているけれど、真正面から放ってくる葵くんの本色はそれさえも払拭していく。
 またも、だ。

 もう寝ようとベットに入るとスマホが「ティロン♪」続けて「♪」[ 神崎葵 ]と。
 眠気はぶっ飛びクルクル変わるスマホ画面のポップアップを目通しで読む[ 純平にメンションしてもらった ]。

 私を呼んでる?
 そんな気がしてトーク画面を開くとすぐ[ 起きてた? ]の文字が現れた。
 これは……からかわれてるじゃなくて、かまって要員を求めてる?
 もうどっちかわからない。

                (寝る)             (遊ぼ?)       
            (お断りします)
(お断り早)
(もう寝た?)
(おーい??)      
             (起きてる!)
(www)
(いいものあげる!)

 暫くして届いたのは星の写真で……綺麗な夜空だと思った。なぜ私にくれたのかは、見えてこない。
 [ ありがとう ]を送って指先のおやすみを交わすとスマホはピタリと静まった。
 
 私も夜空を観察したくなって開いた部屋の窓から真上を覗いて見る。夜の香りに緑の匂いを運ぶ心地良い風が頬を撫でた。

 今夜は一段と星が輝いて……夜色の深い青にキラキラ星の素敵なキャンバス。

 御礼なのか、応援なのか。
 私が星屑の光を好きなこと知ってたの?
 不思議なひと……それで多分、正直なひとだ。

 私の中のわだかまりは薄れていく、予感がした。