「それでねー、バイトの先輩が……」
「へぇ、柚子が褒めるとか珍しいね」
一人暮らしの暇つぶしに付き合って、と柚子は頻繁に電話をしてくる。それから……
「今度の休みね、純平の車で遠出しようかって。真白も一緒に行く?」
「……若菜、私そんなKYじゃないよ?」
卒業後にようやく付き合い出した二人。若菜も柚子も相変わらず私のお姉さんをしてくれている。
私の日常は殺風景だったが穏やかに過ごせていた。朝には青空を、夜には星空を、眺められたら……心が満ち足りた気分になる。
梅雨に入るとやっと三人で会える機会が訪れ、隣町にできた新しいカフェに連れて行ってもらう。
テラスがあってモダン調の店内と自然の雰囲気が落ち着くカフェだった。
地元より外へ出たのは久しぶりだし、お洒落な空間での女子っぽい過ごし方に、私の心はウキウキと弾んでいる。
「あ〜、真白に話があって……」
皆でドリンクを口にした後、改まって若菜が気まずそうに切り出す。
何?
と首を傾げて見せると……
「私……純平から神崎くんのこと全部聞いたの」
――――――!!
その名を耳にして胸の奥がざわつく。
でも……うん、大丈夫。
過ぎ去った日々は、目の前の親友の大切さを感慨深く刻んでくれた。
そっと見守って励ましだけをくれた二人に、私は誠意をもって真実を伝えなければ。
「私も……。二人にはいつかちゃんと話したいって思ってたの―――」
高校生の時は……葵くんの話を二人にするのは避けていた、と思う。
初めはたぶん恥ずかしかったから。ずっと絵を描く事が一番好きで、花や自然の色彩より美しいと惚れ惚れする事なんてなかったのに。
あの日、美術室で葵くんの青色に惹かれて……
人が綺麗と思ったのは初めてだった。
一目惚れ、だったんだと思う。
色恋なんて感覚、私にはなくて歯痒かったし。そんな私を二人がどんな色目で見るのか、知りたくなかった気がする。
『部外秘』葵くんとの秘密が、やがて特別になって……
葵くんと私だけの、誰にも知られたくない……気持ちへと変わって二人にさえも教えたくなかった。
自分を振り返って答えを出す。
心を奪われた始まりの時から初恋を自覚して、縺れた恋心が切れるまで。
そして私に共感覚があったことも、全て隠さずに話した。
二人はじっくり私の話に耳を傾けて、足りない事には短い質問をして私の返事に頷きながら……真剣に理解してくれようとした。
若菜はいち早く納得した風な顔で言う。
「……純平が神崎くんに頼まれたって。
真白の事みんなで支えてやってって。
言われなくても当然っ……
真白も辛かったろうけど、彼もいろいろ頑張ってたんだね。も少し何とか……歯車がうまく回ってたらって……あ、無し無し!
それで今の話ね。神崎くん東京の大学通ってて、もっと上の大学に編入したいとか凄く努力してるって」
純平が私に教えてやってと言っていたそうだ。純平のくせにそーゆー仲間想いなとこ、悔しいけどいつも助けられてる。
私も、たぶん彼も……
「うん。そっか……良かった」
ぼんやりと想像した現在の姿が、謝罪の声に描いた彼の苦痛の表情を上書きした。
私の顔つきも同時に柔らかくなる。
けれど……
「何も良くない!」
突然柚子が声を張り上げる。
「柚子?」
覗き込んだ柚子の顔はくしゃくしゃだった。
「何で二人は一緒にいれないの?
彼だって事件から一度も学校来てなかった。卒業式も出てないし。
真白のこと一番に考えてたからでしょ。真白は最初っから彼を庇って全部自分のせいって……
そこら辺のバカップルよりよっぽど想い合ってるのに、どうして二人はそばにいられないの?」
柚子が涙をペーパーで押さえながら、白目も鼻も赤くして泣きながら怒っている。
結ばれない理不尽さを嘆いて、私の心の奥を揺さぶる。
そばに……いたかったな―――。
柚子の涙が私と若菜にも移って、暫く沈黙の中で鼻をすする音だけしていた。
もう散々ひとりで泣き果てて涙なんか枯れたと思っていたけれど、二人が一緒に泣いてくれるのは温かくて優しくてなんか……可笑しかった。
「ハァー、スッキリした!
もう全部話したからやっと思い出にできる……
大丈夫。二人ともありがとう」
涙を拭いてにっこりと笑って見せると二人も同じように振る舞った。
「……真白がいいなら、もう何も言わないよ」
「私も。…………あ、これは私の話だけど。この前ついに純平と初―――」
「「 !?!? 」」
私と柚子は目をひん剥いた。
口籠った若菜を二人してじっと見つめ、柚子の奇声が店内に響き渡ったのはその後の話。
☆☆☆
楽しかったな……と若菜と柚子と過ごした時間を何度も何度も思い返した。この2日間ずっとだ。
過去は変えられないから、どうしようもないと我慢していたけど……
正直じゃない自分に嫌気がしてただけだった。
葵くんが……
頑張ってると聞いたからだと思う。
それは私の中に、小さな芽生えを起こした―――。
星を……青い星を……
机の引き出しの奥から取り出してみた。
去年の大晦日に閉じ込めたきり、手にするのは怖かったんだ。
ほんとは毎日のように、隠した場所を恋しげに見つめていたのに。
そして、受け取ってすぐしまい込んだ卒業アルバムも机の上に。
1ページもめくれなかった思い出を……
今、開く―――。
懐かしさと……
愛おしさ……
留まっていた記憶がめくるめく巡り、大人ぶってた心をイタズラに弾ませる。何を怖がっていたのか不思議なくらい、自然と頬が緩んでいた。
葵くんの笑顔も私の笑顔も、光沢の紙面に焼付けられて……
文化祭で描いた絵を背に二人で撮った記念写真も、あの日の感動を瞬く間に思い起こさせる。
希望に溢れていた時間が……
ちゃんとアルバムに残されていた。
ジワリ……。
目頭が熱くなるのは悲しいからじゃない、嬉しいからだ。
私の思い出はとてもキラキラしてた。
共感覚が無くても、オーラが見えなくても、その瞬間の表情で感情を読み取れるし伝わるんだ……
オーラは確かにその時々で変化するもの。私は色に魅せられすぎて、大事な本質そのものを見落としていたのかもしれない。
良かった、目を背けたままにしないで。
大事にアルバムを閉じて青い星に微笑みを―――やっと素直に見つめることができた。
葵くんの……アイコンはまだ変わっていない。
スマホの画面左側に並ぶ丸い縦列の中で、私の描いた向日葵は咲き続けている。
そろそろ、私も新しい道を進んで―――
大丈夫だよ……
会えなくても伝わるといい。
☆☆☆
何かずっと体の中で引っかかっていた物が吹っ切れた、のだと思う。
翌朝の目覚めに、少し燦めいた夢色を見た気がした。
長雨が上がった空は太陽が眩しく光っている。
湧き上がる衝動に任せ訪れた場所は……
大原山。私は青い星を髪に留め登山口に立った。
もうすぐ一年が経とうとしている。葵くんと一緒に、ここで奇跡の光景を見てから。
「よし!」
力強く一歩を踏み入れた。
前日までの雨をたっぷり潤した草木達が、陽射しに照らされてキラキラ輝いている。
星屑を撒いたみたいな緑の絨毯。
一面に広がるその景色は、心をすうっと透過させて足取りを弾ませた。
明るい遊歩道は進路を無くしていた私にとって、特別な期待感を与えてくれる。
この道を進んで行ったら、その先に欲しい物が見つかるような―――希望?
そうだ、思い出した!
前回もここを歩きながらキラキラした光に胸を躍らせて……私達、希望を探していたんだよね。
鼻歌を口遊む懐かしい残像を行く先に映し出してみたりした。
清々しい気持ちで……。余裕があったのはさっきまで。疲労感がのしかかってきた。
体力が落ちたからもう息があがっている。中腹付近ですれ違う男性が親切に声をかけてくれた。
「ひとり? 上の方は雨でぬかるんでたから気をつけて」
「ありがとうございます」
登山服を着こなしたベテランのようだ。にこやかに颯爽と下山して行った。
確かに道は湿っていて足も重く感じる。さっきまで太陽は眩しいくらいだったのに、木洩れ日も無くなり足元は暗かった。
他に登山客も見あたらないで、ひとりぼっちが急に寂しさを纏う。
それでも私は……
あの時と同じ場所に立ちたかった。
何か……何か、見つけたい!
今日ここへ来たかったのも、そんなちっぽけな望みを抱いただけ。
でもその小さなひと粒にも縋りたい……じゃないと、いつまで経っても未来を描けない気がして。
願うような祈るような気持ちで登り続けた。
「はぁっ……はぁ……」
息を切らして到着した雨宿りの木。
休まずに道を外れて目的の場所へ……
一歩ずつ踏みしめる地面はぐにゃっと足を飲みこんで沈ませる。ゆっくりと抜け出して、また一歩もう一歩。
自然の窓は……まだそこに存在してた。
陰った樹々の下、幹の枝が大きく開けている箇所がある。四角い吹き抜けみたいで空に近いぶん際立って明るい。
そこから覗いた景色はいつも完璧に仕上げた風景画だった。
だから、今回も……
期待を込めて窓の外を見つめてみたが、町並みどころか灰色のくすんだモノトーンの靄しか映し出されなかった。
何もない私には、何も見つけられない―――。
じっと暫く立ち尽くし……
浅はかな自分探しの旅を恥じて、無力さに打ちひしがれる。
せめてもう一度……
私はそっと目を閉じて心を開く。
記憶を呼び起こし、ここで見た奇跡の思い出を瞼の裏に描いてみた。
……燦めいた空が撒いた雨粒は太陽の光を浴びて、キラキラ降りそそぐ星屑のように―――
そして七色の鮮やかな虹が空いっぱいに広がって、まるで天が掲げた歓喜の大旗かと心が震えた―――。
それは特別だった、幸運だった、二度と見れるはずがない。
葵くんとふたりで起こした奇跡なんだ。
期待は諦めて、見開いた現実の視界に……
ひらひら、ゆらゆら。
すっと入り込んできたのは蝶々。青い羽のアゲハチョウだ。
瞬間的に脳がふらっと……揺らめいた。
蝶の羽ばたきは上下に強く、行ったり来たり青い軌道を宙に残して―――遠い記憶のひと欠片と重なり合う。
ぽおっと、夢の中に連れ込まれたかのように意識を奪われた。
何か、胸騒ぎがする。
なんだか迷子になってるみたいに飛ぶ青い蝶に、何故か私は手を伸ばして……
「だめっ!」
足は勝手に蝶を追いかける。
そっちはクモの巣があるのに!
捕らわれてほしくない。自由に羽ばたいていてほしい……
その青い色をもっと見ていたいの。私はまた色にときめく世界で生きてみたい―――!?
美しい青色の羽は…………サァーッと消えていってしまった。
―――いつ眠ってしまったのだろう?
朧気な頭で目を覚ますも、真っ白な天井は……!?
ここ、どこ!?
私の部屋の天井じゃない。
この白い天井、前にも見たことある。
ここは……病院だ。
―――あ、そうか。そうだった。
私、ベットに寝たきりだった……
動けない。
蝶を追って足元が疎かになり一瞬の内に滑落した。
〈死〉を覚悟した後の意識はなく……
〈生〉を実感した時は力無く瞼も開けれずに……
傍らにいるだろう両親の話声だけが脳内に届く。
『何でこんなことにっ……
どうして一人で山なんて行かせたんだ!』
『違ったのよいつもと!
出かける時は生き生きした顔して……
まさか身投げするなんてこれっぽっちも』
『脳に異常は無いにしても……
骨折に打撲、後遺症でもあったりしたら……
俺みたいになったらどうするんだ……』
『……やめましょう。大丈夫、奇跡を願うしか』
―――違うの、お父さんお母さん。
私……ダメだね。
一度足を踏み外したらなかなか這い上がれないって……本当だ。
たぶん、奇跡を起こしたかったの。
そんなの無理なのに、欲張りしたから罰が当たったのかな。
蝶一匹助けられないで、自分で自分を傷つけて、周りの人に迷惑かけて。
命拾いしたみたいだけれど、身体は動かせそうにない。どうなっちゃうのかな……
もしかしたら……私も、お父さんと同じように……?
私が助けてあげなきゃいけないのに?
私……
永遠に眠れてたらよかった―――。
現実の世界は絶望的な時間を刻むのだと悟り、深く意識が落ちそうになる。その前に……
もう一度だけ、幸せな記憶を見せて。
どうか私が忘れてしまわないうちに―――。
強く、確かにそう願って。
薄れゆく意識の中で最後に見た青色の蝶が、モンシロチョウの元へ飛んでいって、仲良く二匹で宙を舞った。
そのモンシロチョウはきっと、去年の春の日……美術室に迷い込んできた蝶だと思った。
葵くんに一目惚れする寸前に訪れたモンシロチョウ。
描きたい!
頭の中で欲求が飛び出た時にはもうペンを操っている感覚だった。
あの始まりの日に記憶を戻して……夢の中で思い出を再生していたんだ。
もう現実に、追いついてしまったのね……
全部夢なら良かったのに―――。
幸せも、辛いのも、夢なら良かった。
私の視界には天井しか映らない。空白で、空虚で、何にもない空っぽだ。
瞼が微かに震え、ゆっくり幕を下ろすように光を遮った。
真白の世界は、見ていたくない。
また自分の……心と意識が遠くなっていく。
現実に目を向けるにはもう少し時間が必要みたいだ。
☆☆☆
永遠の眠りにつけなくて、現実に目を覚まさなくてはいけないとわかっているけれど……
瞼を開けるのは怖かった。
白い天井を見るのは嫌だった。
でも……痛い。
痛いけど、動きたい。ジンジンしてるけどムズムズもする。
私の身体、生きようとしてるんだ。
眩しそうな光も瞳で捉えている。
私が生きたいと助けを求めてもいいのか、わからないけれど恐る恐る視界を開いて…………みる。
――――――え?
瞬間、違う世界に目覚めたのかと頭が混乱した。
――――――何で?
懸命に目を凝らして何度も瞼を閉じては開いて。焦点を天井に合わしてみるけれど、はっきりと映るこの光景は……
決して夢幻色ではない!
「……あ、……あっ」
あぁ――――――。
奇跡の虹が、どうして―――?
天井一面に描かれた画が両目いっぱい飛び込んでくる。
水色の空に6色の虹が架かり、黄色い星がたくさん光ってる。
大きな紙……2m✕3m。画用紙を貼り合わせてある。絵の具で色塗りしたのを天井に貼ったんだ。
不可思議の中でもじっくりと観察する癖は失ってなかった。
誰が?
……これを?
その虹の配色も、紙の繋ぎ方も、一緒に考えたんだよね……
虹と星空の、ふたつは一緒に存在できない……
でも、奇跡はちゃんと起きた―――。
ふたりで、見つけたんだよね。
希望を信じて、いいんだよね?
―――ねぇ?
葵くん?
「……ぁお……葵く……」
私、生きてるから……まだ希望を見れる。
素直になって、一番会いたい人を声に出せる―――。
「葵くん。葵くんっ」
私っ、 ―――奇跡を……信じる!
「……っ葵くん!」
むせ返しそうな私の声に続いて、「ガタガタンッ」と近くで響く音。
瞬きの後に突然現れた人影。
垂れ下がる前髪の奥から見える懐かしい瞳は……
「あ、……葵くん?」
「―――真白っ……」
その声……葵くんだ。
涙袋を腫らしてクマを作って、疲れた顔。目頭を寄せて泣きそうに私を覗き込んでいる。
「……葵くん、なの?」
「うん……。そうだよ」
私の頬をそっと撫でて知らずに溢れた涙を拭ってくれる。
優しい眼差しも、少しひんやりした指の感触も、記憶の愛しさと一致する。
本当だ……
本当に……
本物だ。
こんなの、どんどん嬉しくて涙が止まらない!
とめどなく喜びが吹き出した。
葵くんの指が何度も私の頬を擦り、挙げ句には大きな両手に顔を包まれる。
「泣きすぎっ」
葵くんは笑って言うが、大きな一滴がぽろっと目から落ちて。
いっとき私の視界から外れると、急に目の前に現れたのは……私が描いていた虹色の天の川。
「これ、俺に描いてくれた?」
葵くんはキャンバスをどけて顔を覗かせる。
私はコクコクと動かせるだけ首を上下に。
「美術室に残ってたんだ。裏のサイン……
〈 幸せなアオイ世界 〉って。
俺も、何が何でも真白のためにっ……」
葵くんは目元を袖でさっとひと拭いした。
「山で終わらせたかったわけじゃない。
そんな事、真白は絶対しない。
……虹を、探しに行ったんだろう?」
「……うん。うん!」
葵くんが私の気持ちを全部言い当てる。
会えなくても、想いは届いていたのかな……
私達、離れても心は繋がってた?
ずっと寂しさに耐えていた心が喜んで胸を温める。
「純平と彼女……真白の友達、皆で駆けつけてご両親説得して。美術室も使わせてもらったんだ。純平達は仕上げた後、俺に任せて帰ったけど心配してるから、早く教えてあげなきゃな」
純平と若菜に柚子、皆の顔が思い浮かんで切なくなった。長年の友情が今一度、真髄に沁みる。
私は……幸せ者だ。
再び溢れる涙を優しくすくって、私の頭をそっと撫でる。和らげな目線はやがて伏し目がちになり、葵くんは顔を曇らせ声を震わせた。
「ごめんな……
全部俺のせいで、ずっと謝りたかったんだ。何もしてやれなくて悪かった」
「な、んで……私が……」
「ほんとっ……このまま……
目覚まさなかったらどうしようって……」
葵くんが萎れたように縮こまる。
そんな枯れた向日葵みたいにうなだれないで。もうすぐ葵くんにぴったりの季節が…………あれ?
「……今日、何日?」
ふと時間の経過を気にしてみたら、もしかして……と脳裏を霞めた。
「……7月……2日」
回答を待ちわびる私の視線に、葵くんは狼狽えながら返事をくれた。
私の予想が当たって、天の巡り合わせに可笑しさがこみ上げる。
「……あはっ。―――誕生日、おめでと」
去年の山登りの日に言えず後悔したこと、今年は言えた。今、ひとつ夢が叶った。
くしゃくしゃの顔をした葵くんが「サンキュ」と照れて、困って、喜んだ。
私、生きて―――良かった。本当に良かった。
今の自分でも、誇って生きていこう!
そう心から思えた。
新しい世界に目覚めて、たくさんの思いやりを感じて。未来のひと欠片を見つけた、そんな予感がした。
☆☆☆
木陰の奥からツクツクボウシの鳴く声が耳に届いて、秋の訪れを感じさせる。
お日様がふりそそぐ病院の中庭。
葵くんが車椅子を押して連れてきてくれた。
ロックをかけると私を残して芝の上をスタスタ駆けて行き、立ち止まって振り向くと両手を広げた。
「ここまで頑張れたらイイモノあるよ」
いたずらに自信たっぷりな力強い目線。
どんな不安も恐怖も払い除けて、私が安心して歩けるよう導いてくれる……まるで宵空の瑠璃色に輝く一番星。
入院して2カ月、私には奇跡が起きていた。
怪我の後遺症も無く、治癒が早くて予定よりも退院が1か月早まった。
家族と親友と葵くんと、たくさん笑顔の花をくれたおかげだ。
『おいで』の合図に私はゆっくり地面に足を下ろした。
ふるふると立ち上がり一歩ずつ、また一歩、葵くんとの距離を縮めていく。
ふらふらとバランスをとる両手が、早く愛しい光を掴まえたがってる。
あと……もう、一歩っ!
ゴールにタッチするとふわっと体が宙に浮き上がった。
「やったぁ! 何メートル歩けた?」
「5.2メートル」
ぎゅっとして抱きかかえ私をゆらゆらさせながら、葵くんが待ってましたとばかりに喜ぶ。
そして私を立たせると胸ポケットから取り出したのは…………青い星の髪飾り。
「それっ!? 私、山に落として……」
「うん。またプレゼントさせて」
目を丸くする私に葵くんは星をキラッとさせて見せた。さすりと私の横髪をならして留めると満足そうに頬を上げてにっこりする。
滑落の時に外れたんだと思う、失くした事に気付いて暫く落ち込んでた。葵くんにも謝って……覚えててくれたんだ。
嬉しい、が膨らみすぎてもう胸がいっぱい。
喜びと愛しさとこの気持ち……『ありがとう』そのひと声さえ、感情が胸で詰まって言えそうにない。
私は葵くんへ揺るぎない視線と精一杯ありったけの笑顔を向ける。
どうか、伝わって―――想いを込め。
見つめれば……見つめ返して貰える優しい眼差し。
葵くんの瞳がゆらりと潤んで、微笑んでいた唇が小さく振れだすと、ぽすん……と私を腕の中にそっとしまう。
「I love you my angel.
I wanna be with you… forever and ever. 」
ふたりにしか聴こえない、風にもさらわれない至近距離に漂わせたスウィートな声色。
それは、
戸惑いながら……言葉にした告白。
けれど、
私さえ……心配だらけな自分自身。
それでも葵くんの背中に回した両腕は、離れたくないとしがみついていた。
頬をぴったりと胸に擦り寄せ、首を上下にゆっくり2回揺らす。
「俺……真白に……
恋人になって、って言ってもいいの?」
初恋を諦めた未熟な私達が、新しい道の扉を開く。
私にはもうオーラが見えない。共感覚は失ったけれど、恋のクオリアは今もあの頃と同じまま……
私の心は、私の全部は、この世界に燦めきを感じ―――葵くんにときめいている!
「私も、ずっと葵くんが大好きです」
しっかりと顔を見上げて、葵くんの瞳の奥にまでも届くように。
そこに潜んだ、あの夜に公園で怯えていた葵くんにも伝わるように。
臆病な自分を乗り越えて、やっと生まれ変われた気がする。
「ありがとう。大切にするから……」
目の前で明るい向日葵がぱっと咲いた。
こつん、と私のおでこに葵くんのおでこがくっついて。
見つめ合うふたりの視界には、お互いの瞳だけ。
私達、大人になるにはほど遠い。
つまづく事も、間違える時もたくさんあるだろう。
ひとりでは欠けているところも足り無いところも、ふたりでこうして手を取り合って……
真白と葵のクオリアで―――新しい景色に感動しながら、色々な世界を歩んでいけたらいい。
「へぇ、柚子が褒めるとか珍しいね」
一人暮らしの暇つぶしに付き合って、と柚子は頻繁に電話をしてくる。それから……
「今度の休みね、純平の車で遠出しようかって。真白も一緒に行く?」
「……若菜、私そんなKYじゃないよ?」
卒業後にようやく付き合い出した二人。若菜も柚子も相変わらず私のお姉さんをしてくれている。
私の日常は殺風景だったが穏やかに過ごせていた。朝には青空を、夜には星空を、眺められたら……心が満ち足りた気分になる。
梅雨に入るとやっと三人で会える機会が訪れ、隣町にできた新しいカフェに連れて行ってもらう。
テラスがあってモダン調の店内と自然の雰囲気が落ち着くカフェだった。
地元より外へ出たのは久しぶりだし、お洒落な空間での女子っぽい過ごし方に、私の心はウキウキと弾んでいる。
「あ〜、真白に話があって……」
皆でドリンクを口にした後、改まって若菜が気まずそうに切り出す。
何?
と首を傾げて見せると……
「私……純平から神崎くんのこと全部聞いたの」
――――――!!
その名を耳にして胸の奥がざわつく。
でも……うん、大丈夫。
過ぎ去った日々は、目の前の親友の大切さを感慨深く刻んでくれた。
そっと見守って励ましだけをくれた二人に、私は誠意をもって真実を伝えなければ。
「私も……。二人にはいつかちゃんと話したいって思ってたの―――」
高校生の時は……葵くんの話を二人にするのは避けていた、と思う。
初めはたぶん恥ずかしかったから。ずっと絵を描く事が一番好きで、花や自然の色彩より美しいと惚れ惚れする事なんてなかったのに。
あの日、美術室で葵くんの青色に惹かれて……
人が綺麗と思ったのは初めてだった。
一目惚れ、だったんだと思う。
色恋なんて感覚、私にはなくて歯痒かったし。そんな私を二人がどんな色目で見るのか、知りたくなかった気がする。
『部外秘』葵くんとの秘密が、やがて特別になって……
葵くんと私だけの、誰にも知られたくない……気持ちへと変わって二人にさえも教えたくなかった。
自分を振り返って答えを出す。
心を奪われた始まりの時から初恋を自覚して、縺れた恋心が切れるまで。
そして私に共感覚があったことも、全て隠さずに話した。
二人はじっくり私の話に耳を傾けて、足りない事には短い質問をして私の返事に頷きながら……真剣に理解してくれようとした。
若菜はいち早く納得した風な顔で言う。
「……純平が神崎くんに頼まれたって。
真白の事みんなで支えてやってって。
言われなくても当然っ……
真白も辛かったろうけど、彼もいろいろ頑張ってたんだね。も少し何とか……歯車がうまく回ってたらって……あ、無し無し!
それで今の話ね。神崎くん東京の大学通ってて、もっと上の大学に編入したいとか凄く努力してるって」
純平が私に教えてやってと言っていたそうだ。純平のくせにそーゆー仲間想いなとこ、悔しいけどいつも助けられてる。
私も、たぶん彼も……
「うん。そっか……良かった」
ぼんやりと想像した現在の姿が、謝罪の声に描いた彼の苦痛の表情を上書きした。
私の顔つきも同時に柔らかくなる。
けれど……
「何も良くない!」
突然柚子が声を張り上げる。
「柚子?」
覗き込んだ柚子の顔はくしゃくしゃだった。
「何で二人は一緒にいれないの?
彼だって事件から一度も学校来てなかった。卒業式も出てないし。
真白のこと一番に考えてたからでしょ。真白は最初っから彼を庇って全部自分のせいって……
そこら辺のバカップルよりよっぽど想い合ってるのに、どうして二人はそばにいられないの?」
柚子が涙をペーパーで押さえながら、白目も鼻も赤くして泣きながら怒っている。
結ばれない理不尽さを嘆いて、私の心の奥を揺さぶる。
そばに……いたかったな―――。
柚子の涙が私と若菜にも移って、暫く沈黙の中で鼻をすする音だけしていた。
もう散々ひとりで泣き果てて涙なんか枯れたと思っていたけれど、二人が一緒に泣いてくれるのは温かくて優しくてなんか……可笑しかった。
「ハァー、スッキリした!
もう全部話したからやっと思い出にできる……
大丈夫。二人ともありがとう」
涙を拭いてにっこりと笑って見せると二人も同じように振る舞った。
「……真白がいいなら、もう何も言わないよ」
「私も。…………あ、これは私の話だけど。この前ついに純平と初―――」
「「 !?!? 」」
私と柚子は目をひん剥いた。
口籠った若菜を二人してじっと見つめ、柚子の奇声が店内に響き渡ったのはその後の話。
☆☆☆
楽しかったな……と若菜と柚子と過ごした時間を何度も何度も思い返した。この2日間ずっとだ。
過去は変えられないから、どうしようもないと我慢していたけど……
正直じゃない自分に嫌気がしてただけだった。
葵くんが……
頑張ってると聞いたからだと思う。
それは私の中に、小さな芽生えを起こした―――。
星を……青い星を……
机の引き出しの奥から取り出してみた。
去年の大晦日に閉じ込めたきり、手にするのは怖かったんだ。
ほんとは毎日のように、隠した場所を恋しげに見つめていたのに。
そして、受け取ってすぐしまい込んだ卒業アルバムも机の上に。
1ページもめくれなかった思い出を……
今、開く―――。
懐かしさと……
愛おしさ……
留まっていた記憶がめくるめく巡り、大人ぶってた心をイタズラに弾ませる。何を怖がっていたのか不思議なくらい、自然と頬が緩んでいた。
葵くんの笑顔も私の笑顔も、光沢の紙面に焼付けられて……
文化祭で描いた絵を背に二人で撮った記念写真も、あの日の感動を瞬く間に思い起こさせる。
希望に溢れていた時間が……
ちゃんとアルバムに残されていた。
ジワリ……。
目頭が熱くなるのは悲しいからじゃない、嬉しいからだ。
私の思い出はとてもキラキラしてた。
共感覚が無くても、オーラが見えなくても、その瞬間の表情で感情を読み取れるし伝わるんだ……
オーラは確かにその時々で変化するもの。私は色に魅せられすぎて、大事な本質そのものを見落としていたのかもしれない。
良かった、目を背けたままにしないで。
大事にアルバムを閉じて青い星に微笑みを―――やっと素直に見つめることができた。
葵くんの……アイコンはまだ変わっていない。
スマホの画面左側に並ぶ丸い縦列の中で、私の描いた向日葵は咲き続けている。
そろそろ、私も新しい道を進んで―――
大丈夫だよ……
会えなくても伝わるといい。
☆☆☆
何かずっと体の中で引っかかっていた物が吹っ切れた、のだと思う。
翌朝の目覚めに、少し燦めいた夢色を見た気がした。
長雨が上がった空は太陽が眩しく光っている。
湧き上がる衝動に任せ訪れた場所は……
大原山。私は青い星を髪に留め登山口に立った。
もうすぐ一年が経とうとしている。葵くんと一緒に、ここで奇跡の光景を見てから。
「よし!」
力強く一歩を踏み入れた。
前日までの雨をたっぷり潤した草木達が、陽射しに照らされてキラキラ輝いている。
星屑を撒いたみたいな緑の絨毯。
一面に広がるその景色は、心をすうっと透過させて足取りを弾ませた。
明るい遊歩道は進路を無くしていた私にとって、特別な期待感を与えてくれる。
この道を進んで行ったら、その先に欲しい物が見つかるような―――希望?
そうだ、思い出した!
前回もここを歩きながらキラキラした光に胸を躍らせて……私達、希望を探していたんだよね。
鼻歌を口遊む懐かしい残像を行く先に映し出してみたりした。
清々しい気持ちで……。余裕があったのはさっきまで。疲労感がのしかかってきた。
体力が落ちたからもう息があがっている。中腹付近ですれ違う男性が親切に声をかけてくれた。
「ひとり? 上の方は雨でぬかるんでたから気をつけて」
「ありがとうございます」
登山服を着こなしたベテランのようだ。にこやかに颯爽と下山して行った。
確かに道は湿っていて足も重く感じる。さっきまで太陽は眩しいくらいだったのに、木洩れ日も無くなり足元は暗かった。
他に登山客も見あたらないで、ひとりぼっちが急に寂しさを纏う。
それでも私は……
あの時と同じ場所に立ちたかった。
何か……何か、見つけたい!
今日ここへ来たかったのも、そんなちっぽけな望みを抱いただけ。
でもその小さなひと粒にも縋りたい……じゃないと、いつまで経っても未来を描けない気がして。
願うような祈るような気持ちで登り続けた。
「はぁっ……はぁ……」
息を切らして到着した雨宿りの木。
休まずに道を外れて目的の場所へ……
一歩ずつ踏みしめる地面はぐにゃっと足を飲みこんで沈ませる。ゆっくりと抜け出して、また一歩もう一歩。
自然の窓は……まだそこに存在してた。
陰った樹々の下、幹の枝が大きく開けている箇所がある。四角い吹き抜けみたいで空に近いぶん際立って明るい。
そこから覗いた景色はいつも完璧に仕上げた風景画だった。
だから、今回も……
期待を込めて窓の外を見つめてみたが、町並みどころか灰色のくすんだモノトーンの靄しか映し出されなかった。
何もない私には、何も見つけられない―――。
じっと暫く立ち尽くし……
浅はかな自分探しの旅を恥じて、無力さに打ちひしがれる。
せめてもう一度……
私はそっと目を閉じて心を開く。
記憶を呼び起こし、ここで見た奇跡の思い出を瞼の裏に描いてみた。
……燦めいた空が撒いた雨粒は太陽の光を浴びて、キラキラ降りそそぐ星屑のように―――
そして七色の鮮やかな虹が空いっぱいに広がって、まるで天が掲げた歓喜の大旗かと心が震えた―――。
それは特別だった、幸運だった、二度と見れるはずがない。
葵くんとふたりで起こした奇跡なんだ。
期待は諦めて、見開いた現実の視界に……
ひらひら、ゆらゆら。
すっと入り込んできたのは蝶々。青い羽のアゲハチョウだ。
瞬間的に脳がふらっと……揺らめいた。
蝶の羽ばたきは上下に強く、行ったり来たり青い軌道を宙に残して―――遠い記憶のひと欠片と重なり合う。
ぽおっと、夢の中に連れ込まれたかのように意識を奪われた。
何か、胸騒ぎがする。
なんだか迷子になってるみたいに飛ぶ青い蝶に、何故か私は手を伸ばして……
「だめっ!」
足は勝手に蝶を追いかける。
そっちはクモの巣があるのに!
捕らわれてほしくない。自由に羽ばたいていてほしい……
その青い色をもっと見ていたいの。私はまた色にときめく世界で生きてみたい―――!?
美しい青色の羽は…………サァーッと消えていってしまった。
―――いつ眠ってしまったのだろう?
朧気な頭で目を覚ますも、真っ白な天井は……!?
ここ、どこ!?
私の部屋の天井じゃない。
この白い天井、前にも見たことある。
ここは……病院だ。
―――あ、そうか。そうだった。
私、ベットに寝たきりだった……
動けない。
蝶を追って足元が疎かになり一瞬の内に滑落した。
〈死〉を覚悟した後の意識はなく……
〈生〉を実感した時は力無く瞼も開けれずに……
傍らにいるだろう両親の話声だけが脳内に届く。
『何でこんなことにっ……
どうして一人で山なんて行かせたんだ!』
『違ったのよいつもと!
出かける時は生き生きした顔して……
まさか身投げするなんてこれっぽっちも』
『脳に異常は無いにしても……
骨折に打撲、後遺症でもあったりしたら……
俺みたいになったらどうするんだ……』
『……やめましょう。大丈夫、奇跡を願うしか』
―――違うの、お父さんお母さん。
私……ダメだね。
一度足を踏み外したらなかなか這い上がれないって……本当だ。
たぶん、奇跡を起こしたかったの。
そんなの無理なのに、欲張りしたから罰が当たったのかな。
蝶一匹助けられないで、自分で自分を傷つけて、周りの人に迷惑かけて。
命拾いしたみたいだけれど、身体は動かせそうにない。どうなっちゃうのかな……
もしかしたら……私も、お父さんと同じように……?
私が助けてあげなきゃいけないのに?
私……
永遠に眠れてたらよかった―――。
現実の世界は絶望的な時間を刻むのだと悟り、深く意識が落ちそうになる。その前に……
もう一度だけ、幸せな記憶を見せて。
どうか私が忘れてしまわないうちに―――。
強く、確かにそう願って。
薄れゆく意識の中で最後に見た青色の蝶が、モンシロチョウの元へ飛んでいって、仲良く二匹で宙を舞った。
そのモンシロチョウはきっと、去年の春の日……美術室に迷い込んできた蝶だと思った。
葵くんに一目惚れする寸前に訪れたモンシロチョウ。
描きたい!
頭の中で欲求が飛び出た時にはもうペンを操っている感覚だった。
あの始まりの日に記憶を戻して……夢の中で思い出を再生していたんだ。
もう現実に、追いついてしまったのね……
全部夢なら良かったのに―――。
幸せも、辛いのも、夢なら良かった。
私の視界には天井しか映らない。空白で、空虚で、何にもない空っぽだ。
瞼が微かに震え、ゆっくり幕を下ろすように光を遮った。
真白の世界は、見ていたくない。
また自分の……心と意識が遠くなっていく。
現実に目を向けるにはもう少し時間が必要みたいだ。
☆☆☆
永遠の眠りにつけなくて、現実に目を覚まさなくてはいけないとわかっているけれど……
瞼を開けるのは怖かった。
白い天井を見るのは嫌だった。
でも……痛い。
痛いけど、動きたい。ジンジンしてるけどムズムズもする。
私の身体、生きようとしてるんだ。
眩しそうな光も瞳で捉えている。
私が生きたいと助けを求めてもいいのか、わからないけれど恐る恐る視界を開いて…………みる。
――――――え?
瞬間、違う世界に目覚めたのかと頭が混乱した。
――――――何で?
懸命に目を凝らして何度も瞼を閉じては開いて。焦点を天井に合わしてみるけれど、はっきりと映るこの光景は……
決して夢幻色ではない!
「……あ、……あっ」
あぁ――――――。
奇跡の虹が、どうして―――?
天井一面に描かれた画が両目いっぱい飛び込んでくる。
水色の空に6色の虹が架かり、黄色い星がたくさん光ってる。
大きな紙……2m✕3m。画用紙を貼り合わせてある。絵の具で色塗りしたのを天井に貼ったんだ。
不可思議の中でもじっくりと観察する癖は失ってなかった。
誰が?
……これを?
その虹の配色も、紙の繋ぎ方も、一緒に考えたんだよね……
虹と星空の、ふたつは一緒に存在できない……
でも、奇跡はちゃんと起きた―――。
ふたりで、見つけたんだよね。
希望を信じて、いいんだよね?
―――ねぇ?
葵くん?
「……ぁお……葵く……」
私、生きてるから……まだ希望を見れる。
素直になって、一番会いたい人を声に出せる―――。
「葵くん。葵くんっ」
私っ、 ―――奇跡を……信じる!
「……っ葵くん!」
むせ返しそうな私の声に続いて、「ガタガタンッ」と近くで響く音。
瞬きの後に突然現れた人影。
垂れ下がる前髪の奥から見える懐かしい瞳は……
「あ、……葵くん?」
「―――真白っ……」
その声……葵くんだ。
涙袋を腫らしてクマを作って、疲れた顔。目頭を寄せて泣きそうに私を覗き込んでいる。
「……葵くん、なの?」
「うん……。そうだよ」
私の頬をそっと撫でて知らずに溢れた涙を拭ってくれる。
優しい眼差しも、少しひんやりした指の感触も、記憶の愛しさと一致する。
本当だ……
本当に……
本物だ。
こんなの、どんどん嬉しくて涙が止まらない!
とめどなく喜びが吹き出した。
葵くんの指が何度も私の頬を擦り、挙げ句には大きな両手に顔を包まれる。
「泣きすぎっ」
葵くんは笑って言うが、大きな一滴がぽろっと目から落ちて。
いっとき私の視界から外れると、急に目の前に現れたのは……私が描いていた虹色の天の川。
「これ、俺に描いてくれた?」
葵くんはキャンバスをどけて顔を覗かせる。
私はコクコクと動かせるだけ首を上下に。
「美術室に残ってたんだ。裏のサイン……
〈 幸せなアオイ世界 〉って。
俺も、何が何でも真白のためにっ……」
葵くんは目元を袖でさっとひと拭いした。
「山で終わらせたかったわけじゃない。
そんな事、真白は絶対しない。
……虹を、探しに行ったんだろう?」
「……うん。うん!」
葵くんが私の気持ちを全部言い当てる。
会えなくても、想いは届いていたのかな……
私達、離れても心は繋がってた?
ずっと寂しさに耐えていた心が喜んで胸を温める。
「純平と彼女……真白の友達、皆で駆けつけてご両親説得して。美術室も使わせてもらったんだ。純平達は仕上げた後、俺に任せて帰ったけど心配してるから、早く教えてあげなきゃな」
純平と若菜に柚子、皆の顔が思い浮かんで切なくなった。長年の友情が今一度、真髄に沁みる。
私は……幸せ者だ。
再び溢れる涙を優しくすくって、私の頭をそっと撫でる。和らげな目線はやがて伏し目がちになり、葵くんは顔を曇らせ声を震わせた。
「ごめんな……
全部俺のせいで、ずっと謝りたかったんだ。何もしてやれなくて悪かった」
「な、んで……私が……」
「ほんとっ……このまま……
目覚まさなかったらどうしようって……」
葵くんが萎れたように縮こまる。
そんな枯れた向日葵みたいにうなだれないで。もうすぐ葵くんにぴったりの季節が…………あれ?
「……今日、何日?」
ふと時間の経過を気にしてみたら、もしかして……と脳裏を霞めた。
「……7月……2日」
回答を待ちわびる私の視線に、葵くんは狼狽えながら返事をくれた。
私の予想が当たって、天の巡り合わせに可笑しさがこみ上げる。
「……あはっ。―――誕生日、おめでと」
去年の山登りの日に言えず後悔したこと、今年は言えた。今、ひとつ夢が叶った。
くしゃくしゃの顔をした葵くんが「サンキュ」と照れて、困って、喜んだ。
私、生きて―――良かった。本当に良かった。
今の自分でも、誇って生きていこう!
そう心から思えた。
新しい世界に目覚めて、たくさんの思いやりを感じて。未来のひと欠片を見つけた、そんな予感がした。
☆☆☆
木陰の奥からツクツクボウシの鳴く声が耳に届いて、秋の訪れを感じさせる。
お日様がふりそそぐ病院の中庭。
葵くんが車椅子を押して連れてきてくれた。
ロックをかけると私を残して芝の上をスタスタ駆けて行き、立ち止まって振り向くと両手を広げた。
「ここまで頑張れたらイイモノあるよ」
いたずらに自信たっぷりな力強い目線。
どんな不安も恐怖も払い除けて、私が安心して歩けるよう導いてくれる……まるで宵空の瑠璃色に輝く一番星。
入院して2カ月、私には奇跡が起きていた。
怪我の後遺症も無く、治癒が早くて予定よりも退院が1か月早まった。
家族と親友と葵くんと、たくさん笑顔の花をくれたおかげだ。
『おいで』の合図に私はゆっくり地面に足を下ろした。
ふるふると立ち上がり一歩ずつ、また一歩、葵くんとの距離を縮めていく。
ふらふらとバランスをとる両手が、早く愛しい光を掴まえたがってる。
あと……もう、一歩っ!
ゴールにタッチするとふわっと体が宙に浮き上がった。
「やったぁ! 何メートル歩けた?」
「5.2メートル」
ぎゅっとして抱きかかえ私をゆらゆらさせながら、葵くんが待ってましたとばかりに喜ぶ。
そして私を立たせると胸ポケットから取り出したのは…………青い星の髪飾り。
「それっ!? 私、山に落として……」
「うん。またプレゼントさせて」
目を丸くする私に葵くんは星をキラッとさせて見せた。さすりと私の横髪をならして留めると満足そうに頬を上げてにっこりする。
滑落の時に外れたんだと思う、失くした事に気付いて暫く落ち込んでた。葵くんにも謝って……覚えててくれたんだ。
嬉しい、が膨らみすぎてもう胸がいっぱい。
喜びと愛しさとこの気持ち……『ありがとう』そのひと声さえ、感情が胸で詰まって言えそうにない。
私は葵くんへ揺るぎない視線と精一杯ありったけの笑顔を向ける。
どうか、伝わって―――想いを込め。
見つめれば……見つめ返して貰える優しい眼差し。
葵くんの瞳がゆらりと潤んで、微笑んでいた唇が小さく振れだすと、ぽすん……と私を腕の中にそっとしまう。
「I love you my angel.
I wanna be with you… forever and ever. 」
ふたりにしか聴こえない、風にもさらわれない至近距離に漂わせたスウィートな声色。
それは、
戸惑いながら……言葉にした告白。
けれど、
私さえ……心配だらけな自分自身。
それでも葵くんの背中に回した両腕は、離れたくないとしがみついていた。
頬をぴったりと胸に擦り寄せ、首を上下にゆっくり2回揺らす。
「俺……真白に……
恋人になって、って言ってもいいの?」
初恋を諦めた未熟な私達が、新しい道の扉を開く。
私にはもうオーラが見えない。共感覚は失ったけれど、恋のクオリアは今もあの頃と同じまま……
私の心は、私の全部は、この世界に燦めきを感じ―――葵くんにときめいている!
「私も、ずっと葵くんが大好きです」
しっかりと顔を見上げて、葵くんの瞳の奥にまでも届くように。
そこに潜んだ、あの夜に公園で怯えていた葵くんにも伝わるように。
臆病な自分を乗り越えて、やっと生まれ変われた気がする。
「ありがとう。大切にするから……」
目の前で明るい向日葵がぱっと咲いた。
こつん、と私のおでこに葵くんのおでこがくっついて。
見つめ合うふたりの視界には、お互いの瞳だけ。
私達、大人になるにはほど遠い。
つまづく事も、間違える時もたくさんあるだろう。
ひとりでは欠けているところも足り無いところも、ふたりでこうして手を取り合って……
真白と葵のクオリアで―――新しい景色に感動しながら、色々な世界を歩んでいけたらいい。