『クリスマスに会おう!』
葵くんは電話の最後、25日バイト後に学校へ行くと言った。私は美術室で待ってる、そう伝えて。
クリスマスプレゼントに出来たらと、星空の絵を完成させた。
けれど。
クリスマスは待ちぼうけ。
帰宅時間のリミットを迎え、結局葵くんと会えなかった。
絵を裏返してサインを……
キャンバスはイーゼルにのせたまま美術室を後にする。
いつもは教室机ほどのキャンバスサイズで描くけれど、星空の絵は二回り小さめだからか。イーゼルにちょこんとして置き去りにして見えるのが物寂しくもあり……
私の気持ちと同じなのかもしれなかった。
メリークリスマスも言いたかったし、プレゼントもしたかったし……会いたかった。
期待してた願望をぎゅっと胸の中で縮こめる。
どうやらバイトは忙しくて葵くんは残業だったらしい。電車を降りて田原駅で母の車を待つ間、何スクロールもする謝罪スタ連にあって私は吹き出す。
寂しかったけれど次を待ち焦がれる気持ちが、星空の絵に良いアイデアを浮かばせた。
もっとたくさんの星を、描きたしてみようか?
葵くんの元気と希望と幸せを願うぶん。天の川みたいに……
『虹の天の川』葵くんは私の描いた奇跡の虹をそう表現していた。
虹色で天の川を……うん、それがイイ。
私の中のクオリアがキランと閃く。
見えたモノを模写するのではなく、発想したり構図を考えたり。より感動してもらえる作品を描けるようになりたい。
推薦の失敗を克服するための挑戦だ。年末の学校閉鎖前日まで父の出勤に便乗し、星空の絵を再び描きに登校した。
帰宅時間までもう少し。最後の仕上げに入って、塗った油絵が始業式までには乾いてプレゼントできるだろう。そんな予測を立ててあとひと直し、机上の画材から慎重に鞘を握りしめた時……
何か気配を感じ取った。
耳が騒がしくソワソワして……
近づいてくる乱雑な音の方向へ、教室の入口に視線を向けた。
「!?」
ガタンッ!!
と大きな音をさせてドアを押さえ付け私を睨みつける男。
私の呼吸を奪う殺気。
その男に渦巻く真っ黒なオーラに危険より恐怖が私を瞬時に支配した。
「あんたがカンザキアオイの女?」
「!!」
その名を耳にした途端、自己防衛本能が働いて椅子から即座に立ち上がり……1、2、3歩後退りする。
右手は後ろに隠してずっと掴んだままより強く握り締めた。
「カンザキって奴の居場所聞きに来たんだけど、さっき捕まえた小森ってのがここで絵描いてるのが彼女だっつーからさぁ」
ハイトーンの金髪まじりにギラッとしたピアス、獣色のファーのフードがついた黒いコート。明らかにここの生徒じゃない。
ガラの悪い男は語尾を吐き捨て教室に響かせると踏み込んで来た。ジャラジャラ音をさせてズケズケと向かってくる。
誰!?
なんで葵くんを??
彼女って、ワケがわからない!
この人どうしてこんなキレてるの!?
小刻みに震える体が逃げ道も探せずに、もう……どうしていいのかわからない!
怖い……怖いっ!
でもっ。
葵くんがこの人の標的なら、私が、私がくい止めなければっ!!
「―――来ないでっ!!」
男に向かって素早く右手を突き出した。左手を添えて両手で持つ。
一瞬怯んだ男はその刃先の手前でピタッと止まった。
絵の具を削る為の彫刻刀、咄嗟に自分を守れると握り続けていた。
人に向けるのは……恐ろしく、怖い。
「……おっと、ヤメといたら? ビビリすぎだし」
男は両掌を見せて攻撃しないと示すも、私の刃がこけおどしだと見透かしている。
だって私は息もうまく吸えないし瞬きもできない!
「俺はカンザキって奴と話がしてーの。
シオリがソイツと付き合うから俺と別れたいって」
「えっ!?」
「知らなかったって顔だな。俺もカンザキに女いるって知ってキレそうなんだけど?」
ビクンッと体が跳ねた。
男のオーラが黒い刃みたいに私の刀より大きく尖っている。ジリジリと怒りを私に向け、一歩ずつ詰め寄ってくる。
距離が……
下がってもたじろいでも縮まってく……
「あんたカンザキに二股かけられてんだよ? 残念だったね、嘘つき野郎に騙されて」
ブンブン首を横に振ったけれど、言葉の刃が不安の結界を裂いて脳裏の片隅を過ぎる。
クリスマス……残業じゃなくて……
葵くん、シオリさんと……?
私の刃物は役に立たなくて、近寄る男を傷つけないよう腕が縮こまる。気付けば教室の奥まで後退りしていた。
苛立ちの膨張か、男の黒いオーラがぼわっと私に吹きかかる。
「なんか言えよ!!」
バンッ!
男は鬱憤を机にぶつけた。
「きゃっ……」
目を瞑ってよろけた体はイーゼル置場になだれて足がもつれ、「ガタガタン!!」と大きく音を立てて崩れる。
態勢を保てず糸が切れた操り人形のように、私も一緒に木脚のなだれにのみ込まれた。
「っ!!」
強烈な痛みが一瞬走り抜ける。
視界に飛び込んできたのは……滴る赤い血。
私の右掌を一筋の真っ赤な線が通り、鮮血が滲み溢れてくる。
「はっ!! いゃっ、あっ……はぁっ……」
驚きのあまり息を呑んで、止まらない血をじっと凝視しては益々呼吸が乱れ狂う。
「はっ……はっ……んっ……」
血が―――。痛い―――。
ジリジリまるで手が燃えるように見えて……
ぷるぷると右手は震えだし頭のてっぺんから血の気が引いていく感覚に顔面が引き攣り始めた。
そんな私に男は言い捨てたんだ。
「アイツのせいだぞ! 全部カンザキのせいだ! 恨むなら奴を恨めよ!」
そして、ジャラジャラ遠ざかっていく音。
苦しい息の中で耳にする不規則な金属音が、やたらと不快に響き渡り余計に空気を汚し苦しめる。
急激に私の中に沸いてきた、怒り。
声が出せず息も吸えず……心で叫ぶ。
葵くんのせいじゃない!
絶対違う!
葵くんは悪くない!
なんにも悪くない!
葵くんは、葵くんは――――――。
目の前が真っ黒と真っ赤に渦巻いて、そこで私の世界は……暗闇に落ちた。
―――意識を取り戻した時、随分白い光景ばかりだと思った。違和感のある右手を視界に入れれば、包帯でぐるぐる巻にされていて、どうしてこうなったのか……徐々に思い出して気が滅入る。
やたらと重たい体を起こすとここが病院だとわかった。ベットの上から足を下ろした時、「おっ! 起きれたか?」と現れた声主を見て(先生)と発声しようとしたが……。
急な目眩が起きて床にペタンと尻もちをつく。
頭がふらふらする、慌てる先生に伝えると入院することに。暫くして母が来て、次いで女性警察官が事情聴取に訪れた。
事件の重大さを改めて思い知る。あの男は警察で身柄を拘束中と……
「侵入者はあなたが先に刀を突き付けたと言っていますが本当ですか?」
「……そう、です」
ベッドで横になったままでいい、初めに言われて私は天井を見ながら聴取に答えていた。
「話がしたかっただけなのに脅されたと……」
「違いますっ」
思わず警官に強い視線で訴える。
脅かしたのはあの人だし、あんなに殺気立った黒いオーラはどう狂ってもおかしくな……
オーラ……っ!?
目を見開いて警官のオーラを見ようとしたけれど……見えない。
―――見えてこない!?
何で!?
「具体的に何かされましたか?」
「…………っ、…………」
首を傾げる警察官をどんなに見ようと、色は出ていない。
カタカタカタ……。
小刻みに震える音が耳と頭に響く。
自分に起こった異変を認めたくない、反論する言葉も声にできない、葛藤と屈辱を奥歯が噛み殺していた。
泣きたいくらい悲しくなって、震えは全身に広がっていく。
「……大丈夫。怖かったんだもんね」
母がピタッと寄り添って私の腕を擦る。
目眩の原因を突き止めた。
共感覚が無いからだ。
オーラが見えないから―――人が視界に入るとふらっとする。
いつもの、いつも私が見ていた世界じゃない。
それは体の一部を喪失してしまったようで――――――。
虚しさと気怠さに襲われていた。
検査の結果は異常なし。退院し帰宅前に聴取の結論を聞く……今回は厳重注意。
シオリさんはあの男の暴力に悩んでいて別れたかった。事情を知った葵くんが囮になる協力を提案。新しい彼氏候補として葵くんを利用してしまったと……シオリさんから私への謝罪も伝え聞いた。私を救護してくれたのは、暴力男を追いかけてきたシオリさんだった。
私が急に押しかけてシオリさんにアリバイを頼んだ時、見えた影の原因はあの男だ。きっと葵くんは……私の代わりに……アリバイやコートの御礼をしたかった。そうじゃなくても辛い目にあっているシオリさんを助けたかった。そういう経緯だろう。
シオリさんがDVの被害届を提出し和解のもと取下げ、事件化されず学校下の事故として処理された。私への様々な配慮がなされたのだろう。ただ……
「もしあなたが成人していて、自ら刃物を向けたら……罪を逃れられないと承知しておいてください」
私はまだ子供だから許されたのかもしれなかった―――。
家に帰っても無気力なまま部屋に籠もり、充電切れのスマホに気付いたのは次の日。
スタンドに立てて赤ランプが点灯すると暫くしてバイブした。
「!!」息を呑む。
向日葵のアイコンと『神崎葵』の文字。
着信だ。
……とても話せる状態じゃ、ない。
私の声は、聞かせられない。
だって今の私は前と違うと思うから。
手の傷も無かった事にできないし、元気だよとも言えない。
唇を噛み締めて、左手はぎゅっと閉じて応答しないように。包帯で巻かれた右手は小さく震えていた……。
私しか居ない部屋で息も潜めている内にスマホは静かになった。通知を確認すれば鬼電に未読のトーク件数、葵くんに若菜に柚子。
ダメだ……
何をどう説明していいのかわからない。
どうしてこんなことになってしまったんだろう―――。
頭を抱え右に左に泳ぐ眼は、机の上でポツンと光る宝物に釣られてしまう。
キラキラの青い星を隠すみたいに、慌てて引き出しの中にしまった。
私が愛おしく見つめてはいけない、モノになった気がして……違う。
私が、私自身が変わってしまったんだ。
今日は大晦日。もうすぐ今年が終わろうとしているのに、私はずっと自分を見失ったまま……元に戻れない。
じゅうぶん家で休んでも、目眩がしなくなっても、待っていたけど共感覚は戻ってこない。
このまま私の時間だけ、止まってしまうんじゃないかと怖かった。
新しい年の最初の日に目覚めた私は、夢色を見ていなかった。
めでたい正月の華々しさも、一切感じない。本当なら朱橙黄色に星屑のキラキラを纏った、初春色で溢れる世界を見ていたはずなのに。
でも父が、いつもよりにこやかで優しい表情を向けてくれるから……私はオーラを探れなかったけれど、愛情はしっかりと感じ取っていた。
感謝しなきゃ。母にも。
新年の挨拶の電話を受けているのだろう母が私を不安気に見る。
「純平くんが真白と話したいって言ってるけど、どうする?」
腑抜けていた体にピリッとした刺激が走る。私が皆の連絡に応答しないから、当然だ。
「っ……。お母さんから話してくれる?
全部話して。それで若菜と柚子にも純平から伝えてほしい。
それから……神崎くんにも」
「……わかった。全部ね?」
「うん。心配してくれてるから」
これでいいと、このときは思った。このときはこれが精一杯だった。
もう少し私が落ち着いて冷静さを取り戻せたら……皆とも向き合える術が見つかるはず。
そう思っていたけれど――――――!!!
「突然押しかけてすみませんっ。神崎葵と申します」
その声は扉を突き抜け私の心臓も貫いた。
三が日を過ぎ正月休みも明けようとする時、純平が葵くんをうちに連れて来たのだ!
私は自室のドアにへばりついて、階段下の玄関の様子に全身の意識を集中させていた。
このドアを開けば……
開ければいいだけなのに、どうしてもできない!
「全部俺のせいです。彼女に……謝罪させて貰えないでしょうか?」
あぁ、葵くんだ……葵くんの声だ。
こんなに近くに、葵くんがいる。
目を閉じてドアの向こうの葵くんを思い浮かべる。険しい顔をして、また眼の下にクマを作っているんだろうな。
知ってたのに……
葵くんは律儀で誠実な人だって。
私がシオリさんに助けを求めたから借りを作った。
私のせい、なんだよ。
葵くんが代わりに御礼をしてくれた、そうでしょ?
シオリさんが酷い事をされてたら悲しいし、もう影に苦しまなくて済むなら、良かったって私思ってる。
葵くんのせい、じゃないの。
そう、この扉を開けて言うだけなのに!
どうしてできないの!?
怖い―――。
葵くんの辛い顔を見ることも……、オーラが見れないことも。
「娘は静養中でね。これ以上負担をかけたくないんだ。謝罪は必要ないよ。君が悪いとは聞いていないし。
事を荒立てず将来の道筋をつけるのが大事な時だろう? 娘の事も放っておいてあげてくれないか?」
「おじさん……お願いっ。
こいつ悪い奴じゃないから、俺が保障する! ホントイイ奴なんだ。ほんの一瞬でいいから、扉越しでも……ダメ?」
「純平、悪いが連れて帰ってくれんか」
父の口調が怒っているように聞こえる。
違うの……葵くんは悪くない。私が……
「……ぅ……んっ……」
どうして声が出ないの!
どうして一歩も動けないの!!
「大変っ申し訳ありませんでした!」
―――っ!?
ドアを飛び越え耳に届く、葵くんの謝罪に……痛烈な罪悪感が走り抜けた。
深々と父に頭を下げたんだろう。
私が、そうさせた。
「……ごめん、ごめんね。……葵くん……ごめん、ごめっ」
ズルズルとおでこをドアに擦りながら、繰り返し唱えへたり込む。
私が葵くんに罪を与えてしまった……
葵くんはやっと希望を掴みかけたところなのに。
私が幸せの芽を奪ってしまったんだ!
あの瞬間、刃を選んだ臆病な自分を消してしまいたかった。
扉ひとつ、越えられない臆病な自分が酷く嫌いになった。
もう嫌だっ……
全部私のせい!
葵くんを苦しめてるのも私!!
顔向けなんてできないよ……
「うっうぅ―――んっうぅっ」
バタンと玄関が閉まる音を耳にして、私は一層小さくなり押し潰した声で泣きじゃくる。
初恋がこんなカタチで終わるなら『好き』なんて―――最初から閉じ込めておけばよかったんだ。
☆☆☆
父も母も葵くんの訪問が無かった事のように、私に普通に接してくれるし何も言わない。
たぶん……
私達に友達以上の何か、を勘付いている。
けれどその上であれこれ確認することもなく、私の心情を静観しているのだろう。
私が葵くんともう関わらない決断をしたこと、わかっているのだと思う。
なるべく平静を装って快復してきたのは、休めていた右手。傷も塞がったし不自由さも無くなった。傷口が突っ張った感覚はあるが鉛筆を持てないことはない。
試してみようか……受験、すぐだし。
スケッチブックを広げて青鉛筆を持つ。筆先を下ろすも……
「あれ?」
そこから、動けない。
もう一度、振り下ろすが止まったまま。
絵……
どうやって描くんだっけ?
何を……描けばいい?
虚無感に押し潰されて紙に模様をつけたのは、ポタポタと落ちた涙の雫。
私……何もできない―――。
―――。
泣きたい時にいつも頭に浮かぶのは……
葵くんで。
今になって葵くんの訪問の意図を悟った気がした。
怪我をした事よりも、描けなくなる事を心配した?
いつも予測して先回りする頭のイイひと。
あの日ちゃんと話をしていたら……
向き合ってひとつひとつ言葉を交わせたなら……
葵くんに励まして貰えたのかな?
あの夜みたいに、優しい白いオーラで包んでくれたかな?
……なんて馬鹿なことを。
どっちも、無理。
もうクオリアは失くしてしまったんだから。
絵も描けないし。
オーラも見えない。
私にできるのは……
後悔の涙をひたすらに流して、サヨナラをする覚悟だけだった。
手の傷は治りかけている。でも心の傷は深くなるばかりで……立ち直れそうになかった。
切羽詰まった受験の申込み。
描く挑戦をしてみるも酷い有り様で……
破かれたペーパーが身の回りに散乱し、そのうち苛立ちでクシャクシャにして部屋中に投げ散らかす。
実技試験のある志望校にとても志願できるわけなく、締切日を見送った。
挫折をひとつ、ふたつ、重ねて……。
ただ時間だけが過ぎていく―――。
「今はゆっくりでいいと思うよ? 無理し過ぎても自分を見失うし。まだ若いんだから」
2月11日、18歳の誕生日に母が言った。
深々と冷え込んだその夜、ちらちらと雪が降り始める。冷たい窓をカラカラと開け夜空から落ちてくる雪を掌ですくう。
真っ白な雪の欠片は瞬く間に溶けて消えた。
『お祝いしないとな』懐かしい声が蘇るも、それも儚く消えてゆく。
灰空から降る、真っ白な雪が私なら……
輝く青空に向かって、咲く花が彼で……
ふたつが、一緒に存在できないのと同じ。
雪と向日葵は共に生きれないと―――思い知った。
もう……思い出も、今も、未来も、何もかも諦めていた。
私は失望の中で高校を卒業―――。
卒業式は家にいた……いや、あの日から学校へは一度も行けなかった。
私には二人を見送る事が卒業の儀式となり、先に柚子が旅立ち……1週間後に若菜が地元を去った。
残ったのは私だけ―――。
桜が散り……
新芽が育ち……
私には春色を待てども訪れること無く、あっという間に緑の季節がやってきた。