「梶くん、ベットに戻る?」

 ソファにうなだれて座っている彼に、声をかけた。

 目の前にひざまずいて、梶くんの顔を覗きこむ。

 梶くんがゆっくり目を開けて、私を見た。

 こうやって見つめ合って……梶くんが何を思っているのか、何を望んでいるのか、読みとってみる。

 梶くんの声は……しばらく、聞いていない。

 声だけじゃない。

 梶くんが自分の意志で、出来る事が……ほとんどない。

 今は梶くんと見つめ合うひとときが、私にとって何より大事になっていた。

 少しだけ動く顔の表情で、意思を図る。

 うん。
 梶くんはうなずいた、と思う。

「春見さん呼んでこよっか」

 私の問いかけに、梶くんが、かすかに微笑みかけた……

 そのとき―――

「はっ!!」

 一瞬で梶くんの意識が落ちた!

 ダラーンと倒れこんできたのを、両腕で抱えとめた。

「梶くん! 梶くん!?」

 完全に脱力してる。
 何の反応もない。

 しっかりぎゅっと支えてないと倒れちゃう!

 どうしよう!?

 梶くんが……
      梶くんが!!


「はっ、春見さん!  春見さん!!」

 私は梶くんを上半身で抱えながら、春見さんを呼ぶ。

 お願いっ。

 早く!
 早く、梶くんを……


「はぁ、
    はぁっ、
        っ春見さぁあん!!!」


 狂気の混じった叫び声だったと思う。
 ちからいっぱい大声をあげた。


 助けて!
 お願いっ、梶くんを助けて!!

 ぎゅうぅっー……。


「あ!春見さ……」
「ベットに」

 気付いたときには、春見さんが梶くんを支えてくれてた。

 ふたりで梶くんをベットまで運ぶ。

 他の看護師さんも入ってきて、私は邪魔にならないよう、隅にゆらゆらと離れた。

 何もできずに……。

 ただ祈るしか、見守るしかできない。

 黙って、息を荒らげに吸っては吐き、息を止めてた場面もあったかもしれない。

 慌ただしかった光景が、ゆっくりと動き始めた頃。

 意識がもうろうとしてきて……
 私は立っているのがやっとだった。

 そうして、春見さんの声が近くで……

「大丈夫。気を失っただけ。
 呼吸も心拍も安定してるから―――」

 途中まで聞こえていたのに……

 あ……ダメ。
 これだけはしたらいけないって……

 私の張りつめていた糸が……
 プツン、と切れた――。


 ―――お願い、梶くんを助けて……


☆☆☆


「梶くん!」

 パチッ。
 自分の声で目が覚めた。

 どこ? ……ここ?
 はっ!
 梶くんは!?

 起き上がろうとして、横から押さえつけられた。

「ストップ!」
「……お母さん!?」
「点滴うってもらったから、動いちゃダメ!
 じっとして、もぉ少し横になってなさい!
 まったく、いつも言ってるでしょ!?
 ごはんはしっかり食べなさいってぇ!!」

 あー、お母さんだ。
 お母さんを引っぱり出してしまった……。

 梶くんは眠ってるから安心して、って。
 母の弾丸は、それで締めくくられた。

「はぁー……良かった……」

 じんわり涙が出そうだ。

「凜。あんたが付き添いしてる、ホスピスの同級生って……梶くんなの?
 中学の時、ご両親亡くなった梶くん?」
「……うん」
「……だから、優一さんと別れた?」
「知ってたの?」
「なんとなくね……」
「……ごめん。話しずらかった」

 「馬鹿ねぇ……」ボソッとつぶやく母の声がした。

 恥ずかしくて、お母さんの顔……まともに見れない。

 きっと残念がると思った。
 婚約までして別れるなんて。

 色々期待させるだけさせて……親不孝の大馬鹿でしかない。

 「はぁっ」母が短いため息をひとつ。
 お説教の合図だ。

「私ね……中学の頃、あんた頑張って忘れようとしてたから、話せなかったんだけど……
 梶さんと学校の役員してて、よく話をしてたの。お葬式も行ったわ」

 ……え?
 怒ってるんじゃ、ないの?

「……今でも覚えてる。
 “ 息子が生きがいなの ” って梶さんの言葉。すごいと思った。堂々と他人に言えることじゃないもの。なかなか、いくら親でもね。
 ……梶くんは、とっても愛されてたのよ。
 ご両親に大事にされてたの」
「……うん。うん」

 顔を手で隠して、うなずくしかできない。

「お母さん、最後までお見送りしたけど、梶くん立派だったわ。おばあちゃん支えてさ……あんな、いい子が……なんで息子さんまで……」

 お母さんの声はかすれて、私の涙も、流れるのを止められなかった。

「ご両親のぶんまで、最期まで、大切にしてあげなさいよ……」

 母が鼻をすすりあげて言った。

「……いいの? 私、婚約までして、恥かかせること……」
「恥なんてかいてナンボよ! 言っとくけど! 凜のこと、恥だなんて思ったこと一度もないわ! お父さんのことだって、どれだけ頼りになったか……。凜の選んだ道を、私は応援するから。いつだって味方よ」

 ……ボロボロで、ぐちゃぐちゃだ。

「ありがと……ありがとう」

 何回言えば、お返しになるんだろう……
 母が私の腕をさすった。

「梶くんが、凜の “ かけがえのない人 ” なのね」

 ……かけがえのない? 

 そうか!
 だから、誰とも比べられない、たったひとりの特別なんだ。

「……昔も今も、梶くんは大事なひと」
「わかった。梶くんのところに、戻るのよね?」

 私は大きくうなずいた。

 梶くんはもう、ロスタイム……
 時間は限られている。

 早く、早く会いに行きたい!

 お母さんは、後のことは任せてと、ぎゅっと腕をつかんで私のもとを離れた。

 勇気をもらって、元気をもらって、私は涙をふいて起き上がる。

 さぁ、また走らなくちゃ……

 今のこの想いを届けに。
 梶くんにちゃんと届けるんだ!


 部屋に戻り、一直線に梶くんを目に入れる。

 梶くんは静かにベットに横たわっていた。

 まだ少し緊張している足で、ゆっくり近づいて、顔を覗きこむ。


 すぅー。 

 ……良かった、本当に良かったっ。
 梶くんの呼吸を確認した。

 そっと、手をとって……じんわり―――。

 ぬくもりを貰い受ける。

 梶くんの体温を感じたら、ガチガチだった私の体がようやくほぐれた気がした。

 床にひざまずいて、しっかり梶くんの手を、両手で包み込む。

 目を閉じて、祈りを捧げた―――。

 私の想い、この気持ち、梶くんにうまく届けられるように……

 どうか、届きますように!


「梶くん、どうしても……伝えておきたいことがあります」

 いっぺんに溢れそうな想いをこらえて、ひとつ、ひとつ、丁寧に告げたい。


「……梶くんは、誰かの為に精一杯走ること。人の為に自分のちからを発揮できること。私に教えてくれました」

 ベットで眠る梶くんを見つめる私の視界に、ぼやけた記憶のスクリーンが重なる。

 次々に映し出されるのは、10年前の梶くんだ。

「情熱も、思いやりも。家族の大切さ、深い悲しみに、別れの痛み……」

 今、ちゃんと、伝えておかなきゃ。

 もう聞こえないまま、届かないまま、梶くんは……

 この世界を去ってしまうかもしれないっ。

「生きることの難しさ。あたり前の日常が贅沢なこと。ありふれた生活が輝いていること。命の尊さ。
 ……全部、教えてくれたのは、梶くんです」

 梶くんの背中を追いかけて、走って、私はたくさん知ることができたの。


「梶くんは、私に…… “ 一生懸命 ” を教えてくれる、かけがえのないひとです!」


 ―――かけがえのない大切なひとです。

 大切なんです…… 

 梶くんの生きる時間が!

 ぎゅうっ、両手に力をこめた。

「いつだって、梶くんの全てが、私にちからを与えてくれるから―――だから、私は信じる。
 梶くんのちからを、信じています」

 これは、私の誓いの言葉だ。

 あきらめない!

 最期まで、希望を持ち続けたい!


「まだ、共に、生きたいです!」

 一緒に、生きていたいんです―――。

 どうか。
    どうかっ…………!


「はっ!!  梶くんっ!?」

 ふいに手を引かれた感覚が!

 口元をかすかに、動かしている。
 梶くんが何かを……

 身を乗り出して、梶くんの声に耳を傾けた。


・・・・・・


 ぶわっ。
 涙が、溢れ出た。

 聞こえたよ、ちゃんと聞こえたっ。
 梶くんのか細い声を!


―― 俺も おんなじ ――


「っ梶くん……」

 “ 生きたい ” 

 梶くんの想い、届いてるよ……
 私にも、ちゃんと、伝わってるよ……

 弱々しい梶くんの指が、私の手を握り返そうとしている。

 私、今も、梶くんからちからをもらってる。

 気持ちが通じ合うって、こんなにも温かい ……。

「ありがとう、梶くん……ありがとう」

 1日でも長く、この世界で生きていよう―――。