それは小春日和の昼下がりのこと。
 梶くんは突然言い出した。


―――凜、お願いあるんだけど。
   はい。何でしょう?
   添い寝してくんない?
   ……は? 
        

 病院の裏庭まで車椅子を押してきた。

 梶くんはゆっくり、芝の地面に下りる。そして、ゴローンと寝転がった。

「あ〜、ちょーひさしぶりっ」

 あー、言い方〜。ほんと、茶目男。芝生でって話ね、からかってぇ。

「もう動けねーって、見上げる空がいつも……幸せだったな」

 なつかしい……梶くんのその姿。

 大の字になって、空を見上げて……
 切らした息を満足そうに届けとばかりに。

 私は昔を思い出す。中学の時も、よくグラウンドでそうしてた。

 とても和やかな光景に浸っていると、梶くんが私を見た。

「ん?」

 梶くんは私に笑いかけ、芝をトントンて叩く。
 おいで、って。

「ふふっ。えーい」

 梶くんの隣に、同じようにして寝転んだ。

 芝が少しくすぐったいのと、草の匂い……こんな風に空が、広く近くに見えてたんだ。

 子供の時、梶くんの横でこうしたいって思ってた……

 またひとつ、願いが叶ってる。

「……あんとき、隆平が空まで高く蹴ってみて、って。最後に、本当にラストのつもりで……したら足つって、凜にあたった。はは 」
「あー、 思い出した」

 10年越しの再会は、ここから始まって……

 人生が大きく揺れ動いたけど、今は……隣から聞こえる梶くんの声が、とても心地いい。


「ずっと後悔してた……凜を呼びこんだみたいで」
「梶くん?」
「俺が忘れてたから。体の奥で根っこみたいに、もう自分の一部になってたんだよ。いつも支えになって、倒れないでいられたのは、そのおかげなのに……」

 梶くんが私を見て、くすっと笑った。

 え?
 私のこと……?

「全部ケリつけた気だったけど、大事なもん忘れてんぞって。
 俺が、凜を呼んだんだ……ごめんな」

 私は首を振った。

 全部、俺のせいだ。
 凜は悪くないよ。

 そうゆう風に言われてるみたいだった。


 梶くんが右手を空に突き出した。

 手のひらで空に描いた何かを、捉えるように見つめてる。

「ここに来て、俺、後悔ばっか……。なのに凜は、大切なもん、次々くれるから……俺はもう大丈夫。だから凜は、いつでも……!」

 ぐっと伸ばした。
 私も左手を。

 ちょうど梶くんの手首に届くくらいに。
 手のひらをそっと重ねた。



「今、ちゃんと届いてるから……。10年、長かったけど、また同じ空の下で手が届くなら……何度でも伝えられるから。そばにいられるから。私も大丈夫!」

 もう後悔なんて、ひとつもない。

 過去のわたしが追い続けた梶くんは、こうして私の隣にいる。

 私が今、守りたいものも……すぐここにある。

 どんな梶くんでも……今、このとき―――
 そばにいられることが、幸せだ。


 あ、れ……?

 梶くん、手が……震えてない??

「うわっ」

 ガシッと梶くんの手が、私の手をつかんで引き寄せる。

 ふたり向き合う格好になって―――
 梶くんのおでこと私のおでこが繋がった。

「凜、ありがとう」

 梶くんの優しい声が響いてくる。

 まるで、柔らかく撫でられてるように、胸の中までほぐされた気分だ。

「私も。梶くん、私を呼んでくれて、ありがとう」

 あたたかい陽の光に包まれながら、自然のベットの上で、ふたり寝そべって。

 何もかもが穏やかな、ひとときだ。

「もう少し、このまま眠ろう」
「うん」

 あぁ――
 このまま、こうしていられたら……

 梶くんのぬくもりを感じて。

 ずっと……どうか……一緒に……

 この世界で眠りにつきたい ――。


 まぶたを通って、優しく明るい光が降り注ぐ。

 この夢のような中で、神様に祈りを捧げるように、安心して目を閉じた。


 ―――。
 現実の時間は、無情に刻み続ける 。

 この幸せの戯れが……
 ただの儚いひとときだと、後に知らせる。

 私達が後悔をしなくなったから?

 誰かを犠牲にして得た幸せを、永遠に願ったから?

 ……最期のときが、近づいていることを、梶くんは感じていたの?

 だから、命が1つ1つ消え逝くあの棟から、たった数百メートルの逃避行に……

 私を連れ出してくれたの?

 梶くんが、私の手を……強く握りしめるのは―――

 自分の順番が訪れたことを……
 受け取ったサインだったんだね―――。

☆☆☆

 窓際のソファで梶くんが眠ってる。

 暖房の効いた室内に、少し開けた窓からひんやりした風が通り……はだけた毛布を、そっと梶くんの胸までかけ直した。

「……ん?」
「あ、ごめん、起こした?」
「あー、寝ちゃってた……」

 梶くんはまだうつろな目で、天をあおいでいた。

 調子悪いのかな?
 喉乾いてるよね……。

 私が水を取りに行って戻ってくると、起き上がった梶くんが言った。

「凜、仕事休みなの?」
「え?」
「だって、まだ昼なのにいるから」
「え??」

 梶くんは可笑しな事を口走っている。
 窓の外はもう真っ暗だ。

「梶くん、今は夜の8時だよ。私、仕事終わってから来た……」
「あれ? 夢見てた? すげー明るかったから」

 梶くんはモゾモゾと目を擦ったりして。

 寝ボケてる?
 なんか寝起き悪い子供みたいで……かわいい。

「ふっ。梶くん今日、検査疲れなんじゃない? はい、お水」

 ペットボトルを梶くんに差し出す。

「サンキュ」

 と受け取ろうとした時、梶くんの手からボトルがすり抜けて、床に落ちた。

「「 !!!! 」」

 梶くんの動きが止まってる。

 私はボトルを拾い上げて、ソファに腰かけた。

 ボーッと手の動きを確かめてる梶くんを、覗きこむようにして、「大丈夫?」と声をかけた。

「ごめん」

 小さな声で梶くんの返事がする。

「起きたばっかで力入らないよね」 
「あぁ、そっか」

 まだボーッとしてる梶くんが、何だか、赤ちゃんみたい……

「っ!」 
「いいこ、いいこ」

 髪をそっと、なでなでしてあげた。

「ついに俺の母ちゃんまで、こなすようになったの?」
「ぷっ、ははっ!」

 マネージャーのつもりだったんだけど、お母さんね。
 うん、それもいいかも?

 梶くんが私の肩に、おでこを乗せてきた。

 私は優しく梶くんの髪を撫でて……

「今夜はいい夢が見れますように」

 おまじないをかけた。

「……うん」

 梶くんの小さな声が聞こえた。


 どうか、ひとりのときも寂しくならないように―――願いをこめて。

☆☆☆

 秋が深まり、紅葉した木々が色付いた葉を落とす。
 病棟の庭にも、落ち葉が色とりどりの模様をつけて。

 移りゆく季節の情景を、私はロビーの椅子から眺めていた。

 今度は落ち葉拾いしなくちゃ……。

 暇つぶしに考えを巡らせていたところ。

 春見さんに車椅子を押してもらって、梶くんが戻って来た。

 私が先に視線を送ると、梶くんも私を見て微笑んだ。

「凜!」

 嬉しそうに私を呼ぶ声。

 検査結果が良かったのかな?

「おかえ……」
「いつ来たの? 外寒くなかった?」
「!?」

 ―――っ……。
 ふいに嫌な予感がまとって、声が出ない。

 梶くんをまじまじ見つめても、その言葉を……
 なんのおかしさもなく言ったんだ、と感じとれた。

「??」

 私が返事をしないことに、梶くんはキョトンと不思議がっている。


 これは―――。

 私は確信をもって、梶くんの背後にいる、春見さんの顔を思わず確認した。

 あぁ……。
 春見さんも私と同じ顔をしている。

 悪い知らせを感じたんだ。


《 外寒くなかった? 》

 梶くん、私はその言葉を……
 1時間前に一度聞いたよ―――。

 ここで待ってる、ってふたりを見送ったの……


 忘れた??

 そんな風にいつもみたく、笑って私を出迎えてくれるの……
 今日は2回目だよ――。


 梶くんの中の時計が逆戻りを始めた、瞬間だった。



 冬を告げる木がらしが、枯れ葉をさらっていってしまうように……

 梶くんの記憶が、途切れ途切れ、失くなり始めた―――。

 おはよー。こんにちは。今晩は。
 関係なくなって……

 梶くんの世界で、私は……
 1日に何度も訪問をした時もある。

 初めは戸惑った。

 でも梶くんが、その度に……
 笑顔で私を呼ぶから。

 まるで、ママのお迎えが来た園児みたいに、ぱぁっと、顔を明るくするから。

 私もその顔を、何回でも見たくなって。

 梶くんの時計に針を合わせ……
 ふたりの始まりを、また新しく再現した。


 いつ、この笑顔を見れなくなる……かわからない。

 私も同じように、梶くんに見せておきたかった。

 それを繰り返すうちに、何日分も時間が増えた気分になって。

 小さな幸せを見い出したものの……

 隣り合わせに、強烈な不安もつきまとった。


 梶くんの中の病魔が、梶くんの体を支配し始めている。

 見せつけるように、梶くんの一つ一つを奪っていく……。

 私の帰り道はいつも、しかめっ面で唇を強く結んでいた。

 後ろ髪を引かれる思いで、何度も……
 梶くんのいる丘を見上げる。


 涙がこぼれないように―――。


 拳を握りしめて、自分を鼓舞しなければ明日の希望を信じることさえ……難しくなってしまった。


 梶くんは日に日に……動きが鈍くなり、会話も少なくなった。

 外出も禁じられてしまって……
 最近は、窓から入る外気を頼りに、ソファで過ごす時間が多くなった。

 音楽を聞いたり、私が本を読み聞かせたりして。

 支えがなければ、体を起こしているのも……つらそうな梶くんを、私は隣で受けとめている。

 梶くんは私の肩にもたれて、静かに息をして……。

 梶くんの呼吸を、体温を、確かめながら……
 こうして読む本は、2冊目になった。


 もう、12月。 
 時間を、止めてしまいたかった―――。



「……ん。り、ん……」

 梶くんのかすかな声がした。

「ん?」

 梶くんの口元に耳を近づけた。
 何か、言おうとしてる。


 『・・・・・・』


 っ!! 
 ―――私の耳が聞き取った言葉は……


―― ぜんぶ 忘れて ――



 梶くんは苦しそうな吐息とともに、そうつぶやいた。

 いっきに全身の血の気が引いて、こみ上げてきた熱いものを……
 こぼさないよう、私は必死で耐えた。


 梶くん、梶くん……ごめん。

 私、本当に、梶くんを…… 
 忘れてしまう―――。

 10年前、あんなに強く梶くんを想っていたのに。

 この間まで、忘れてしまっていたの……

 梶くんの全てを覚えておきたいのに。

 自信がないの……それが怖いの!

 梶くんがいなくなったら……
 また忘れてしまう!

 もう二度と、再会する望みもなかったら……
 
 いつしか、思い出すことさえしなくなってしまう!

 私が梶くんの、梶くんが生きていた証しを、忘れてしまったら……

 悲しいでしょう?


 ……そう、思うのに。


 “ 忘れられない悲しみ ” 


 梶くんは、して欲しくないんだね……

 イイ事ばかり覚えてるわけじゃないから、つらい事も一緒についてくる。

 長い間、梶くんは―――

 そうゆう悲しさの痛み、味わってきたんだもんね……。

 自分が同じ想いを、与えたくないんだよね?

 残されて生きなくてはいけない……
 私のために、私の事を考えてくれてるんだよね?


「……うん。梶くん、わかってるよ」

 私がしぼり出した答えに、

「… 凜、ありがと」

 梶くんは優しい声でささやいた。
 そして……そっと小指を、私の小指に、からませる。


―― 約束な ――


『ぜんぶ 忘れて ―― 約束な ――』


 梶くんが、私のもとから、
 いなくなろうとしている。

 私の記憶からも、消えたいと、願っている。


 命は、なぜ、こんなにも儚いのだろう―――。


 私は涙をこらえ、梶くんの手をぎゅっと握りしめた。