今、私たちが生きているこの世界は、なんだか……息苦しい。

 不満も、不安も、閉じこめて……

 救いも、未来の希望も、簡単には声に出せずに……

 ただ我慢をして、待つしかない。
 現実は厳しいことを知った。

 胸にポッカリ開いた小さな穴を、冷たくなった夜風が、スースー通り抜けてく。

 今夜の梶くんは、とても、つらそうだ。

 窓から覗いた瞬間から、私の全身が固まりかけた。

 ソファにもたれて、目を閉じたまま、梶くんはあまり動かない。

 時折、息を深く吐く。

 昨日、投薬をしてから、こんな調子……
 梶くんはひっそり教えてくれた。

 何かして欲しいことは?
 の問いに、「何も……」

 私は停まっていた音楽をかけて、水を置いただけ。

 今そばにいるのは邪魔か、帰ろうか。
 迷って……でも、居座ることにした。

 できるだけ梶くんに近い場所で、静かに見守っていよう。

 ソファの端っこに腰をおろして……
 ただ、ここに居るだけ、でいた。


 何も詳しいことは教えてくれない。
 梶くんの病状も、治療についても。

 私はそういう立場じゃないけど、あれこれ詮索してしまう。


 治験は成功していますか?
 その新薬は効果ありますか?
 延命はできそうですか?

 それとも……

 失敗なんてしないよね……
 変な副作用でたりしないよね……
 梶くんの命を短くなんて、してないよね?


 ……怖い。

 ダメだ! 
 すごく怖い……寒気がするっ。

 手が小刻みに震え始める。

 まずい、止まらない――。

 両手をぎゅっと組んで押さえつけた。

 静まれ、静まれ!

 隣にいる梶くんに気付かれないよう、この震動を早く止めたかった。

「ふぅー」 
「はっ!?」

 梶くんが大きく息を吐いて、目を開けた。

「大丈夫!?」
「おー、ベット行くわ」

 梶くんはヨロヨロと立ち上がる。
 私は咄嗟に梶くんの腕に手を添えた。

「肩つかまって」 
「サンキュ」

 私の肩に、梶くんの手のひらがのっかる。

 ベットまでのたった数歩がしんどそうで、肩で梶くんの重みを感じた。

 ベットに腰をおろしたとき……ガクッ。

「あっ!!」

 滑り落ちかけた梶くんを、両手で受けとめる。

「危なっ……良かっ、た?」

 全力で踏んばれた後、顔を上げたら……
 近いっ!
 梶くんの顔が!

 ど、どうやって、体勢を……戸惑った、一瞬のことだった。

 ――――――。

 口元にかかった私の髪を通して……感じた、それは―――
 やわらかな唇の……感触!?


 ドンッ!
 梶くんは勢いよくベットに座りこむ。
 きしんだ音が駆け巡った。

「あ、ごめ……」

 乱暴に接したことに自分で驚いて。

 梶くんの顔を見たら、もっと動揺がおさまらない――。


 ふれた、よ?

 事故だ、って言ってくれない、の?

 だって、梶くんが……梶くんが―――私を、引き寄せたよね??


 梶くんの面食らった表情が、答えだ。

「ごめん、帰る」

 バックをつかんで飛び出した。

 ちょっと、もう、事実を受け止められなくて。

 言葉も接し方も見つからなくて。
 その場を逃げ出したんだ。

 疾走してなければ、やましさに押しつぶされそうで、ひたすらに走り続けた。


 やっぱり、この世界で生きていくには―――
 息苦しさが続くみたいだ。

☆☆☆

 あっという間に一週間が過ぎ……
 一度も梶くんには、会いに行けなかった。

 私が息切れしていたからだ。

 あの後、梶くんの体調はどうなったか、心配でたまらないのに……
 確かめないといけないのに……

 勇気のない足は、病院へ向かえず、東京行きの新幹線を選んだ。

 この前、隆平くんのお父さんの死を知ってへし折れた私の心を……立て直してくれたのは 、優さんだ。

 あの日、梶くんの前で、どうしようもない子供みたいに……感情のまま、泣きわめいた。

 梶くんがしてくれた、あの慰めは―――
 弱々しいのに、強くしがみつく抱き方は……

 特効薬にはならない。

 それはもう、子供のときに経験したから、わかってる。

 10年前に私もそうしたけれど、さよならを止めることはできなかった。

 優しく包み込むように、ぬくもりを与えてくれる抱き方でなければ……

 心が満たされない。

 大人になって、それを知った。

 優さんはそれ以上に、私に愛情をたくさん注いでくれる。

 大切にされてると、全身で感じとった。


 改札の先に優さんの姿が、いつもと同じにある。

 私に向けられた笑顔を見たとたん、心が息を吹き返した。

 私は、こうやって、生きる力を取り戻せるからいい。

 でも梶くんは……
 ずっと病棟の中で、息抜きもできず……

 ひとりの時間を、病気と向き合っていたら、息苦しさを逃れるために……

 そばにいる私を利用しても、仕方ないと思った。

 もう、子供じゃないんだから。

 私が距離感を間違えた。
 梶くんは悪くない。

 私がもっと考えなきゃいけなかった。
 看護の仕方も、感情のコントロールも。