季節は夏の終わり。
 そろそろ夕刻だというのに、まだ陽射しがジリジリと照りつける。

 丘の上の大学病院。
 私は裏門から入り、木陰の道を進んで外来病棟へ向かっていた。

 チラッと横目に視界へ入り込んできたのは、芝生の裏庭でサッカーしてる男の子と男性。
 なぜか、ふと、微笑みが勝手に漏れた。

 サッカー ……、懐かしいな。

 ここの芝生、よくお父さんのリハビリで散歩したっけ。

 あれ? 
 なにか一瞬思い出したような ……。

 残暑のせいか、自宅から丘を歩いてきた疲れか。ぼんやりした頭に、言葉にならない叫び声が入ってくる。

「?」

 振り返った目の前に、飛びこんでる―――なにっ!?

 分からないまま「バコーン!!」と音がして、一瞬意識が停止した。

「痛っあぁ……」

 頭に受けた衝撃で咄嗟にうずくまる。
 ジーンとして頭の中はグルグルになって ……

 あ、また。
 この感覚もなつかしい。

 コレ、一体、なんだろう?

 私は痛みの中で、むず痒い記憶の欠片にも気を囚われていた。

「ワァおねえさん、ナイスヘディングー♪」

 男の子がコロコロ転がってくボールを追いかけて、私の横を通りすぎて行く。


 そっか。
 昔サッカー部のマネージャーしてた時、たまにこうやってボールがぶつかって……

「ふっ、懐かしすぎる。あぁ痛い...…」

 記憶の断片が判明して、妙に可笑しな感覚と鈍痛が混ざり合う。
 じわり、涙がにじみでてきたとき―――

「スイマセン! ヤベェ!」

 唐突に誰か至近距離に入り込んできた!

「大丈夫!? 頭あたったよね!?
 あ〜ヤベー、どうしよう」
「えぇっと……大丈夫です。
 何回か経験あるので、すぐ動け……!?」
「痛いよねぇ……」

 困ったような優しい声と、くしゃくしゃと私の頭をなでる、その人の手は……

 あれ?
 あの時も、こうやって、よく彼が―――。

 体の中からパチパチ弾ける衝動が昇ってくる。

 ジリジリじわじわ……
 胸の中をくすぐって、シュルシュル〜っと頭のてっぺんまでかけ上がってきた。

 「はっ!」と息を飲んだ。

 痛みなんて吹っ飛んで、目の前にいる気配の人物を凝視する。

 私、この人、知ってる!

 ジェットコースターの速さで記憶をさかのぼって―――ほら!

 まだあどけない、あの彼とこの人が―――重なる!!

 私より先に彼が口を動かした。

「あの……もしかして、
 北中でサッカーマネやってたり、した?」
「っ!?」 

 的をついた質問に言葉が出ず、コクコク頷く。

「真野!?  真野凜!?」

 私の名を呼ぶ、目をまん丸くしたこの人は、やっぱり!

「梶くん!?」

 ポンッ!
 シャンパンの栓が抜けたみたいにすっごい大きい声でた。

 同時に思い出も、一気に溢れてきてしまって……その時の感情が蘇る。

 見つめ合うとドキドキうるさくて仕方ない。

 私は、たった今、10年前に失恋した同級生に再会した―――。


 梶翔大くん ……梶くんだ、本物の。

 私達は同じ中学の同級生だった。
 梶くんはサッカー部のエースストライカー。入学前はクラブのジュニアチームに所属していたそう。抜群にサッカーがうまかった。
 私は、北中伝統のマネージャーバトンを、
いとこのお姉ちゃんから引継いだ、だけ。

 どうしよう!?
 久しぶりすぎて、心臓バクハツしそう!

「ぼく、もう帰るね。バイバーイ!」
「あ、おー。気を付けてな!」

 男の子は満足気にサッカーボールを抱え、梶くんへ挨拶すると行ってしまった。

 …………気まず ――― い、間。

「……とりあえず、座ろ。真野、頭打ったし」
「そ、そうしよっかな」

 男の子がひとりで遊んでたから相手をしてた、と梶くんが。 
 「真野は?」と聞かれて。

 父が骨折で入院してたから〜 あれこれ 〜
保険の手続きで今日来た、と早口で私。 
 自分の話をしてハッとなり、「梶くん、 ケガ!?」と慌てて聞く。

「ん〜まぁ、検査? みたいな……。
 あ、俺、J2九州のプレーしてて……」
「うん。高卒後プロになったって……」

 探り、探りな会話をしながら、ベンチに座って。

 ――――――間、この間!
 言葉がうまく出てこない。



「すげー、久しぶり……10年?」
「そうだね……中2の時だから……」

 梶くんが転校したあのときから……10年。
 ちょうど今くらいの季節だったよ。

「何回かミスキックぶつけてたよな……
 また、ごめん」
「ううん。それで、いろいろ思い出せた」
「はは、俺も。
 北中公式アイドルまのりん、だろ?」
「っ!  あ〜……」

 どうして思い出すのは、しょっぱい記憶からなんだろう……


 3送会の出し物でサッカー部の顧問と男子とアイドルのマネをした。

「タケと吉田先生、女裝したやつ……ははっ、真野は可愛かった」

 ドキッ!
 可愛い、とか ……
 あっさり口にしちゃう感じ、だったっけ?

 昔の感覚と違う彼の変化に、子供自分に戻っている私の心は……少し戸惑う。

 中学の頃より少し低い声も、大きく感じる体つきも、大人びて……
 梶くんのいる左側が擽ったい。

「そんなイイ思い出じゃないんだけど……」
「あれ? 確か皆、まのりん可愛いって騒いで……」

 「あのね、梶くん知らないだろうけど……」と前置きした上で。 
 あー、恥ずかしいっ。

「次の3送会で私、真野グリーンだったの。
 北中公式戦隊やりました」
「……ぶはっ! そんなんやったの!?」
「今度は吉田先生ノリノリで、変身スーツまで用意して。タケくんと私は道連れにされて、も〜決めポーズが恥ずかしくてっ……」

 思い出しただけで赤面してしまう。
 両手で顔を隠さずにはいられない。

「ぐぅわはっ!!
 ちょっ、それ見たかったぁ俺〜」
「はぁ〜。
 その後も体育祭で緑団の団長やったり、ずっとグリーン呼びでイジられてたよ……」

 私の黒歴史の数々……
 梶くんは隣でウケてて、ずっと笑ってる。

 笑い方が昔のまんまで、それは、ちょっと嬉しい。

「あー、久しぶり、こんな笑った。真野グリーンて……えっと……でも、もしかして……もう真野じゃない?」

梶くんが私の左手を、指さした。

「それ……ん?」

 私の顔を覗きこんで、視線を合わせる。

 ドクン。
 その強いまなざしに、私の心臓が跳ねた。咄嗟に左手を胸元に隠す。

 心臓の高鳴りも指輪も……見せちゃいけない気がして焦った。

「っ! あっ、えーと。婚約してます……会社の先輩と」

 最近やっと慣れた婚約指輪を見つけられて、散々祝福された浮わついた気分が、一瞬で戻ってくる。

 なんか梶くんに知られちゃうと、余計に気恥ずかしくなってしまう。

「おめでとう。名字は何に?」
「えーと、佐藤」
「普通、ははっ。まのりんは引退だな」

 「ねー」なんて…………間が帰ってきてしまった。

「今日、良かった、会えて。……そろそろ」

 梶くんが立ち上がる仕草をして。
 私も目的を思い出し、急いでスマホを見る。

「受付終わっちゃう……あっ」

 ふと思い立って、躊躇もせず声に出た。

「良かったら梶くん、連絡先交換しない?」

 あっ。
 少し表情が曇った、気がした。

「ごめん、俺、荷物置いて来ちゃってて…… 」
「そっか。
 病院だと使えないとこもあるしね」

 やんわり拒否られた、かな?
 少し感じて。彼女とか……いるんだろうし。

「ぶつけたトコ大丈夫?」
「平気、もう行くね」
「お幸せに」
「ありがとう、梶くんも頑張って!」

 素っ気ない別れの挨拶を巻きで済まして、お互い笑顔でバイバイできた。

 最後に梶くんが……

「ありがとう、凜。じゃあな」

 すごい優しい顔でそう言って、背を向けて ……

 ―――また、行っちゃうの……?

 っ!?  
 どこからか自分の声が聞こえた。
 不思議に思うと同時に、届けとばかりに発していたんだ。

「梶くん!」
「!?」
「私の番号もアドレスも変わってないから。気が向いたら連絡してね……」
「……わかった」

 手を振って遠ざかってく、梶くんの後ろ姿を―――じっと眺めていた。

 懐かしい中学の頃の……華奢な背中が薄っすら重なるけれど、離れるほどにその影は消えていく。

 記憶の中の彼は、急に大人になった。
 私は10年分の梶くんの姿を知らないから。

 しばらく夢心地に見送って……私の頭は現実に覚めたようだ。
 私もようやく足を踏み出せた。


☆☆☆


「こちらの札を首からかけてお待ち下さい」
「はい。お世話様です」

 外来の受付をして、待合室の空いてるイスに座った。

 あー、ビックリした。心臓ヤバかった! 
 あぁ、汗もヤバイっ。

 でも……良かった。本当に、また会えて。
 もう2度と会えないんだろう、って。

 早く忘れなきゃいけない―――
 そう、憂鬱になってたときもあったから……

 10年、時間が過ぎて。

 お互い大人になって、嫌なことにはふれずに……言葉を選んでしゃべれたと、思う。

 安心して落ち着いたら、ゆっくりとはっきり、記憶のシーンが蘇ってきた。



 ―――10年前。
 地区大会準々決勝、後半10分。

 梶くんはソックスを脱いで、足首にスプレーをシューッとかけた。

「い"ってぇーっ」

 当たり前だよ……
 スパイクで傷ついた足は、血もにじんでる。

 この試合に勝ったら、ベスト4で県大会に進める。負けたら3年は引退。

 相手も必死だ。だけど、梶くんは1学年下……
 敵の3年の執ような当たりは、見てるだけでもわかる。
 ここイチ、キツイ。

「凜、テーピング取って。倒されたとき、少しひねった」
「……梶くん、もう足首はれてきてる。……交代したほうが」
「まだいける!」

 !!
 梶くんの顔が一瞬で険しくなった。

「先輩達、ずっとオレにトップ任せてくれてんの。ベンチで我慢してる人だっている。
 弱音なんて吐いてらんねーよ!」

 ドックーン!!
 梶くんの言葉が私の中を駆け巡った。

あたしバカだ……何を弱気になって……
 私の役割は、最後まで、みんなを励ますことなのに!

 あたしがみんなを、勝利を信じなくてどーする!?

 テープを梶くんから奪い取って、変わりに持ってたドリンクを突き出した。

「あたしがやる!
 梶くんは少しでも休んで!」
「お、おう。キツめに巻いて」

 あぁ、何か熱いものが、私の中を駆け回ってる。
 頭から全身から蒸気が出そうだ!

「……なんか、イイ作戦ねーかな?
 そうだ! 真野! またタケと先生と、3送会のやつベンチでやれ。アイドルのダンス!
 そしたら、敵が何ソレって引きつけられて……」
「は!?  こんなとき何言ってんの?」
「えぇ?  でも、案外……使えね?」

 梶くんは……ズルい。
 きっとピリピリした空気、和ませようとした。

 あたし今、自分でもおかしいのわかってる。

 すごく周りの変化を察知できる人。
 だから梶くんは、サッカーも誰に対しても
うまくやれるんだ。

「サンキュ、凜」

 梶くんは吉田先生に戻ると声をかけて、ライン際でアップし始めた。

 さっきから、私の中で沸とうしてる……

 梶くんが一番だ!
 梶くんの力になりたい!

 梶くんの背中を見つめながら、私の心が叫んでる。

 叫ぶほど、心臓が破裂しそうなくらい、
ドキドキが高なる!



 もう、この気持ち閉じ込めておけない!


「梶くん!」 
「ん!?」

 私の呼ぶ声に梶くんが振り向いた。もう、全力で!

「ごめん! あたし、あきらめかけた!
 あたし、おぶって連れて帰るから!
 負けないで!!」
「……ぶはっ! おぶってって……約束な!」

 ドッキン!
 梶くんはスゴイ笑顔を私に向けて、ピッチに戻って行った。

 この場面で、その顔は……イエローカード。
 反則だよ――。

 そんなキラキラした笑顔見ちゃったら……

 カーッと別の熱まで混ざって、余計に体中アツくなる。

 梶くん! 
     梶くん!! 
          頑張れ!!

 何回、心で叫び続けたか数え切れない。
 ロスタイム、先輩がゴールを決めて同点。流れをつかみ、後のPK戦で見事勝利した。

 その日、私は、初めて……

 本物の恋に気付いて―――
 抑えきれない情熱を知って―――
 奮えるほどの喜びを経験した。


 ――――――今になって思い返してみても、あのときより誰かに惹かれた瞬間なんて、他にない。

 体中から想いが溢れそうになる、あの感覚は……2度となかった。

 初めてつき合った大学生の彼にも、優さんにさえも―――。

 鮮明に思い出した昔の記憶に、少し不安を覚える。
 左手の指輪をクルクル、回す自分に “ 大丈夫 ” と言い聞かせた。

 私の恋が叶うことはなかったから……。

 少しの間、甘酸っぱい乙女心を抱いていただけ。

 それは梶くんが……
 県大会前日に両親を亡くしてしまって、何もかもが悲しい終わりになったからだ。


 ちっぽけな恋心と絵に描いたような青春に胸を焦がしていた、10年前の夏――。

 県大会前日は闘志満々で、明日の勝利を皆で誓い別れた。

 私は密かに、梶くんの為に編んだミサンガを、握りしめて大会へ望んだ。

 誰もそんな残酷な結末を知りもせずに……。

 エースのいない大会は初戦敗退。
 部員が全員そろったのは、梶くんの両親のお通夜だった。

 参列席から見えた梶くんの姿は、初めて目にする無表情で……

 まるで、感情を押し殺しているかのようだった。

 焼香する彼の後ろ姿が、とてつもなく痛々しくて……

 私の好きな……
 大好きな……
 梶くんの頼もしい背中、背中がっ。

 弱々しくて。
 小さくて。
 たまらなく恋しくて。

 いつも前向きな彼の、夢を叶えてほしいって。

 ケガをしないで走らせてあげてって。

 そう、願ってたのに……。

 こんな……
 苦しいほどの悲しみを受けてるなんて―――。

 何もできない自分が、あまりに無力で、ほろほろ涙が落ち始めた。

 あぁ、梶くん。
 また周りを気遣って、ひとりで我慢してるんだ。

 それに気付いたら、胸がぎゅうっとしぼられて。痛いくらい……
 
 涙が溢れて、止められなかった。

 嗚咽した自分をどうにもできなくて、吉田先生に支えられながら退席したと思う。

 それからの日々は、夏休みだというのに、
無常にただ過ぎていった。

 梶くんと最後に会ったのは……
 夏休み、最終の練習試合前日だった。

 片付けの後、部室に戻ると、そこに梶くんの姿があった。

「「 はっ!!!! 」」

 お互いに驚き合って、ふたり同じ顔つきで固まった。

 梶くんに会うのは、通夜のときに見た以来。

「……梶くん……大丈夫?」
「……あー、うん。
 ……そうだ、真野ありがとな。葬式来てくれて……」
「ううん。…… 返って迷惑かけて、ごめん」

 ごめん梶くん、ホント、ごめん。

 梶くんがツライときだ、って……私わかってるのに。

 梶くんに会えて―――私、嬉しい。

 今、私……梶くんの声聞けてホッとしてる。

「いや……えっと、
 オレ私物置きっぱだったから……」

 気まずそうに梶くんは荷物をまとめ始めた。

 どうして?

 もう来ない、みたいな言い方……
 梶くんはもうずっと部活にも来ていない。

 今、聞かなくちゃ。

 みんなが噂してる……
 ちゃんと確かめなきゃ!

「梶くん! ……2学期になったら、戻って……来るよね?
 新人戦、またみんなで…… 」

 梶くんの背に向けて、私は恐る恐る声を届ける。

 梶くんは黙って背を向けたまま、イスに崩れるように腰かけた。

 蒸し返す部室の中に、傾きかけた夕陽が窓から差し込む。

 時間が止まってしまったかのようだ。

 私は、じっと返事を待って……
 梶くんの笑った顔を待ち望んで……

 でも梶くんは―――
 静かに顔を覆って…………背中を小さく震わせた。



「っ! ……か、じ、くん?」

 みんなが話をしてた。
 梶くんはひとりになっちゃったから、東京のおばあちゃんしか家族がいないって。

 東京に行くかもしれない、と。
 メールの返信もないし、家にも居ないって。

 梶くん……
  ひとりで苦しんでない?

 そうやって静かに泣いて、我慢してない?

 弱音吐かないように、無理してない?

 梶くん、本当は―――!


「っ!!」 

 彼の背中がビクッと跳ねた。

 勝手に体が動いた―――。

 私は彼の肩にしがみついて、背中に顔をうずめた。

 弱々しいその背中をほおっておけなくて ……

 抱きしめ方なんてわからないのに。

 ただ、ただ、もう梶くんが、悲しまないでいられるように……。

 ひとりじゃないよ!

 伝えてあげなきゃいけないって気持ちが、涙と一緒に私から溢れる。

「梶くんを、
 ひとりぼっちになんてしないから!
 寂しいときは電話して!
 メールでもいい……私を呼んでっ」

 しぼり出すように、背中に伝えた。

 ぎゅっとしがみつきながら―――。

 どのくらいか、そうやって願って。
 強く祈りながら、時間がまた止まった。

 梶くんの背中が大きく深呼吸して、そっと立ち上がる。

 はっと我に返って、急いで涙をぬぐった。混乱して顔も上げられない私に……

「みんなに、ごめんって伝えて」

 梶くんがか細い声で言う。

「梶くん……?」
「ありがとう、凜。じゃあな」

 ポンと私の頭に、そっと手を置いて、梶くんは部室を出て行ってしまった。

 ずっと耳に残るその言葉は、もう聞くことができない…………彼の最後の声だった。