「えっ、明日講義出席しないの?」
 そう尋ねるとさも当然かのように隣で身支度を整えている私の友だちは頷く。
 「だって彼氏と過ごす予定だし。むしろ凛は行くの?」
 「行くって、あの講義出席点入るんだよ? 行かなくて大丈夫なの?」
 「大丈夫大丈夫、一日くらい。もう、凜は真面目だなぁ。第一クリスマスイブなんて皆予定パンパンなんだから」
 あっ、電車遅れちゃう、と言って彼女は走り去ってしまった。教室の扉を閉めるときに彼女がくるりとこちらを向いて手を振ってくれる。それに応じて私も手のひらを左右にスライドさせた。
 明日はクリスマスイブ。この日に予定を空ける大学生なんて早々いないよね。あっ、ここにいた。私じゃん。
 皆恋人とクリスマスを謳歌してくるんだろうなぁ。それで冬休み明けにはもっと仲良くなって……。私には関係ないことだけど。
 大学2年生である私は生まれてこの方恋という経験を一度だってしたことがなかったのだ。本当に一度も。
 だから恋が講義を休むほどに価値のあるものなのか私には到底理解することができない。家に帰ろうと席を立つ頃には誰一人として教室に残っていなかった。
 スマホを手に取り、明日の講義レジュメをダウンロードしているとふと気づく。
 高校生の時は教師が授業資料を生徒一人一人に配ったりして、生徒と教師の距離が近かったことを。だけど大学に入ってからはコロナの影響もあるかもしれないけど、電子で講義資料が配られたり、発言をする機会が少なかったりと、どうしても距離を感じてしまうのだ。
 その距離と家までの距離を重ねてしまい、一つ溜息を吐いてから私は帰路に着いた。


 「ごめん。もう輝夜(こうや)とは付き合えない」
 三十代を手前に迎えている体に、雪よりも冷たい言葉が正面から叩きつけられる。その事実に大学の講師をやっているにも関わらず僕は理解することができなかった。
 「えっと……それってどういう……」
 「だから私と別れてほしいの。もう一緒にいられない」
 やっと彼女の言葉を理解できたけれどそれを受け入れることは到底できなかった。だってそんなことを言われるほど悪いことをしてしまったという記憶がないから。でもそれはもしかしたらいじめっ子が誰かをいじめたことを忘れてしまう現象に近くて、僕だけが忘れているだけかもしれない。
 「どうして? 僕、何か悪いことした?」
 振り絞るように僕は声を出す。冬の冷たい風のせいなのか余計に声が震える。
 「ううん。輝夜は悪くないよ。むしろ悪いのは私の方なのかもね」
 彼女の言葉にまたも理解に苦しむ。どうして彼女は突然僕に別れを切り出したのだろうか。
 彼女は一呼吸置いてからこう言った。
 「私ね、輝夜といると息が詰まりそうになる時があるの。論理的なことを言うところとか専門的な知識を長々と説明するところとか。大学の先生だし、仕事の中で使うのはしょうがないと思ってたけど輝夜は日常でもそういう思考回路するんだもん。何というか堅いの。まぁ、それを理解できない私が多分悪いんだろうけど」
 「ごめん、ついくせで。これからはちゃんと意識するから、別れるなんて言わないで」
 お願いだから。だけどそのお願いは彼女がごめんと呟くと同時に消えた。そして彼女は歩き出す。眩しすぎるイルミネーションに包まれた道を。
 終わる。人生で初めての恋が終わる。


 彼女と出会ったのは去年のクリスマスイブだった。その日は友人たちの合コンに付き合わされたのだ。恋愛経験ゼロの僕は向かい側に座る女性たちに気を利かせることもできず、ただその場にいただけだった。自分一人だけ山奥に取り残された気分になる。
 そこはケーキバイキングのお店で、何十種類ものケーキが並べられている。その甘い香りが僕の孤独を幾分か和らげてくれた。皆がケーキを取りに行く中、僕はもう帰ろうかなと考え始めたその時、頭上から女性の声が降ってくる。それはケーキのように甘い声だった。
 「あの、もう帰るんですか?」
 見上げると生クリームを想起させる白い頬の上に薄っすら桃色を浮かべた女性と視線が交わる。
 「はい。僕がいなくても合コンは盛り上がるだろうし。むしろ僕がいない方がスムーズに事が進むんじゃないかな」
 「でも、せっかくのケーキ食べ放題なのに。もったいないと思いますよ」
 確かにここは有名な店だけに味はそこそこ美味しい。クリスマスキャンペーンで食べ放題の時間が通常よりも長く設けられ、まだ一時間以上もある。ここで帰るには惜しいような気もしてきた。
 「せっかくですから、もう少し食べていきませんか? ここのケーキ美味しいですし」
 取りに行こう、という彼女の言葉に僕は渋々頷く。
 

 「わぁ~、どれにしようかな」
 彼女がショーケースの前で悩んでいる。それもそのはず、そこに並んでいるケーキはどれも美味しそうだ。全部食べたいけど、流石に成人男性の胃袋もそれを許してはくれないだろう。僕も彼女の隣で悩み始める。
 「ねぇ、できるだけ色んな種類のケーキを注文してシェアしない?」
 彼女は唐突にそんな提案を投げかけてきた。その瞳はまるで目の前に星空が広がっているように輝いている。確かにシェアすれば量は少なくなれどたくさんの種類のケーキを食べられる。でもそれって……。
 「それ、僕とでいいの? もっと気になる人とそういうのすればいいのに」
 すると彼女は大きく目を開ける。それから少し呆れたような表情を見せた。
 「全然察してくれないんだね」
 ため息を一つ漏らす彼女に僕はまるで理解が追いつかない。その様子を察知したのか、益々顔をしかめる。
 「だから、ここ合コンだよ。出会いを求める場なの。そんな場所で好きでもない人と一緒にいると思う?」
 その瞬間、店内の暖房の設定温度が急激に上昇したかのように周囲が熱くなる。特に顔の辺りが。目の前にいる彼女も頬を赤くさせている。
 暑く感じるのは暖房のせいじゃない。今この瞬間放たれた言葉のせいだ。だってその言葉が意味することは。
 「今のって……」
 「そう、告白。私ね、君のことが好きなの。前々から」
 「えっ」
 僕は驚きを隠せず、視線をあちこちへ飛ばしてしまう。もちろん彼女が僕を好きだという事実が一番だけど、前々から僕を知っていたことにも驚いた。いつから彼女は僕のことを知っていたのだろうか? そしていつから僕のことを好きになってくれたのだろうか?
 はてなマークを頭にたくさん浮かべているのが面白いのか、彼女はくすりと笑う。
 「実は前にもね、このメンバーで合コンやったんだよね。君の友人が写真で紹介してくれた時に初めて君を見た。写真越しでね。だけどその瞬間体に熱が帯びていくのを感じたの。それが特別な感情だと気づくのにそう時間はかからなかった。だから、その友人にお願いしたの。この写真の男性に会わせてくださいって。それが今日の合コンなんだよ」
 照れくさそうにそう言う彼女の頬の色と今の僕の頬の色はきっと同じなのだろう。初めてだった。自分に会いたいと思ってくれている女性がいるなんて。しかも目の前に。
 「今じゃなくていいよ。いつでも待つから。甘いケーキと一緒にね」
 彼女は再びショーケースの方に振り返り、もう決めたのか悩むことなくお目当てのケーキを取り出していく。ショーケースを開けた瞬間、生クリームやチョコレート、フルーツなど数々の甘さの塊が周辺の空気を占拠する。それは僕の初恋の香りとなった。


 ポチッ。スイッチを押した瞬間、室内が光で満ちていく。椅子に座ってデスクに置いてあったパソコンをよけて頭を伏せる。講義どうしようかな。失恋で意気消沈しているとはいえ、僕も一応大学の講師だ。僕が担当する講義の日程はクリスマスイブと重なっている。この日に予定通り講義を行うか、気を利かせて休講にしてあげるか。年頃の子たちだから、きっと彼女や彼氏と街へ出かけるのだろう。だから彼らは休講を望んでいると思う。僕も彼女に別れを告げられるまではそんなクリスマスイブを過ごせると思っていた身だから。
 自分が休講にしてしまえば、彼らはきっと楽しくてイルミネーションのように輝くクリスマスイブの夜を過ごすのだろう。それでいいじゃないか。だけどそんな思いに暗雲が立ち込める。やがてその暗雲が僕の心全部を包み込む。
 クリスマスに孤独を味わいたくないという身勝手な気持ちを(はら)んだ雲が。それに学生の本分は勉強のはずだ。休講にしたらその本分から外れることになる。講師失格だ。よし!
 僕は伏せていた顔を上げる。伏せていたからか、突然視界が明るくなり思わず目を細めた。それでも僕は手を止めない。
 デスクに置いてあるパソコンを開き、大学のホームページ画面へとアクセスしていく。そこに連絡通知の文面を書き連ねる。
 『来週はクリスマスイブですが、通常通り講義を実施します』


 皆僕の妬みに気づいてしまったのだろうか。静かな空気と眩しい蛍光灯の光が辺り一帯を包む。窓に目をやると、夕焼けを超えて空は薄暗くなっていた。まもなく定刻だ。
 やがて秒針が十二を過ぎ、本来ならば講義を始めなければならない時間となってしまった。教室は相変わらず静寂を帯びている。始める意味なんてもはや皆無だった。
 誰もいない教室。いつもならある程度の人数は出席してくれるのに。その静寂を味わえば味わうほど、自分が惨めな存在に思えてくる。クリスマス直前に恋人に振られて、その上孤独を味わいたくないがために学生までも巻き込もうとして、挙句の果てに誰も来てくれなくて。
 きっと皆、今日の講義のことなんて忘れて誰かと楽しい時間を過ごしているんだろうなぁ。イルミネーションに目を奪われて、ケーキを頬張って、プレゼントを交換し合って。
 もっとちゃんと彼女と向き合えば、もっと気遣っていれば、僕もそんな時間を過ごせたのだろうか。今は来ていない学生たちのように。
 ダメだ。目の奥に熱が集まるのを感じる。その熱はやがて塩分濃度の高い水を生み出していく。それは粒となって頬へと流れていった。授業中であることを忘れて。
 でもいいよね。定刻からもう時間は経っているし、きっと今日は誰も来ないだろう。教材を片付けながら、次々と溢れてくる涙の止め方に悩んでいると、僕を包んでいた静寂が突然崩れた。
 最初のガチャッという音から床と靴がぶつかり合う音へと変わっていく。
 涙を止める間もなく音の方へ自然と視線が向かう。そこにいたのは紛れもなく僕の講義を受講している学生だった。
 その人は僕を見るなり表情を固める。その瞬間、自分が今の今まで泣いていたことに気づき、手で必死に拭う。それからまた視線を戻すと、その人は僕へと近づいてきた。こちらに来ると思いきや、一番前の席に腰を下ろす。コートに付着した雪が教室の蛍光灯の光に反射し、まるでイルミネーションのようだった。
 そして再び、目が合う。
 「あの……講義始めないんですか?」
 控えめで可愛らしい声が耳に届く。少し迷った。たった一人のために講義をするなんて。だけどそれ以上に、クリスマスイブに誰かがいてくれることが嬉しかった。だから……。
 「じゃあ、始めようかな」


 「あの、お名前を教えてください」
 「早川凜です」
 「じゃあ、早川さんはこの論点についてどう思いますか?」
 「そうですね……」
 大学は高校とかと違って教える側と教えられる側の距離がある。だから受講者の名前を覚えていないことは珍しくない。
 久しぶりだった。こうして双方向型の授業をするのは。自分が一方的に話すのは楽だけど、やっぱり人と話しながら授業を進めていく方が楽しい。
 ハッと時計を見たら何と授業終了時間を五分も過ぎてしまっていた。定刻通り講義を実施できなかったのもあるけど、それ以上に楽しかったのだ。お互いの考えをアウトプットし合って、議論して。結局早川さんしか来なかったけれど、とても充実した時間を過ごせた。振られたという事実を隠すほどに。
 「今日の講義は以上です。クリスマスイブなのに来てくれてありがとう」
 それは心の底から湧き上がってきた感謝の気持ち。感謝しかない。来てくれなかったら、今もみっともない涙を孤独の中流し続けていただろう。
 「いえ、講義楽しかったです。特に今日の講義は」
 笑顔でそう言ってもらえると素直に嬉しい。たとえそれがお世辞でも。もっと議論を続けたかったなぁ。ふとそんな気持ちが脳裏を掠めた。
 やがて早川さんは荷造りを始めた。そこで僕はまた現実を突きつけられる。
 また一人ぼっちになってしまう。彼女のことを嫌でも思い出してしまう。あと少しだけ孤独を遠ざけたい。
 「あの……もしよかったらなんだけど……一緒に学食食べに行かない? あっ、もちろん僕の奢りだけど」
 「えっ?」
 予想通り早川さんは表情を固めた。それを解そうと、僕は理由を付け加える。
 「さっき見苦しいところ見せちゃったし、貴重なクリスマスイブを奪ってしまったから……」
 「そんなこと思いません」
 勢いのある声に顔を上げると、口の端を強く結んで少し怒ったような表情をした早川さんがいた。
 「大学生になって教師が遠い存在に感じるようになってたんです。近寄りがたいというか。あっ、嫌いとか苦手とかじゃなくて。高校の時より先生があんまり生徒に干渉しなくなったなぁって。だから先生が泣いてたのを見て、教師も私と同じように喜怒哀楽を持つ人間で、そう遠くない存在なのかなって思えました」 
 そうだったんだ。確かに距離が遠いとは思ってたけど、近寄りがたいとまで思われていたとは。
 「ごめんなさい、生徒の気持ちを汲めてなくて」
 僕はきちんと生徒と向き合えていなかった。だからきっと彼女にも愛想を尽かしてしまったのだろう。
 「謝らないでください」
 そんなに落ち込んだ顔をしていたのだろうか。眉を八の字に下げている早川さんを見てそう思った。
 「だから今日の講義は本当に楽しかったですし、嬉しかったんです。クリスマスのイルミネーションの眩しさに負けないくらいの白熱した議論ができましたから。だから、学食……連れて行ってください」
 自分から提案したにも関わらず、僕は驚いてしまった。本当に了解してくれるとは。早川さんの瞳は真剣だ。そして僕も同じ気持ちも一緒だった。もっと議論したい。考え方をシェアしたい。いつかのケーキバイキングの時のように。
 僕は頷いた。すると、早川さんの頬の色があの日の彼女の頬の色と重なる。
 さっきまで眩しいと思っていた蛍光灯の光がいつの間にかほどよい明るさになっていた。それはここにあるはずがないケーキの香りを幻として蘇らせる。
 それは紛れもなく初恋の香りだった。