――好きです。付き合ってください。

 あの日。その言葉を聞いた日から、どのくらい経っただろうか。
 教室にある自分の机に荷物を置いて、窓の外を静かに見つめる。
 恋愛って、本当に綺麗なものなんだろうか。
 答えの出ない問いを今日も自問してから、席に座る。
 わからない。
 教室のあちこちでは、今日も色鮮やかな声が飛び交っている。
 その中でも、耳に残るほど上擦った声があがるのはやはり恋愛話、恋バナだ。

「カレシがね、この前の私の誕生日に可愛いお財布くれたの!」
「次の日曜、カノジョと初デートに行くんやけど、どうすればいい!?」
「ねえ聞いて聞いて! 先輩に告白されたーーっ!」
「よし、次こそは絶対あいつに気持ちを伝える!」

 彼も、彼女も、あいつも、こいつも。
 本当に高校生活には、青春には、恋愛が溢れている。

 ――好きです。付き合ってください。

 だからこそ、その一端を垣間見たい。
 手に持っていたスマホに目を落としてから、メッセージに返信をする。

 >>計画通り、実行してください。

 *

『え〜ただいまから、「告白ゲーム」を始めまーす!』

 大学受験対策のHRが始まった、11月29日金曜日。15時丁度。
 心地良い秋晴れが窓の外に広がる教室にて。
 聖奈が友達の桃果と麻耶と受験勉強の気晴らしがてら、放課後にカラオケへ行く約束をした休み時間の、直後のことだった。
 教室に取り付けられた校内放送用のスピーカーから、楽しげな女の声が聞こえてきたのは。

『ルールはかんたーん! 好きな人に告白して、OKもらって恋人同士になった2人から教室を出ることができまーす! それ以外の人は教室から出ちゃダメでーす! 出たら死んでもらいまーす!』
「はい?」
「ははっ。誰だよ、放送室で遊んでるやつ」
「それな。マジでいきなり何言ってんだ?」

 突如として響く意味不明な文言に、教室内がざわつく。今しがたまで受験対策スケジュールを説明していた担任の田町先生が、荒々しくチョークを黒板の縁に置く。

「おい、静かにしろ。授業中だぞ。まったく誰だ? こんな悪戯をしているやつは」

 苛立たしげに田町先生は教壇を降りると、教室のドアを乱暴に開け放った。そのまま足早に廊下へ出て、放送室のある右手へと歩いていく。
 直後、『アハッ!』とスピーカーから短い笑い声が聞こえた。

『丁度いいや〜! 田町センセ、見せしめありがと〜!』

 刹那、ガラスの割れる音が室内に響き渡った。
 続いて、ここ3年2組の生徒の眼前に広がったのは、血飛沫。教室前方の出入り口で、悲鳴をあげる暇もなく田町先生が胸から血を流して倒れ伏すまでの、一部始終だった。

「きゃああああああっ!?」

 一番近くに座っていた麻耶が金切り声をあげる。それを皮切りに、一瞬静まり返った教室内に動揺が走っていった。

「うそ、なになに!?」
「え、タマセン殺された?」
「うっ……おえ、気持ち悪い……」
「窓から何かが……まさか、狙撃?」
『はいはーい! 3年2組の皆さーん、静かにしてくださ~い』

 再び、スピーカーから女の声が流れてきた。相変わらずのんびりとした声だが、もはやそれを囃し立てる人はいない。
 女はひとつ咳ばらいをすると、楽し気な口調のまま言葉を続ける。

『えー残念ながら、田町センセーは撃たれちゃいました~。まあ生徒に手を出そうとしてたクソ先公なんで、同情の余地は微塵もないですけど。皆さんは、ルール違反なんてしないようにしてくださいね~。好きな人からの愛の告白じゃなくて、銃弾に心臓撃ち抜かれちゃいますからね~?』
「……っ」
『アハハハッ! はーい、それじゃあこのゲームには命がかかっていることを理解してくれたところで~、細かいルールを説明しまーす』

 そこで、教室のあちこちからバイブ音やら通知音が鳴り出した。聖奈も類に漏れず、徐にポケットからスマホを取り出す。

 >>【告白ゲーム】ルール説明

 さっきまで桃果や麻耶と見ていたSNSからの通知欄には、そんな文字が並んでいた。
 聖奈が周囲をうかがうと、誰も彼もがスマホをいじっていた。ここでDMの詳細を見てしまえば、引き返せなくなる。
 しかし、見ないわけにはいかなかった。
 聖奈は恐怖に震える手を叱咤して、画面をフリックした。


【告白ゲーム】ルール説明

①3年2組のクラスメイトに告白(※)してOKをもらい、恋人同士になった2人は教室から出ることができる。
 ※ここでいう「告白」とは、「特定の相手に好意を伝え、自分と恋人関係になる意思を確認すること」を指す。なお、本ゲームにおいては、ゲーム以前に成立している恋人関係は考慮しない。
②制限時間はHRが終了する15時50分まで。制限時間を過ぎても教室に残っていた者は殺される。
③告白できるのは1人1回まで。告白を断られた場合は殺される。
④恋人同士となった2人は同時に教室から出なければならず、その時に恋人である証明をする必要がある。
⑤条件を満たさずに教室から出た者は殺される。


「なんだ、これ」
「告白って、え、ここで?」
「待ってマジ意味わかんない。帰りたいんだけど」

 ルール説明を読み終わったらしきクラスメイトから、次々と不満の声があがる。
 無理もない。いきなりこんなことを一方的に言われて信じられるわけがない。聖奈も頭が真っ白になり、思わず見知った異性である間中定彦の方へ視線を向けた。

「あ……」

 目が合った。
 しかし次の言葉を発する間もなく、スピーカーから陽気な声が聞こえてきた。

『はいはい、落ち着いてくださーい。皆さん、ルール説明は読みましたね? ということで、今から質問タイムとしまーす。時間もないので5分だけでーす。その後は早速ゲームに移ってもらいますので、疑問は今のうちに解消しておいてくださいねー』
「おい、ふざけんな! そもそもどうして俺らがこんなデスゲームみたいなことしねーといけねーんだよ!」

 スピーカーに向かっていきなり怒鳴りつけたのは、粗暴なことで有名な問題児、平野大毅だ。その表情には明確な怒りが浮かんでおり、隣に座っている桃果たちは距離をとっている。

『質問第1号、どうもでーす! 理由はそうですね~、皆さんに本当の恋愛について考えてもらいたいからでしょーか』
「は?」
『まあやっていくうちにわかりますよ〜。それよりも平野大毅くん、時間ないんですからもうちょっと有意義な質問してくださいね〜。その質問、進行に関係ないですし。そもそもデスゲームを納得してから始めようなんて無理な話なんですから〜クスクス~』
「んだと、てめえ!」

 大毅は思い切り机を足蹴りした。荒々しい音を立てて机が床に倒れ、遠巻きに眺めていた女子たちから小さな悲鳴があがる。

「おい、平野やめろ」

 今にもスピーカー目掛けて椅子でも投げそうな形相の大毅を制したのは、学級委員長の大渕勇輔だ。

「先生が撃たれたの見ただろ。事を荒立てると命が危ない」
「でもよ!」
「まあ待て。俺に少し考えがある」

 大毅とは対照的な爽やかな口調のまま、勇輔は真っ直ぐスピーカーを見据えた。

「おーい、俺からもいくつか質問いいか?」
『おっ、優等生の委員長くん。いいよいいよ〜、でも手短にお願いしまーす』
「じゃあ早速。これ、クラスに好きな人がいない場合はどうするんだ?」
『んーその場合は比較的気になる人に告るとか、誰かとその場限りの恋人になるとかしてくださーい。日常に戻ったら別れても全然いいので〜。あ、でも証明はちゃーんとしてくださいね~』
「なるほど。ちなみに好きな人ってのは、同性でもいいのか?」
『え、全然いいですけど〜。もしかして委員長くん、ゲイですか〜?』
「さあてな。そうだったりしてな」

 不敵に笑う勇輔に、教室内が軽くざわついた。
 しかしそれは、先ほどまでの殺伐としたものとは違う純粋な戸惑いや好奇心だった。整った顔立ちながら付き合っている人がいないことで有名な勇輔のおどけた言葉に、張り詰めていた空気が僅かに弛緩する。

「まあそれはさておき、一番訊きたかったことを訊くんだけど。さっきも言ってた『証明』っていうのは、具体的に何をすればいいんだ?」

 勇輔が低い声で尋ねた質問は、聖奈も気になっていたことだった。
 恋人であることの証明。その字面だけで嫌な予感しかしない。
 またかなり曖昧な文言だけあって、誰もが同じ疑問を抱いていたのだろう。「あたしもそれ気になってた」「証明って、何させられるの」「なんか怖い」と口々に声があがる。
 その反応を見てか、女は満足げに『よくぞ訊いてくれました!』と叫んでから説明を始めた。

『証明でしょ、気になるよね~! 怖いよね~! だって何するか書いてないんだもんね~!』
「早く答えてほしいんだけどな。時間がないって言ったのはそっちでしょ」
『お~こりゃ失敬。証明っていうのはね~、自分たちで考えてくださーい!』

 違った。
 説明を、あろうことか放棄した。
 聞き逃すまいと固唾を飲んで回答を待っていた聖奈の口から、「え?」と呆けた声が漏れる。

「おい、待て。自分で考えろとはどういう意味だ?」

 すぐさま勇輔が続けて質問を投げる。

『えー。そのまんまの意味ですよー。恋人同士がするような、アレやコレやを私たちに見せつけてくださーい!』

 女は調子を変えずに答えた。その言葉の中にまた気になる文言を見つけて、聖奈はつい口を開く。

「私たち、って……?」
『おおっと、ヤバ。口が滑ったの気づかれちゃった? あーあ、初回の楽しみにとっときたかったんだけどな~』

 小さくため息をつきつつも、やはり楽し気に女はぼやいた。それから何やらキーボードを叩くような音がしたかと思うと、再び教室内でバイブ音や通知音が鳴った。
 聖奈がスマホに目を落とすと、またDMが来ていた。
 そこにあったのは、ひとつのURL。
 先ほど同様DMを開いてからタップすると、途端にいつも見ている動画サイトが起動した。

「え、これって……」

 誰かの絶句した声が耳を衝いた。
 それは、もしかしたら聖奈自身のものかもしれなかった。
 みんながみんな、唖然としてスマホを見つめていた。
 そこには、3年2組の教室内の様子が「LIVE」という文字とともに映し出されていた。

『ご覧の通り、この教室の模様は配信されていまーす。といっても一部の人、スポンサーに対してだけの限定公開だけどね~』
「スポンサー?」
『優秀な委員長くんならわかるでしょー? こういう楽しいゲームは、お金がないとできないってことくらいさ~。ちなみに、さっきの証明のジャッジもスポンサーの方々の反応を参考にするんで、ちゃーんと楽しめるように恋人同士らしくしてくださいね~!』

 その言葉を最後に、女の背後でキッチンタイマーみたいな電子音が鳴り響いた。

『おおっと、時間ですねー。それじゃあ、質問タイムはここまでとしまーす!』

 女は電子音を止めてから、嬉々とした声で質問タイムの終了を告げた。つまりそれは、これから「告白ゲーム」なるデスゲームが始まることを意味している。
 けれど、聖奈の頭の中にはひとつの解決策が浮かんでいた。
 聖奈の所属するここ3年2組の生徒数は26名だ。内訳としては、女子が15名、男子が11名となっている。すなわち、偶数なのだ。
 もし告白する相手が異性だけだと言われたら必然的に余る人が出てきてしまうが、先ほどの勇輔の質問で性別は関係ないとの確認がとれている。それなら、全員が手頃な相手に告白して了承をもらい、便宜上の恋人関係となって教室から出ればいい。そうすれば、全員が文句なく助かる。恋人同士であることの証明は恥ずかしいけれど、命がかかっているのだからそんなことも言ってられない。
 聖菜は今一度自分の考えに穴がないことを確認してから、もう一度定彦に目を向けた。

 ――好きです。付き合ってください。

 その時、いつかの声が脳裏に蘇ってきた。
 聖菜は慌てて首を振り、それを掻き消した。

『あ、最後にひとつ。忠告しておきまーす』

 脳内にリフレインしそうになっていた声を上書きするように、女の声が響いた。

『このゲーム、過去に全員が生きて出られた回はないんでー、くれぐれもなめないでくださいね~?』

 まるで自身の考えを見通したような言葉に、聖奈は息を呑んだ。

『それでは、「告白ゲーム」スタートでーす!』

 女の声色は今までで一番高く、そして楽しそうだった。
 聖奈の脳裏には、もう声は響いていなかった。
「おい、大渕。お前、さっき考えがあるとか言ってたよな。聞かせろよ」

 女の声が聞こえなくなってすぐ、倒れた机に腰を下ろしていた大毅が立ち上がった。その目は鋭く怒気を湛えたまま、勇輔を睨みつけている。

「ああ、説明するのはまあいいんだけど。ただ、ちょっと困ったことになった」
「どういうことだ?」
「えっと、時間もないしとりあえず策について説明するよ。って言っても、気づいている人もいると思うけどね」

 続けて勇輔が話した策は、ちょうど聖奈が考えたものと同じ内容だった。
 このクラスの生徒数は偶数であるため、仲の良い友達同士や席が近い見知った者同士で2人1組となり、その場限りの恋人関係となる。証明は恥ずかしいかもしれないが、命には代えられないのでできる限り本気でやってほしいとのことだ。

「ただ、ひとつ。この証明だが、さっきスポンサーに向けて配信されていると言っていた。そしておそらく、録画もされている」
「え、録画って……それってつまり、俊介先輩以外の人とそういうことしてる場面を撮られるってこと!?」

 勇輔の言葉に、3年2組のムードメーカーである小畠美友香が小さく叫んだ。
 彼女は、去年までこの高校に在籍していた卒業生でサッカー部に所属していた柳多先輩と付き合っており、自他ともに認めるラブラブっぷりをSNSにもあげていた。もっとも、柳多先輩はイケメンだが嫉妬深いと陰で噂されており、そこまで羨ましがる人も多くはなかったのだが。

「まあ、大丈夫でしょ。その場限りなんだし、柳多先輩もわかってくれるって」
「そーだよ、美友香。うちらからも説明してあげるしさー」

 取り乱す美友香を、彼女と仲のいい大口奈波と柚木杏子が両側から抱きつくようにしてたしなめる。校則を完全に無視した短いスカートが揺れ、派手なネイルが美友香の頭を撫でていた。

「いやいや、勇輔が言ってるのはそーいうことじゃねーんだよ」

 しかし、そんな二人の慰めの言葉も、話の輪に入ってきた3年2組の男子サイドムードメーカー、西条彰によって上書きされた。

「はあ? それ、どーいう意味?」
「録画された映像がスポンサーに見せられるんだぜ? とーぜん、渡される可能性もあるだろ。何に使われるかわかったもんじゃねーよ」

 首元が開いたカッターシャツや歪んだネクタイといった着崩しをしている見た目のわりに、彰は地頭がかなりいい。ヘラヘラと笑いながらも真面目な危険性を示唆してきたことに、3年2組の生徒たちはそれと見てわかるほどに狼狽えた。

「うそだろ」
「それだったらまだ同性が良くない?」
「相手選ばないとだよねー」
「変なやつとキスとかできねーよな」
「あと本当の恋人がメンヘラじゃないやつにしとかないとな」
「確かに。この場限りだとしても刺されそう」
「えー既に付き合ってるやつらズルすぎ」
「でもそんなことも言ってらんないよね」

 方々で不満や懸念の声が上がっていく。もっとも、実際に口に出しているのは比較的社交的な生徒ばかりで、内向的な生徒は教室の隅に集まってひそひそと話していた。
 かくいう聖奈もそのひとりで、飛び交う不安の声の下、そっと麻耶に近づいた。

「ねえ、麻耶。大丈夫?」
「う、うん……」

 近くに来るまで聖奈は気がつかなかったが、麻耶は小刻みに震えていた。尋ねるまでもなく、至近距離で田町先生が撃たれて血を流すところを見てしまったせいだ。

「落ち着いて。窓際の方に行こう?」
「うん……ありがと、聖奈」

 こくりと弱々しく頷く麻耶の手を引き、聖奈は窓際の後方まで歩いていく。その途中で桃果の姿を探したが、どうやらカレシである浅間光誠と喋っているようだった。
 二人で教室から出るための手筈を整えているんだろうな、と聖奈は思った。先ほど誰かも言っていたが、既に3年2組内で付き合っている生徒にとっては、今回のお題はかなり難易度が下がる。今付き合っている恋人に再度告白をして、紛れもない本当の恋人同士の二人として堂々と証明をしてから教室を出ればいいのだから。桃果と光誠との仲が悪いという話も聞かないし、その意味では桃香はほぼ勝ち確の立ち位置にいる。
 安心したやら羨ましいやらの複雑な感情が、聖奈の心に湧き上がる。けれど、仕方ないのだ。地味で勉強しか取り柄の無い聖奈は、恋愛とは無縁の毎日を送っているのだから。

 ――好きです。付き合ってください。

「……っ」

 違う。聖奈は脳裏に過った言葉を無理やり掻き消した。
 それから麻耶の背中を撫でていると、クラスの中心で話していた勇輔がパンッと小気味良い音を立てて手を合わせた。

「よし、みんな聞いてくれ。今は15時13分。時間もあまりない。不安要素はいろいろあるが、死んだら元も子もないんだ。まずは言い出しっぺの俺がいくから、その後は心の準備ができた人から告白していってくれ。それと、告白された方は本当の気持ちはどうであれ、必ずOKするようにな。断ったら、死んでしまうから」

 透き通るような勇輔の発言に、クラスメイトは次々に首肯した。全員が助かる攻略法を提示するだけでなく、先陣を切って実行する気概もあって、否定する声はひとつもあがらない。
 勇輔は小さく息を吐いてから、前を向いた。
 緊張しているのがわかった。
 それはそうだ。一瞬だけでも、自分の命を他人に預けることになるのだ。緊張しないはずがない。
 勇輔は、いったい誰に告白するのだろう。
 いつも仲の良い爽やか秀才男子の定彦か、あるいは中学からテニスで競っているらしいライバルの水戸部智か。
 いや、もしかしたらここぞとばかりに女子の誰かに告白するかもしれない。奈波や杏子とは休み時間にしばしば親し気に話しているし、テニス部のマネージャーで男子からも可愛いと人気のある能仲沙月の可能性も考えられる。仮初の告白だとしても、勇輔のそれが意味するところは、少なくとも女子たちの中ではかなり大きなものとなる。果たして。

「――秋穂」

 けれど、勇輔の口から出た名前は、その場にいる誰もが予想だにしていない名前だった。
 いつもクラスの隅の席でひとり静かに本を読んでいる女子、山科秋穂は驚いた様子で勇輔を見た。

「高校に入ってから、話すのは初めてだよな。なんだかんだ二回も同じクラスになったのに、俺は結局三年の今になるまで話しかけられなかった」

 勇輔の僅かに震えた声が教室に響く。さっきまでの透き通るような明瞭さは、すっかりなくなっていた。

「でも、知ってる。テニスの大会にずっと応援に来てくれていたこととか、目立つのが嫌なのに体育祭で声を出して応援してくれていたこととか、中学の文化祭で……一緒に見て回ろうって、誘おうとしてくれた、こととか……」
「勇、ちゃん……」
「俺、昔から一緒に遊んでた秋穂と付き合うのが怖かった。付き合って、でもすれ違いとかしてしまって、それで喧嘩して別れたりなんかしたらって思うと、怖かった。だから、距離を置いてた。チキンだよな、俺。ほんと情けない」

 そこで、勇輔は言葉を区切った。
 みんな、勇輔の方を見ていた。

「でも言うよ、俺。チキンで臆病な俺に夢を見させてほしいっていう気持ちもあるんだけど、秋穂になら命を預けられるから。仮に断られても、恨んだりしない。それになにより、秋穂を置いて教室を出て行くことは……俺にはできない」

 勇輔は、お腹の前で組まれた秋穂の手をとった。

「秋穂、好きです。俺と、付き合ってください」

 その眼差しは、とても真剣だった。
 自分に言われているわけじゃないのに、胸の辺りが跳ねた。
 まるでそれは、映画や漫画のようで。
 不純物の混じっていない青春恋愛のワンシーンが、そこにあった。

「はい、はい……! 私も、勇ちゃんになら……命を預けられます……!」

 秋穂は潤んだ瞳で勇輔を見つめて、何度も何度も頷いた。
 そこからは、一瞬だった。
 勇輔は顔を綻ばせ、秋穂を抱き寄せた。

「ありがとう。ありがとう……秋穂」

 勇輔は、誰彼の視線も感情も眼中にないようだった。
 みんなが見ている前で、彼はそっと秋穂と唇を重ねた。
 それから、呆然としているクラスメイトの隙間を通り抜けて、二人は手を繋いだまま教室から出て行った。
 どのくらいの時間か、3年2組には沈黙が漂っていた。実際には、僅かな時間だったように思う。

「あれ、マジなの?」

 けれど。その後には、杏子の苛立ちめいた言葉が吐き捨てられていた。
『はいはーい! 記念すべき一組目のカップルが誕生しましたね~! パチパチ~! これは文句無しのラブラブな関係を築いていけそうですねー! ということで、残る独り身生徒は24名となりまーす。残り時間も33分しかないので急いでくださいねー』

 勇輔と秋穂が教室をあとにしてすぐに、スピーカーから楽し気な声が流れてきた。しかしそれは、すぐにプツッというノイズを発して聞こえなくなる。

「ちっ。なんなの、あれ」

 スピーカーに舌打ちを飛ばしながら、不機嫌さを隠す素振りもなく椅子に座ったのは柚木杏子だ。

「状況を考えろって思うよねー。ああいうの、マジさむいし。つーか、なんであんなやつ選ぶんだよ。フツーは違うだろ」

 溢れ出てくる言葉の端々には、自分が選ばれなかったことに対する不満がありありと出ていた。いわゆるスクールカーストの上位に君臨する杏子としては、下位に落ち着いている秋穂が選ばれたことが納得できないのだろう。
 いつもの軽い愚痴とは違う明らかに不穏な言葉の数々に、彼女と仲のいい美友香や奈波もなだめるのを諦めて、「マジそれ」「時と場所を考えてほしいわー」と同調しているばかりだった。

 ――くれぐれもなめないでくださいねー。

 スピーカー先の女の言葉の意味を、聖奈はこの時初めて理解した。
 一瞬たりとはいえ、自分の命の行く末を見知らぬ他人に預けることは怖い。なるべく信頼できる人や、必ず自分の思い通りの返答をしてくれるような人を望むのが普通だ。
 そして、先ほどの勇輔の言葉。

 ――それになにより、秋穂を置いて教室を出て行くことは……俺にはできない。

 このゲームでは、全員が解決策に従って仮初の恋人関係になり、怖気付くことなく証明を完遂すれば死者を出さずにクリアできる。
 だが主観的に考えてみた場合、確実に助かると断言できるのは、自分と恋人関係になった人だけだ。
 自分と恋人関係になった人以外が助かるかどうかは、他人の言動や判断に委ねることになる。もし失いたくない好きな人がクラスにいた場合、その人の命運を他人に委ねることができるだろうか。
 聖奈は、小さく唇を噛んだ。
 このデスゲームを死者を出すことなく完全クリアするためには、全員が感情を一時的に捨てて全体幸福のために合理的な判断をするほかないのだ。
 頭ではわかっていてもそれがいかに難しいことかを、聖奈は改めて思い知らされた。

「おい、いつまでもグチグチ言ってんな」

 聖奈があれこれと考えを巡らせていると、唐突に大毅の不機嫌そうな声が割り込んできた。聖奈はすぐに現実に引き戻される。
 どうやら、未だに不満が止まらない杏子に向けて言ったようだった。

「はあ? なにが?」
「なにが、じゃねー。残り時間は30分しかねーんだぞ。さっさと次いかないといけねーって時に、無駄な時間使ってんじゃねーよ」

 大毅の言葉は、この場にいる誰もが思っていたことだ。時計に目を向けると、15時20分を指している。
 杏子もそのことに気づいたようだが、フンと鼻で笑い返した。

「はっ、ウザ。さっきの質問タイムで無駄な時間使ってたのはどこのどなたでしたっけー?」
「なんだと?」
「あれー? そこにいるのはスピーカー女から怒られた大毅くんじゃないですかー? どの口が言ってるのかな~?」
「てめえっ!」
「はいはい。ストップ。平野、暴力はいけないって」

 小馬鹿にするような杏子に思わず掴みかかろうとした大毅を定彦が止めた。

「柚木も。これ以上時間使うとまずいから、いったん矛は収めて」
「は? 告白して証明して出るなんて1分あればいけるでしょ? うちにはカンケーねーし」
「まあまあ、そう言わずに。大毅も抑えて抑えて」

 自分のことしか考えていない杏子の言葉に、定彦は小さく肩をすくめる。これ以上の問答は無駄と判断したのだろう。それ以上は特に言い返すこともなく、顔に怒りをたぎらせている大毅を落ち着かせると、取り巻いているクラスメイトの方を向いて口を開いた。

「さっ、みんな。時間があるにしろないにしろ、早くこんなゲームはクリアするに限る。次に出てくれる人はいないか?」
「じゃあ、次は俺らが行くわー」

 待ってましたとばかりに手を挙げたのは、3年2組のカップルといえばでお馴染み、望月竜輝と日野菜々だった。
 二人は1年生の時から周囲が呆れるほどのラブラブっぷりを見せつけており、このクラスどころか3年生で竜輝と菜々が付き合っていることを知らない人はほぼいないほどだった。勇輔の一幕に僅かな波乱があったにせよ、何をすれば教室から出られるのかがわかった以上、二人が行くのは納得できた。

「竜輝たちか。それじゃあ頼む。俺らもすぐに行くからな」
「はいはーい。任されました。先に教室出て警察に連絡しとくね。なぜか知らないけど、ここだと繋がらないし」

 菜々はひらひらと手に持ったスマホを振った。
 そうなのだ。先ほどまでルール説明やら配信のリンクやらと電波が繋がっていたのに、いつの間にかスマホの上部には圏外と表示されていた。おそらくは、電波を妨害する何らかの装置が起動しているのだろう。

「んじゃ、菜々」
「うん」

 竜輝はそっと菜々の手を引くと、先ほど勇輔たちが出て行った教室後方の出入り口に立つ。

「菜々。何度言ったかわからないけれど、出会って五年経った今でも、俺の気持ちは変わっていない。俺は、菜々のことが好きだ。大好きだ。その気持ちは、最初の頃よりも大きくなってる。だから、俺と付き合ってください」

 言葉少なく、竜輝は菜々の目を真っ直ぐに見つめて言った。

「はい! もちろん喜んで!」

 菜々も簡潔に答えると、勇輔たちと同様に互いの唇を交わしてから教室を出た。銃声やガラスの割れる音は聞こえない。二人は朗らかに笑顔を浮かべると、放送室のある方へ向かって駆けていった。

「大丈夫そう、かな」
「ああ。いけるかもしれねー」

 定彦の呟きに彰が答えた。
 そこから先は、思いのほか早く進んだ。

「おーい、拓篤。俺さ、お前のこと本気でマジでたぶんめっちゃ好きなんだ! だから、付き合ってくれ! そして早く教室出ようぜ!」
「って、蓮さ。そんな適当な感じで言って大丈夫かよ。まあ、俺としても願ってもないけどさ。じゃあ証明は……って、待て待て待て! 俺の心の準備がまだ……あ」

 3年2組の大馬鹿コンビ、倉木蓮と新藤拓篤がコントみたいな告白劇を繰り広げて外に出た。何事もなかった。

「輪花……あのね、好きです。凜々花と、その、えと、付き合ってくださいっ!」
「は、はいっ! ここ、こちらこそ……よろしくおねひゃいします……」

 クラスであまり目立たない内気な吹奏楽部女子、有田凜々花と有川輪花が蓮・拓篤コンビの後にそそくさと告白とキスをして出ていった。何事も起こらなかった。

「和也ー! 今度はあんたの方から告白してよー! あたしがあの時味わった恥ずかしさ、あんたにも味わってほしい! ちゃんと了承してあげるから、ほら、せーの!」
「え、ええっ!? 俺はそういうこと言うの苦手っていうか……あれ。これ、既に告白じゃ?」

 クラスの中で付き合っていそうと噂の、江田佳代と八方和也もその真実を面前に晒して飛び出していった。何事も、なかった。
 あっという間に、3年2組の教室に残っているのは14人となった。「意外とヌルい?」なんて声まであがる始末だった。
 聖菜は麻耶と出るつもりでいた。しかし、いくぶん落ち着いたとはいえ麻耶は混乱している様子だったので、未だに手を挙げられずにいた。

「こ、光誠! あたしたちも!」

 その時、またひとつ声があがった。紛れもなく、桃香の声だった。

「ん、ああ。そうだな」

 制服の袖を引かれた浅間光誠は、桃香に引きずられるようにして前に出て行く。そこそこ後のタイミングになったのは意外だったが、どうやら桃香も外に出られそうな感じだ。
 しかし、ゲームの状況が動いたのは、この時からだった。

「こ、光誠……早く、告白してほしいんだけど」
「え、俺から?」

 桃香の催促に、光誠は驚いた様子で目を見開いた。まるで桃香から言われることが当然だとばかりの反応に、今度は桃香の方が驚嘆の声を漏らす。

「え、だって……光誠から、あたしに告白してくれて、付き合ったんじゃん」
「それはそうだけど。俺的には、今度は桃果から言ってほしいな。告白、一度されてみたかったし」

 光誠はにへらと口元を緩めた。人懐っこい笑顔が、そこにはあった。
 けれど、桃果は口籠った。
 告白することを、躊躇っているようだった。
 自然と聖菜の頭の中に、ルール説明の3つ目が思い出された。

 ③告白できるのは1人1回まで。告白を断られた場合は殺される。

 そしてそれは、おそらく光誠もそうだったのだろう。
 見てわかるほどに、浮かべていた笑顔が消えていった。

「はあー。桃香さ、もしかしなくても、告白を断られるかもって思ってる?」

 光誠の低い声が、桃香に向けられた。びくりと桃香の肩が跳ねる。

「そ、そんなこと!」
「どーだか。桃香ってさ、いつもそうだったよな。自分大好き構ってちゃんで、自分の思い通りにならないとすぐ不機嫌になる。しかも人の気持ちを試すようなこととかもしてるくせに、逆にされたら怒るんだもんな。ほんと、自分のことしか考えてねーよな」

 光誠は小さくため息をつくと、つと桃香の後方へ歩みを進めた。
 そして。二人の行く末を眺めていた3年2組のクラスメイトの中から、ひとりの手をとった。

「沙月。俺、やっぱりお前の方が好きだ。俺と、付き合ってくれ」

 能仲沙月。勇輔や智が所属するテニス部のマネージャー。ぶりっ子めいた仕草が女子からは不評でありつつも、男子からはかなりの人気を誇る女子だ。

「ほんと~! 嬉しい! もちろんだよ、こーせーくんっ!」

 それまで状況を静観していた沙月が、ゆるふわな声で甘える。近くにいた杏子たちが小さく舌打ちしたが、表立って沙月たちに意見することもなかった。

「ねえ待って、待ってよ。光誠……!」
「うるさい。話しかけてくるな」

 すがりつく桃香の手を、光誠は無情にも振り払った。桃香はバランスを崩し、尻もちをつく。

「告白を断らなかっただけでも、感謝してほしいな」

 光誠は短く吐き捨てるように言うと、そっと沙月の口元に顔を近づけた。「んっ……」と色っぽい声が沙月の口から漏れる。
 そのまま二人は手を繋ぐと、ゆっくりとした足取りで教室の出入り口に向かって歩いていく。

「桃香……」

 ほとんど衝動的に、聖奈は桃香に駆け寄ろうとした。
 呆然として涙を流す桃香を、これ以上見ていられなかった。
 事件は、そこで起こった。

「……っ! 光誠! あたしは、それでも光誠のことが好き! 大好きなのっ! あたしと、あたしと……付き合ってよっ……!」

 その場にいた全員が、息を呑んだのがわかった。
 あろうことか、桃香は自分を想いを口に出した。光誠と沙月が教室をあとにするまさにその寸前に、「告白」をしたのだ。

「ごめん、ごめん……光誠……。あたしが、間違ってた。確かにあたしは、自分の思い通りにならないと苛立ってた。自分に自信がないから、光誠があたしのことを本当に好きなのかどうかも信じられなくなって、試すようなこともたくさんしてた。本当に、本当にごめんなさい……! これからは、そんなことしないから……悪いところは直すように頑張るから……だから、お願い……あたしを、見捨てないで……」

 光誠は、驚愕の表情を顕わにしていた。
 あと一歩、足を踏み出せば教室から出られる。その状況で、自分が「告白」されたのだ。

「桃香、お前……」

 戸惑い。混乱。恐怖。様々な感情が、光誠の顔に浮かんでは消えていった。桃果は何度も光誠の名前を呼んでいた。

「……こーせーくん。ほら、行こ」

 しかし、そこでグイっと沙月が光誠の袖口を引っ張った。
 たった一度。たった一度呼ばれただけだった。それでも光誠は一瞬の逡巡のあと、「ごめん」と一言謝り、沙月とともに教室から出ていった。
 それが意味するところは、ひとつだった。
 破砕音が、すぐ真横を駆け抜けた。
 続いて、強烈な血糊の臭いが、鼻の粘膜を刺激する。

「桃果っ!」

 聖奈の叫びも虚しく、桃香は制服を鮮血に染めてリノリウムの床に倒れた。
『はーい! いや~ようやく面白くなってきましたね~! 前半の甘酸っぱ~い青春恋愛模様も良かったんですが、後半戦はどうなるんでしょうかね~! ドキドキですねー! 現在の独り身生徒は11人。残り時間は24分でーす! スポンサーの皆様方も、レイズするなら今ですよー!』

 唖然とする3年2組の頭上へ、お約束とばかりに楽し気な女の声が飛び込んできた。
 ほとんどその内容は頭に入ってこなかったが、レイズという聞き慣れた不快な言葉に聖菜は思わず顔を歪めた。
 レイズというのは、ギャンブルや賭け事に関する言葉だ。おそらく、このゲーム内で起こるイベントや最後まで残っている人なんかを予想する賭博も併せて開催されているのだろう。かつて聖奈の父親だった人もよく口にしていたワードだった。人の命をなんだと思っているのか。

「フン。さーて、そろそろうちらも出ようか」

 そこで、桃香の一幕に溜飲が下がったのか、それまで静かにしていた杏子がすくっと立ち上がった。不機嫌そうなのは相変わらずだが、いくぶんか声の調子は落ち着いていた。

「そ、そうだねー。いい加減、電波繋がらないのもウザくなってきたし」
「血の臭いも、濃くなってきたもんね……」

 ここぞとばかりに美友香と奈波が同意する。これ以上、杏子の機嫌を損ねないようと思ってのことだろう。二人の顔には、杏子の顔色をうかがうような気配があった。

「でも、どうする? あたしら3人だし、誰かひとりが別の誰かと恋人にならないと」
「はあ? なに言ってんの?」

 しかし、それはすぐに崩れ去った。杏子が、憤慨だとばかりに声を荒らげた。

「なーんーで、うちも別の誰かと恋人になる候補の頭数に入ってんの? 美友香か奈波のどっちかがなればいいでしょーが!」

 その言い分は、いかにもわがままな杏子らしかった。近くにあった机を叩きながら、杏子は美友香に詰め寄っていく。

「あのさ、美友香ってたまにうちのこと見下してるよね? イケメンの先輩捕まえて自慢してくるのもウザかったけど、なによりさっき、勇輔があのぼっちと一緒に教室出て行った時も、ざまーみろみたいな顔してうちのこと見てたよね?」
「そ、そんなことしてない!」
「はあ? 無意識のうちにやってるとか、よりサイアクなんですけど」

 再び紛糾の様相を呈する言い合いが始まる。
 早く逃げ出したい。
 けれど、桃香が撃たれたことでそう簡単に事は運べなくなった。

「おーい、柚木。お前、それくらいにしておかないと、死んじまうぞ?」

 罵詈雑言が加速する中へ、別の声が放り込まれた。女子のものではない、男子の声だった。

「西条、なに勝手に入ってきてんの?」

 杏子の射殺すような鋭い視線の先には、相変わらずヘラヘラとした笑みを浮かべた彰が立っていた。

「いーや、一応忠告しとこうと思ってさ。今の状況、わかってんのかなーって」
「なに? どういう意味?」
「やっぱしわかってねーのか。あのな、今このクラスにいるのは11人。奇数なんだよ」

 そうだ。元々3年2組は偶数で、それぞれが合理的に動けば全員が出られるはずだった。
 しかし、桃香と光誠、沙月の一悶着があったことで桃香が死んでしまった。
 この「告白ゲーム」の前提ルールは、「3年2組のクラスメイトに告白してOKをもらい、恋人同士になった2人は教室から出ることができる」だ。つまり、一度に教室から出られるのは2人で、奇数の場合は最後に余った1人が出られなくなってしまうのだ。

「――つーまーり、奇数になった時点でもう一人の脱落は確定なんだよ。柚木、そんな嫌われる言動ばっかしてると、そのラスイチになっちまうぞ?」

 聖菜の想定と同じ説明をした彰は、呆れたように首を横に振る。
 そこでようやく、杏子は事態の重さを受け止めたようだった。みるみる顔が真っ青になり、力無く美友香と奈波の方を向く。

「え、えと……うち、うちは……そんなつもり、なくてさ。ジョーダン、そう、ジョーダンのつもりでー……」

 引き攣った笑いを浮かべて、よろよろと二人の元へ歩いていく。焦りや戸惑いがあからさまに声色に出ていたが、もはや手遅れだった。

「杏子、もう無理」

 冷たく言い放った美友香は、隣にいた奈波の手を握っていた。

「あたしらさ、ずっと我慢してきたんよ? マジで何様って、もう何度も、何度も何度もめちゃくちゃ思った! でも、さすがに死んでほしいとかまでは思ってなかった。けど、さっきのはないわー」
「ない、って、え、え……?」
「ごめんねー、うちもみゆっちに賛成。うちらのこと、いつでも切り捨てられる取り巻きとしてしか見てなかったこともショックだったし。しかも、ここまで言ってもまだ謝ってくれないもんねー。もういいよー」

 美友香の言葉に同調し、奈波も嘲るようにして一息に喋ると、二人は徐に向き合った。

「みゆっち。浮気しちゃうねー」
「ちょ、ななみん! そういうのズルい! 結構気にしてるんだから!」
「アハハッ、ダイジョーブだってー。うちもちゃんと、説明したげるからさー。あ、でも、うちは結構マジで、美友香のこと好きだよー?」
「も、もう!」

 既に告白は済ませていたのだろう。奈波は朗らかに笑いつつ、美友香の真っ赤に染まった顔に近づくとキスをした。
 そして二人は何事かを叫んでいる杏子には目もくれず、足早に教室の出入り口へと歩いていく。

「待て」

 しかし、これまでのみんなのように二人が教室から出ていくことは叶わなかった。いつの間に回り込んだのか、ひとりの男子がドアに寄りかかる形で道を塞いでいた。

「悪いけど、お前たちをこのまま出すわけにはいかない」

 落ち着いた口調でそう言ったのは、これまで成り行きを静観していた、水戸部智だ。

「ちょっとー、どいてくれない?」

 奈波が怪訝な視線を向ける。ようやく出られると思っていたところへ横入りされたのだから、当然の反応だった。
 しかし、智は全く態度を変えず淡々と返答する。

「無理だ。見てわかるが、今は奇数なんだ。偶数の時とは違って、早い者勝ちで教室から出すわけにはいかない」
「はあー? うちらはもう告白も証明もしちゃったんだよ。今さら何を言って」
「それに、だ。大口、お前本当に出て行っていいのか?」

 智は奈波の言葉を遮り、全員がいる後方へチラリと視線を向ける。すると、奈波は突然顔色を変えた。

「ちょ、ちょっと、どういうこと? あの子は、あんたと一緒に出るんじゃないの?」
「最初はそのつもりだったんだけどな。奇数になって状況が変わった。だから、約束はできないな」

 それだけ言うと、智は塞いでいた出入り口を解放し、男子たちが集まっているところへ戻っていく。だが、奈波が外に出る気配はない。

「な、奈波? どうしたの? 早く出ようよ」

 痺れを切らした美友香が奈波の手を強引に引く。すると、あろうことか奈波はその手を振り払った。

「……ごめん、みゆっち。今すぐには、出られなくなった」
「え、な、なんで……?」
「ほんと、ごめん」

 消え入るような奈波の声。その場にいた誰もが唖然としていた。
 いったい、どういうことだろうか。
 聖奈は考える。
 智の言い分はわかる。でも、奈波にかけた言葉はどういう意味だろうか。それに、奈波もどうして出ようとしないのか。
 
「おい、西条」

 聖奈が思考を巡らせようとしたその時、刺すような声が聞こえた。
 男子の輪に戻った智の声だった。

「今のうちに言っておこう。柚木も大概だが、俺はお前の方こそラスイチになるべきだと思ってるんだが、どうだ?」

 嵐の吹き荒れる気配が、3年2組の教室を包み込んでいった。
 それは険のある言い方だった。このゲームが始まって初めて、外ではなく中に向けての敵意だった。
 敵意を向けられた当人、西条彰は大きく狼狽える。

「は、はあ? そりゃどーいうことだよ?」
「どうもこうもない。お前、俺のカノジョに手を出したよな?」

 智は怒気を激らせて、彰を睨みつけた。そのあまりの剣幕に彰は数歩後ずさる。だが、逃すまいとばかりに智は彰の胸ぐらを掴んだ。

「忘れたとは言わせねーぞ。高二の時、お前は俺が当時付き合ってた小和田夕実に言い寄った。あの時の夕実は精神的に弱ってて、お前はそこにつけ込んだんだ。しかもお前は、やることはやった上で呆気なく1週間で捨てたな? それもサプライズだとかぬかして夕実を喜ばせた後に。満面のゴミみたいな笑顔を浮かべて……このクズ野郎が!」

 早口で述べられた事実に、聖奈は思わず口元を押さえた。
 いや、聖奈だけではない。隣にいた麻耶も、智に何事かを諭された奈波も、奈波を説得しようとしていた美友香も、床にへたり込んでいた杏子も、智を止めようとしていた定彦や大毅も、ゲームが始まってからずっと大人しくしている岡辺愛里や市本遼平ですら、彰を信じられないものを見る目で見つめていた。

「……ちっ。お前が、あいつのカレシだったのかよ」

 教室にいる全員の視線を受けて、彰は観念したようにため息をついた。それから乱暴に智の手を振り払うと、真正面から智を見据え、

「でもそれは、お前が愛想を尽かされてたからだろーがよぉ!」
 
 開き直った。

「なんか全部俺が悪いみたいな言い方してっけどよぉ、そもそもお前があの女に寄り添えてなかったのが原因だろーが! じゃなきゃ俺の誘いにも乗ってこなかったんじゃねーのかよ!」
「っ、それは……」
「だいたいさぁ、俺らが1週間で別れたのだって相性が合わなかったからなんだよぉ! やることやってなかったてめーにはわかんねえかもしれねえがなぁ! こっちはそういうちゃんした理由があって別れてんだ! いつまでもダラダラと関係を曖昧にしてたやつに偉そうに言われる筋合いはねぇ!」

 今度は彰が智に詰め寄ると、力任せに思い切り突き飛ばした。智は派手に転び、近くにあった机や椅子が音を立てて倒れる。
 それが決定打となった。

「おい、彰! やりすぎだぞ!」
「それ。暴力はない」
「大丈夫? 水戸部」
「きゃ、血出てるよ……!」
「彰、少し冷静になれよ」

 口々に彰への非難や智を気遣う言葉が飛び交う。それまで杏子に向いていた不信感が、完全に彰へと移っていた。

「……はぁー、くそっ。マージなんなんだよ」

 気怠げに頭を掻き上げ、彰はつぶやく。「やってられねー」と近くにあった椅子を蹴り飛ばした。小さな衝撃音が響き、全員の声が止む。

「俺もう出るわ。おい、柚木」
「え!? な、なに?」
「俺と付き合え。この場だけでいい。俺たちは嫌われ者だが、こいつらの思惑通り死んでやる義理はねーだろ」

 ゆったりとした足取りで彰は杏子に近づくと、男らしい大きな手を差し出した。

「別に断るなら断れよ。その場合、お前は人殺しになっちまうけどな」

 どこまでも悪どく、意地悪な笑顔に聖奈は背筋に冷たいものが走るのを感じた。間近で向けられた杏子はそんな比じゃないだろう。
 全員が見守る中、案の定杏子はコクコクと首を縦に振った。それを見て、彰はより笑みを深くする。

「よし。じゃあ、出ようぜ」

 手をとって立ち上がった杏子に、彰はそっとキスをした。杏子はなされるがままといった感じで、それを抵抗もなく受け入れた。
 キスが終わると、二人は手を繋いだまま教室の出入り口へ歩いていく。

「っ、杏子!」

 沈黙が流れていた教室に、ひとりの叫び声が響いた。奈波だった。

「あんた、それでいいの!? そんな最低野郎と一緒に……!」

 絞り出すような奈波の声に、杏子は一瞬足を止めた。そして、振り返る。

「……い、いいよ。つーかさ、今さらなんなの。うちのこと、散々こき下ろしといてさ。うちが出られそうになったら引き留めるとか、マジお前の方が自分勝手じゃんね」
「杏子!」
「うっさい! うっさいうっさい! うちの引き立て役は引き立て役らしく、黙って見てろよ!」

 杏子は怯えを含ませつつも薄く細い笑みを浮かべた。再び前を向き、心無しか彰の方へ身体を寄せる。

「じゃあな、いい子ちゃんども。俺らは出るから、さっさと誰を身代わりの生贄にするか話し合ってろよ。ヒャハハハッ!」

 そうして二人は、教室の外へ出た。
 告白も証明も、条件を全てクリアして。

『――ま、なわけないんだけどー』

 低い声が唐突に聞こえた。直後、乾いた銃声が高らかに鳴った。

『最初に言ったよね~? このゲームをなめるな、って』

 廊下から意地の悪い笑みを浮かべて振り返っていた彰の身体がぐらつき、横にいた杏子に覆い被さるようにして倒れた。

『このまま出しても面白いんだけど、打算的にやるにしてもちゃーんと覚悟を持った恋人同士の「証明」をしてくださいね~。適当な感じ、ダメでーす』

 倒れた二人はピクリとも動かない。やがて、その二つの身体の下には真っ赤な液体がなみなみと広がっていく。

『言っときますけどー、男子同士カップルの新藤拓篤くんは本気で倉木蓮くんのことが好きですし、有川輪花ちゃんと有田凜々花ちゃんに至っては既に恋人同士だったんですからね~。他のかるーい感じに見えた既存カップルも心の底では好き合ってますし、浅間光誠くんと能仲沙月ちゃんと沼田桃香ちゃんの恋模様もちゃーんと好意に基づいてるものですからー。お、わ、か、り~?』

 校内放送のスピーカーがハウリングした。音割れに混じって、甲高い笑い声がいくつか聞こえる。

『はーい。じゃあ、それを踏まえたうえで改めて~。残った人数は9人。タイムリミットまで、あと13分でーす!』
「愛里。これで、良かったか?」

 鉄臭い臭気が濃くなる中、いやに落ち着いた声が聖奈の耳を衝いた。ハッとして見れば、額からの出血をハンカチで押さえた智が、愛里に話しかけていた。

「約束通り、俺はあいつ、西条が死ぬように仕向けた。これで、良かったんだな?」
「えっ!?」

 複数の驚嘆が教室に走る。しかし、そんな声を気にした様子もなく愛里は小さな肩を震わせてこくりと頷いた。

「うん……ありがとう。私の大切な友達の仇をとってくれて……本当に、ありがとう」
「ちょ、ちょっと待って! いったいどういうこと?」

 奈波が思わずといったふうに叫ぶ。そんな奈波の方へ視線を向けると、愛里はゆっくりと口を開いた。

「水戸部くんの、言葉の通りだよ。私が……水戸部くんにお願いをしたの。私の友達、夕実が不登校になった原因である、西条くんに復讐するために」
「岡辺の復讐って……じゃあ、智とその夕実って女子が付き合ってたのは嘘なのか?」

 定彦が訊く。愛里はふるふると首を横に振った。

「ううん。水戸部くんと夕実が付き合ってたのは本当。ただ、水戸部くんは別に西条くんを憎んでたわけじゃない。本当に憎んでいたのは、私の方なの」
「そういうことだ。まあ、憎んでなかったわけじゃない。目障りだとは思ってた。なんせ、俺の元カノをとったのは本当だしな」
「元カノって……水戸部。あんた、今は付き合ってないの?」
「ん? ああ。夕実が西条に浮気したのは本当だしな。それで実際、愛想が尽きた」

 美友香の問いに智は淡々と答えると、切った額を押さえていない方の手で愛里の肩に手を回した。

「それに、俺は今愛里と付き合ってんだ。なっ?」

 朗らかな笑みを浮かべて、智は愛里を見下ろす。愛里は恥ずかしさからか、一瞬の逡巡ののち小さく首肯した。

「夕実が西条の誘惑に乗せられた時にさ、頭きちゃって。愛里にいろいろと相談に乗ってもらってたんだよ。そうしたら、まあなんつーか、好きになったんだ」
「なるほどな。それで水戸部、お前から告白して付き合ったのか?」

 最初は暴れたものの、以降大人しくしていた大毅が前に出る。頭ひとつ分以上ある顔を見上げて、智は頷く。

「そういうこと。そんなわけで、ごめんだけど俺らは先に出るわ」
「は?」

 唐突な智の言葉に、大毅が聞き返した。聖奈を始めとした他の面々も、いきなりの発言に息を呑む。

「あの運営女の放送、聞いてたよな。ここから出るには、どうやらちゃんとした好意ってやつを持って証明するか、あるいは本当の好意に見えるほどの覚悟の持った証明をしないといけないらしい。だとしたら、この中で確実に出られるのは俺らだけだろ。他に付き合ってるとか、好意をお互いに持ってる人がいれば別だけど」
「それはそうだが。だがな」
「あのさ、ずっとそうやってみんな出ていっただろ。それに、もう時間もほとんどない。話し合うなら、人数は少ない方がいい」

 智の言葉には説得力があった。
 早くここから出たい。死にたくない。話し合いで残る人を決めるなんてしたくない。なにより、そんな状況で他の人が出ていくのはずるい。
 そんな気持ちは全員にあった。しかしそれだけを表に殊更出すわけでもなく、あくまでも冷静な意見まで並べる智に、真っ向から反対する者はいなかった。

「本当にすまないとは思ってる。だけど、俺だって好きな人を死なせるわけにはいかないんだ。だから、出るよ」

 どこまでも平静な口調でそう言うと、智は愛里に「行こうか」と促した。愛里は何も言わず、かといって抵抗するわけでもなく足を踏み出す。
 申し訳ない。ごめんなさい。
 そんな罪悪感が垣間見える様子に、聖奈は反対の声をあげられなかった。

「待てよ」

 その気持ちは、みんなも同じだと聖奈は思っていた。けれどただひとり、大毅だけが二人を呼び止めた。

「お前、岡辺を脅してるだろ」
「は?」

 いきなりの指摘に、智は足を止めた。聖奈たちも、驚いて大毅を見る。

「岡辺の手、震えてんだろ。お前、岡辺に何をした?」

 ハッとした。聖奈を始め、全員が愛里の手に視線をやる。確かに、その小さな手は小刻みに震えていた。

「ほんと、このクラスってクズなやつが多いのな。岡辺、怖がるな。なにがあった?」
「このデスゲームに怯えてるだけでしょ。それに何があってもお前には関係ないだろ」

 振り返る愛里の前を遮って、智が大毅の正面に立つ。

「俺は愛里のことが好きだ。愛してる。その気持ちに嘘偽りはない。それでいいだろう?」
「はぁ? よくねーだろ。それだと一方的な好意の押し付けじゃねーか。そんなこともわかんねーのか、アホが」

 大毅は強引に智を押し退けると、愛里との間に割って入った。

「岡辺。俺の勘違いだったらすぐにどく。お前は、脅されてるのか?」
「私、は……」

 愛里は答えない。何も言わない。
 智は「脅しなんかあるわけないだろ!」と吠えた。

「大丈夫だ」

 大毅は、これまでの彼からは聞いたことがないほど柔らかに言った。そんな声に押されてか、それまで沈黙を貫いていた愛里が、ゆっくりと首を縦に振った。

「脅し、というか……水戸部くんに、暴力を振るわれてます……」
「愛里っ!」

 智の制止を振り切り、愛里は震えた手で制服の袖をめくりあげた。奈波が小さく悲鳴をあげる。そこには、青くなったあざがいくつもあった。

「彼は、基本優しいんです。でも……機嫌が悪い時とか、私がちょっと男子と話した日とかには、暴力を振るってきて……。私、怖くて、怖くて。さっきのお願いも、西条くんに恨みはあったけど、最初は縁を切るための口実にしようと思って言ったの。幻滅されればって。ただ本当に実行しちゃって、私、私……!」

 愛里の瞳から涙が溢れ出した。一滴、二滴と染みを作った床に、愛里はそのまま泣き崩れる。
 その時、近くにあった椅子が飛んだ。

「水戸部、あんた! あれだけ愛里のことが好きだとか大切だとかぬかしておいてっ!」

 椅子は真横から智の腹部を直撃した。意表を突かれた智は受け身をとることもできずに床に転がる。
 聖菜を始め、全員が呆気にとられていた。

「大口……てめえ」

 倒れていた机の角にぶつけ、再び出血した額を押さえながら、智は椅子を投げた女子、奈波を睨み付けた。その目は血走っており、冷静さを完全に欠いた敵意をむき出しているが、奈波は動じない。
 いやむしろ、それ以上に奈波は激昂していた。

「おかしいとは思ってた……! 他クラスの女子と付き合ってたあんたが、いきなり愛里に乗り変えたことに……。でも、愛里が楽しそうだったから、いいって思ってた。どうせうちは、愛里とまともに話せないし」
「な、なみ……」

 愛里が掠れた声で奈波を呼ぶ。けれど奈波は答えることも視線を向けることもなく、無視をした。

「中学の時に愛里がいじめられて、うちは見ていることしかできなかった。そっから疎遠になって、高校じゃ属してるグループも違うから余計に話せなかった。でもうちは、愛里が幸せならそれで良かった。このクソなゲームも、あんたが愛里を連れ出してくれるなら、それで良かったのに……。それをあんたは、あんたは……っ!」
「るせえ!」

 外から差し込む陽光が、キラリと閃いた。誰のものかわからない短い悲鳴が鳴る。
 立ち上がった智の手には、狙撃で割られた窓ガラスの破片が握られていた。

「お前に何がわかんだよ! 俺は、愛里のことが好きなんだよ! それをわかってもらおうとしただけだろうが!」

 智は一歩、前に進む。その目は、殺意に満ちていた。

「何が悪い! ちょっと痛い思いをするのは当然だろうが! 悪いのは、愛里の方だろーが!」

 窓ガラスの破片が構えられた。奈波は呆然と立ち尽くしていた。そこで初めて、愛里の方へ目を向けた。

「部外者がっ! そのいじめをただ見てただけの共犯者が! 偉そうに言ってんじゃねーーっ!」

 智が走り出した。その手からはかなり出血しているが、取り落とす気配はなかった。
 愛里が叫ぶ。
 奈波は動かない。
 聖菜も、麻耶も、定彦も、クラスにいた全員が、見ているだけだった。

「やめろっ!」

 違った。ただひとり、大毅だけが動いていた。

「あ、い、いや……」

 力ない愛里の声が漏れる。
 智の胸の高さで低く構えられたガラス片は、深々と大毅の腹部に突き刺さっていた。
 
「ちっ、お前、また邪魔を……!」
「う……せぇ。俺には、力しかねえんだよ……」

 大毅は吐血しつつも、智からガラス片をもぎ取った。そしてそれを、誰もいない教室前方へと放り投げる。

「これで、偶数……だ。てめえは、ここから出たら……罪を償うん、だな……」
「っ!」

 智がたじろいだ。と同時に、大毅は膝から崩れ落ち、そのまま智にもたれかかるようにして倒れた。

「いやあああぁぁっ!」

 愛里の絶叫が響いた。足早に大毅に駆け寄ると、その血塗れの大きな背中にすがりつく。

「平野くん……まだ私、お礼言えてない……! 平野、くん……っ!」
「くっ! おい愛里、来いっ!」

 そこで、あろうことか智は愛里の腕を強引に引っ張り、大毅から引き剥がした。

「何するのっ!」
「黙れ! ここから出るんだっ! 早く来いっ!」
「いやああぁ! やめて! 離して!」
「っ、水戸部! どこまでクズなの、こいつ!」
「うるせえ、うるせえ! なんでどいつもこいつも俺の思い通りにならないっ! 愛里も、夕実も! お前らは黙って言うことを聞いてりゃいいんだよっ!」

 智の恫喝に、愛里は何かに気がついたようにピタリと動きを止めた。

「そっか、だから……だから夕実は……西条くんなんかの言葉についていったんだ……あんたが、夕実にも暴力を振るっていたから……!」

 そして、全ての感情を失った目で智を見て、叫んだ――。

「私は、あんたの告白は受けないっ! あんたと一緒に出るくらいなら、ここで死んでやるっ!」

 刹那。鮮血が愛里の頭上へ降り注いだ。
 愛里のものではない。心臓を撃ち抜かれた、智の血だった。

「か……はっ……て、め…………」
「っ……あああぁぁあああっ!」

 智が血達磨となって床に転がったのと、愛里が走り出したのは同時だった。

「愛里っ! だめーーーーーっ!」

 奈波も駆け出す。
 大毅が絶命してから、僅か一分に満たない出来事だった。
 銃声が、二発こだました。
 一発目は、教室から出た小柄な愛里の脳天を貫いた。
 二発目は、廊下で愛里の手を捕まえた奈波の胸部を撃ち抜いた。
 既に血だまりとなっていた彰と杏子の身体の上に、覆い被さるようにして二人は倒れ伏した。
 誰もが言葉を発さなかった。発することができなかった。
 ただひとつ――。

『はーい! これは急展開ですねー! 野暮な感想は無しとしまして~! 残り人数は5人、タイムリミットまで、あと8分でーす! いよいよクライマックス。面白いドラマを見せてくださいね~!』

 ゲームが始まってから今の今まで、一度も声色が変わっていないスピーカーからの声を除いては。