昨日の夜から、小説の構想を練るのに集中して気づくと朝になっていた。小鳥のさえずりが忙しく、朝日が眩しい。
今日は長谷川先生の講義がある。営業当時の廃旅館を利用したことがある先生だ。講義終わりに話を聞いてみることにした。
石田とのやりとりに変わらず動きはなかった。実家にでも帰っているのだろうと高を括っていた。そのうちどうせ授業で一緒になるから鍵はその時返せばいい。
少し仮眠をとり、昼前に家を出た。学内は忙しなく人の波が動いている。教室に向かう道中、たまたま長谷川先生の後ろ姿を見かけた。自動販売機の前に立っている。天然水を選び手にしたところだった。先生はいつも水を飲んでいた。たまたま食堂で見かける時も、いつも質素な弁当を食べている。食にはあまりこだわらない人なのかもしれないとふと考えた。
教室に入り準備をしていると、先生が入って来た。講義中のやりとりと軽い挨拶でしか会話を交わしたことがなかったので、なかなか話しかけづらさはあるが、割とフランクな先生でもある。
講義が終わり、先生が教室から出た後をすぐに追いかけた。
「先生、今少しよろしいですか」
「どうした?質問か?」
「レポートとは関係ないんですけど、聞きたいことがありまして」
「ちょうど次の講義まで時間があるからいいぞ、昼ごはんでも食べながら話すか」
「ありがとうございます」
僕らは食堂に移動し、昼食を取りながら話すことにした。僕はいつもの定食を頼み、先生は自作弁当の包みを机に広げた。
「さっそくですが、今◯◯市の廃旅館について調べてまして、先生が営業当時に利用したことがあると先輩からお聞きしたので、話を聞かせてもらえないかと思いまして」
僕はスマフォの録音機能を表示した画面を先生に見せて、録音を開始しながら言った。
「そうか。あそこか、懐かしいな。10年ほど前だけど、当時はまだ新米の頃で、日頃の疲れとかストレスを癒したくて旅行に行ったんだよね。プライベートも上手くいってなくて。そこまで遠くへは行けないから、隣の県の、景色と料理の評判が高いっていう旅館を予約サイトで見つけて行ったんだよ」
先生は弁当に詰められた惣菜を口に運びながら続けた。
「あ、そう言えば、後から予約サイトのレビュー欄を見返してる時、色んな人が豪華な夕食や上品な和風の内装の写真を上げてたんだけど、ひとつ変な書き込みがあって」
「どんなのですか」
「星5にしては短文で、"おいしいよーきてくださいぜひ ごはんたべるとおいわいですおいしいよー"みたいなかんじだったと思う。他の人が書くように、確かに料理には定評があるんだけど、景色や内装や露天風呂とかも評価が高いから、料理にだけ言及していて文体も子どもっぽいしよく分からないと言うか、だから覚えてるのかも」
「確かに。ちょっと不自然というか不気味ですね」
「で、実際夕方になって用意された夕食は写真通り豪華で、かなり楽しみにしてたんだけど、食べてみたら全く味がしなくて」
「味がしない?」
「食感は確かにその食材の食感で、温度もあるんだけど、一切味がしなくてさ。おかしいと思って、いつもなら言うの我慢するんだけど、流石に旅行に来てまでこんな思いしたくないと思ったから、従業員を呼んで新しい料理を持って来てもらうことにしたんだけどさ。どれを食べても味がしなかったんだよ。仕方がないからその時は体調のせいにしたんだけどね」
「せっかくの旅行なのに」
「あとから支配人が直接謝りに来てくれてさ。そのときに自分のプライベートや日頃のストレスの話も聞いてくれて。実はその年の前の年に、病気で娘を亡くしていてね。その事を話すと、支配人も身の上話をしてくれたんだけど」
食堂にはいつしか2人だけになっていた。2人の、箸を進める手は止まっている。先生は続ける。
「支配人の娘さんも、同じ年に亡くされていて。事故でしばらくは植物状態だったらしいんだけど、そのまま亡くなられたみたいで。旅館が、行った翌年に火災で閉業になったのは流石にショックだったな」
僕はどう反応していいか分からず、軽く顎を引き相槌を打つことしかできなかった。
「ごめんな、こんな暗い話になって。聞きたいことがあればなんでも聞いてくれ」
「いえ。先生はもしかして今も味覚が?」僕は思い付いた事を咄嗟に質問した。
「ああ。その旅館の夕食からずっと何を食べても味がしなくなってしまった。内科も精神科も、どこに行っても治らなかった。味がしないだけで、食事を摂る必要は変わらないが、それからはただただ栄養を摂取するためだけの食事になったな」
「そうだったんですね。話していただきありがとうございます」
「ああ。こんなところでいいのかな」
次の講義の関係上これ以上長く引き留める訳にもいかず、録音を止め礼を言い、先生を食堂から送り出した。
僕は残っていた定食に手をつけながら、頭の中で話の内容を反芻していた。
帰宅し、小説の投稿サイトを開いた。文字を打ち込みながら、これまでの話を見返すことにした。
部員の体験談の写真、林先輩の記録、長谷川先生の録音。それぞれを振り返る。どれも嗅覚、聴覚、味覚、人間の感覚器官に関連する話だった。ということは、触覚や視覚に関する話が、まだどこかで聞けるかもしれない。これは、小説を書くには、話をどうまとめるかには、うってつけの設定ではないか。怪異は感覚器官を奪い集める。しかし、設定というにはあまりにも...。
そのとき、机に伏せていたスマフォから通知音がなった。画面を確認すると、石田からのメッセージだった。僕はすぐさまロックを解き、メッセージを開いた。
そこには、◯◯県◯◯市から始まる住所が書かれてあった。廃旅館の住所だ。僕は急いで返信をした。
"石田か?なんでお前がこの住所を知ってる?今どこにいる?大丈夫か?"
しかし、石田からのメッセージはその住所の一行のみで、その後返信はない。まさか、石田は今この廃旅館に居るのか。しかし何の為に。壁の時計の針は23時を指している。
直感的に行くしかないと思った。深く考えるよりも先に身体が動いていた。
今日は長谷川先生の講義がある。営業当時の廃旅館を利用したことがある先生だ。講義終わりに話を聞いてみることにした。
石田とのやりとりに変わらず動きはなかった。実家にでも帰っているのだろうと高を括っていた。そのうちどうせ授業で一緒になるから鍵はその時返せばいい。
少し仮眠をとり、昼前に家を出た。学内は忙しなく人の波が動いている。教室に向かう道中、たまたま長谷川先生の後ろ姿を見かけた。自動販売機の前に立っている。天然水を選び手にしたところだった。先生はいつも水を飲んでいた。たまたま食堂で見かける時も、いつも質素な弁当を食べている。食にはあまりこだわらない人なのかもしれないとふと考えた。
教室に入り準備をしていると、先生が入って来た。講義中のやりとりと軽い挨拶でしか会話を交わしたことがなかったので、なかなか話しかけづらさはあるが、割とフランクな先生でもある。
講義が終わり、先生が教室から出た後をすぐに追いかけた。
「先生、今少しよろしいですか」
「どうした?質問か?」
「レポートとは関係ないんですけど、聞きたいことがありまして」
「ちょうど次の講義まで時間があるからいいぞ、昼ごはんでも食べながら話すか」
「ありがとうございます」
僕らは食堂に移動し、昼食を取りながら話すことにした。僕はいつもの定食を頼み、先生は自作弁当の包みを机に広げた。
「さっそくですが、今◯◯市の廃旅館について調べてまして、先生が営業当時に利用したことがあると先輩からお聞きしたので、話を聞かせてもらえないかと思いまして」
僕はスマフォの録音機能を表示した画面を先生に見せて、録音を開始しながら言った。
「そうか。あそこか、懐かしいな。10年ほど前だけど、当時はまだ新米の頃で、日頃の疲れとかストレスを癒したくて旅行に行ったんだよね。プライベートも上手くいってなくて。そこまで遠くへは行けないから、隣の県の、景色と料理の評判が高いっていう旅館を予約サイトで見つけて行ったんだよ」
先生は弁当に詰められた惣菜を口に運びながら続けた。
「あ、そう言えば、後から予約サイトのレビュー欄を見返してる時、色んな人が豪華な夕食や上品な和風の内装の写真を上げてたんだけど、ひとつ変な書き込みがあって」
「どんなのですか」
「星5にしては短文で、"おいしいよーきてくださいぜひ ごはんたべるとおいわいですおいしいよー"みたいなかんじだったと思う。他の人が書くように、確かに料理には定評があるんだけど、景色や内装や露天風呂とかも評価が高いから、料理にだけ言及していて文体も子どもっぽいしよく分からないと言うか、だから覚えてるのかも」
「確かに。ちょっと不自然というか不気味ですね」
「で、実際夕方になって用意された夕食は写真通り豪華で、かなり楽しみにしてたんだけど、食べてみたら全く味がしなくて」
「味がしない?」
「食感は確かにその食材の食感で、温度もあるんだけど、一切味がしなくてさ。おかしいと思って、いつもなら言うの我慢するんだけど、流石に旅行に来てまでこんな思いしたくないと思ったから、従業員を呼んで新しい料理を持って来てもらうことにしたんだけどさ。どれを食べても味がしなかったんだよ。仕方がないからその時は体調のせいにしたんだけどね」
「せっかくの旅行なのに」
「あとから支配人が直接謝りに来てくれてさ。そのときに自分のプライベートや日頃のストレスの話も聞いてくれて。実はその年の前の年に、病気で娘を亡くしていてね。その事を話すと、支配人も身の上話をしてくれたんだけど」
食堂にはいつしか2人だけになっていた。2人の、箸を進める手は止まっている。先生は続ける。
「支配人の娘さんも、同じ年に亡くされていて。事故でしばらくは植物状態だったらしいんだけど、そのまま亡くなられたみたいで。旅館が、行った翌年に火災で閉業になったのは流石にショックだったな」
僕はどう反応していいか分からず、軽く顎を引き相槌を打つことしかできなかった。
「ごめんな、こんな暗い話になって。聞きたいことがあればなんでも聞いてくれ」
「いえ。先生はもしかして今も味覚が?」僕は思い付いた事を咄嗟に質問した。
「ああ。その旅館の夕食からずっと何を食べても味がしなくなってしまった。内科も精神科も、どこに行っても治らなかった。味がしないだけで、食事を摂る必要は変わらないが、それからはただただ栄養を摂取するためだけの食事になったな」
「そうだったんですね。話していただきありがとうございます」
「ああ。こんなところでいいのかな」
次の講義の関係上これ以上長く引き留める訳にもいかず、録音を止め礼を言い、先生を食堂から送り出した。
僕は残っていた定食に手をつけながら、頭の中で話の内容を反芻していた。
帰宅し、小説の投稿サイトを開いた。文字を打ち込みながら、これまでの話を見返すことにした。
部員の体験談の写真、林先輩の記録、長谷川先生の録音。それぞれを振り返る。どれも嗅覚、聴覚、味覚、人間の感覚器官に関連する話だった。ということは、触覚や視覚に関する話が、まだどこかで聞けるかもしれない。これは、小説を書くには、話をどうまとめるかには、うってつけの設定ではないか。怪異は感覚器官を奪い集める。しかし、設定というにはあまりにも...。
そのとき、机に伏せていたスマフォから通知音がなった。画面を確認すると、石田からのメッセージだった。僕はすぐさまロックを解き、メッセージを開いた。
そこには、◯◯県◯◯市から始まる住所が書かれてあった。廃旅館の住所だ。僕は急いで返信をした。
"石田か?なんでお前がこの住所を知ってる?今どこにいる?大丈夫か?"
しかし、石田からのメッセージはその住所の一行のみで、その後返信はない。まさか、石田は今この廃旅館に居るのか。しかし何の為に。壁の時計の針は23時を指している。
直感的に行くしかないと思った。深く考えるよりも先に身体が動いていた。