店先の金魚鉢に餌を撒いている時、電話が鳴った。
「カット中の写真を撮ってもいいでしょうか?」
予約の要らないうちの店に、そう言って取材の電話を掛けて来たのが彼だった。彼はフリーのカメラマンだという。
「タウン誌の撮影かなんか?」
「まあそんな感じです」
「うちを載せても需要ないと思うけどな」
「この街にあるというのが大事なんです」
タウン誌の撮影とも違うみたいだけれど、まあいいかと返事をして、彼の訪問を受けたのが出会いのきっかけだった。
彼は律儀に、散髪がてら撮影にやって来た。客が来るまで彼の散髪をしながら会話をしているうちに、彼が作りたいのは自費出版の写真集だということが分かった。
うちはあるの繁華街の一画に数軒固まったゲイスポットと繁華街との境目にある、カットに特化した理容店だ。繁華街で働く水商売の男はそうそう来ない。出入りの業者や、いくつかある事務所や飲食店の裏方が、仕事の合間に髪を切り揃えに来るような店。
そんなうちをはじめ街の路地裏、店の裏口など派手な繁華街の表の顔とは違う街の表情を撮りたいのだと、あらためて彼の口から聞いた。とは言うものの写真集と言うには少し気恥かしい部分があるのだと彼は照れた。
「そこにうちの店も混ぜてもらえるってこと?」
「はい。カット中の写真と内装、あと外観を何枚か。お礼と言えば献本くらいしか出来ないんですけど。趣味の領域なんで」
「いい、いい。もし出来たらうちの店に置かせてもらってもいい?」
「いいんですか? こっちの方がお願いしたいくらいなんで、嬉しいです」
撮影が始まった。彼は一時間に一度来るか来ないかの客の髪を切る手元にシャッターを切った。理容師になってからこの方、写真を撮られたことなんてないので緊張する。
焼けていない白い肌、カメラを持つ腕に浮かぶ青い脈、VネックのTシャツから伸びる長い首。茶色のウェーブがかった髪、薄い唇、通った鼻筋、ファインダーを覗く切れ長の目。
彼の細部をちらりと確認するたびに、今まで意識したことのない部分が熱を帯びるように思えて、そんな自分に戸惑う。
それから彼は週に一度、店に来るようになった。今日で三回目。律儀に毎回散髪を入れてくれる。
「いいんだよ、散髪は無理しなくて。好きなだけ撮ってもらえれば」
「いいえ。僕がして欲しくて頼んでるんで。すぐに伸びちゃうんで鬱陶しいんですこの髪」
彼は、茶色の前髪をつまんで笑った。その顔が思いがけずいたずらっぽくて、自分の心臓が音を立てた。この心臓の高鳴りに名前を付けるなら、それは恋というやつだった。彼の相貌や仕草、物静かな話し方には好感を持ってはいたが、こういう受け止め方を自分がするとは思っていなかった。
その日が来るのを心待ちにしている自分がいる。だが自慢出来ることは何もない。写真に撮られる要素などどこにもない自分は、彼の期待に応えられるのか。この撮影が終わったらもう彼は二度とこの店には来ないかもしれない。そう考えると、喜びとぬか喜びが同時にやって来るようで、彼の訪問を待つ間にため息ばかりが増える毎日になった。
「今日は表の金魚鉢を撮らせてもらっていいですか」
「いいけど、珍しくもないただの金魚だよ」
「それがいいんですよ」
彼が店の外に出て、写真を撮り始める。カットクロスの下に巻く用のタオルを畳みながら、その様子を店のガラス越しに眺めた。
金魚が泳ぐ青い水の中とガラスから見える繁華街の一隅は、彼に似合わないような気も、それでいて彼が存在するのにふさわしいようにも思えた。
店のドアを開けて、いくつか飾りがわりに置いた観葉植物の陰、撮影の邪魔にならないところに立った。彼は金魚鉢の水が青く反射する地面にしゃがんで、角度を変えながら何度もシャッターを切っている。人間の汚く醜いところからは遠いところにいそうな彼が、人間の世界に執着しているようにも見えて、同じ男だが可愛らしいと感じてしまう。これも恋心がさせるのか。撮影の様子を見て声を掛けた。
「お茶飲んでく?」
「あ、はい。ありがとうございます」
「いいのいいの、この時間だれも来ないから」
街は夕暮れを迎える時間になっていた。この時間から表の男や女たちが大手美容院で髪をセットし、整えた身なりで出勤してくる。ゲイの店はたいていが出張ホストで、店は待機場所になっていることが多く、さっそく客に指名されたホストが店を出ていく様子が見受けられる。
うちの店は仕事帰りの客を少しこなして、夜の八時に営業終了だ。その時間までにはまだ余裕がある。店の中でほとんど使われることのない待合スペースにふたり分のお茶を出した。
「いただきます」
ふと、彼が何者で、今まで何をしていたのか気になった。
フォトジェニックでもなんでもないこの店と、髪を切る手を撮影したいと訪れる彼。彼から感じる不思議な空気感。写真を取ろうと思ったきっかけ。彼のもとになるものを聞いてみたいと思った。
「どうしてここを撮ろうと思ったの?」
今日はもう客は来そうになく、店の外からざわめき出した表の喧騒が漏れ聞こえる中、その答えは静かに返ってきた。
「僕が生きていたこの街の素顔を知りたいからです」
彼は数年前までこのゲイスポットで出張ホストをしていた。
「恋をしたんです。お客さんに」
その頃の街はキラキラとネオンが煌めいていて、何もかもが明るかったと彼は言った。
「だけど当たり前と言えばそうなんですけど、お客さんには別に生活があって、僕とは住む世界が違った。当時の僕はそれが分かっていなくて、現実と夢の境界線が曖昧でした」
お客さんとの疑似恋愛、派手な交友関係、一夜限りの恋模様、少し秘密めいた関係性、そんなものをこそげ取ったあとに残ったもの。
「ギラついたネオンの夜が終わったあと、次の夜が始まるまでの間。それこそがこの街の素顔なのかもしれないと思ったんです」
ホストを辞めた今、何が自分の目に映るのだろう。そう言って彼は静かに笑った。
「今まで見えてなかったものが見える気がして」
恋とは何だろう。見えていたものが見えなくなることだろうか。それとも見えなかったものが見えてくることだろうか。自分はこれを恋だと思ったけれど、果たしてそれはちゃんと目に見えているものだろうか。夢の一部ではないだろうか。
お茶を飲む彼の横顔はどことなく夢のような、消えてなくなりそうな気もして、曖昧な境界線に翻弄されているような気分になる。
「すみません、こんな辛気臭い話で」
「ううん。──今は楽しい?」
「楽しいです。金にはほとんどなりませんけど、本当の自分を生きているような気がします」
「それは良かった」
「実は撮影を許可してもらったの、こちらがはじめてなんです。何軒か断られ続けていてちょっと諦めかけていたところだったので、嬉しくて」
「俺の知り合いで良かったら話通せると思うから、遠慮しないで言って」
「ありがとうございます。──あの、撮影が終わっても散髪お願いしてもいいですか?」
「もちろんだよ。うちはいつでも大歓迎」
ドアの外に目を遣る。向かいのホストクラブの、青いネオンが映り込む金魚鉢の中で、金魚は空を舞っているように見えた。都会の片隅にいる金魚。青い水の中を泳ぐ小さな魚と、彼の生きる姿が重なって見えた。
彼に告白してみようか。いや、そういうのは今の彼には疎ましいだけかもしれない。今から泳ぎはじめても、きっと彼には届かないだろう。息苦しさに負けてしまうかもしれない。
それでもこの手を伸ばせば、もしかしたらいつか。そんな小さな期待を胸に抱きながら、手を伸ばした先は。
「お茶のおかわり入れようか」
終
「カット中の写真を撮ってもいいでしょうか?」
予約の要らないうちの店に、そう言って取材の電話を掛けて来たのが彼だった。彼はフリーのカメラマンだという。
「タウン誌の撮影かなんか?」
「まあそんな感じです」
「うちを載せても需要ないと思うけどな」
「この街にあるというのが大事なんです」
タウン誌の撮影とも違うみたいだけれど、まあいいかと返事をして、彼の訪問を受けたのが出会いのきっかけだった。
彼は律儀に、散髪がてら撮影にやって来た。客が来るまで彼の散髪をしながら会話をしているうちに、彼が作りたいのは自費出版の写真集だということが分かった。
うちはあるの繁華街の一画に数軒固まったゲイスポットと繁華街との境目にある、カットに特化した理容店だ。繁華街で働く水商売の男はそうそう来ない。出入りの業者や、いくつかある事務所や飲食店の裏方が、仕事の合間に髪を切り揃えに来るような店。
そんなうちをはじめ街の路地裏、店の裏口など派手な繁華街の表の顔とは違う街の表情を撮りたいのだと、あらためて彼の口から聞いた。とは言うものの写真集と言うには少し気恥かしい部分があるのだと彼は照れた。
「そこにうちの店も混ぜてもらえるってこと?」
「はい。カット中の写真と内装、あと外観を何枚か。お礼と言えば献本くらいしか出来ないんですけど。趣味の領域なんで」
「いい、いい。もし出来たらうちの店に置かせてもらってもいい?」
「いいんですか? こっちの方がお願いしたいくらいなんで、嬉しいです」
撮影が始まった。彼は一時間に一度来るか来ないかの客の髪を切る手元にシャッターを切った。理容師になってからこの方、写真を撮られたことなんてないので緊張する。
焼けていない白い肌、カメラを持つ腕に浮かぶ青い脈、VネックのTシャツから伸びる長い首。茶色のウェーブがかった髪、薄い唇、通った鼻筋、ファインダーを覗く切れ長の目。
彼の細部をちらりと確認するたびに、今まで意識したことのない部分が熱を帯びるように思えて、そんな自分に戸惑う。
それから彼は週に一度、店に来るようになった。今日で三回目。律儀に毎回散髪を入れてくれる。
「いいんだよ、散髪は無理しなくて。好きなだけ撮ってもらえれば」
「いいえ。僕がして欲しくて頼んでるんで。すぐに伸びちゃうんで鬱陶しいんですこの髪」
彼は、茶色の前髪をつまんで笑った。その顔が思いがけずいたずらっぽくて、自分の心臓が音を立てた。この心臓の高鳴りに名前を付けるなら、それは恋というやつだった。彼の相貌や仕草、物静かな話し方には好感を持ってはいたが、こういう受け止め方を自分がするとは思っていなかった。
その日が来るのを心待ちにしている自分がいる。だが自慢出来ることは何もない。写真に撮られる要素などどこにもない自分は、彼の期待に応えられるのか。この撮影が終わったらもう彼は二度とこの店には来ないかもしれない。そう考えると、喜びとぬか喜びが同時にやって来るようで、彼の訪問を待つ間にため息ばかりが増える毎日になった。
「今日は表の金魚鉢を撮らせてもらっていいですか」
「いいけど、珍しくもないただの金魚だよ」
「それがいいんですよ」
彼が店の外に出て、写真を撮り始める。カットクロスの下に巻く用のタオルを畳みながら、その様子を店のガラス越しに眺めた。
金魚が泳ぐ青い水の中とガラスから見える繁華街の一隅は、彼に似合わないような気も、それでいて彼が存在するのにふさわしいようにも思えた。
店のドアを開けて、いくつか飾りがわりに置いた観葉植物の陰、撮影の邪魔にならないところに立った。彼は金魚鉢の水が青く反射する地面にしゃがんで、角度を変えながら何度もシャッターを切っている。人間の汚く醜いところからは遠いところにいそうな彼が、人間の世界に執着しているようにも見えて、同じ男だが可愛らしいと感じてしまう。これも恋心がさせるのか。撮影の様子を見て声を掛けた。
「お茶飲んでく?」
「あ、はい。ありがとうございます」
「いいのいいの、この時間だれも来ないから」
街は夕暮れを迎える時間になっていた。この時間から表の男や女たちが大手美容院で髪をセットし、整えた身なりで出勤してくる。ゲイの店はたいていが出張ホストで、店は待機場所になっていることが多く、さっそく客に指名されたホストが店を出ていく様子が見受けられる。
うちの店は仕事帰りの客を少しこなして、夜の八時に営業終了だ。その時間までにはまだ余裕がある。店の中でほとんど使われることのない待合スペースにふたり分のお茶を出した。
「いただきます」
ふと、彼が何者で、今まで何をしていたのか気になった。
フォトジェニックでもなんでもないこの店と、髪を切る手を撮影したいと訪れる彼。彼から感じる不思議な空気感。写真を取ろうと思ったきっかけ。彼のもとになるものを聞いてみたいと思った。
「どうしてここを撮ろうと思ったの?」
今日はもう客は来そうになく、店の外からざわめき出した表の喧騒が漏れ聞こえる中、その答えは静かに返ってきた。
「僕が生きていたこの街の素顔を知りたいからです」
彼は数年前までこのゲイスポットで出張ホストをしていた。
「恋をしたんです。お客さんに」
その頃の街はキラキラとネオンが煌めいていて、何もかもが明るかったと彼は言った。
「だけど当たり前と言えばそうなんですけど、お客さんには別に生活があって、僕とは住む世界が違った。当時の僕はそれが分かっていなくて、現実と夢の境界線が曖昧でした」
お客さんとの疑似恋愛、派手な交友関係、一夜限りの恋模様、少し秘密めいた関係性、そんなものをこそげ取ったあとに残ったもの。
「ギラついたネオンの夜が終わったあと、次の夜が始まるまでの間。それこそがこの街の素顔なのかもしれないと思ったんです」
ホストを辞めた今、何が自分の目に映るのだろう。そう言って彼は静かに笑った。
「今まで見えてなかったものが見える気がして」
恋とは何だろう。見えていたものが見えなくなることだろうか。それとも見えなかったものが見えてくることだろうか。自分はこれを恋だと思ったけれど、果たしてそれはちゃんと目に見えているものだろうか。夢の一部ではないだろうか。
お茶を飲む彼の横顔はどことなく夢のような、消えてなくなりそうな気もして、曖昧な境界線に翻弄されているような気分になる。
「すみません、こんな辛気臭い話で」
「ううん。──今は楽しい?」
「楽しいです。金にはほとんどなりませんけど、本当の自分を生きているような気がします」
「それは良かった」
「実は撮影を許可してもらったの、こちらがはじめてなんです。何軒か断られ続けていてちょっと諦めかけていたところだったので、嬉しくて」
「俺の知り合いで良かったら話通せると思うから、遠慮しないで言って」
「ありがとうございます。──あの、撮影が終わっても散髪お願いしてもいいですか?」
「もちろんだよ。うちはいつでも大歓迎」
ドアの外に目を遣る。向かいのホストクラブの、青いネオンが映り込む金魚鉢の中で、金魚は空を舞っているように見えた。都会の片隅にいる金魚。青い水の中を泳ぐ小さな魚と、彼の生きる姿が重なって見えた。
彼に告白してみようか。いや、そういうのは今の彼には疎ましいだけかもしれない。今から泳ぎはじめても、きっと彼には届かないだろう。息苦しさに負けてしまうかもしれない。
それでもこの手を伸ばせば、もしかしたらいつか。そんな小さな期待を胸に抱きながら、手を伸ばした先は。
「お茶のおかわり入れようか」
終