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 運命の水曜日がやってきた。私は手のひらを見て、「よし」とまた拳を握った。

 冬ももうすぐ終わる。指がかじかんでいなくてよかった。

 今日のために、私は寝る間も惜しんで頑張ってきたんだ。

 電車に足を踏み入れて、いつものように車両の真ん中に行く。

 ガタンゴトン、ガタンゴトン。と。

 電車の音ともに、私の心音もどんどん上がっていく。

 気持ち悪いって思われたらどうしよう。鬱陶しいって思われたらどうしよう。

 あんな、一瞬、話しただけなのに。

 いつもならスマホばかり弄っているのに、今日に限って触る気が起きない。

 楽しみ、緊張、不安、でも、やっぱり楽しみ。

 こういうのって、なんて言えばいいのかな。

 推しに会う高揚感?いや違う。

 推しって言ってきたけど、本当は。

 本当のところは。




 やがて、車両に彼が乗ってきた。ああ、やっぱり今日も麗しい。

 いつものように車両の端に立って、窓の外を見る。

 マフラーを外していて、今日は少しだけ軽装だった。

 うん、あったかくなってきたもんね。


 横目に見て、そうして窓の外に目を向けて、晴れた空を見送る。

 電車の中を優しく照らす朝日が見えた。

 眠る人、音楽を聴く人、スマホを弄る人、本を読む人、いろんな人たちを朝の光が照らして、みんなの一日をこうして電車が運んでいる。

 不意にまた彼を見た。そして逸らして、暫くしてからまた見る。

 すると、ついに目が合ってしまって心臓が跳ねた。

 み、見てたの、バレた……?

 目を逸らそうと思った瞬間、電車がどこかの駅に辿り着いた。

 どこかではない。ここは、彼が降りる駅だ。

 彼がそれに気づいて、一度、駅を確認して、そしてまた私に目を合わせると会釈してそのまま電車を降りた。

 緊張、不安、いろんな感情が入り混じっても尚、私はあの人に、話しかけたい。

 彼は推しだ。でも、それ以上に、この一週間でわかったことがある。

 電車を慌てて降りて、その後ろ姿を追いかける。

 追いかけて、その人の腕を掴む。

 振り返ると、彼の綺麗な胡桃色の髪が緩やかな風に揺れた。

 驚いたように目を丸くする彼と、視線を合わせる。

 大丈夫。ちゃんと練習してきたんだ。

 伝わるかわからないけど。

 私は、ゆっくりと。

 手を、指を、動かした。


〝お は よ う〟


 その人がさらに目を見開いた。慌てたようにスマホを取り出して、『手話、できるんですか?』と。

 私は首を振った。これはたった一週間の付け焼刃だ。

 でも、聞かれるであろうことは予習してきたつもりだ。


〝あ な た に お は よ う と 言 い た く て〟


 ゆっくり、下手くそだけど。

 伝わってるか、全くわからないし、これで本当にあっているのかもわからない。


〝練 習 し ま し た〟


 恥ずかしくなって、へらりと笑って誤魔化す私に、彼は少し……どこか、泣きそうで。



〝下 手 く そ で す み ま せ ん〟


 あれ、こうだっけ? ちがったっけ?

 なんて思いながらも、覚えたそれで必死に伝えれば彼は首を振って、


〝あ り が と う 嬉 し い で す〟


 と。彼もまた動きで伝えてくれた。

 全部がわかるわけじゃないけど、ニュアンスで、そう言っているような気がした。


〝俺 も 君 に 声 を か け た く て〟


 「え?」と首を傾げる。何を言っているかわかっていない私に彼ははっとしたようにスマホを触って『なんでもないです』と少し恥ずかしそうだった。

 そこからは互いにスマホで文字を打ってしまった。手話はやっぱり難易度が高い。

 『ごめんなさい、上手く出来なくて』と文字を打った私に、『あれだけでも凄いです。あんな風に挨拶してくれただけで本当に嬉しい。ありがとう』と打ち返してくれる。

 それが楽しくて、私はまた文字を打つ。彼も文字を打って、


『ところで』
『ところで』

 そうして同時に画面を見せた。

『あなたの名前をきいてもいいですか』
『あなたの名前をきいてもいいですか』


 互いに同じことを書いていて、顔を上げた私たちは目を合わせたあと、吹き出すようにしてクスクスと笑い合った。

 案外、子供みたいに可愛らしく笑う人だと思った。

 彼を見かけてから、たぶん。半年は過ぎようとしている。

 推しになってからは、三カ月以上経とうとしている。

 そんな今、私の推しはついに好きな人になった。

 もっともっとこの人を知って、この想いをいつか。

 この手で、指で、伝えていけたらなら。

 そして芽生えた気持ちを、彼が受け取ってくれたなら。

 きっと、これ以上のことはないだろう。

 今日はその第一歩に過ぎない。

 声をかけて、名前を聞いて。

 今度は好きなことを聞いて、苦手なことを聞いて。

 お互いのことを知っていく。

 毎週朝水曜、通学電車の中で。

 静かな車両の真ん中と端から。

 指を使った『おはよう。』をきっかけに。

 彼のことを知っていく。

 愛しいを、知っていく。

 春はもう、すぐそこまでやってきていた。









         指

     に
       
        、

     恋
          う

        る


           、
 





 桜舞う春風が、私たちの未来を。

 優しく、色づかせていく。











 了